Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小田高知

小田 高知(おだ たかとも、1300年頃?~1352年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人常陸小田氏第7代当主。のち小田治久(はるひさ)と改名。

父は小田貞宗。子に小田孝朝。通称および官途は(常陸)太郎左衛門尉、尾張権守、宮内権少輔。

 

▲伝・小田治久像(法雲寺蔵)

 

小田高知に関する史料の紹介

まずは、鎌倉時代末期における高知についての史料群を紹介する。

 

【史料1】正中2(1325)年6月6日付「鎌倉幕府奉行連署奉書」(『鹿島大祢宜家文書』)*1

常陸国大枝郷給主能親与地頭野本四郎左衛門尉貞光和泉三郎左衛門尉顕助等相論、鹿島社不開御殿仁慈門造営事、丹塗格子之外者、悉可為給主役之由、元亨三年八月晦日注進之間、依被急遷宮、任注申之旨、加催促可造畢、於理非、追可有其沙汰之由雖被仰下、遷宮于今遅引、而当郷地頭・給主折中之地也、任先規両方可勤仕之旨、云度々御教書、云木田見・大王・藤井・田子共等之例、炳焉之由、能親所申有其謂、爰国奉行人成敗雖区、下地平均課役可随分限之条、相叶理致、然地頭・給主共可造進之旨加催促、急速可被終其功之条、依仰執達如件、

  正中二年六月六日 散位(花押)

           前長門介(花押)

           左衛門尉(花押)

           前加賀守(花押)

 山河判官入道殿

 小田常陸太郎左衛門尉殿

 大瀬次郎左衛門尉殿

 下郷掃部丞殴

市村高男によると、この史料は常陸国鹿島社不開殿仁慈門造営をめぐる同国大枝郷の給主・中臣能親と地頭の野本貞光和泉顕助らとの相論に際し、幕府が「当郷(=大枝郷)は地頭・ 給主折中之地」であるから、「下地平均課役可随分限」そして「地頭・給主共に造進すべきの旨、催促を加」え、速やかに遷宮を実現させるよう、山川・ 小田氏ら4名に対して命じたものであるという*2

その宛先の一人「小田常陸太郎左衛門尉殿」について『鎌倉遺文』では父・貞宗に比定し、市村氏も特にこれを疑わなかった。ところが、貞宗は文保2(1318)年の段階で既に常陸介を辞していたことが確認でき*3常陸太郎左衛門尉」はその後の通称として不自然である

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こちら▲の記事で掲げた『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)小田氏系図では確かに貞宗の注記に「太郎左衛門尉」とあり、これを生前名乗っていたこと自体は否定できない。しかし「常陸太郎左衛門尉」という通称は、父が常陸(もしくは前任者)で、自身は輩行名が「太郎」で左衛門尉に任官していたことを表すものである。すなわち「常陸太郎左衛門尉」自身は常陸介に任官しておらず、正中2年当時において常陸介を辞していた貞宗に同定し得ないのである。

従って【史料1】の「小田常陸太郎左衛門尉」は貞宗ではなく、その嫡男・高知に比定されるべきである

『分脈』によると、6代貞宗のみならず、2代知重・5代宗知も「太郎左衛門尉」を称していたようであり、3代泰知も「奥太郎左衛門」と呼称されていたことが確認できる。4代時知も『吾妻鏡』では「(小田)左衛門尉(時知)」と書かれるのみだが、輩行名が同じく「太郎」であったことは想像に難くない。従って太郎左衛門尉」は知重以降の小田氏嫡流における称号と化していたとも言え、7代高知もその仮名を継承したのであった。

 

【史料2】嘉暦2(1327)年6月14日付「関東御教書案」『諸家文書纂』所収『結城古文書』*4

安藤又太郎季長郎従季兼以下、与力悪党誅伐事、不日相催一族、差遣子息尾張権守、於津軽戦場、可被抽軍忠之状、依仰、執達如件、

  嘉暦二年六月十四日 相模守(=執権・北条守時

            修理大夫(=連署・大仏維貞)

 小田常陸入道殿

【史料2】はいわゆる安藤氏の乱に関するものである。嘉暦元(1326)年、蜂起した安藤季長は工藤貞祐率いる幕府軍に捕縛された*5が、その翌年季兼らその郎党(残党)が蜂起した際、息子の「尾張権守」を「津軽の戦場」に「差し遣わ」したことを賞している。「小田常陸入道」の息子「(小田)尾張権守」については次の史料により高知に比定される。

 

【史料3】『鎌倉年代記』裏書*6(または『北條九代記』*7)より一部抜粋

今年嘉暦二……六月、宇都宮五郎高貞小田尾張権守高知、為蝦夷追討使下向、……

今年嘉暦三、十月、奥州合戦事、以和談之儀、高貞高知等帰参、……

ここで『分脈』と照らし合わせると、小田貞宗常陸介)の嫡男・高知の注記「宮内権少輔 尾張権守*8と実名・官途の一致が一致する。よって【史料2】の「(小田常陸入道 子息)尾張権守」、【史料3】の「小田尾張権守高知」はいずれも小田貞宗の子・高知に同定され、通称の一致から次に掲げる史料にも高知が登場していることが窺える。

 

【史料4】元徳3/元弘元(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』)

 被成御教書人々。次第不同。
武蔵左近大夫将監  遠江入道
江馬越前権守    遠江前司
千葉介貞胤    小山判官高朝
河越参河入道
貞重 結城七郎左衛門尉朝高
長沼駿河権守
(宗親) 佐々木隠岐前司清高
千葉太郎
胤貞   佐々木近江前司
小田尾張権守     
佐々木備中前司(大原時重)
土岐伯耆入道頼貞  小笠原又五郎
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 狩野介入道
貞親
佐々木佐渡大夫判官入道導誉 讃岐国守護代 駿河八郎

