Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条宗頼

北条 宗頼(ほうじょう むねより、1246年頃?~1279年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門。北条時頼庶子(庶長子か?)。母については弘安8(1285)年9月晦日付『豊後国図田帳』*1の中に見える「相模七郎殿母御前辻殿」が該当すると考えられている*2が、「相模七郎」は長男・兼時の可能性も考えられる(後述参照)ので要検討である。幼名は曼珠王(『野津本北条系図』)*3。通称は相模七郎、相模修理亮。

 

 

宗頼の初見史料 

死没の時期については、『尊卑分脈』、『諸家系図纂』、『一代要記』、『関東開闢皇代并年代記事』所収「関東執権六波羅鎮西探題系図」の各史料・系図類で、弘安2(1279)年6月と一致している*4

一方、生年については1259年とする説がある*5が、細川重男も兄・宗政が弘安4年に29歳で亡くなっている*6ことを理由に、弘安2年における宗頼の没年齢も20代後半以下であったと推測されており*7、事実上この説を支持する形となっている。

しかし、そうすると文永元(1264)年生まれの長男・兼時*8が、宗頼が僅か6歳(数え年,満年齢だと4~5歳)の時の子となってしまう矛盾が生ずる。

 

他方で同じく細川氏は、翌文応元(1260)年、6代将軍・宗尊親王が二所詣のため北条重時邸に入御した際の供奉人を記した次の記事を史料上での初見とされる*9。すると、生年を1259年とするのは無理と言える

【史料A】『吾妻鏡』文応元(1260)年11月21日条より

文應元年十一月大廿一日甲申。将軍家依可始二所御精進御。中御所入御陸奥入道*亭。
供奉人
 相摸大〔太〕 同四郎重政〔ママ、宗政の誤記か〕

 同三郎時利   同七郎宗頼
(以下略) 

*陸奥入道=前連署北条重時法名:観覚、最終官途:陸奥守)。

 全23名の供奉人中、時頼の息子としては、次兄・相模太郎 時宗(10)、三兄・相模四郎 宗政(8)、長兄・相模三郎 時利(のちの時輔)(13) に次いで四位にあり、細川重男は「四郎」を称する宗政が8歳で、かつ供奉人となり得たことから、当時宗頼は5~6歳程度であったのではないかと推測されている*10

しかし、「(相模)七郎宗頼」と書かれていることからこの段階で既に元服済みであったことは明らかで、時輔が9歳、時宗が7歳で元服し、時宗に次ぐ準嫡子であった宗政についても7歳で元服したのではないかと考えられていることから、彼らに準ずる扱いを受けていた宗頼が5~6歳で元服を済ませていたとは考えにくく、【史料A】の段階では7歳以上であったと考えるのが妥当ではないかと思われる。

*「相模七郎」という通称名は、父が相模守で、その「七郎(本来は7男の意)」であったことを表すものである。この頃の相模守として該当し得るのは北条時頼北条政村である*11が、政村の息子のうち政方が「相模七郎」を称したらしい*12ので、相模七郎宗頼の父たる相模守はやはり時頼しかあり得ないだろう。後述するが長男・兼時(相模守時宗の猶子)が「相模七郎」を称したのと同様に、実は時頼の猶子であった可能性も一応は考えるべきかもしれないが、いずれにせよ時頼―宗頼の間に親子関係が成立していたことは揺るがない。

 

また、『鎌倉年代記』嘉暦元(1326)年条によると、第16代執権となった赤橋守時の注記に「修理亮宗頼」とあり、守時の母が宗頼の娘であったことを伝える。『北条時政以来後見次第』東京大学史料編纂所架蔵影写本)では宗頼の長男・兼時の娘と記すらしいが、細川氏は永仁3(1295)年に、当時32歳であった兼時の娘(現実的に考えると12~14歳程度か)が守時を生むのには無理があるとして、『鎌倉年代記』の方が信憑性が高いとしている*13。或いは兼時の "姉" または "妹" の誤記なのかもしれない。

いずれにせよ、細川氏の言われる通り、現実的な親子の年齢差を考えるならば、守時母は1275年頃より前の生まれ、そしてその父・宗頼の生年は1255年以前であったと考えるべきであろう。これによっても1259年生年説が成り立たないことが分かる。

 

 

宗頼の息子と生年についての考察

長男・北条兼時について

次に触れておきたいのが、宗頼の息子である。前述の守時母の女子以外に、系図類では北条兼時北条宗方の2名が確認できる。

細川氏の研究によると、兼時は文永元(1264)年*14、宗方は弘安元(1278)年*15の生まれであるという。兼時については『武家年代記』弘安8(1285)年条に「正応二六廿六従五上廿七才、(=正応2(1289)年当時、数え27才)と記すのに従った場合、弘長3(1263)年生まれとなるが、いずれにせよその頃の生まれであった可能性は高いのではないかと思われる。

 

その裏付けとして、弘安4(1281)年閏7月11日付「関東御教書」(『東寺文書五常』)*16中に「相模七郎時業」の記載があり、前3(1280)年のものとされる書状2通(ともに『山城醍醐寺文書』所収)*17中の「相模七郎」も時業に比定されるが、この「時業」は宗頼の長男・兼時の初名と判断され*18宗頼の死から間もないこの頃では、兼時(時業)は既に元服を済ませていたことが窺える。前述の生年に基づけばこの当時17~19歳となり、元服から数年経った年齢として妥当である。

よって宗頼の長男・兼時の生年は1264年で問題ないと判断される。

 

修理亮任官時期と生年の推定 

「時頼(1227年生*19 )―兼時(1264年生)」の「祖父―孫」間、37年の年齢の開きがあるので、「時頼―宗頼」、「宗頼―兼時」各々の年齢差をほぼ均等にすると18, 19歳と算出でき、親子の年齢差としては問題ない。すると、宗頼の生年は1246年頃と推定でき、初見の1260年当時は15歳と元服適齢期となるので、元服を済ませたばかりのタイミングとしては十分妥当ではないかと思う。時頼の庶長子とされてきた北条時輔は宝治2(1248)年生まれであり*20、1246~47年生まれというのが本当であれば、宗頼が時輔より早くに生まれた時頼の庶長子であった可能性が高くなる。少なくとも、建長3(1251)年生まれの時宗*21、建長5(1253)年生まれの宗政*22より年長だったのではないかと思う。 

 

宗頼の最終官途が修理亮従五位下相当)*23であったことは『尊卑分脈』や『諸家系図纂』等の系図類に記されるだけでなく、『鎌倉年代記』での守時の注記(前述参照)や、当時の書状類でも確認ができる(後述参照)。得宗家での前例としては、曽祖父の泰時が29~34歳の間、修理亮であったことがあり*24、祖父の時氏も25歳の叙爵時に修理亮への任官を果たし*25、そのまま28歳で早世した*26。従って宗頼の修理亮任官年齢も同様に20代後半以上であったと考えるのが妥当であろう

