北条貞村
北条 貞村(ほうじょう さだむら、1270年代?~1305年)は、鎌倉時代後期の武将、北条氏一門。政村流北条氏・北条時村の子。
細川重男氏の研究*1によれば、嘉元3(1305)年4月23日子の刻に、得宗・北条貞時(副将軍*2・前執権、法名:崇演)の「仰」と号する(『保暦間記』)武装集団が、鎌倉・葛西ヶ谷にある連署・北条時村(数え64歳)の邸宅を襲って彼を斬殺した際(嘉元の乱)、嫡孫・貞泰(煕時)以下、時村の子息・親類の多くは難を免れたものの(『実躬卿記』同年4月27日条)、50余りの人が時村と共に落命したといい(『実躬卿記』同年5月8日条)、その中に子息・貞村(『佐野本 北条系図』)も含まれていたと考えられている。ちなみに『諸家系図纂』所収の「北条系図」でも時村の子・貞村に「同父被誅」の記載が見られる*3。
鎌倉時代末期の成立とされる『入来院本 平氏系図』においても、時村に「嘉元三四廾〔三 脱字か〕被討了」、その息子の一人・式部大夫茂村に「同時打死(=討死)」の注記があり*4、貞村と茂村が同一人物なのか、或いは兄弟共に討たれたのかは判断し難いが、少なくとも父・時村と共に亡くなった息子がいたということは認めても良いのだろう。
『尊卑分脈』北条氏系図によると、時村の嫡男(すなわち長兄にあたる)為時は父に先立ち弘安9(1286)年10月6日に22才で亡くなったといい*5、逆算すると文永2(1265)年生まれである。息子・煕時(1279年生まれ)とは僅か14の年齢差となってしまうが、父・時村が仁治3(1242)年生まれである*6ことを考慮すれば、その正確性に問題無しと思う(煕時は為時が数え15歳の時の子となるが、この頃同様の事例は少なからず確認される)。
貞村がその弟だとすれば、早くとも1260年代後半、或いは1270年代の生まれになるだろう。また、嘉元の乱当時は元服を済ませていた筈で10代後半以上には達していたであろうから、遅くとも1290年頃までに生まれていたことも推測可能である。
その名乗りに着目すると、「村」は祖父・政村、父・時村と継承されてきた通字であり、上(1文字目)に戴く「貞」が元服時、烏帽子親からの偏諱と考えられるが、弘安7(1284)年4月から正安3(1301)年の間、9代執権の座にあった貞時*7から受けたものと考えて問題なかろう。
(参考ページ)
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.265。
*2:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、注1前掲細川氏著書 P.263~264 注(55)を参照のこと。
*4:北条煕時 - Henkipediaに掲載の系図を参照のこと。
*5:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第15-18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その46-北条時村 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
北条時益
北条 時益(ほうじょう ときます、1301年カ?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題南方。北条氏政村流・北条時敦の嫡男。兄弟に親雅(しんが)*1がいる。主な通称および官途は、左近将監、越後(左近)大夫将監。
生年の推定
時益の生年は不明であるが、父・時敦が弘安4(1281)年生まれと判明している*2ため、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、おおよそ1301年以後と推定可能である。
元亨3(1323)年10月に挙行された北条貞時13年忌供養の際、「銭五十貫 銀剱一」を進上する「越後左近大夫将監殿」(『相模円覚寺文書』所収『北條貞時十三年忌供養記』)が、『神奈川県史』*3の推定通り時益ではないかと思われ、これが史料上での初見になるだろう。
そもそも「越後左近大夫将監」という通称は、父が越後守で、自身が当時左近大夫将監であったことを示す。この頃の越後守としては、延慶3(1310)年*4~文保元(1317)年*5の間は父・時敦、元亨4(1324)年の段階では金沢貞将が退任済み*6で、正中2(1325)年~元徳元(1329)年の間は常葉範貞が在任であった*7ことが確認されている。他にも甘縄顕実が越後守であったと伝える系図史料がある(『佐野本北条系図』)*8が、少なくとも元亨3年当時は駿河守であった可能性が高く*9、「越後左近大夫将監殿」がその息子にはなり得ない。
以上の考察により、「越後左近大夫将監殿」=北条時益 と見なして良かろう。そして、嘉元元(1303)年に父・時敦が左近将監となった時23歳(数え年)であった*10ことを踏まえると、この当時の時益もほぼ同じくらいの年齢に達していたと考えるべきではないか。よって時益の生年は1301年頃と推定するのが妥当であろう。
鎌倉から京都へ
次の史料に着目したい。
【史料1】(元徳元(1329)年?)11月11日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*11
一. 去月十九日夜、甘縄の城入道の地の南頰いなかき左衛門入道宿所の候より、炎上出来候て、其辺やけ候ぬ、南者越後大夫将監時益北まてと承候、彼家人糟屋孫三郎入道*1 以下数輩焼失候、北者城入道宿所を立られ候ハむとて、人を悉被立候程ニ、そのあきにてとゝまり候ぬ、南風にて候しほとニ、此辺も仰天候き、北斗堂計のかれて候之由承候、目出候々々、
一. 去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時門前より火いてき候て、亀谷の少路へやけ出候て、土左入道宿所やけ候て、浄光明寺西頰まてやけて候、右馬権助・右馬権頭貞規後室・刑部権大輔入道宿所等者、無為に候、大友近江入道宿所も同無殊事候、諏方六郎左衛門入道*2 家焼失候云々、風始ハ雪下方へ吹かけ候き、後ニハ此宿所へ吹かけ候し程ニ、驚存候しかとも、無為候之間、喜思給候、火本ハ秋庭入道右馬権助家人と高橋のなにとやらん同前*3か諍候之由聞□〔候か〕、あなかしく、
十一月十一日(切封墨引)
こちらは元徳元年のものとされる書状であるが、同年10月19日の夜、甘縄(現・神奈川県鎌倉市長谷)・安達時顕(延明)邸の南側*15にある「いなかき左衛門入道(=稲垣左衛門入道か、人物の詳細は不明)」なる者の宿所を火元とした火事があり、周辺にあった時益の邸宅にも燃え広がったと伝える。後に六波羅探題として京に移る時益が当初、鎌倉在住であったことが裏付けられよう。
前述のように生年が1301年頃と推定されることに加え、父・時敦が六波羅探題南方として京に上ったのが延慶3(1310)年7月25日であった(入洛は8月中旬とされる)*16ことも踏まえると、時敦・時益父子はともに鎌倉で生まれ育ったと見なされる。
複数の史料が伝えるところでは、【史料1】より間もなく、時益は六波羅探題南方として上洛することとなり、元徳2(1330)年7月20日前後には鎌倉を出発し、8月7日には入洛したという*17。ちなみに、元徳元年のものとされる9月9日付の貞顕の書状(『金沢文庫文書』)に「……時益大夫将監上洛事、未承及候、……」とあり*18、この上洛は前年の段階で内定されていたようである。