 以上廿人。暫可在京之由被仰了。

 嶋津上総入道
貞久 大和孫六左衛門尉高房

 

史料5】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道貞久     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉高房   安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々
               佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉朝高
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 
【史料6】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*10
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良満義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守 一族            結城七郎左衛門尉朝高 一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道宗長一族
 伊東大和入道祐宗一族         宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

これらの史料は、後醍醐天皇による2度目の倒幕運動=元弘の変に際し、幕府が京へ差し向けた軍勢の名簿であり、その構成員の中に「小田尾張権守」=高知が含まれている。ちなみに【史料4】は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*11。【史料6】での記載から一族を率いる立場にあったことが窺え、父が出家済みであった【史料2】の段階では既に家督の座を継いでいたのではないかと思われる。【史料5】の「小田人々」も高知たち小田家を指していると判断して問題なかろう。鎌倉幕府滅亡の直前まで幕府側について活動していたことが窺える。

 

 

小田治久への改名

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1333年5月22日、鎌倉東勝寺において烏帽子親(後述参照)北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡した(『太平記』etc.)。直前まで幕府側であった高知はこれに殉ずることなく生き残り、上記記事▲で紹介の通り、やがて「治久」に改名したとされる。

建武4(1337)年3月日付「伊賀盛光軍忠状」(『飯野八幡社古文書』)の冒頭に「右為討伐当国凶徒小田宮内権少輔治久以下輩、…(以下略)」*12、同年11月日付「烟田時幹軍忠状案」京都大学総合博物館所蔵『烟田文書』)*13の文中にも「……小田宮内権少輔治久以下凶徒等成一手、……」とあり、管見の限り遅くともこの年までには「治久」に改名していたことが分かるが、その通称「宮内権少輔」は前述した『分脈』での高知の注記にあったものである*14

高知=治久 とされるのはそのためであろう。江戸幕末期に編纂された『系図纂要』では貞宗の嫡男は「治久」となっている(前述記事参照)ほか、『常陸誌料』でも「治久、初名高知」と記述されている。尚、後者をそのまま読み進めると「後醍醐天皇偏諱、因更治久……(中略)……自延元元年(=1336年)至興國二年(=1341年)……御諱…(以下略)」とあり*15、「」の名が後醍醐天皇の諱「*16から「」の1字を賜ったものと説明されている。前述の軍忠状2点と照合すれば、1336~1337年の間に改名したと判断できよう。

 

 

生没年と烏帽子親について

その後南朝方として活動していた治久だったが、暦応4/興国2(1341)年11月18日には北朝方の足利尊氏執事・高師冬と対面して降伏した*17。『園太暦』正平7年/文和元(1352)年10月23日条には伝聞として「小田常陸前司」なるものが関東より上洛したことが記録されており、『大日本史料』ではこれを治久とする*18。これが正しければ、治久も父・貞宗と同じく最終的には常陸に任官したことになる。

治久はその年(1352年)の12月11日(西暦:1353年1月16日)に亡くなったと伝わる。『佐竹古文書』「小田代々城主事」の「治久源朝臣」の注記に、同日「御年七拾歳(=70歳)御逝去」とある*19ためか、系図類や『常陸誌料』等でもこの説が採用され*20、逆算して弘安6(1283)年生まれと考えられてきた。

ところが、「小田代々城主事」で筑後守宗朝〔ママ、宗知〕と治久の間に書かれる「常陸〔ママ〕」は明らかに常陸介貞宗を指すが、記載の没年齢から逆算すると1288年生まれとなり、父・貞宗より先に息子の治久が生まれたことになって矛盾する。この現象は『系図纂要』等系図類でも同様に起こる。

それ故に、山田邦明貞宗との兄弟の可能性も説かれた*21が、これは前掲【史料2】によって明確に否定される。親子の年齢差の観点から言って、貞宗(およびそれ以前の各当主)の生年は動かすことは不可能であるから、高知(治久)は早くとも1300年頃の生まれでなくてはおかしい。ちなみに「小田代々城主事」等により息子の孝朝は1337年生まれとなるので、父・治久がそれ以前の生まれとすれば、高齢期での子供となってしまい不自然である。

そもそも、『佐竹古文書』自体は実際の史料でその価値は高いと思うが、「小田代々城主事」の部分については小田城落城時(安土桃山時代)の小田守治まで載せられており*22、近世の成立である。従って鎌倉・室町時代の部分は伝承に基づいて書かれているに過ぎず、実際「宗」や「常陸」といった誤記もあるから、その情報は必ずしも信用すべきものではないと思う。

 

ここで今一度、前掲の史料を振り返ると、【史料1】で1325年当時「左衛門尉従六位下相当)*23」であったことが判明し、1325~1327年(【史料2】)の間に「尾張権守従五位下相当、権官」任官を果たしたことになる。

併せて歴代当主の例も見ておきたい。曽祖父の4代時知は11歳までに左衛門尉任官を果たし、30代後半で常陸介となっている。3代泰知も左衛門尉であったが、35歳で亡くなったためか、それ以上の昇進は確認できない。父の6代貞宗は30代前半で常陸従六位上正六位下相当)*24を辞しており、任官した時は低年齢化して20代後半であった可能性もある。

従って、高知(治久)尾張権守任官も20代後半であった可能性があり、1300年頃の生まれとすれば辻褄が合う。それを補強し得るのが初名「」の「」の字である。これは、鎌倉幕府滅亡後に改名したことも踏まえれば、1309年に元服し、1311年に得宗の座を継いだ北条(14代執権在任:1316~1326年)*25偏諱に他ならない*26元服の時期・年齢も考慮して、それを限りなく正確に近い生年として結論とする。

 

(参考ページ)