また、参考までに時氏以降の叙爵年齢を確認してみると、第4代執権・北条経時が14歳*27、初めはそれに次ぐ準嫡子の地位にあった父・時頼が17歳*28であり、その息子たちは、時宗が11歳*29、宗政が13歳*30、時輔が18歳*31であった。宗政と時輔は同月での叙爵であり、嫡子・準嫡子以外の庶子の昇進は遅かったことが窺える。そして、時輔より格下に位置付けられる宗頼は18歳以上での叙爵であったと判断できよう

 

ここで宗頼の修理亮在任時期を確認しておきたい。

吾妻鏡』では【史料A】以降、文永3(1266)年7月4日条までに17回登場するが、その呼称は一貫して「相模七郎 (宗頼)」であった*32

その後、文永11(1274)年5月29日付「北条宗頼書状写」(『肥後阿蘇文書』)の発給者の署名は「修理亮宗頼」となっており*33、翌建治元(1275)年のものと推定される次の史料での「相模修理亮殿」も宗頼に比定される*34

【史料B】「諸国守護職注文」東大寺図書館所蔵『梵網経戒本疏日珠抄 紙背文書』)*35より

(前欠)

 本給人 信濃判官入道*1  

長門国

 本給人 周防前司*2   相模修理亮殿

周防国          

 本給人 大友出羽前羽〔ママ、出羽前司カ〕*3  (異筆)「北六ハラ殿」

筑後国        武蔵守殿*4

……(以下略)

 

*1:二階堂行忠 *2:藤原親実 *3:大友頼泰 *4:北条宗政

『長門国守護代記』にも「十七. 相模修理亮殿宗頼 建治二年正月十一日当国下着 代官太郎殿頼茂」と記されており、宗頼の修理亮任官は1266~1274年の間であったと推定可能である。ちなみに通称名は「相模」が前述に同じく父・時頼の最終官途で、自身が修理亮であったことを表すものである。仮に、間を取って1270年に泰時や時氏に同じく20代後半で任官した場合、逆算すれば1240年代後半の生まれとなり、これより時期が大幅に下ることは考えにくいと思う。

従って、以上の考察により宗頼の生年は1246年頃と推定するのが妥当ではないかと思う。 すなわち、系図類では時頼の末子として扱われていたが、実は庶長子であった可能性が出てきた

 

 

烏帽子親について

最後に「」という実名について考察してみたい。

」は言うまでもなく父・時の1字を継承したものと見受けられるので、1文字目に掲げる「」が烏帽子親からの偏諱である可能性が極めて高い。系図を見れば、兄弟でも時政がこの字を得ており、特に時の加冠役が将軍・尊であったことは次の記事で紹介の通りである。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

時頼の子の元服については、建長8(1256)年に時輔(幼名:宝寿、初名:時利)が9歳で行ったものの、翌年(1257年)には時宗(幼名:正寿)も僅か7歳で元服を遂げたことが『吾妻鏡』に記録されている。

*『吾妻鏡』により判明しているだけでも、北条氏得宗家における前例として、泰時(初め頼時)・朝時が13歳、経時時頼がともに11歳であった。他には朝時の異母弟、政村・実泰が各々7歳での元服であったが、これは義時の継室の子であったためであろう

前述の推定生年からすると、時宗が生まれた1251年当時宗頼もまだ幼少であったと考えられ、時宗誕生に伴って早くより家督継承者からは外されていたとみられる。従って、宗頼の元服は、時輔や時宗とほぼ同時期に行われたとみて良いのではないか。時輔が元服を遂げた1256年の段階では11歳位となり、父・時頼のケースとほぼ同年齢での元服だったのかもしれない。

北条義時の息子で泰時(時)・時・泰が源氏将軍の偏諱を賜った前例を踏まえると、時政・頼も皆、将軍・親王偏諱を受けたのではないかと推測される。

但し、宗頼が庶長子であったとして、【史料A】等で弟・時輔より下位に置かれた理由、それに反して宗尊の「宗」字を受けられた理由、またその仮名が(間の「次郎」「五郎」「六郎」ではなく)七郎」となったのかなど、まだまだ疑問の余地を残す部分はあるが、これについては後考を俟ちたいところである。

 

(参考史料) 

kijima.lib.kumamoto-u.ac.jp

 

脚注

*1:内閣文庫所蔵。『鎌倉遺文』第20巻15701号。

*2:川添昭二北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.14。高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.224。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.55。

*3:前注高橋氏著書 同箇所。尚、高橋氏は「曼寿」または「萬寿(万寿)」の当て字である可能性も指摘されている。

*4:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.5。注2前掲川添氏著書 P.243。

*5:北条宗頼(ほうじょう むねより)とは - コトバンク。「関東執権六波羅鎮西探題系図」での宗頼の注記「字相模七郎」「本名宗長 為異国警固下向長門国 弘安二六五於彼国卒年廿一 于時修理亮」(=弘安2(1279)年6月、年21才で卒去、→『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.6)に従って逆算すると1259年生となり、これに拠ったものか。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)も参照のこと。

*7:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.290。

*8:北条兼時(2)(ほうじょう かねとき)とは - コトバンク 参照。

*9:注7前掲細川氏著書 P.51 注(30)。『吾妻鏡人名索引』P.314「宗頼 北条」の項。

*10:注7前掲細川氏著書、同箇所。

*11:相模国 - Wikipedia #相模守 より。尚、時頼の前任者であった北条重時は相模守から転任した陸奥守が最終官途である。

*12: 政村流北条氏 #北条政方 より。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その16-北条宗方 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*16:『鎌倉遺文』第19巻14388号。

*17:『鎌倉遺文』第18巻14031号、14032号。

*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は「六波羅守護次第」(→ 熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.102(866) も参照のこと)。また、「入来院本 平氏系図」でも普音寺業時の娘(時兼の妹)の注記に「兼時室 本名時業」とあり、該当し得る人物は宗頼の子、宗方の兄として掲載の兼時である(山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.10、16)。

*19:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その10-北条時輔 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:修理の亮(しゅりのすけ)とは - コトバンク より。

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*25:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*26:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年6月18日条

*27:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。嘉禎3(1237)年2月、左近将監任官の翌日。

*28:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。寛元元(1243)年閏7月、左近将監に任官の時。

*29:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。弘長元(1261)年12月、左馬権頭に任官の時。

*30:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。文永2(1265)年4月、右近将監に任官の時。

*31:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その10-北条時輔 | 日本中世史を楽しむ♪ より。文永2(1265)年4月、式部丞に任官の時。

*32:吾妻鏡人名索引』P.314「宗頼 北条」の項。

*33:『鎌倉遺文』第15巻11662号。

*34:永井晋「北条実政と建治の異国征伐」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』〈八木書店、2008年〉第2章-第1節)P.302。【史料B】本文および人物比定もこれに拠った。