また、鎌倉出発より約半年前、元徳2年正月24日のものとされる貞顕の書状には「越後大夫将監時益□□□□□□□弾正少弼ニ被□□□□□□□□事、令申候、……」と記されている*19。恐らくは書状の保存状態による欠損で読めない部分が多くあるが、上洛を控えた時益に対し、かつての父・時敦の例*20に同じく弾正少弼任官の話が持ち上がっていたことが推測される。しかし、他史料で左近将監と兼務したとの記録は今のところ未確認で、恐らくは何かしらの不都合があって見送りになったのであろう。
尚、『太平記』巻6「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」の冒頭に「元弘二年三月五日、左近将監時益、越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。……」とある*21が、次節に掲げる実際の史料によって、その時期が誤りであることは明らかである。『太平記』は元々軍記物語ゆえ、その構成上変更されたのかもしれない。
六波羅探題(南方)として
以後は、六波羅探題北方(常葉範貞 → 普音寺仲時)との連名による発給書状(御教書)を中心に、多数の関連史料が確認される。
●【史料2】元徳2年8月12日付「六波羅御教書」(『和泉 松尾寺文書』):署名「左近将監(花押)駿河守(花押)」*22
●【史料3】元徳2年10月25日付「六波羅御教書案」(『和泉 田代文書』):署名「左近将監(御判)駿河守(御判)」*23
●【史料4】元徳3(1331)年正月23日付「六波羅御教書案」(『萩藩閥閲録』121-4「周布吉兵衛」の項):署名「左近将監(花押)越後守(花押)」*25
●【史料5】元徳3年3月20日付「六波羅御教書」(『壬生家文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)」*26
●【史料6】元徳3年4月20日付「六波羅御教書案」(『福智院家文書』):署名「左近将監(御判)越後守(御判)」*27
●【史料7】元徳3年4月28日付「六波羅御教書」(『東寺百合文書ぬ』):署名「左近将監(在判)越後守(在判)」*28
●【史料8】元徳3年5月20日付「六波羅御教書」(『備前 金山寺文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)」*29
●【史料9】元徳3年7月5日付「六波羅御教書」(『白河 本東寺文書』121):署名「左近将監(花押)越後守(花押)」*30
●【史料10】(元弘元/元徳3年8月25日)『伊勢光明寺文書残篇』文中:「廿五日……主上御座山門之由、被聞食定之旨、以両使 北方高橋孫五郎。南方糟屋孫八。被申関東云々。」*31
神五左衛門尉(御内人・諏訪氏の一門か?)を通じて、倒幕の計画を企てていた後醍醐天皇の延暦寺密幸の情報が伝えられると、六波羅探題は北方(仲時)から高橋孫五郎を、南方(時益)から糟屋孫八をそれぞれ使者として鎌倉に向かわせ(同史料によると29日到着)、このことを伝達させた。これにより、幕府は翌9月初頭に大仏貞直・足利高氏(のちの尊氏)らを大将軍とした軍勢を京都へ遣わすこととなる(元弘の変)*32。尚、高橋・糟屋の両名はそれぞれ【史料1】にある「糟屋孫三郎入道」や「高橋のなにとやらん」の親戚にあたる、北条氏家人であろう。
但し「延暦寺密幸」は実のところ、側臣の花山院師賢が天皇になりすます形で実行されたもので、六波羅探題はまんまと欺かれていたようである。後醍醐は先手を打つ形で皇居を脱出し、南都に赴いており(最終的には笠置山へと逃れる)、この逃亡のための時間稼ぎであったと考えられている*33。
●【史料11】元徳3年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』所収):宛名に「越後守殿 越後左近大夫将監殿」*34
●【史料12】(元徳3年?)10月3日付「六波羅御教書」(『白河 本東寺文書』59):署名「左近将監平時益(裏花押)越後守平仲時(裏花押)」*35
●【史料13】元徳4(1332)年2月4日付「六波羅御教書案」(『東大寺文書』4-12):署名「左近将監(御判)越後守(御判)」*36
●【史料14】元徳4年4月16日付「六波羅御教書」(『紀伊 栗栖文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)」*37
●【史料15】正慶元(1332)年7月16日付「六波羅御教書」(『東大寺文書』1-4):署名「左近将監(花押)越後守(花押)」*39
●【史料16】正慶元年8月12日付「六波羅御教書案」(『竹内文平氏所蔵文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)」*40
●【史料17】正慶元年12月5日付「六波羅御教書案」(『紀伊 隅田家文書』):署名「左近将監(判)越後守(判)」*41
●【史料18】正慶元年12月19日付「六波羅感状案」(『紀伊 隅田家文書』):署名「左近将監(判)越後守(判)」*42
これより後、時益の動向が確認できる史料としては、その最期を描いた次の部分が挙げられる。
……南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて、「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。……
『太平記』巻9については「幕府全体の動きよりも、足利高氏という個人の動静が詳述され」ているとの指摘もある*44ように、主として高氏(尊氏)による六波羅攻め(1333年5月)について描かれている。
【史料19】は六波羅の館に火をかけて、両探題(仲時・時益)が後伏見上皇・光厳天皇父子を伴い東国へ逃れようとする場面であるが、五月雨の頃にして夜は暗く*45、前後も見えないほどであったその道中、野伏に襲われ、時益も放った矢が首の骨にまで刺さり討ち死にしてしまった。側にいた糟谷七郎(糟屋七郎か。こちらも前述の糟屋孫三郎入道や糟屋孫八の親戚であろう)が矢を抜いた時には息絶えていたともあり、即死であったことが窺える。前述の生年に従えば、享年33の若さであったことになる。
繰り返しになるが『太平記』は元々軍記物語であるが、この時益の死については『関東開闢皇代并年代記』(以下『開闢』と略記)や『鎌倉大日記』正慶2年条、『尊卑分脈』等の系図類にも記録されている*46。『分脈』での注記では、仲時を江州(=近江国のこと)四宮河原で矢に中(あた)って夭亡(=天寿を全うしないでほろび死ぬこと*47)、時益を9日江州馬場〔=番場のことか〕で自害とするが、番場宿の蓮華寺にて従者432人と共に自害したのは仲時であり*48、『開闢』での記載も踏まえれば単に混同で逆に書いてしまったものと考えられる。『開闢』では「越後左近大夫将監時益」が7日夕方、官軍に討たれた場所が四条河原であったとする。
仲時・時益両名討伐については次の書状にも記されるところである。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪
● 北条時益とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
脚注