 小田高知とは - コトバンク

 小田治久とは - コトバンク

 小田治久 - Wikipedia

南北朝列伝 ー 小田治久

 小田治久

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第37巻29132号。市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 ―二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史―」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.26。

*2:前注市村氏論文 P.27。

*3:小田貞宗 - Henkipedia【史料1】参照。

*4:『新編弘前市史資料編1 古代・中世編』六二四号文書。『白河市史』第五巻 古代・中世 資料編2(福島県白河市、1991年)P.89。『岩手県史』(第二巻)P.230。『諸家文書纂』二(国立公文書館デジタルアーカイブ)16ページ目。

*5:工藤貞祐 - Henkipedia【史料10】参照。

*6:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。年代記嘉暦2年年代記嘉暦3年

*7:『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25

*8:『大日本史料』6-2 P.670

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*10:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*11:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738

*12:『大日本史料』6-4 P.93

*13:南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)766号 または『鉾田町史 中世資料編』「烟田史料」所収。

*14:『大日本史料』6-2 P.670

*15:『大日本史料』6-17 P.294

*16:後醍醐天皇とは - コトバンク より。

*17:『大日本史料』6-6 P.975~976

*18:『大日本史料』6-17 P.147

*19:『大日本史料』6-2 P.669『大日本史料』6-17 P.292『大日本史料』7-20 P.207

*20:『大日本史料』6-17 P.293~294

*21:『朝日日本歴史人物事典』「小田治久」の項コトバンク所収)。

*22:『大日本史料』7-20 P.207『編年史料』後陽成天皇紀・慶長6年閏11~12月 P.18

*23:左衛門大夫とは - コトバンク より。

*24:常陸国司 - Wikipedia官位相当表 より。

*25:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*26:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

小田宗知

小田 宗知(おだ むねとも、1259年~1306年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人常陸小田氏第5代当主。父は小田時知。弟に北条道知小神野時義。子に小田知貞(手野知貞)、小田貞宗などがいる。通称および官途は太郎左衛門尉、筑後守。法名尊覚(そんかく)

 

 

烏帽子親と主な活動について

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には徳治元(1306)年12月6日に48歳で卒去とあり、『佐竹古文書』・『常陸誌料』でも同様の記載がある*1から、逆算すると1259年生まれとなる。他の例も見れば元服は10代前半で行うのが一般的であったから、6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年*2までにその1字を受けたとは考え難い。また、時知18歳の時の子となるので、少なくともそれを遡ることはほぼあり得ないと言って良く、宗尊から1字を受ける可能性は尚更無くなる。祖父・泰知が北条泰時、父・時知が北条氏の通字「時」を拝領してきたことからしても、の「」が得宗・8代執権の北条時(1263年家督継承、在職期間:1268~1284年)*3偏諱であることは確実と言えよう*4

 

宗知に関する史料としては次の書状(写し)が確認されており、問題なく前述の存命期間内に収まる。 

【史料A】正安3(1300)年12月23日付「小田宗知判物案」(『常陸国総社宮文書』)*5

異国降伏御祈事、御巻数到来候了、仍状如件

  正安三年十二月廿三日 宗知(花押影)

 惣社神主(=清原師幸)殿

常陸誌料』では、系図や『総社文書』から宗知が常陸国守護であったと判断して記述されている*6が、その『総社文書』が指す史料がこの【史料A】であろう。最終官途が筑後であったことは、『佐竹古文書』に「筑後守宗朝〔ママ〕」とある*7ほか、文保2(1318)年3月24日付の常陸惣社社殿造営相論に関する一地頭の請文に「…先年為筑後前司宗知御使…」とあるによって確認ができ*8、【史料A】当時42歳の宗知も筑後守在任もしくは退任後であったと考えられる。同じく『常陸誌料』によると、嘉元年間(1303~1306年)には剃髪して「尊覚」と号したという*9

 

現在の茨城県土浦市木田余町にある宝積寺は、嘉元4/徳治元(1306)年に宗知が開基したものと伝えられる*10。これが正しければ、同年末に宗知が亡くなるまでの建立ということになる。

 

 

宗知の息子たち

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宗知の男子について、こちら▲の記事に掲げた『尊卑分脈』には知貞貞宗が載せられ、『系図纂要』ではもう一人牛野貞氏を載せる。但し『常陸誌料』では知貞の初名が「貞氏」で、居所に因んで手野氏を称したとするので、『系図纂要』編纂時に貞氏と知貞を別人としてしまったのかもしれない。『常陸誌料』によると宗知の死後、手野知貞貞宗家督を争ったといい*11信太忠貞らの支援を得た嫡男の貞宗が後継者となった*12

 

宗知には知貞・貞宗の他にも宗儀(宗己)宗寿という息子がいたという。

 

 宮宅国経(源五)の娘・小夜との間に生まれたという復庵宗己(1280?-?、俗名: 小田宗儀)は、中国に渡って中峰明本に師事し、帰国後の正慶元(1332)年に甥の小田治久(当時は高知)から与えられた高岡村の楊阜庵(のち正受庵)を文和3(1354)年に法雲寺として開基したという*13。1339年に治久は飯沼砦の村、青鳥(おおとり)をこの法雲寺(楊阜庵)に寄進しており、1341年に治久が北朝方に降伏して転じた後、宗己も北朝方の結城氏に招かれて結城に華蔵寺を建てている*14

上曽盛治(左衛門尉、上曽氏は小田知重の子・知賀を祖とする)の娘との間に生まれたという小田宗壽(新三郎)は谷田部(現・つくば市谷田部)漆山に築城して同地を領し、その地名から谷田部氏を名乗ったと伝えられる*15

 

脚注

*1:『大日本史料』6-2 P.669670

*2:宗尊親王とは - コトバンク より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*5:茨城県史料 中世編一』P.392 一二号文書。『鎌倉遺文』第27巻20936号。