*35:横須賀市史 史料編 古代・中世1』一三七五号。

矢部禅尼

矢部禅尼(やべぜんに、1187年頃?*1~没年不詳)は、鎌倉時代前期から中期にかけての三浦一族の女性。俗名は不詳。法名禅阿(ぜんあ)鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の娘。三浦泰村三浦光村の姉にあたる。

 

 

2回の結婚と息子たち

まず、三浦氏の系図類における義村女子の一人の注記を掲げてみよう。

『諸家系図纂』:「号矢部尼、北条泰時室、時氏母、後嫁悪遠江守盛連光盛盛時時連三人母、」*2

系図纂要:「矢部禅尼、北条泰時朝臣室、後佐原盛連室」*3

『佐野本 三浦系図:「母同上(=長兄・朝村に同じく土肥弥太郎遠平女)北条武蔵守泰時室、号矢部禅尼、修理亮時氏母、後離別、再嫁佐原遠江守盛連、生会津遠江守光盛三浦介盛時蘆名判官時連、」*4

 

北条時氏(最終官途:修理亮)の側でも、『諸家系図纂』では「三浦義村」、系図纂要では「母矢部禅尼、三浦義村*5とあるなど複数系図類で注記が見られるほか、『鎌倉年代記』にも「駿河守泰村〔義村の誤記*6」とある*7

 

すなわち、三浦義村の娘の一人が初め北条泰時に嫁いで時氏を産み、離別後は佐原盛連(父・義村の従弟にあたる)に再び嫁いで光盛盛時時連を産んだということになる。この根拠となる史料が『吾妻鏡』にある次の記事である。

【史料A】『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年6月1日条*8

六月大一日庚辰、矢部禅尼 法名禅阿和泉国吉井郷御下文之事、前遠江守盛連依令譲附也。彼御下文、五郎時頼、被持向三浦矢部別庄云々。是駿河前司義村娘也。始為左京兆室、故修理亮。後為盛連室、為光盛盛時時連等母云々。

『明月記』によると、「関東遠江守」(=盛連)は天福元(1233)年5月22日に官兵の静止を無視して上洛を強行しようとして殺害されたといい*9、【史料A】は幕府が矢部禅尼に対し、亡き夫・盛連の遺領である和泉国吉井郷を給与するといったものである。この記事の後半には、先に述べた矢部禅尼についての説明がある。

尚、この時には、夫の死を悼んでのことであろうか、出家して尼になっていたことも窺える。この当時も幕府の執権は泰時であり、離縁したとはいえ前妻であった矢部禅尼に対し寛大な処置を施したのであろう。

 

泰時との離縁の時期について

ここで矢部禅尼が泰時と離縁した時期について考察してみたい。

まず、泰時とは建仁2(1202)年8月23日に結婚し*10、間に生まれた長男・北条時氏の生年は翌3(1203)年と判明している*11から、これ以後ということになる。

一方、泰時の次男・時実(通称:武蔵次郎)については、母が安保実員(七郎左衛門尉)の娘と伝えられ(『諸家系図纂』)*12、嘉禄3(1227)年に家人の高橋次郎光繁(『前田本 平氏系図』ほか)に殺害された当時16歳であったといい(『吾妻鏡』・『鎌倉年代記』)*13、逆算すると建暦2(1212)年生まれと分かる。

この女性は泰時の継室であったといい、『佐野本 北条系図』によると早世した三浦泰村継室の母でもあったとも伝えられ*14、泰村に嫁いだ娘は元久3/建永元(1206)年生まれと判明している*15

すなわち、矢部禅尼が泰時と離縁させられたのは1203~1206年の間であったことになる。従って同時に、盛連と再婚して光盛・盛時・時連らを産んだのは1203年より後であることも確定する

 

 

再嫁後の息子たち

前述の通り、2番目の夫・盛連は天福元(1233)年に亡くなっており、光盛・盛時・時連らは同年までに生まれていなければおかしい。実際『吾妻鏡』での初見箇所も、光盛が嘉禎3(1237)年正月1日(「佐原新左衛門尉」)*16、盛時が貞永元(1232)年正月1日(「佐原五郎左衛門尉」)*17、時連が文暦元(1234)年正月1日(「佐原六郎兵衛尉」)*18となっており、左衛門尉や兵衛尉の官職を得ていることから、遅くとも1220年頃までには生まれていたと判断できる。

このうち盛連は、父・盛連の1字と「」字で実名を構成している。「」は言うまでもなく執権・北条氏の通字であり、実際に北条氏から一字を拝領したものとみられる。三浦氏佐原流では三浦義(盛連の父)北条時房(初め時の烏帽子親を務めて「」の字を与えた事例があり*19、自身の離縁後にも父・義北条政(泰時の異母弟)*20、元夫・時が年の離れた弟・村の加冠役となる*21など、北条・三浦両氏間で偏諱のやり取りが盛んに行われていたことが窺える。

泰村の例も踏まえると、矢部禅尼が息子たちの加冠を泰時に願い出ることは割と容易だったのではないか。泰時は元仁元(1224)年から3代執権となっており*22、息子たちの元服当時の執権となる可能性が高い。盛連の「」は泰からの偏諱であったと推測される。

こうした考察を踏まえると、離婚後も泰時との関係は良好であったと考えられ、離縁の理由は夫婦仲ではなく、政治的な思惑が絡んでいた可能性が高いとみられる。

 

 

北条時頼の「祖母」について 

 『吾妻鏡』康元元(1256)年4月10日条には、「武州前刺史禅室(=北条泰時後室禅尼」が食欲不振の病気によって70歳で亡くなり、執権・時頼(相模守)が50日の喪に服したという記事がある(逆算すると文治3(1187年)年生まれ)*23。言うまでもなく自身にとっての「祖母」だったからであろう。時頼は同年11月に執権を辞して出家した*24が、正嘉2(1258)年3月20日にもこの女性の3年忌法要を建長寺にて行っている*25

吾妻鏡人名索引』*26矢部禅尼 - Wikipedia などではこの女性を矢部禅尼のこととされているが、泰時の最終的な正室としては前述の継室(安保実員娘、谷津殿*27)が当てはまるのではないか

確かに血縁上は時頼の実の祖母は矢部禅尼であるが、前述の内容も踏まえると時頼が生まれた段階では既に離婚しており、時頼が直接 "祖母"と呼べる人物は谷津殿であったと考えられる。時頼は数え4歳で父・時氏を亡くした後、養育者として母の松下禅尼安達義景の妹)*28が存命でありながら、祖父・泰時からも大変気に入られていたようである*29が、その泰時の当時の継室(谷津殿)も時頼に少なからず影響を与える存在だったのではないか。

従って『吾妻鏡』での以下箇所については、禅阿(矢部禅尼)に比定する『吾妻鏡人名索引』での一部見解は誤り(泰時との結婚記事および【史料A】は除く)で、全て谷津殿を指すものと見なすべきである。

 