*1:長井頼重の子・運雅の弟子で、京都六条八幡宮別当を継承。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その50-北条時敦 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。外祖父(母方の祖父)・長井時秀との年齢差の面でも辻褄が合うので、間違いなかろう。
*3:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。
*4:注2同箇所より。
*5:文保元年4月3日付「六波羅御教書」(『鎌倉遺文』第34巻26142号)では「越後守」と署名していたものが、6月1日付「六波羅下知状案」(『鎌倉遺文』第34巻26222号)以後の書状では「前越後守」・「前越後守時敦」等と変化しており(いずれも陸奥守=六波羅探題南方・大仏維貞との連名)、この間に時敦が越後守を退任したことが分かる。
*6:同年のものとされる「金沢貞将書状」(『鎌倉遺文』第37巻28880号)に「前越後守貞将」の署名がある他、同年11月以後に六波羅探題南方として「前越後守」名義での発給書状が複数残されている。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*9:注3前掲『神奈川県史』P.707では『供養記』の「駿川〔=河〕守殿」を顕実に比定する。『常楽記』嘉暦2(1327)年3月26日条に「甘縄駿河入道殿他界五十五 俗名顕実朝臣」とあり、顕実の出家前の最終官途が駿河守であったことがわかる。
*10:注2同箇所 より。
*11:『鎌倉遺文』第39巻30775号。
*12:同じく『金沢文庫文書』に所収の、元徳元(1329)年12月2日付「伊勢宗継請文案」(『鎌倉遺文』第39巻30788号-1)、および同年のものとされる「金沢称名寺雑掌光信申状案」(『鎌倉遺文』第39巻30792号)に「糟屋孫三郎入道々暁」とあるによる。東氏 ~上代東氏~ も参照のこと。
*13:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.197 注(13)に言及されている通り、『円覚寺文書』に所収の史料2点、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)の一番中に「諏方六郎左衛門尉」、『北條貞時十三年忌供養記』には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「銭十貫文」を進上する人物として「諏方六郎左衛門尉」(注3前掲『神奈川県史』P.710)の記載がある。
*14:これについては、大村拓生「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(所収:『都市文化研究』3号、大阪市立大学大学院文学研究科 都市文化研究センター、2004年) P.75 を参照。
*15:【史料1】中の「頰」は「ある物の側面。また、それに近接したところ。ある物や場所に面したところ。」の意(→ 面・頬とは - コトバンク より)。
*16:注2同箇所 より。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪。『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳2年4~7月 P.51。
*18:『鎌倉遺文』第39巻30729号。
*19:『鎌倉遺文』第39巻30876号。
*20:注2同箇所(典拠は『鎌倉年代記』延慶3年条)によると、徳治2(1307)年12月2日に左近将監であった時敦は弾正少弼を兼ねたという。
*21:「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*22:『鎌倉遺文』第40巻31180号。
*23:『鎌倉遺文』第40巻31248号。
*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その43-普音寺仲時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。尚、仲時の普音寺流北条氏は、政村流北条氏よりも家格が高く、国守任官までの昇進のスピードが速かった。仲時も25歳の探題就任時、既に越後守任官済みであったことが確認され、父・基時の越後守任官が19歳であった(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その42-普音寺基時 | 日本中世史を楽しむ♪)ことも踏まえると、元徳元(1329)年12月13日駿河守に転任した常葉範貞(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪、【史料2】・【史料3】の「駿河守」も範貞に比定される)の後任として、24歳で就任したと考えられよう。
*25:『鎌倉遺文』第40巻31344号。
*26:『鎌倉遺文』第40巻31390号。
*27:『鎌倉遺文』第40巻31412号。
*28:『鎌倉遺文』第40巻31420号。
*29:『鎌倉遺文』第40巻31431号。
*30:『鎌倉遺文』第40巻31463号。
*31:群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*32:大仏貞直 - Henkipedia 参照。
*33:元弘の変とは - コトバンク および 千葉介の歴代 #千葉介貞胤 より。
*34:『鎌倉遺文』第40巻31509号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*35:『鎌倉遺文』第40巻31518号。
*36:『鎌倉遺文』第41巻31677号。
*37:『鎌倉遺文』第41巻31741号。
*38:正慶 - Wikipedia、正慶とは - コトバンク より。
*39:『鎌倉遺文』第41巻31780号。
*40:『鎌倉遺文』第41巻31808号。
*41:『鎌倉遺文』第41巻31911号。
*42:『鎌倉遺文』第41巻31925号。
*43:「太平記」主上・上皇御沈落事(その5) : Santa Lab's Blog。
*44:谷垣伊太雄「足利高氏の役割 ―『太平記』巻九の構成と展開―」(所収:『樟蔭国文学』第29巻、大阪樟蔭女子大学学芸学部、1992年)P.27。
*45:五月闇とは - コトバンク より。
*46:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*47:夭亡とは - コトバンク より。
*48:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その43-普音寺仲時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*49:『鎌倉遺文』第41巻32124号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
桑原高近
桑原 高近(くわはら / くわばら たかちか、生年不詳(1300年代?)~没年不詳(1333年以前?))は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官。通称は桑原新左衛門尉。