*6:『大日本史料』6-2 P.670

*7:『大日本史料』6-2 P.669

*8:佐藤進一『増訂 鎌倉幕府守護制度の研究 ー諸国守護沿革考証編ー』(東京大学出版会、1971年)P.75 (註三) より。

*9:『大日本史料』6-2 P.670

*10:盛本昌広「近世における小田氏関係史料収集の背景」(所収:『史苑』第58巻第2号、 立教大学史学会、1998年)P.64 注(28)①。典拠は『新編常陸国誌』巻五。宝積寺 (土浦市)より。

*11:『大日本史料』6-2 P.670

*12:武家家伝_信太氏 より。

*13:『水海道市史 上巻』(水海道市(現・茨城県常総市)、1983年)P.254伊川健二「茨城県南地域ゆかりの史料にみる前近代異国観の諸事例」(所収:『つくば国際大学 研究紀要』No.22、2016年)P.78、千葉隆司「市町村博物館と地域史研究」(所収:『筑波学院大学紀要』12号、2017年)P.122、図説・新治村史 | データ検索情報誌2018~2019

*14:前注『水海道市史 上巻』P.254

*15:沼尻家の歴史 または 谷田部氏沼尻家 より。典拠は「谷田部氏系図」か。

小田泰知

小田 泰知(おだ やすとも、1211年~1245年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人常陸小田氏第3代当主。八田知家の嫡孫。父は知家の長男・小田知重。妻は三浦泰村の娘と伝わる。子に小田時知、女子結城広綱室、小萱重広母)。通称・官途は奥太郎左衛門尉。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には寛元3(1245)年5月13日に35歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると承元5/建暦元(1211)年生まれとなる。

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こちら▲の記事で紹介の通り、『常陸誌料』には、寛元3年に泰知が亡くなった時、その子・時知が幼少であったため、宍戸家周(泰知の従兄弟にあたる)常陸守護職を継いだという記述が見られる*1が、『系図纂要』に従うと時知は仁治3(1242)年生まれとなり辻褄が合う。『吾妻鏡』を見ると時知は元服から間もない建長4(1252)年から鎌倉御家人として活動していることが確認できる。

 

冒頭の記事にも掲げた『尊卑分脈』では「奥太郎」とのみ記載されるが、「佐野本三浦系図」を見ると、三浦泰村の女子の一人に「母同上(=母北条武蔵守泰時女)小田奥太郎左衛門泰知室、常陸介時知」とあり*2、泰村の娘を妻に迎えていたことが窺える一方、その表記から左衛門尉従六位下相当)*3であったことが分かる(実際の史料でも確認できることは後述参照)。嫡男・時知も初見の建長4年(当時11歳)の段階で既に「小田左衛門尉時知」と呼ばれていたから、泰知も1221年頃には左衛門尉になっていたのではないか。

そして年齢的に考えて、同じ頃に元服を遂げたと思われる。知家―知重と続いた「知」の上(=実名の1文字目)にわざわざ戴く「」の字は、紺戸淳の推測通り北条からの偏諱と考えて良かろう*4。泰時が3代執権となったのは元仁元(1224)年からであり*5、同年に14歳で元服したとも考えられるが、前述の泰村のようなケースもある*6ので、執権就任前の泰時から一字を拝領したとしても問題は無い。

 

泰知については管見の限り『吾妻鏡』等の主要な史料上で確認は出来ないが、僅かに、渡邊正男*7や木下竜馬*8が紹介された、『中世法制史料集』未収録の「青山文庫本 貞永式目追加」にある各国守護の名簿の中に、泰知に比定し得る「奥太郎左衛門 常陸」が含まれている(=写真参照)*9。このリストは、嘉禎4(1238)年の4代将軍・九条頼経の上洛に際して作成されたと推定され*10、当時常陸守護として泰知が活動していたことの証左となる。前述の泰知の存命期間内にも収まっていて問題ない。

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▲「青山文庫本 貞永式目追加」(新日本古典籍総合データベース より

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もう一つ、こちら▲の記事で【図I】として掲げた『結城小峯文書』所収「結城系図」を見ると、広綱庶子重広(七郎、民部大輔)の注記に「常陸奥太郎左衛門尉泰知」とある。市村高男の研究によると、同系図鎌倉時代後期の1320年前後に成立した古系図とされ*11、重広の外祖父として泰知が実在であったことを示している。小萱重広*12の生年は不詳だが、広綱の跡を継いだ異母兄弟の時広が1267年生まれで、広綱の生年も1227年頃とされるので、大内宗重(時広の庶兄)と同様、早くとも1250年頃と推定可能である。泰知―重広(祖父―孫)間の年齢差を考慮しても、1211年生まれであったことが裏付けられよう。

 

(備考)

この他、浄興寺の寺伝によれば、弘長3(1263)年の小田泰知の乱により同寺の伽藍が焼失したといい*13、勝願寺の寺伝の一つにも同年に兵火にかかった旨が記録されているらしい*14が、前述の通り泰知は寛元3年に亡くなっていた可能性が高いため、少なくとも「泰知」の人名については検討を要する。単に息子・時知の誤記とも考えられるが、いずれにせよ小田氏の乱について他の史料で確認されていないので、この辺りは後考を俟ちたい。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-26 P.148

*2:『大日本史料』5-22 P.135

*3:左衛門大夫とは - コトバンク より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:泰時が泰村の元服の際に加冠を務めたことは、同じく「佐野本三浦系図」に記載がある(→『大日本史料』5-22 P.134)。泰村の元服の時期については 三浦泰村 - Henkipedia を参照のこと。