【表B】泰時継室安保氏(谷津殿)の登場箇所

月日 表記
寛喜元(1229) 2.2 武州
8.15 武州
寛喜3(1231) 3.1 (国司)室家
暦仁元(1238) 1.2 室家
2.3 左京兆室
建長8(1256) 4.1 武州前刺史禅室後室禅尼卒去
7.6 前武蔵禅室後室禅尼(葬儀)
正嘉2(1258) 3.2 前武州禅室御後室(3回忌)

*すると、1187~1256年を生きた泰時の妻は安保氏であったことになり、矢部禅尼の生没年は不明となるが、父・義村が1168年頃の生まれと推測され*30、前述の通り長男・北条時氏が1203年生まれであることを踏まえれば、神奈川県ホームページが示す1187年頃の生まれというのはほぼ妥当な推定で、世代的には従来の説とさほど変わらない。

 

では、矢部禅尼と時頼が全くの無関係だったかというと、そういうわけではない。【史料A】にあるように和泉国吉井郷を給与する旨の「御下文」を当時11歳の五郎時頼が三浦矢部の別荘まで持っていっており、その折に実の祖母と直接対面したと推測される。

宝治合戦(1247年)の折、盛連の息子たちは6人(経連・広盛・盛義・光盛・盛時・時連)とも、宗家の泰村ではなく時頼の許に参じた。「匠作(=時氏)の旧好を重んじ」たためであったという。前述の内容を踏まえるとこの当時矢部禅尼が存命であったかは分からないが、時氏や時頼の話は息子たちに語っていたであろう。

 

こうして矢部禅尼は、2回の結婚によって北条・佐原両氏が自身の血を引くこととなり、両氏を繋ぐ役割を果たしていたのであった。泰村らが滅んだ後、時はその甥でもある盛時に「三浦介」家再興を許し、従弟にあたる(盛時の子)(時連の子)には「」の偏諱を与えたのであった。

 

脚注

*1:三浦一族に関する人物紹介 - 神奈川県ホームページ より。

*2:『大日本史料』5-14 P.407

*3:『大日本史料』5-22 P.118

*4:『大日本史料』5-22 P.137

*5:『大日本史料』5-5 P.756 

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。【史料A】にもある通り駿河守は義村の官途であり、若狭守となった泰村のそれではない(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その113-三浦泰村 | 日本中世史を楽しむ♪)。

*7:『大日本史料』5-5 P.755

*8:『大日本史料』5-11 P.263

*9:『大日本史料』5-9 P.63

*10:吾妻鏡』同日条に「江馬太郎(=泰時)殿、嫁三浦兵衛尉(=義村)女子」とある。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*12:『大日本史料』5-5 P.803

*13:『大日本史料』5-3 P.856857

*14:『大日本史料』5-22 P.147

*15:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年8月4日条 に「武州(=武蔵守泰時)御息女 駿河次郎(=泰村)妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とある。『佐野本 三浦系図』によると、この女性は泰村の嫡男・景村や、小田時知の母となった娘などを産んでいる(→『大日本史料』5-22 P.135)。

*16:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.132「光盛 佐原(三浦)」の項 より。

*17:前注『吾妻鏡人名索引』P.294「盛時 三浦」の項 より。

*18:前注『吾妻鏡人名索引』P.216「時連 佐原(三浦)」の項 より。

*19:吾妻鏡』文治5(1189)年4月18日条(→『大日本史料』4-2 P.596)。

*20:吾妻鏡』建保元(1213)年12月28日条(→『大日本史料』4-12 P.949)。

*21:『大日本史料』5-22 P.134

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:『史料稿本』後深草天皇紀・康元元年3~4月 P.48

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*25:『史料稿本』後深草天皇紀・正嘉2年3~5月 P.25

*26:前掲『吾妻鏡人名索引』P.556(女子名索引)「禅阿」の項 より。

*27:伊藤一美「東国における一武士団 ー北武蔵の安保氏についてー」(所収:『学習院史学』9号、1972年)P.29。

*28:『徒然草』第184段 より。

*29:北条時頼 - Wikipedia 参照。

*30:三浦義村 - Wikipedia三浦泰村 - Henkipedia 参照。

徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ / よしひさ、旧字体:德川 慶喜、1837年~1913年)は、江戸時代の武将。江戸幕府第15代将軍。

 

一橋徳川家譜』によると、弘化4(1847)年、当時の12代将軍・徳川家慶の意向を受け、9月朔日(ついたち=1日)、嗣子の無かった一橋徳川家を相続、12月朔日には家偏諱を受けて元服し「」を称したという*1

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▲2021年NHK大河ドラマ『青天を衝け』初回より

大河ドラマ青天を衝け』の初回終盤でも、徳川斉昭の子・七郎麻呂が当時の将軍である家慶に拝謁。家からは息子に似ていると気に入られたようで、ナレーションで「」の1字を賜った旨が解説された。

尚、『徳川水戸家譜』によると、慶喜と名乗る前、七郎麻呂に次いで(あきむね)を称していたらしい*2。父・斉の1字によるものと思われ、元服前の幼名として名乗っていたのであろう。

慶応2(1866)年、徳川宗家(将軍家)を継ぎ15代将軍となったが、先代・家茂(14代将軍、初め慶福)のように「家○」型への改名は行わなかった。田安家から継いだ16代・家達以降では再び「家」を通字としたが、慶喜以降の徳川慶喜家慶喜―慶久―慶光―慶朝)では「」を代々の通字として用いたのであった。

 

本項では以上一字拝領についての解説のみに留めたい。

その他活動内容については

徳川慶喜 - Wikipedia

などをご参照いただければと思う。

 

脚注

小田高知

小田 高知(おだ たかとも、1300年頃?~1352年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人常陸小田氏第7代当主。のち小田治久(はるひさ)と改名。

父は小田貞宗。子に小田孝朝。通称および官途は(常陸)太郎左衛門尉、尾張権守、宮内権少輔。

 

▲伝・小田治久像(法雲寺蔵)

 

小田高知に関する史料の紹介

まずは、鎌倉時代末期における高知についての史料群を紹介する。

 

【史料1】正中2(1325)年6月6日付「鎌倉幕府奉行連署奉書」(『鹿島大祢宜家文書』)*1

常陸国大枝郷給主能親与地頭野本四郎左衛門尉貞光和泉三郎左衛門尉顕助等相論、鹿島社不開御殿仁慈門造営事、丹塗格子之外者、悉可為給主役之由、元亨三年八月晦日注進之間、依被急遷宮、任注申之旨、加催促可造畢、於理非、追可有其沙汰之由雖被仰下、遷宮于今遅引、而当郷地頭・給主折中之地也、任先規両方可勤仕之旨、云度々御教書、云木田見・大王・藤井・田子共等之例、炳焉之由、能親所申有其謂、爰国奉行人成敗雖区、下地平均課役可随分限之条、相叶理致、然地頭・給主共可造進之旨加催促、急速可被終其功之条、依仰執達如件、

  正中二年六月六日 散位(花押)

           前長門介(花押)

           左衛門尉(花押)

           前加賀守(花押)