まず、高近については、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要について記録された『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)の以下の箇所でその名を確認することが出来る。
【史料A】
上記の他、27日「唐橋中将」こと唐橋通春*3に「馬一疋 栗毛、銀剱一」を「知久右衛門入道」が進上する際の「御使」を務めた「桑原新左衛門尉」も高近に同定される*4。
この他、『御的日記』嘉暦3(1328)年正月9日条(=【史料B】とする)にも「桑原新左衛門尉高近」の名があり、得永祐高(新五郎)との弓の対戦に敗れたという*5。
桑原氏については特に系図類も伝わっておらず、出自は不明であるが、【史料A】に書かれる尾藤・安東・工藤などといった氏族は、後掲【史料C】にも名を連ねる御内人(得宗被官)であり、【史料A】・【史料C】双方に登場の桑原氏も恐らく同様に得宗被官であった可能性が極めて高い。
『吾妻鏡』を見ると北条時頼執権期に「桑原平内盛時」(桑原盛時)なる人物が確認でき*6、下総国葛飾郡桑原郷発祥の桓武平氏流であったとみられる*7。この頃から桑原氏も得宗被官の一族として活動していた様子が窺える。
更に鎌倉時代後期に入ると、永仁7(1299)年正月27日付「関東下知状案」(『紀伊薬王寺文書』)に「桑原左衛門尉近忠」*8なる者が登場する。同3(1295)年の「播磨大部荘申状案」(『東大寺文書』4-91)の冒頭にある「桑原左衛門尉 不知実名(=実名を知らず)」*9も恐らく同人であろう。官職と「近」字の共通からしてこの桑原近忠(ちかただ)は高近の祖先(年代的には父或いは祖父の可能性大)にあたる人物なのではないかと思われる。
もう一つ、次の史料に着目したい。
【史料C】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)
(前略)
三 番
大蔵五郎入道 長崎宮内左衛門尉
越中局 大森右衛門入道
広沢弾正左衛門尉 大瀬次郎左衛門尉(忠貞)
葛山六郎兵衛尉 岡村五郎左衛門尉
(中 略)
六 番
工藤三郎右衛門尉 桑原新左衛門尉
讃岐局 渋谷六郎左衛門尉
荻野源内左衛門入道 浅羽三郎左衛門尉
蛭川四郎左衛門尉 千田木工左衛門尉
(中 略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
この史料における3番衆の一人「岡村五郎左衛門尉」は【史料A】での「岡村五郎左衛門尉資行」と同人、6番衆の一人「桑原新左衛門尉」も『鎌倉遺文』*10等で高近と見なしている。
そもそも「新」というのは、父が「桑原左衛門尉」で、自身も同じく左衛門尉に任官したので、区別のために付されたものと考えられる。時期の近さからすると「桑原左衛門尉」は前述の「桑原左衛門尉近忠」なのではないか。
【史料C】の「桑原新左衛門尉」=高近とした場合、高近は近忠の子息であった可能性が高くなり、【史料B】までの21年間その通称名を名乗っていたことになる。
ところが、前述の『御的日記』を見ると、1303年~1310年の正月で一貫して「岡村左衛門五郎資行」とある*11。1312年では「岡村五郎左衛門尉資行」と一旦は変わるものの、1313年・1314年では「岡村左衛門五郎資行」と戻り、1319・1322~1324年でも同表記となっているから【史料A】との不整合に関して再検討の余地はあるが、岡村資行が当初「左衛門五郎(岡村左衛門尉の「五郎(5男)」を表す)」を称し、後に資行自身も左衛門尉に任官して「五郎左衛門尉」となった可能性が高い。
【史料A】・【史料C】における「岡村五郎左衛門尉」および「桑原新左衛門尉」は必ずしも同人とは限らない、ということになる。
従って筆者の推測としては、【史料C】の「桑原新左衛門尉(=仮名:桑原貞近とする)」は、父「桑原左衛門尉近忠」との区別のために「新」が付されたが、やがて近忠が出家(出家すると「左衛門入道」と呼ばれる)或いは逝去するとその必要性が無くなって「桑原左衛門尉」となり、今度は同じく左衛門尉となった息子・高近が「桑原新左衛門尉」と呼ばれたと考えられる。
もっとも、「高近」の名は得宗・北条高時の偏諱と見られ、父・貞時の逝去に伴い家督を継いだ1311年(執権就任は1316年)*12以後に「高」の字を受けたと推測される*13。
脚注
*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.696。
*2:前注『神奈川県史』P.701。
*3:『尊卑分脈』村上源氏系図を見ると、「住関東 左中将」の注記がある。同系図によると曽祖父・通清の母が「平義時(=北条義時)女」であったといい、北条氏と縁戚関係にあった。
*4:前注『神奈川県史』P.705。
*5:太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)より。
*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.294「盛時 桑原(平)」の項によれば、寛元2(1244)年正月5日条から弘長元(1261)年正月10日条まで14回登場する。建長4(1252)年11月21日条では「桑原平内平盛時」と記されており、平姓であったことが窺える。
*7:姓名/日本のおもな姓氏とは - コトバンク「桑原」の項 より。
*8:『鎌倉遺文』第26巻19934号。
*9:『鎌倉遺文』第25巻18963号。
*10:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*11:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43 および 太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)を参照のこと。
*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*13:恐らく元服と同時の一字拝領であったと思われるが、改名の可能性も完全には排除できないため、この点については検討の余地を残している。
塩飽高遠
塩飽 高遠(しわく*1 たかとお、生年不詳(1300年代?)~没年不詳(1333年以前?))は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官。通称は藤次。
「遠」字の共通からして塩飽聖遠(新左近入道、俗名不詳)や塩飽盛遠(右近将監、右近入道了暁)らと同族とみて良いと思われるが、系譜に関しては不明である。
『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)を見ると、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要において「手長役人」を務めた中に高遠が含まれている。
「藤次」というのは元服後の仮名(藤原姓の「次郎」の意か)であり、当時無官であったことを示す。ここに並ぶのは、塩飽のほかにも諏訪・安東・工藤・桑原などといった、徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*4にも名を連ねる得宗被官の氏族であるが、兵衛尉・左衛門尉など官職を得ている者も少なからずいる。ちなみにその多く「資」字を持つ者は、当時の内管領(得宗家執事)・長崎高資から偏諱を受けたのかもしれない。