*7:渡邊正男「丹波篠山市教育委員会所蔵「貞永式目追加」」(所収:『史学雑誌』128編9号)。

*8:木下竜馬「新出鎌倉幕府法令集についての一考察」(所収:『古文書学研究』88号)および 木下 竜馬 (Ryoma KINOSHITA) - 御成敗式目ブログ - researchmap

*9:嘉禎四年、宝治元年の守護1: 資料の声を聴く より。

*10:嘉禎四年の出雲・隠岐守護1: 資料の声を聴く より。

*11:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。

*12:続群書類従』所収の「結城系図」には重広の項に「小萱民部大輔」の注記があり、分家して小萱氏の祖となったことが窺える。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図C】・【図D】・【図E】を参照。

*13:浄興寺について | 新潟県上越市浄興寺 - Wikipedia勝願寺住職としての順性 より。

*14:勝願寺住職としての順性 より。

小田時知 (嫡流第4代当主)

小田 時知(おだ ときとも、1242年~1293年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人常陸小田氏第4代当主。父は小田泰知。母は三浦泰村の娘と伝わる。子に小田宗知北条道知小神野時義*1。通称および官途は左衛門尉(左衛門少尉)常陸介。幼名は金剛丸(こんごうまる)法名玄朝(げんちょう)

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には正応6(1293)年5月15日に52歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると仁治3(1242)年生まれとなる。寛元3(1245)年に小田泰知が亡くなった時、その子・時知(同系図によると幼名は金剛丸)が幼少であったため、同族の宍戸家周常陸守護職を継いだという『常陸誌料』での記述*2とも辻褄が合う。

また、「佐野本 三浦系図」によると、三浦泰村の娘の一人に「母同上(=母は泰村の長男・景村に同じく北条武蔵守泰時女)小田奥太郎左衛門泰知室、常陸介時知」とある*3

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泰村の生年については、こちら▲の記事で1204年と結論付けたが、外祖父(泰村)―外孫(時知)の年齢差は38歳となり、各親子(泰村―女子、女子―時知)間の年齢差を19歳程度とすれば問題ないと思う。泰村が泰時の娘を妻に迎えていたことは『吾妻鏡』で確認できる*4ので、次の【系図A】のようにまとめると世代・代数の上でも矛盾はない。

 

系図A】

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この【系図A】の情報が正しければ、時知以降の小田氏は女系を介して北条泰時 および 三浦泰村の血を引いていたことになる。泰村らが滅んだ宝治合戦(1247年)当時は、泰知が亡くなり、時知も幼かったため、幸運にも小田氏は三浦氏と縁戚関係にありながらも打撃を受けずに済んだようで、次の【表B】にあるように、『吾妻鏡』を見ると時知はその後の北条時頼治世期に12回登場している。

 

【表B】『吾妻鏡』における小田時知の登場箇所*5

月日 記載の表記
建長4(1252) 11.11 小田左衛門尉時知
11.2 小田左衛門尉時知
12.17 小田左衛門尉時知
建長6(1254) 8.15 小田左衛門尉時知
建長8(1256) 6.29 小田左衛門尉
7.17 小田左衛門尉時知
7.29 小田左衛門尉
正嘉元(1257) 10.1 小田左衛門尉時知
正嘉2(1258) 6.17 小田左衛門尉
弘長元(1261) 8.15 小田左衛門尉時知
弘長3(1263) 7.13 小田左衛門尉
8.9 小田左衛門尉時知

初見の建長4(1252)年11月11日条では既に「左衛門尉 」と書かれているから、この時既に元服済みで、左衛門尉任官も果たしていたことになる。前述の生年に基づけばその当時11歳と元服の適齢であり、実名の「」は寛元4(1246)年から5代執権となった北条*6(【系図A】に従えば母の従兄弟にあたる)偏諱を受けたものと判断して良かろう*7

 

吾妻鏡』以後の時知に関すると思われる史料としては次の2点が確認できる。 

【史料C】(文永10(1273)年?)9月13日付「小田時知書状」(『蓬左文庫所蔵 金沢文庫本「斉民要術」第八-九 紙背文書』)*8

太郎殿(=金沢実村?)御事承候、不變時令馳参候雖可申上候、近隣人々可驚申候歟間、先以使者申候、有其御心得、便宜之時、可有御披露候、恐惶謹言、
 九月十三日   左衛門尉時知(花押)
〔進〕平岡左衛門尉殿
(上書)「進上 平岡左衛門尉殿 少尉時知

 

【史料D】弘安5(1282)年3月25日付「関東御教書」(『鹿島大祢宜家文書』)*9

相模守(=当時の8代執権・北条時宗の発給によるもので、宛名に「常陸殿」とあるが、鹿島神宮のある常陸国におけるこの当時の「常陸介」に該当し得る人物は、やはり『尊卑分脈』でも「常陸介」の注記がある小田時知しかあり得ないだろう。すなわち【史料C】からこの時までに、当時30代後半で祖父・知重にゆかりのある「常陸介(『尊卑分脈』)に任官を果たしたことになる。

 

以後、亡くなる正応6(1293)年までの表立った活動は確認できないが、『尊卑分脈』上でわざわざ「法名玄朝(他の当主に法名の記載なし)の注記があるから、【史料D】より後に剃髪したのであろう。その契機として考えられるとすれば弘安7(1284)年4月4日の時宗逝去であるが、これについては後考を俟ちたい。正安3(1301)年には嫡男・宗知の発給文書が確認できる*10から、それまでに当主の交代があったことは確実で、没年を裏付けている。

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脚注

*1:甲山城(土浦市(旧新治村)大志戸)より。『小神野家古文書』(新治小野小神野家 蔵)によると時知の3男で、幼名は養寿丸、通称は三郎兵衛・大膳亮。住所の高岡村小神野(おかの)の地名を苗字とし、自身の館として甲山城を築いたという。