 山河判官入道殿

 小田常陸太郎左衛門尉殿

 大瀬次郎左衛門尉殿

 下郷掃部丞殴

市村高男によると、この史料は常陸国鹿島社不開殿仁慈門造営をめぐる同国大枝郷の給主・中臣能親と地頭の野本貞光和泉顕助らとの相論に際し、幕府が「当郷(=大枝郷)は地頭・ 給主折中之地」であるから、「下地平均課役可随分限」そして「地頭・給主共に造進すべきの旨、催促を加」え、速やかに遷宮を実現させるよう、山川・ 小田氏ら4名に対して命じたものであるという*2

その宛先の一人「小田常陸太郎左衛門尉殿」について『鎌倉遺文』では父・貞宗に比定し、市村氏も特にこれを疑わなかった。ところが、貞宗は文保2(1318)年の段階で既に常陸介を辞していたことが確認でき*3常陸太郎左衛門尉」はその後の通称として不自然である

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こちら▲の記事で掲げた『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)小田氏系図では確かに貞宗の注記に「太郎左衛門尉」とあり、これを生前名乗っていたこと自体は否定できない。しかし「常陸太郎左衛門尉」という通称は、父が常陸(もしくは前任者)で、自身は輩行名が「太郎」で左衛門尉に任官していたことを表すものである。すなわち「常陸太郎左衛門尉」自身は常陸介に任官しておらず、正中2年当時において常陸介を辞していた貞宗に同定し得ないのである。

従って【史料1】の「小田常陸太郎左衛門尉」は貞宗ではなく、その嫡男・高知に比定されるべきである

『分脈』によると、6代貞宗のみならず、2代知重・5代宗知も「太郎左衛門尉」を称していたようであり、3代泰知も「奥太郎左衛門」と呼称されていたことが確認できる。4代時知も『吾妻鏡』では「(小田)左衛門尉(時知)」と書かれるのみだが、輩行名が同じく「太郎」であったことは想像に難くない。従って太郎左衛門尉」は知重以降の小田氏嫡流における称号と化していたとも言え、7代高知もその仮名を継承したのであった。

 

【史料2】嘉暦2(1327)年6月14日付「関東御教書案」『諸家文書纂』所収『結城古文書』*4

安藤又太郎季長郎従季兼以下、与力悪党誅伐事、不日相催一族、差遣子息尾張権守、於津軽戦場、可被抽軍忠之状、依仰、執達如件、

  嘉暦二年六月十四日 相模守(=執権・北条守時

            修理大夫(=連署・大仏維貞)

 小田常陸入道殿

【史料2】はいわゆる安藤氏の乱に関するものである。嘉暦元(1326)年、蜂起した安藤季長は工藤貞祐率いる幕府軍に捕縛された*5が、その翌年季兼らその郎党(残党)が蜂起した際、息子の「尾張権守」を「津軽の戦場」に「差し遣わ」したことを賞している。「小田常陸入道」の息子「(小田)尾張権守」については次の史料により高知に比定される。

 

【史料3】『鎌倉年代記』裏書*6(または『北條九代記』*7)より一部抜粋

今年嘉暦二……六月、宇都宮五郎高貞小田尾張権守高知、為蝦夷追討使下向、……

今年嘉暦三、十月、奥州合戦事、以和談之儀、高貞高知等帰参、……

ここで『分脈』と照らし合わせると、小田貞宗常陸介)の嫡男・高知の注記「宮内権少輔 尾張権守*8と実名・官途の一致が一致する。よって【史料2】の「(小田常陸入道 子息)尾張権守」、【史料3】の「小田尾張権守高知」はいずれも小田貞宗の子・高知に同定され、通称の一致から次に掲げる史料にも高知が登場していることが窺える。

 

【史料4】元徳3/元弘元(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』)

 被成御教書人々。次第不同。
武蔵左近大夫将監  遠江入道
江馬越前権守    遠江前司
千葉介貞胤    小山判官高朝
河越参河入道
貞重 結城七郎左衛門尉朝高
長沼駿河権守
(宗親) 佐々木隠岐前司清高
千葉太郎
胤貞   佐々木近江前司
小田尾張権守     
佐々木備中前司(大原時重)
土岐伯耆入道頼貞  小笠原又五郎
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 狩野介入道
貞親
佐々木佐渡大夫判官入道導誉 讃岐国守護代 駿河八郎

 以上廿人。暫可在京之由被仰了。

 嶋津上総入道
貞久 大和孫六左衛門尉高房

 

史料5】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道貞久     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉高房   安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々
               佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉朝高
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 
【史料6】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*10
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良満義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守 一族            結城七郎左衛門尉朝高 一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道宗長一族
 伊東大和入道祐宗一族         宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

これらの史料は、後醍醐天皇による2度目の倒幕運動=元弘の変に際し、幕府が京へ差し向けた軍勢の名簿であり、その構成員の中に「小田尾張権守」=高知が含まれている。ちなみに【史料4】は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*11。【史料6】での記載から一族を率いる立場にあったことが窺え、父が出家済みであった【史料2】の段階では既に家督の座を継いでいたのではないかと思われる。【史料5】の「小田人々」も高知たち小田家を指していると判断して問題なかろう。鎌倉幕府滅亡の直前まで幕府側について活動していたことが窺える。

 

 

小田治久への改名

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1333年5月22日、鎌倉東勝寺において烏帽子親(後述参照)北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡した(『太平記』etc.)。直前まで幕府側であった高知はこれに殉ずることなく生き残り、上記記事▲で紹介の通り、やがて「治久」に改名したとされる。

建武4(1337)年3月日付「伊賀盛光軍忠状」(『飯野八幡社古文書』)の冒頭に「右為討伐当国凶徒小田宮内権少輔治久以下輩、…(以下略)」*12、同年11月日付「烟田時幹軍忠状案」京都大学総合博物館所蔵『烟田文書』)*13の文中にも「……小田宮内権少輔治久以下凶徒等成一手、……」とあり、管見の限り遅くともこの年までには「治久」に改名していたことが分かるが、その通称「宮内権少輔」は前述した『分脈』での高知の注記にあったものである*14

高知=治久 とされるのはそのためであろう。江戸幕末期に編纂された『系図纂要』では貞宗の嫡男は「治久」となっている(前述記事参照)ほか、『常陸誌料』でも「治久、初名高知」と記述されている。尚、後者をそのまま読み進めると「後醍醐天皇偏諱、因更治久……(中略)……自延元元年(=1336年)至興國二年(=1341年)……御諱…(以下略)」とあり*15、「」の名が後醍醐天皇の諱「*16から「」の1字を賜ったものと説明されている。前述の軍忠状2点と照合すれば、1336~1337年の間に改名したと判断できよう。

 

 