一方、官職を得ていない者は塩飽のほか、諏訪・工藤氏に見られるが、いずれも他の人物(諏訪左衛門入道直性、工藤次郎右衛門尉貞祐 など)の例から、左衛門尉など官職を得る資格は十分にあったと考えられるので、恐らく任官に相応の年齢に達していなかっただけであろう。
塩飽氏については、参考までに『太平記』巻10「塩飽入道自害事」を見ておきたい。
1333年の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)にあたり、聖遠父子は自害することとなるが、嫡男の忠頼が「三郎左衛門尉」と称していた*5のに対し、その弟*6は無官だったようで「四郎」とのみ称していた。
また、聖遠や了暁はその通称名から、出家前各々左近将監、右近将監であったことが窺える。すなわち、塩飽氏も左・右近将監、或いは左衛門尉といったクラスの官途に昇進し得る家柄であった*7。
従って、元亨3年当時の高遠は元服からさほど経っていない若者であったと推測される。冒頭で触れた通り「遠」が塩飽氏の通字の一つだとすれば、1文字目に掲げる「高」の字は当時の得宗・執権である北条高時の偏諱を許されたものであろう。
高時は1311年に得宗家家督を継ぎ、1316~1326年の間、鎌倉幕府第14代執権に在任であった*8から、通常10代前半で行う元服の時期はこの期間内に絞られよう。逆算すれば、高遠の生年は1300年代~1310年頃と推定される。
尚、冒頭の史料以外に高遠に関するものが確認されておらず、前後動向が不明である。ただ、南北朝時代の史料にも特に現れていないことから、聖遠父子に同じく1333年の鎌倉幕府滅亡に殉じたか、それ以前に早世した可能性が高い。
脚注
*1:「しあく」などとも読まれる(→ 塩飽(しあく、しわく) -人名の書き方・読み方 Weblio辞書、塩飽さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net などを参照)が、正中元(1324)年のものとされる「東盛義所領収公注文」(『金沢文庫文書』所収/『鎌倉遺文』第37巻28943号)の端裏書に「塩涌〔ママ〕新右近入道」と書かれており、「涌(わ-く)」の読み方からすると「しわく」と読まれていたとみて良いだろう。塩飽氏が拠点にしていたと思われる瀬戸内海の塩飽諸島も現在この読み方である。
*2:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698。
*3:前注『神奈川県史』P.701。
*4:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*5:「太平記」塩飽入道自害の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*6:諱(実名)については、塩飽忠年(→ 塩飽聖遠とは - コトバンク)或いは塩飽忠時(→ 「太平記」塩飽入道自害の事(その2) : Santa Lab's Blog)とされるが、いずれも出典不明。
*7:他にも塩飽修理進、塩飽三郎兵衛尉、塩飽弾正兵衛尉といった人名が確認される。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
塩飽盛遠
塩飽 盛遠(しわく*1 もりとお、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の得宗被官。官途は右近将監。
尚、出家後の同人と思われる塩飽了暁(― りょうぎょう、右近入道)についても本項で扱う。
はじめに
最初に、次の史料をご覧いただきたい。
【史料1】元応2(1320)年9月25日付「関東下知状案」(『小早川家文書』)*2より
……如𪉩飽右近入道了曉執進寺家正和三年十月十八日請文者、永仁五年被寄進當寺之間、本主被収公之次第不存知云々、……
この史料から、正和3(1314)年10月18日に寺家に請文を発給*3した人物として「塩飽右近入道了暁」なる人物の存在が確認できる。次節以降ではこの塩飽了暁について、現存する史料からその活動の形跡を追ってみたいと思う。
得宗家公文所職員としての活動と政治的立場
まず、次の史料に着目したい。
【史料2】延慶3(1310)年3月8日付「得宗家公文所奉書案」(『明通寺文書』)*4
異國降伏御祈事、御教書如此、早任被仰下旨、可相觸若狭國寺社別〔当 脱字カ〕神主之由、可被下知代官候、仍執達如件、
延慶三年三月八日 親經 在〻
了曉 在〻
時綱 在〻
資□ 在〻
工藤四郎右衛門尉殿
この【史料2】は、若狭国内の寺社に「異国降伏御祈事」を命じる関東御教書を施行したもので、工藤四郎右衛門尉(実名不詳)に守護代へこのことを伝達するよう命じたもの(の写し)である。細川重男氏が述べるように、宛名の工藤氏は若狭守護代を複数人輩出した得宗被官であるから、この書状は得宗家公文所奉行人連署奉書であり*5、「資□」と「時綱」に次ぐ奉者の第三位に「了暁」の名が確認できる。【史料2】と正和3年では時期が近く、「了暁」と号する人物が何人も存在したとは考えにくいため、塩飽氏である可能性が高いと思われる。
続いて次の史料に着目してみよう。
【史料3】正和5(1316)年閏10月18日付公文所奉書(『多田神社文書』)*6
攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、
正和五年閏十月十八日 □直(花押)
了□(花押:下記参照)
演心 憚
高資(花押)
右は「工藤右近入道」こと工藤宗光*7(法名不詳)に対し、摂津国多田院の塔供養奉加の馬について再度指令を下したものである。この宗光も、若狭国守護代を務め、多田院政所に多くの書下を発給している工藤貞祐*8とは同族(「南家伊東氏藤原姓大系図」)の得宗被官であるから、【史料3】も得宗家公文所奉行人連署奉書である。
細川氏は【史料2】と【史料3】を照らし合わせ、
・奉者第一位:「資□」=「(長崎)高資」
・奉者第二位:「(尾藤)時綱」=「(尾藤)演心」
とされているから、
・奉者第三位:「了暁」=「了□」
とみなして良いのではなかろうか。【史料2】・【史料3】は双方とも、長崎高資・尾藤演心・塩飽了暁が奉者の上位三つを占めて発給した奉書であったと推測される。塩飽了暁は長崎・尾藤両名と同じく得宗家公文所の職員であり、家格は彼らに比べやや劣るかもしれないが、幕府の政務に携わる程の有力な得宗被官であったことは認められよう。
こちらは【史料3】における「了□」の花押である。これと同じ花押を持つ史料として、他に以下2点が確認できる*9。
●【史料4】文保元(1317)年12月日付「陸奥国平賀郡大平賀郷正和四・五両年年貢結解状」(『南部文書』):
●【史料5】元応2(1320)年10月30日付「得宗家公文所奉行人連署奉書」(『宗像神社文書』):奉者第三位「沙弥」の花押
*花押の一致により、第一位「左衛門尉」=(長崎)高資、第二位「沙弥」=諏訪宗経(直性)と分かり、依然として執事家に次ぐ家格・地位を有していたことが推測される。
この他、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌法要について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)において「銭二十貫 太刀一 亀甲作、」を進上する「塩飽右近入道」についても、【史料1】との時期の近さからして『神奈川県史』での推定通り了暁に比定されよう*10。同史料で「常陸前司輔方」に「馬一疋栗毛」を「大夫土佐前司殿」が進上する際の御使を務めた「塩飽右近三郎」*11は了暁の息子なのではないか。