*2:『大日本史料』5-26 P.148

*3:『大日本史料』5-22 P.135

*4:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年8月4日条 に「武州(=武蔵守泰時)御息女 駿河次郎(=泰村)妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とあり、逆算すると1206年生まれ。

*5:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.201「時知 小田」の項 により作成。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*8:『鎌倉遺文』第15巻11594号。本文は 坂井 法曄 (hoyo Sakai) - 研究ブログ - researchmap より引用。

*9:『鎌倉遺文』第19巻14599号。

*10:小田宗知 - Henkipedia【史料A】参照。

【論稿】鎌倉期常陸小田氏についての一考察

藤原道兼の玄孫(後掲『尊卑分脈』では実は源義朝の子とする)八田知家の子である八田知重(小田知重)を祖とする小田氏(おだし)は、常陸国筑波郡小田邑(現・茨城県つくば市小田)を本拠とした一族である*1源頼朝に従い、鎌倉時代御家人として、その後は安土時代に至るまで大名として続いた。

 

次の図に掲げるのは、複数伝わる小田氏の系図の一つで、江戸時代幕末期に成立の『系図纂要(以下『纂要』と略記)に所収の系図のうち、鎌倉時代の歴代当主の部分である。

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各人物には注記が施されているが、その傍注に記される情報は概ね、通称官途没年月日戒名といったものである。中でも没年月日は、その当時の年齢(=すなわち享年)の記載もあり、逆算すると生誕年も分かるので、各々の当主の年代(世代)を把握する上で重要かつ貴重な情報と言えよう。 但し、幕末期成立ゆえにその扱いには注意を要する。

ここで次に掲げる『尊卑分脈室町時代成立、以下『分脈』と略記)の小田氏系図と照らし合わせておこう*2。 

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こちらには没年月日等に関する記載が無いものの、鎌倉期の当主の内容は『纂要』とほぼ一致する。従って『纂要』の小田氏系図は『分脈』等それまでの系図をベースとし、没年月日等に関する情報を加えて再編集されたものと考えることが出来よう。

 

改めて『纂要』に従い鎌倉時代歴代当主の生没年をまとめると次の通りである。 

泰知:寛元3(1245)年5月13日卒去(享年35)→ 1211年生

時知:正応6(1293)年5月15日卒去(享年52)→1242年生

宗知:徳治元(1306)年12月6日卒去(享年48)→ 1259年生

貞宗建武2(1335)年閏10月23日卒去(享年48)→ 1288年生

高知(治久):文和元(1352)年12月11日卒去(享年70)→ 1283年生

 氏朝(孝朝):応永21(1414)年6月16日卒去(享年79)→ 1336年生

 

貞宗―治久父子については、子・治久の方が父より早く生まれたことになってしまっており検討を要するが、時知から貞宗にかけては各々、生没年の期間内で実際の一等史料での登場が確認できる。

吾妻鏡』建長4(1252)年12月16日条小田左衛門尉時知」(時知初見)

正安3(1300)年12月23日付「小田宗知判物案」(『常陸国総社宮文書』)*3:「宗知」の署名と花押の写し。

 文保2(1318)年5月4日付「小田貞宗請文」(『常陸国総社宮文書』):発給者「常陸貞宗」の署名*4

*翌3(1319)年の「常陸国総社造営役所地頭等請文目録」(『常陸国総社宮文書』)に「一通 筑波社三村郷地頭小田常陸前司□□〔請文」とある*5によって小田貞宗と解り、『分脈』の記載とも一致する。

 

以上の考察から、『纂要』小田氏系図に掲載される鎌倉時代歴代当主の生没年については、彼らのおおよその年代・世代を知る上では十分信用の置ける情報と判断できる。各人物の諱(実名)の1文字目は北条氏得宗からの偏諱であり*6、年代特定のもう一つの根拠となり得るが、生没年との整合性については各当主の項目で検証してみたいと思う。

 

(参考ページ)

 小田氏 - Wikipedia

 镰仓点将录(6)宇都宫·八田(小田) - 知乎

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:図は、黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』(吉川弘文館)P.368 より。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*3:茨城県史料 中世編一』P.392 一二号文書。『鎌倉遺文』第27巻20936号。

*4:茨城県史料 中世編一』P.394 二〇号文書。

*5:茨城県史料 中世編一』P.394 二一号文書。

*6:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

【コラム】織田信長の偏諱

上洛して足利義昭を15代将軍に推戴し、やがて対立した義昭を京から追放して権力者となった、尾張戦国大名織田信長。『信長公記』や『蜷川家文書』には「御父織田弾正忠殿」と宛てた義昭の感状の案文(写し)が掲載されており、水野智之は「御父」については要検討としつつも、公家衆に対する偏諱(一字付与)や猶子関係に関する室町足利将軍の権限を継承していたと説かれている*1。信長がそのような権力者の立場にあったことは認められるところであり、偏諱の授与については公家以外に対しても行っていたことが確認される。

以下、織田信長偏諱授与の対象者とみられる人物を紹介していきたいと思う。 

本能寺の変”がどんな場面になるのか、自分自身も楽しみ」染谷将太(織田信長)【「麒麟がくる」インタビュー】 | エンタメOVO(オーヴォ)

▲2020年度大河ドラマ麒麟がくる』での織田信長

 

史料類で確認できるもの

徳川(幼名: 竹千代、通称: 岡崎三郎)

永禄10(1567)年5月27日、信長の意向によりその娘(=徳姫、『大三河志』では徳子と表記)と結婚し*2、元亀元(1570)年8月26日に元服を遂げた際に舅・長からの「」と父・家の1字によって「」を名乗ったと伝えられる*3