生没年と烏帽子親について

その後南朝方として活動していた治久だったが、暦応4/興国2(1341)年11月18日には北朝方の足利尊氏執事・高師冬と対面して降伏した*17。『園太暦』正平7年/文和元(1352)年10月23日条には伝聞として「小田常陸前司」なるものが関東より上洛したことが記録されており、『大日本史料』ではこれを治久とする*18。これが正しければ、治久も父・貞宗と同じく最終的には常陸に任官したことになる。

治久はその年(1352年)の12月11日(西暦:1353年1月16日)に亡くなったと伝わる。『佐竹古文書』「小田代々城主事」の「治久源朝臣」の注記に、同日「御年七拾歳(=70歳)御逝去」とある*19ためか、系図類や『常陸誌料』等でもこの説が採用され*20、逆算して弘安6(1283)年生まれと考えられてきた。

ところが、「小田代々城主事」で筑後守宗朝〔ママ、宗知〕と治久の間に書かれる「常陸〔ママ〕」は明らかに常陸介貞宗を指すが、記載の没年齢から逆算すると1288年生まれとなり、父・貞宗より先に息子の治久が生まれたことになって矛盾する。この現象は『系図纂要』等系図類でも同様に起こる。

それ故に、山田邦明貞宗との兄弟の可能性も説かれた*21が、これは前掲【史料2】によって明確に否定される。親子の年齢差の観点から言って、貞宗(およびそれ以前の各当主)の生年は動かすことは不可能であるから、高知(治久)は早くとも1300年頃の生まれでなくてはおかしい。ちなみに「小田代々城主事」等により息子の孝朝は1337年生まれとなるので、父・治久がそれ以前の生まれとすれば、高齢期での子供となってしまい不自然である。

そもそも、『佐竹古文書』自体は実際の史料でその価値は高いと思うが、「小田代々城主事」の部分については小田城落城時(安土桃山時代)の小田守治まで載せられており*22、近世の成立である。従って鎌倉・室町時代の部分は伝承に基づいて書かれているに過ぎず、実際「宗」や「常陸」といった誤記もあるから、その情報は必ずしも信用すべきものではないと思う。

 

ここで今一度、前掲の史料を振り返ると、【史料1】で1325年当時「左衛門尉従六位下相当)*23」であったことが判明し、1325~1327年(【史料2】)の間に「尾張権守従五位下相当、権官」任官を果たしたことになる。

併せて歴代当主の例も見ておきたい。曽祖父の4代時知は11歳までに左衛門尉任官を果たし、30代後半で常陸介となっている。3代泰知も左衛門尉であったが、35歳で亡くなったためか、それ以上の昇進は確認できない。父の6代貞宗は30代前半で常陸従六位上正六位下相当)*24を辞しており、任官した時は低年齢化して20代後半であった可能性もある。

従って、高知(治久)尾張権守任官も20代後半であった可能性があり、1300年頃の生まれとすれば辻褄が合う。それを補強し得るのが初名「」の「」の字である。これは、鎌倉幕府滅亡後に改名したことも踏まえれば、1309年に元服し、1311年に得宗の座を継いだ北条(14代執権在任:1316~1326年)*25偏諱に他ならない*26元服の時期・年齢も考慮して、それを限りなく正確に近い生年として結論とする。

 

(参考ページ)

 小田高知とは - コトバンク

 小田治久とは - コトバンク

 小田治久 - Wikipedia

南北朝列伝 ー 小田治久

 小田治久

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第37巻29132号。市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 ―二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史―」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.26。

*2:前注市村氏論文 P.27。

*3:小田貞宗 - Henkipedia【史料1】参照。

*4:『新編弘前市史資料編1 古代・中世編』六二四号文書。『白河市史』第五巻 古代・中世 資料編2(福島県白河市、1991年)P.89。『岩手県史』(第二巻)P.230。『諸家文書纂』二(国立公文書館デジタルアーカイブ)16ページ目。

*5:工藤貞祐 - Henkipedia【史料10】参照。

*6:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。年代記嘉暦2年年代記嘉暦3年

*7:『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25

*8:『大日本史料』6-2 P.670

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*10:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*11:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738

*12:『大日本史料』6-4 P.93

*13:南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)766号 または『鉾田町史 中世資料編』「烟田史料」所収。

*14:『大日本史料』6-2 P.670

*15:『大日本史料』6-17 P.294

*16:後醍醐天皇とは - コトバンク より。

*17:『大日本史料』6-6 P.975~976

*18:『大日本史料』6-17 P.147

*19:『大日本史料』6-2 P.669『大日本史料』6-17 P.292『大日本史料』7-20 P.207

*20:『大日本史料』6-17 P.293~294

*21:『朝日日本歴史人物事典』「小田治久」の項コトバンク所収)。

*22:『大日本史料』7-20 P.207『編年史料』後陽成天皇紀・慶長6年閏11~12月 P.18

*23:左衛門大夫とは - コトバンク より。

*24:常陸国司 - Wikipedia官位相当表 より。

*25:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*26:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

小田宗知

小田 宗知(おだ むねとも、1259年~1306年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人常陸小田氏第5代当主。父は小田時知。弟に北条道知小神野時義。子に小田知貞(手野知貞)、小田貞宗などがいる。通称および官途は太郎左衛門尉、筑後守。法名尊覚(そんかく)

 

 

烏帽子親と主な活動について

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には徳治元(1306)年12月6日に48歳で卒去とあり、『佐竹古文書』・『常陸誌料』でも同様の記載がある*1から、逆算すると1259年生まれとなる。他の例も見れば元服は10代前半で行うのが一般的であったから、6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年*2までにその1字を受けたとは考え難い。また、時知18歳の時の子となるので、少なくともそれを遡ることはほぼあり得ないと言って良く、宗尊から1字を受ける可能性は尚更無くなる。祖父・泰知が北条泰時、父・時知が北条氏の通字「時」を拝領してきたことからしても、の「」が得宗・8代執権の北条時(1263年家督継承、在職期間:1268~1284年)*3偏諱であることは確実と言えよう*4

 

宗知に関する史料としては次の書状(写し)が確認されており、問題なく前述の存命期間内に収まる。 

【史料A】正安3(1300)年12月23日付「小田宗知判物案」(『常陸国総社宮文書』)*5

異国降伏御祈事、御巻数到来候了、仍状如件

  正安三年十二月廿三日 宗知(花押影)

 惣社神主(=清原師幸)殿

常陸誌料』では、系図や『総社文書』から宗知が常陸国守護であったと判断して記述されている*6が、その『総社文書』が指す史料がこの【史料A】であろう。最終官途が筑後であったことは、『佐竹古文書』に「筑後守宗朝〔ママ〕」とある*7ほか、文保2(1318)年3月24日付の常陸惣社社殿造営相論に関する一地頭の請文に「…先年為筑後前司宗知御使…」とあるによって確認ができ*8、【史料A】当時42歳の宗知も筑後守在任もしくは退任後であったと考えられる。同じく『常陸誌料』によると、嘉元年間(1303~1306年)には剃髪して「尊覚」と号したという*9

 