了暁の俗名について
前節までに触れてきた史料からは、了暁の俗名(出家前の実名・諱)について知ることは出来ない。また、塩飽氏については系図類も特に残されていない。
ところが、その手がかりとなる史料が近年発表された。次の記録である。
【史料6】『嘉元三年雑記』(宮内庁書陵部蔵『醍醐寺記録』所収)5月22日条 より一部抜粋*12
……正応六年平左衛門入道杲円被誅之後、自四月廿三日仏眼御修法被修之、伴僧八口、修法以後被成護摩一七ヶ日、以注文被成供、奉行二人塩飽右近将監盛遠・神四郎入道了儀*也、……
嘉元3(1305)年の嘉元の乱に関する史料中、回想する形で正応6(1293)年の平禅門の乱の際の法験について述べられた部分であるが、その奉行を務めた人物として塩飽盛遠の名が確認できる。この盛遠の官途は右近将監であり、嘉元3年当時のそれであったと見なして良いと思うが、前述の工藤宗光(右近将監→右近入道)に同じく、出家すると「右近入道」と呼ばれ得る。
そして、僅か約5年後の【史料2】で "右近入道" たる「了暁」が現れるから、時期の近さからして盛遠=了暁と見なして良いのではないか。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
尚、『東寺百合文書』に所収の、卯月(4月)2日付「工藤貞景書状案」*14の宛名「塩飽入道殿」は、同日付の「塩飽右近入道書状案」*15の冒頭に「塩飽右近入道殿返状案」とあることから、正確な呼称が "塩飽右近入道" であったことが窺える。いずれも「嘉元二」との付記があるので【史料6】の前年の史料と分かり、この塩飽入道と盛遠は別人と見なすのが妥当である。
*この塩飽右近入道は貞和2(1346)年2月日付「若狭国太良庄禅勝申状案」(『東寺百合文書』)*16の文中にある同国恒枝保・富田郷などの給主「塩飽右近入道法〔ママ、塩飽右近入道道法か〕」*17に比定されるのではないかと思われる。恐らくは盛遠(了暁)の父親もしくは先代ではなかろうか。
以上より、塩飽了暁の出家前の俗名は「盛遠」であったと推定される。
前述の『北條貞時十三年忌供養記』に登場する「塩飽藤次高遠」*18や、鎌倉幕府滅亡に殉じた塩飽聖遠(新左近入道、俗名不詳)*19とは「遠」の字が共通しており、親戚(同族)関係にあったと見て良いだろう。
脚注
*1:「しあく」などとも読まれる(→ 塩飽(しあく、しわく) -人名の書き方・読み方 Weblio辞書、塩飽さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net などを参照)が、正中元(1324)年のものとされる「東盛義所領収公注文」(『金沢文庫文書』所収/『鎌倉遺文』第37巻28943号)の端裏書に「塩涌〔ママ〕新右近入道」と書かれており、「涌(わ-く)」の読み方からすると「しわく」と読まれていたとみて良いだろう。塩飽氏が拠点にしていたと思われる瀬戸内海の塩飽諸島も現在この読み方である。ちなみにこの新右近入道は、同じく出家以前は右近将監在任であったとみられ、「右近入道了暁」と区別のために「新」が付されたものと思われ、盛遠(了暁)の嫡男或いは近親者であろう。
*2:『大日本古文書』家わけ第11『小早川家文書之二』P.160~163(二八五号)。『鎌倉遺文』第36巻27574号。
*3:但し、この書状については『鎌倉遺文』・『大日本古文書』等に収録されておらず、今のところ未確認である。
*4:『鎌倉遺文』第31巻23932号。
*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.184 註(73)。
*6:『鎌倉遺文』第34巻26002号。
*7:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論 上巻』、高志書院、2007年)P.113。
*8:星野重治「南北朝期における摂津国多田院と佐々木京極氏:分郡守護論(守護職分割論)の再検討を中心に」(所収:『上智史學』48号、2003年)P.71によれば、貞祐は多田院の領主である北条氏の意を受けて、現地で年貢・公事の徴収にあたる政所を指揮・管理する「多田院造営惣奉行」であったといい、その一方で父・杲暁同様に若狭国守護代を務めていたことが確認される(『若狭国守護職次第』)。前注今野氏論文P.114も参照のこと。
*9:『花押かがみ 四 鎌倉時代 三』(編:東京大学史料編纂所、1985年)P.96・No.2822「某(得宗家家人)」の項 より。
*10:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。
*11:前注『神奈川県史』P.706。
*12:菊池紳一「嘉元の乱に関する新史料について ―嘉元三年雑記の紹介―」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』第3章、八木書店、2008年)P.796~797。
*13:前注同論文 P.789。
*14:『鎌倉遺文』第28巻21782号。ミ函/15/1/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書、ゑ函/12/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書。
*15:『鎌倉遺文』未収録文書99900506号(データベース検索結果より)。ミ函/15/2/:塩飽右近入道書状案|文書詳細|東寺百合文書。
*16:リ函/45/:若狭国太良庄禅勝申状案|文書詳細|東寺百合文書。
*17:『東寺百合文書』リ之部24~34号-三 P.50。『福井県史』通史編2 中世。
*18:注10『神奈川県史』P.698・701。
三浦貞連 (甲斐六郎左衛門尉)
三浦 貞連(みうら さだつら、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。甲斐一条氏・武田時信(一条時信)の子で、三浦行連(佐原行連、甲斐守)の養子。通称は(三浦)甲斐六郎左衛門尉。
元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時(鎌倉幕府第9代執権)13年忌法要について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』、以下『供養記』と略記)を見ると、「銀劔一 馬一疋 鹿毛、」を進上する人物として「三浦甲斐六郎左衛門尉」の名が見られる*1。また、同日に「阿野中将」こと阿野実廉(右中将として将軍・守邦親王に仕える)に「馬一疋 鹿毛、銀劔一」を進上する「甲斐六郎左衛門尉」*2も同一人物と見なして良いだろう。
この人物は、次の【図A】に示す『尊卑分脈』武田(一条)氏系図(以下『分脈』と略記)一条時信の子に「三浦甲斐守養子」・「六郎左衛門尉」と注記される貞連*3に比定されよう。
▲【図A】『分脈』甲斐一条氏系図
ところで、『続群書類従』巻122所収「浅羽本 武田系図」では時信の子・貞連の注記に「養子 本氏平家三浦也 慶良𠮷元祖」とあり*4、平姓三浦氏から一条時信に養子入りした、と解釈し得る。三浦貞連の位置づけ(外部リンク)ではこれを採用するが、もし甲斐一条氏に養子入りしたのであれば「武田甲斐六郎左衛門尉」*5或いは「一条甲斐六郎左衛門尉」*6と書かれて然るべきである。