*『松平記』と『当代記』では元服当時13歳とするが、永禄10年の婚姻時に9歳であるのと計算が合わない。『大日本史料』では「元亀元年」を同2年の誤りとするが、『家忠日記』や『浜松御在城記』でも「二」を「元」と誤記したとは考え難い。『浜松御在城記』で永禄2(1559)年誕生、元亀元年に「御十二 ニテ御元服」と記すことからして、むしろ「十三」が「十二」の誤記もしくは誤写・誤読ではないかと思われる。

 

長宗我部

『蠹簡集』『土佐物語』によると、長宗我部元親は、惟任日向守こと明智光秀を通じて、信長に息子・弥三郎に対する偏諱を申請しており、天正3年10月26日、長が自らこれに応じる形で「」の名を贈る旨の書状が残されている*4ほか、『長元記』・『土佐軍記』・『元親一代記』などにもその旨が記録されている*5。『土佐物語』では信長の烏帽子子になること(=信長に烏帽子親・加冠を務めてもらうこと)まで願い出たという*6。この当時弥三郎(信親)は数え11歳であった。

但し、この時はあくまで契約を交わしただけだったようであり、近年の研究においては、実際の一字拝領は天正6(1578)年であったと考えられている。その根拠として、藤田達生によると、2013年に発見された『石谷家文書』林原美術館所蔵)に所収の同年12月16日付「石谷頼辰長宗我部元親書状」の中で、信親が一字を与えられた際に信長は荒木村重を攻めていたと書かれており*7、また同年10月26日付の元親に与えた信長の朱印状から、信長が烏帽子親となり、元親の子に名前の一文字を与えて「信親」とすることを許したと説かれている*8

 

水野氏の紹介によると、他にも親交のあった一部の公家にも「信」字を与えていたことが確認される。

 

近衛(のち輔・尹)

永禄8(1565)年、近衛前久の嫡男として生まれる。幼名は明丸。天正5(1577)年閏7月12日、二条屋敷において織田信長の加冠により元服した*9際にその偏諱「信」を受けたとみられる(「基」は家祖の近衛基実・基通父子、鎌倉時代中期の基平・家基父子で用いられた前例がある)。のち天正10(1582)年に「信輔*10、次いで慶長2(1597)年6月に「信尹*11と改名した。

 

鷹司

近衛信基と同い年。二条昭実・義演の実弟二条晴良の子)にあたり、天正7(1579)年、織田信長の勧めで鷹司忠冬以後断絶していた鷹司家を継いで再興。11月21日には忠冬の跡を受けて正五位下に叙され、同日(『多聞院日記』では翌22日)元服したと伝えられており*12、同時に信長の偏諱「信」を賜ったと思われる(「房」は実の祖父・二条尹房に由来か。元々は藤原房前藤原良房といった先祖が用いたほか、鷹司家でも鷹司房平の例がある)

 

 

その他偏諱授与者とみられる者 

一等史料で確認できるものは以上であるが、それ以外に信長の偏諱を受けたと考えられる人物について検証を試みたい。

 

<江戸期の史料・系図に記載のある人物>

香川:初名は香川之景。当初は讃岐守護の細川京兆家や三好氏に従っており、「之」もいずれかから受けたものかもしれない。『南海通記』によると、信長が上洛して中央に政権を樹立すると、「西讃岐 香川肥前守元景」も信長に臣従し、「長公ヨリ御諱ノ一字ヲ被下(下され)香川景ト改名」したという*13。但し実際の史料から「元景」は之景の誤りで、その改名時期は天正4(1576)年とされている*14

 

奥平:『寛政重修諸家譜』に初名は定昌(さだまさ)であったが、後に「織田右府」の「諱の字」を受けたとの記述が見られる*15

 

金森:『寛政重修諸家譜』での注記に「初可近(ありちか)」、「……織田右府につかへ(=仕え)諱の字をあたへられ(=与えられ)長近と称し、……」と書かれている*16

 

*「右府」とは右大臣の唐名であり*17、「織田右府」は一時右大臣であった信長を指す呼称である*18

 

 

<信長の弟や親戚>

織田(有楽斎):天文16(1547)年生まれ。まだ幼い頃に父・信秀が亡くなり、跡を継いだ13歳年長の兄・信長が父親代わりであったことは想像に難くない。「信」は織田弾正忠家の通字であったため、「長」の字が与えられたのであろう。

 

織田(津田長利):兄・長益に同じく信長の偏諱「長」を受けたとみられる。

 

織田:織田藤左衛門家の当主。織田寛故の子。信張の代から「信」を代々使用するようになっており、織田弾正忠家から受けたものと考えられている。

 

<その他>

浅井:『東浅井郡志』の解説によれば、当初は臣従していた六角承禎の俗名「義」の1字を受け「(かたまさ)」と名乗っていたが、六角氏から離れた後は「」と改名し、その「」は織田信偏諱であろうとしている*19。同書によると、永禄4(1561)年卯月(4月)25日付の書状(『竹生島文書』)までは「備前守賢政」と署名していた*20ものが、同年6月20日付の書状(『垣見文書』)以降では「備前守長政」と署名しており*21、改名はこの間であったとみられる。野良田の戦いで六角氏相手に勝利した翌年となり、この頃同時に信長に接近しつつあったとみられる。後に信長の妹・お市の方を妻に迎えたが、やがて信長から離れて敵対し、自害に追い込まれた。

 

黒田:永禄11(1568)年、黒田孝高(官兵衛)の嫡男として生まれる。幼名は松寿丸。有岡城の戦い(1578年)を経て、天正9(1581)年頃に元服したとされる。本能寺の変の前年で信長は存命であり「長」の偏諱を賜ったとみられる。