現在の茨城県土浦市木田余町にある宝積寺は、嘉元4/徳治元(1306)年に宗知が開基したものと伝えられる*10。これが正しければ、同年末に宗知が亡くなるまでの建立ということになる。

 

 

宗知の息子たち

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宗知の男子について、こちら▲の記事に掲げた『尊卑分脈』には知貞貞宗が載せられ、『系図纂要』ではもう一人牛野貞氏を載せる。但し『常陸誌料』では知貞の初名が「貞氏」で、居所に因んで手野氏を称したとするので、『系図纂要』編纂時に貞氏と知貞を別人としてしまったのかもしれない。『常陸誌料』によると宗知の死後、手野知貞貞宗家督を争ったといい*11信太忠貞らの支援を得た嫡男の貞宗が後継者となった*12

 

宗知には知貞・貞宗の他にも宗儀(宗己)宗寿という息子がいたという。

 

 宮宅国経(源五)の娘・小夜との間に生まれたという復庵宗己(1280?-?、俗名: 小田宗儀)は、中国に渡って中峰明本に師事し、帰国後の正慶元(1332)年に甥の小田治久(当時は高知)から与えられた高岡村の楊阜庵(のち正受庵)を文和3(1354)年に法雲寺として開基したという*13。1339年に治久は飯沼砦の村、青鳥(おおとり)をこの法雲寺(楊阜庵)に寄進しており、1341年に治久が北朝方に降伏して転じた後、宗己も北朝方の結城氏に招かれて結城に華蔵寺を建てている*14

上曽盛治(左衛門尉、上曽氏は小田知重の子・知賀を祖とする)の娘との間に生まれたという小田宗壽(新三郎)は谷田部(現・つくば市谷田部)漆山に築城して同地を領し、その地名から谷田部氏を名乗ったと伝えられる*15

 

脚注

*1:『大日本史料』6-2 P.669670

*2:宗尊親王とは - コトバンク より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*5:茨城県史料 中世編一』P.392 一二号文書。『鎌倉遺文』第27巻20936号。

*6:『大日本史料』6-2 P.670

*7:『大日本史料』6-2 P.669

*8:佐藤進一『増訂 鎌倉幕府守護制度の研究 ー諸国守護沿革考証編ー』(東京大学出版会、1971年)P.75 (註三) より。

*9:『大日本史料』6-2 P.670

*10:盛本昌広「近世における小田氏関係史料収集の背景」(所収:『史苑』第58巻第2号、 立教大学史学会、1998年)P.64 注(28)①。典拠は『新編常陸国誌』巻五。宝積寺 (土浦市)より。

*11:『大日本史料』6-2 P.670

*12:武家家伝_信太氏 より。

*13:『水海道市史 上巻』(水海道市(現・茨城県常総市)、1983年)P.254伊川健二「茨城県南地域ゆかりの史料にみる前近代異国観の諸事例」(所収:『つくば国際大学 研究紀要』No.22、2016年)P.78、千葉隆司「市町村博物館と地域史研究」(所収:『筑波学院大学紀要』12号、2017年)P.122、図説・新治村史 | データ検索情報誌2018~2019

*14:前注『水海道市史 上巻』P.254

*15:沼尻家の歴史 または 谷田部氏沼尻家 より。典拠は「谷田部氏系図」か。

小田泰知

小田 泰知(おだ やすとも、1211年~1245年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人常陸小田氏第3代当主。八田知家の嫡孫。父は知家の長男・小田知重。妻は三浦泰村の娘と伝わる。子に小田時知、女子結城広綱室、小萱重広母)。通称・官途は奥太郎左衛門尉。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には寛元3(1245)年5月13日に35歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると承元5/建暦元(1211)年生まれとなる。

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こちら▲の記事で紹介の通り、『常陸誌料』には、寛元3年に泰知が亡くなった時、その子・時知が幼少であったため、宍戸家周(泰知の従兄弟にあたる)常陸守護職を継いだという記述が見られる*1が、『系図纂要』に従うと時知は仁治3(1242)年生まれとなり辻褄が合う。『吾妻鏡』を見ると時知は元服から間もない建長4(1252)年から鎌倉御家人として活動していることが確認できる。

 

冒頭の記事にも掲げた『尊卑分脈』では「奥太郎」とのみ記載されるが、「佐野本三浦系図」を見ると、三浦泰村の女子の一人に「母同上(=母北条武蔵守泰時女)小田奥太郎左衛門泰知室、常陸介時知」とあり*2、泰村の娘を妻に迎えていたことが窺える一方、その表記から左衛門尉従六位下相当)*3であったことが分かる(実際の史料でも確認できることは後述参照)。嫡男・時知も初見の建長4年(当時11歳)の段階で既に「小田左衛門尉時知」と呼ばれていたから、泰知も1221年頃には左衛門尉になっていたのではないか。

そして年齢的に考えて、同じ頃に元服を遂げたと思われる。知家―知重と続いた「知」の上(=実名の1文字目)にわざわざ戴く「」の字は、紺戸淳の推測通り北条からの偏諱と考えて良かろう*4。泰時が3代執権となったのは元仁元(1224)年からであり*5、同年に14歳で元服したとも考えられるが、前述の泰村のようなケースもある*6ので、執権就任前の泰時から一字を拝領したとしても問題は無い。

 

泰知については管見の限り『吾妻鏡』等の主要な史料上で確認は出来ないが、僅かに、渡邊正男*7や木下竜馬*8が紹介された、『中世法制史料集』未収録の「青山文庫本 貞永式目追加」にある各国守護の名簿の中に、泰知に比定し得る「奥太郎左衛門 常陸」が含まれている(=写真参照)*9。このリストは、嘉禎4(1238)年の4代将軍・九条頼経の上洛に際して作成されたと推定され*10、当時常陸守護として泰知が活動していたことの証左となる。前述の泰知の存命期間内にも収まっていて問題ない。

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▲「青山文庫本 貞永式目追加」(新日本古典籍総合データベース より

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もう一つ、こちら▲の記事で【図I】として掲げた『結城小峯文書』所収「結城系図」を見ると、広綱庶子重広(七郎、民部大輔)の注記に「常陸奥太郎左衛門尉泰知」とある。市村高男の研究によると、同系図鎌倉時代後期の1320年前後に成立した古系図とされ*11、重広の外祖父として泰知が実在であったことを示している。小萱重広*12の生年は不詳だが、広綱の跡を継いだ異母兄弟の時広が1267年生まれで、広綱の生年も1227年頃とされるので、大内宗重(時広の庶兄)と同様、早くとも1250年頃と推定可能である。泰知―重広(祖父―孫)間の年齢差を考慮しても、1211年生まれであったことが裏付けられよう。

 

(備考)

この他、浄興寺の寺伝によれば、弘長3(1263)年の小田泰知の乱により同寺の伽藍が焼失したといい*13、勝願寺の寺伝の一つにも同年に兵火にかかった旨が記録されているらしい*14が、前述の通り泰知は寛元3年に亡くなっていた可能性が高いため、少なくとも「泰知」の人名については検討を要する。単に息子・時知の誤記とも考えられるが、いずれにせよ小田氏の乱について他の史料で確認されていないので、この辺りは後考を俟ちたい。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-26 P.148