そもそも【図A】で見る限り子沢山であった時信*7に養子入りする理由が不明であり、近世成立の浅羽本系図に必ずしも信を置く必要性は無い。よって【図A】ほか『諸家系図纂』・『系図纂要』等複数系図の記載通り、一条氏→三浦氏への養子入りと見なすのが正しいと判断される。
「甲斐六郎左衛門尉」という通称名は、既にご指摘のように、父が「甲斐守」で、貞連自身の仮名が「六郎」、官職が「左衛門尉」であったことを表す。【図A】にもある通り、貞連の実父・時信も甲斐守であった*8が、養父も「三浦甲斐守」であり、この場合の「甲斐」は養父の官途と見なすのが妥当である。
「三浦甲斐守」とは誰なのか。三浦氏の系図類を見ると、三浦義連を祖とする佐原流に「甲斐守 行連― 六郎左衛門尉 貞連」父子が確認できるから、行連が「三浦甲斐守」で、貞連がその養子であったのだろう。
▲【図B】武家家伝_横須賀氏掲載の図より一部抜粋
『諸家系図纂』や『系図纂要』によれば、盛連の母(義連の妻)が武田信光の娘だったらしく*9、行連は信光の玄孫にあたる。この行連には一応男子がいたようだが、早世したためか、同じく信光の血を引く貞連を養子に迎える運びとなったと思われる。
では、武田氏側から貞連の世代を推定してみよう。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちら▲の記事にある通り、信光の嫡男・武田信政は『甲斐信濃源氏綱要』によると1196年生まれとされる。この信政の同母弟とされる武田(一条)信長の生年は当然これ以後となる。『吾妻鏡』において、承久元(1219)年7月19日条「武田小五郎」が信政の初見とみられ(上記記事参照)、貞応2(1223)年正月5日条「武田六郎」が信長の初見と判断される*10。従って信長は信政と年の離れていない弟で生年も1200年頃であったと推定される。
*ちなみに『吾妻鏡』建長8(1256=康元元)年7月17日条には、信長の子と見られる「武田八郎信経」が登場しており*11、信経の生年は1240年代以前であったと推測可能である。
よって各親子の年齢差を20歳と仮定した場合で、貞連は早くとも1260年代の生まれと推定可能である。但し【図A】で見る限り、信経と貞連が長男でなかった(兄がいた)ことを考慮すれば、更に下らせても良いと思う。
そして、元服は通常10代前半で行われることが一般的であったから、その当時の執権が貞時(在職:1284年~1301年)*12であった可能性が十分に高く、貞連の「貞」もその偏諱を受けたものと判断される。貞時執権期間内の元服であれば、遅くとも1290年頃までには生まれていただろう。冒頭の貞時13年忌法要への参加は、生前烏帽子親子関係を結んでいたことも一因だったのではないか。
尚、本項の貞連については『供養記』以外には確認できない。元亨3年当時左衛門尉であったが、年齢的にはそれより間もなく官途の面で昇進した可能性も考えられる。ただ、それを裏付けられる史料は今のところ無いため、これについては後考を俟ちたいところである。
脚注
*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.711。
*2:前注同書 P.705。
*3:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.329。
*4:続群書類従. 巻122 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:『供養記』には甲斐武田氏一門とみられる者として「武田八郎(=助政)」、「武田弥五郎」、「武田伊豆入道」、「武田孫七郎」、「武田源太」、「武田十郎五郎入道」の名が見られる。
*6:甲斐一条氏の者が確認できる史料として、『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録」中に「一条甲斐太郎信方/一条甲斐守信方(=時信の孫)」、「一条八郎六郎入道(=時信の弟・宗信か?)女子尼本阿」、「一条十郎入道道光(=時信の子・時光か?)」、「一条八郎入道源阿(=時信の子・貞家か?)」の名が見られる(→『大日本史料』6-26 P.567~568・570、人物比定は【図A】による)。特に一条信方の場合、【図A】での注記は「(一条)太郎」とあるのみだが、実際は祖父・時信の官途に因んで「甲斐太郎」と呼ばれ、後に同じく甲斐守となったことが窺える。もし貞連が一条氏に養子入りしたのであれば同様に「一条甲斐六郎左衛門尉」と呼ばれた筈である。
*7:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:実際の史料でも『一蓮寺過去帳』に「佛阿弥陀佛 信光四男信長四男信綱〔ママ =信経〕嫡男 武田甲斐守時信 武川祖」とあるのが確認できる(→ 甲府市/一蓮寺過去帳)。
*9:『大日本史料』5-9 P.64・5-31 P.101。
*10:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.261「信長 武田」の項によると、次いで翌3(1224=元仁元)年2月11日条に「武田六郎信長」と現れ、その後仁治2(1241)年8月25日条に至るまで14回登場する。その後弘長3(1263)年8月9日条に「武田六郎子息一人」が登場するが、この頃 "武田六郎" を称していた武田時綱の息子は系図を見る限り1269年生まれの信宗のみであったから、これも信長に比定されよう。「子息」は【図A】での義長・頼長・信経・信久・信行のいずれかと思われる。
*11:前注『吾妻鏡人名索引』P.257「信経 武田」の項 より。
*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
三浦貞連 (因幡守)
三浦 貞連(みうら さだつら、1290年頃?~1336年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。
「横須賀系図」(『諸家系図纂』11上所収)*1などによると、父は三浦時明(安芸守)、母は同族・大多和行秀の娘。初名は三浦貞明(さだあき)。通称は六郎左衛門尉、因幡守。曽祖父の佐原時連が宝治合戦の恩賞として相模国三浦郡横須賀郷(現・神奈川県横須賀市)を与えられたことに因み、先行研究では横須賀貞連(よこすか ー)*2、或いは時連の子・宗明の家系が杉本氏を称したことから杉本貞連(すぎもと ー)とも呼ばれる。
生年と烏帽子親の推定
●【図1】北条・平(長崎)・三浦(佐原) 3氏略系図
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちら▲の記事でも紹介の通り、時連は、矢部禅尼(法名:禅阿)が北条泰時と離縁し、佐原盛連に再嫁した後に産んだ息子の一人である。禅阿が泰時との間に産んだ長男・北条時氏が建仁3(1203)年生まれである*3から、時連の生年は確実に同年より後で、初出の『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条の段階では兵衛尉に任官済み(同(佐原)六郎兵衛尉)で10代後半~20代に達していたと思われるから、1210年代前半であったと推測される。従って各親子間の年齢差を20歳と仮定した場合、貞連は早くとも1270年代の生まれと推定可能である。
この場合、同じく禅阿の玄孫にあたる得宗・北条貞時(1271年生まれ)とほぼ同世代となり、また元服は通常10代前半で行われることが一般的であったから、貞連の「貞」は貞時の執権期間(1284年~1301年)*4内に、その偏諱を受けたものと判断される。
但し貞連の生年はもう少し下るだろう。貞時の乳母父にして執事(内管領)でもあった平頼綱は1230年代前半~中ごろの生まれと考えられており*5、【図1】に示したように貞連の曽祖父にあたるから、同じように各親子間の年齢差を20歳と仮定すると、貞連は1290年代の生まれとなる。この場合でも元服当時の得宗は変わらず貞時となるから、その一字を拝領したと考えて問題無い。貞時が執権職を辞す正安3(1301)年までの元服の可能性が高いことや、後掲【史料2】にあるように1334年の段階で因幡守を退任済みであったことを考慮すれば、1290年頃の生まれとするのが妥当ではないか。
尚、元服時には祖父以来の通字「明」*6を用いて「貞明」と名乗ったが、理由は不明ながら後に曽祖父までの通字により「貞連」と改めたと伝えられる。
史料における因幡守貞連
以下、鈴木かほる氏のまとめ*7に従って、関連史料を列挙して紹介する。
●【史料2】(建武元(1334)年9月27日?)「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』):「大概」の一人に「三浦因幡前司貞連」*8。
◆関連史料:「足利尊氏随兵交名」(国立公文書館『朽木文書』)*9
一番 | 武田八郎次郎信明 | 十一番 | 小早川弥太郎 | 浅利太郎家継 | ||
二番 | 佐々木備中前司時綱 | 十二番 | 香川四郎五郎 | 二階堂丹後三郎 | ||
三番 | 千葉太郎胤貞 | 大高左衛門尉重成 | 十三番 | 香川左衛門尉頼行 | 何某 | |
四番 | 佐々木源三左衛門尉秀綱 | 小笠原七郎頼氏 | 十四番 | 南部弥六政氏 | 三浦秋庭平三秀重 | |
五番 | 野本能登四郎朝行 | 土肥佐渡次郎兵衛氏平 | 十五番 | 隠岐守兼行 | 海老名彦四郎秀家 | |
六番 | 宇津宮遠江守貞泰 | 上椙蔵人朝定 | 十六番 | 萩原四郎基仲 | 萩原七郎三郎重仲 | |
七番 | 二階堂信濃三郎左衛門行広 | 嶋津下野三郎師忠 | 十七番 | 日田次郎永敏 | 河野新左衛門尉通増 | |
八番 | 三浦因幡前司□□〔貞連〕 | 十八番 | 足立安芸守遠宣 | 嶋津三郎左衛門尉 | ||
九番 | 小笠原七郎次郎頼長(頼氏の子) | 田代豊前次郎 | 十九番 | 山名近江守兼義(政氏の子) | 土岐近江守貞経(頼貞の甥) | |
十番 | 橘 佐渡弥八公好 | 小早川又四郎亮景 | 二十番 | 細川帯刀直俊 | 吉見三河守頼隆(氏頼の父) | |
二十一番 | 富士名判官雅清 | 伊勢山城守元貞 |
(*表は http://chibasi.net/kyushu11.htm より)
*以下に掲げるうち、【史料3】・【史料5】は元々軍記物語、【史料4】の押紙は後世に付されたものであり「因幡守」は「前因幡守」の脱字もしくは省略と見なして良かろう。
●【史料3】『太平記』巻14「節度使下向事」*10(建武2年11月)、「箱根竹下合戦事」*11(同年12月):「三浦因幡守」
●【史料4】建武2(1335)年12月12日付「大炊正供着到状案」(『大友文書』)*12:「三浦因幡守 在判」の押紙あり。
「大友一族大炊四郎入道正供」が伊豆国佐野山で尊氏側に転じた際、その着到をチェックした書状の案文(控え)であり、貞連がそのチェックに当たったことが窺える。
●【史料5】『梅松論』下*13より
(建武3(1336)年)1月17日*14:両侍所佐々木備中守仲親*15、三浦因幡守貞連、三條河原にて頭の実検ありしかば千余よぞ聞えし。
1月27日*16:辰刻に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛合て、入替て数刻戦しに、御方討負て河原を下りに引返しければ、敵利を得て手重く懸りける。両大将御馬を進められて思召切たる御気色みえし程に、勇士ども我も我もと御前にすすみて防戦し所に、上杉武庫禅門(=兵庫頭憲房,法名:道欽)を始として三浦因幡守、二階堂下総入道行全、曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々て打死(=討ち死に)しける間、河原を下りに七條を西へ桂川を越て御陣を召る。
京都賀茂河原での戦いにおいて、尊氏の母方伯父・上杉憲房(道欽)や二階堂光貞(行全)らと共に貞連も戦死したと伝えている。この『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、同日に合戦があったことは実際の書状に「正月廿七日 賀茂河原合戦」(「本田久兼軍忠状」)、「正月廿七日 鴨河原合戦」(「和田助康注進状」・「山田宗久注進状」)などと書かれて裏付けられ*17、更に同年9月20日付の足利尊氏下文によれば「宇麻本荘」等の地頭職が合戦での討ち死にの賞として「三浦因幡前司貞連跡」(=後継者の三浦貞清を指すか)に宛行われている(『宮城県史』30所収『宝翰類聚』)*18から、貞連の戦死は史実と判断して良いだろう。前節での推定生年に従えば、享年47ほどであったことになる。
●【史料6】貞治元(1362)年12月18日付「三浦貞清寄進状」(『前田家所蔵文書』)*19
寄進
上総国飯富庄内本納・加納両郷事、
右件両郷、任亡父因幡守先年避状、且為天下安全、且為家門繁昌、永所奉寄進飫富大明神也、向後更不可有相違、至于子孫、敢不可依違者也、仍奉寄〔進 脱字か〕之状如件、
貞治元年十二月十八日 前安芸守平貞清(花押)
この史料の発給者「前安芸守平貞清」とその亡き父・因幡守は、『横須賀系図』・『系図纂要』などから三浦貞清とその父貞連に比定される*20。ここには貞連が生前に残した避状(この場合、領有権放棄の意向)に従って飯富大明神に本納・加納両郷を寄進したと記されている。
この【史料】からは貞清が貞治元年当時安芸守を既に辞していたことも窺え、40~50代には達していたと思われる。逆算すると1310~1320年代の生まれと推定可能で、その父・貞連の生年はやはり1290年頃の生まれとして妥当である。
(参考ページ)
脚注
*2:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.280~281。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*5:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115。
*7:注2鈴木氏著書 P.311。
*8:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号。
*17:『大日本史料』6-3 P.19~25の各史料を参照のこと。
*18:『角川日本地名大辞典(旧地名編)』「宇摩荘(中世)」解説ページ より。
*19:『千葉県の歴史』資料編・中世4 P.500『尊経閣古文書纂』8。『大日本史料』6-24 P.648 および 上総国 - 「ムラの戸籍簿」データベース「望陀郡」> 本納郷・加納郷 の項 より。
*20:系図纂要|国史大辞典|吉川弘文館 - ジャパンナレッジ より。典拠は『日本歴史地名大系』第12巻「おふのしょう【飫富庄】」の項。