*2:『大日本史料』5-22 P.135

*3:左衛門大夫とは - コトバンク より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:泰時が泰村の元服の際に加冠を務めたことは、同じく「佐野本三浦系図」に記載がある(→『大日本史料』5-22 P.134)。泰村の元服の時期については 三浦泰村 - Henkipedia を参照のこと。

*7:渡邊正男「丹波篠山市教育委員会所蔵「貞永式目追加」」(所収:『史学雑誌』128編9号)。

*8:木下竜馬「新出鎌倉幕府法令集についての一考察」(所収:『古文書学研究』88号)および 木下 竜馬 (Ryoma KINOSHITA) - 御成敗式目ブログ - researchmap

*9:嘉禎四年、宝治元年の守護1: 資料の声を聴く より。

*10:嘉禎四年の出雲・隠岐守護1: 資料の声を聴く より。

*11:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。

*12:続群書類従』所収の「結城系図」には重広の項に「小萱民部大輔」の注記があり、分家して小萱氏の祖となったことが窺える。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図C】・【図D】・【図E】を参照。

*13:浄興寺について | 新潟県上越市浄興寺 - Wikipedia勝願寺住職としての順性 より。

*14:勝願寺住職としての順性 より。

小田時知 (嫡流第4代当主)

小田 時知(おだ ときとも、1242年~1293年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人常陸小田氏第4代当主。父は小田泰知。母は三浦泰村の娘と伝わる。子に小田宗知北条道知小神野時義*1。通称および官途は左衛門尉(左衛門少尉)常陸介。幼名は金剛丸(こんごうまる)法名玄朝(げんちょう)

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には正応6(1293)年5月15日に52歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると仁治3(1242)年生まれとなる。寛元3(1245)年に小田泰知が亡くなった時、その子・時知(同系図によると幼名は金剛丸)が幼少であったため、同族の宍戸家周常陸守護職を継いだという『常陸誌料』での記述*2とも辻褄が合う。

また、「佐野本 三浦系図」によると、三浦泰村の娘の一人に「母同上(=母は泰村の長男・景村に同じく北条武蔵守泰時女)小田奥太郎左衛門泰知室、常陸介時知」とある*3

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泰村の生年については、こちら▲の記事で1204年と結論付けたが、外祖父(泰村)―外孫(時知)の年齢差は38歳となり、各親子(泰村―女子、女子―時知)間の年齢差を19歳程度とすれば問題ないと思う。泰村が泰時の娘を妻に迎えていたことは『吾妻鏡』で確認できる*4ので、次の【系図A】のようにまとめると世代・代数の上でも矛盾はない。

 

系図A】

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この【系図A】の情報が正しければ、時知以降の小田氏は女系を介して北条泰時 および 三浦泰村の血を引いていたことになる。泰村らが滅んだ宝治合戦(1247年)当時は、泰知が亡くなり、時知も幼かったため、幸運にも小田氏は三浦氏と縁戚関係にありながらも打撃を受けずに済んだようで、次の【表B】にあるように、『吾妻鏡』を見ると時知はその後の北条時頼治世期に12回登場している。

 

【表B】『吾妻鏡』における小田時知の登場箇所*5

月日 記載の表記
建長4(1252) 11.11 小田左衛門尉時知
11.2 小田左衛門尉時知
12.17 小田左衛門尉時知
建長6(1254) 8.15 小田左衛門尉時知
建長8(1256) 6.29 小田左衛門尉
7.17 小田左衛門尉時知
7.29 小田左衛門尉
正嘉元(1257) 10.1 小田左衛門尉時知
正嘉2(1258) 6.17 小田左衛門尉
弘長元(1261) 8.15 小田左衛門尉時知
弘長3(1263) 7.13 小田左衛門尉
8.9 小田左衛門尉時知

初見の建長4(1252)年11月11日条では既に「左衛門尉 」と書かれているから、この時既に元服済みで、左衛門尉任官も果たしていたことになる。前述の生年に基づけばその当時11歳と元服の適齢であり、実名の「」は寛元4(1246)年から5代執権となった北条*6(【系図A】に従えば母の従兄弟にあたる)偏諱を受けたものと判断して良かろう*7

 

吾妻鏡』以後の時知に関すると思われる史料としては次の2点が確認できる。 

【史料C】(文永10(1273)年?)9月13日付「小田時知書状」(『蓬左文庫所蔵 金沢文庫本「斉民要術」第八-九 紙背文書』)*8

太郎殿(=金沢実村?)御事承候、不變時令馳参候雖可申上候、近隣人々可驚申候歟間、先以使者申候、有其御心得、便宜之時、可有御披露候、恐惶謹言、
 九月十三日   左衛門尉時知(花押)
〔進〕平岡左衛門尉殿
(上書)「進上 平岡左衛門尉殿 少尉時知

 

【史料D】弘安5(1282)年3月25日付「関東御教書」(『鹿島大祢宜家文書』)*9

相模守(=当時の8代執権・北条時宗の発給によるもので、宛名に「常陸殿」とあるが、鹿島神宮のある常陸国におけるこの当時の「常陸介」に該当し得る人物は、やはり『尊卑分脈』でも「常陸介」の注記がある小田時知しかあり得ないだろう。すなわち【史料C】からこの時までに、当時30代後半で祖父・知重にゆかりのある「常陸介(『尊卑分脈』)に任官を果たしたことになる。

 

以後、亡くなる正応6(1293)年までの表立った活動は確認できないが、『尊卑分脈』上でわざわざ「法名玄朝(他の当主に法名の記載なし)の注記があるから、【史料D】より後に剃髪したのであろう。その契機として考えられるとすれば弘安7(1284)年4月4日の時宗逝去であるが、これについては後考を俟ちたい。正安3(1301)年には嫡男・宗知の発給文書が確認できる*10から、それまでに当主の交代があったことは確実で、没年を裏付けている。

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脚注

*1:甲山城(土浦市(旧新治村)大志戸)より。『小神野家古文書』(新治小野小神野家 蔵)によると時知の3男で、幼名は養寿丸、通称は三郎兵衛・大膳亮。住所の高岡村小神野(おかの)の地名を苗字とし、自身の館として甲山城を築いたという。

*2:『大日本史料』5-26 P.148

*3:『大日本史料』5-22 P.135

*4:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年8月4日条 に「武州(=武蔵守泰時)御息女 駿河次郎(=泰村)妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とあり、逆算すると1206年生まれ。

*5:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.201「時知 小田」の項 により作成。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*8:『鎌倉遺文』第15巻11594号。本文は 坂井 法曄 (hoyo Sakai) - 研究ブログ - researchmap より引用。

*9:『鎌倉遺文』第19巻14599号。

*10:小田宗知 - Henkipedia【史料A】参照。