*孝高の「高」に同じく、「政」の字は高祖父(孝高の曽祖父)にあたる黒田高政から取ったものであろう。長政の長男は2代将軍・徳川秀忠偏諱を受けて忠長と名乗り*22、次男の長興は当初、祖父・孝高と父・長政の各々1字で「孝政(よしまさ)」と名乗っていた。

浅井長政黒田長政の「長」については、石瀧豊美氏も信長の偏諱ではないかと説かれている*23

 

 斎藤斎藤道三(利政)の末子、すなわち信長の義弟とされる斎藤利治の別名として伝わる。 但し実際の史料である『竜福寺文書』や『宇津江文書』で確認できる諱は「利治」のみであり、「長龍」を名乗ったかどうかは定かになっていない。

 

 斎藤斎藤斎藤:道三・利治らの美濃斎藤氏に同じく藤原北家利仁流を称する越中斎藤氏・斎藤利基の息子たち。特に斎藤信利斎藤信吉については、上杉謙信の死後いち早く信長に誼を通じ、その働きが評価されて「信」の偏諱が下賜されたという(出典は『寛政重修諸家譜』か)

 

土橋朝倉義景の旧臣。初め朝倉景鏡。「景鏡」署名の書状も残されている*24が、天正元年8月の一乗谷城の戦いで従兄弟で主君の義景を自刃に追い込んで信長に降伏した後、「土橋」の苗字を与えられると同時に改名したとされる。3月20日付で「信鏡」と署名して発給した書状や、「信鏡」と書かれた4月14日付の信長の書状については、翌2(1574)年のものとされる*25。4月14日は景鏡(信鏡)が越前一向一揆の標的となって戦死した日である。

 

桂田朝倉義景の旧臣。初め前波吉継。

 

富田朝倉義景の若い旧臣であったが、吉継に続いて織田方に寝返った。

 

別所*26:永禄元(1558)年生まれとされ、天正3(1575)年10月に信長に謁見している。

 

細川:幼名は聡明丸。永禄元(1558)年2月3日、摂津芥川城において元服。加冠は配下の三好長慶が務めたが、この時から暫くは実名なしで「六郎」とのみ称したようである*27。元亀2(1571)年12月17日に将軍・足利義偏諱を与えられて「」と名乗る*28が、『前田氏所蔵文書』所収の「香川中務大輔(=信景)」宛ての書状4通のうち、3月3日付の2通では「*29、7月17日・11月9日付の書状では「*30と署名しており、これらは天正2(1574)年のものと考えられている*31。また昭元(信良)は信長やお市の方らの妹であるお犬の方と結婚し、その間に嫡男・元勝(頼範)が生まれている。

 

三好:のちの豊臣秀次天正11(1583)年3月2日、羽柴秀吉の弟・秀長、甥・秀次の軍勢が伊勢国峯城を攻めたことを伝える史料で、『北畠物語』では「秀吉の舎弟 羽柴美濃守秀長(羽柴)孫七郎秀次」と記す*32のに対し、『勢陽雑記』では「羽柴小一郎(=秀長)三好孫七郎……」、『遠藤家譜』慶隆の注記の中では「三好孫三郎〔ママ〕秀次」と記されており*33、更に『上坂文書』には翌12(1584)年のものとされる6月21日付「(=羽柴姓)孫七 信吉」の署名と花押を据えた書状が収録されている*34ことから、秀次が当初「三好孫七郎信吉」を名乗っていたと考えられている。

 

森成利(蘭丸、定?)(坊丸)(力丸)(千丸、のちの忠政)森可成の息子たち。いずれも信長の家臣・近習として仕えた。森氏は源義家の7男・義隆に始まる家柄で*35、長隆の「隆」(義隆・頼隆父子が使用、長定の「定」頼定・定氏父子が使用)、長氏の「氏」(定氏―頼氏―光氏―氏清の4代で使用)はいずれも祖先から取ったものとみられる*36

 

脚注

*1:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.185~186。

*2:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄10年5~6月 P.33~34

*3:『大日本史料』10-6 P.777778

*4:『土佐国蠹簡集』4 P.22。『東大史料』天正3年10月 P.202土佐物語. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*5:『東大史料』天正3年10月 P.206207209『大日本史料』11-2 P.378南海通記 : 史料叢書 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:『東大史料』天正3年10月 P.209土佐物語. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*7:藤田達生本能寺の変研究の新段階 ー『石谷家文書』の発見ー」(所収:藤田達生福島克彦 編『明智光秀』〈史料で読む戦国史③〉、八木書店古書出版部、2015年)。

*8:藤田達生本能寺の変』(講談社学術文庫、2019年)P.40。

*9:『史料稿本』正親町天皇紀・天正5年4~閏7月 P.144

*10:『大日本史料』11-3 P.113。「輔」は祖先・藤原師輔に由来か。

*11:『史料稿本』後陽成天皇紀・慶長2年6月 P.2。「尹」は師輔の長男・伊尹に由来か(近衛家は3男・兼家の後裔)。

*12:『史料稿本』正親町天皇紀・天正7年10~11月 P.36

*13:南海通記 : 史料叢書 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*14:1573年(天正 1) ~ (10K) – 香川県立図書館善通寺市デジタルミュージアム 香川信景 - 善通寺市ホームページ武家家伝_讃岐香川氏香川之景 - Wikipedia より。

*15:『大日本史料』12-17 P.919926

*16:『大日本史料』12-5 P.726

*17:右大臣 - Wikipedia右府とは - コトバンク より。

*18:織田信長 - Wikipedia #織田右府 より。

*19:東浅井郡志. 巻2 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*20:東浅井郡志. 巻2 - 国立国会図書館デジタルコレクション東浅井郡志. 巻4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*21:東浅井郡志. 巻4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*22:。のちに秀忠の子、家光の弟である徳川忠長との同名を避けて「忠政」→「忠之」(「之」については叔父である孝高の弟・直之の使用例があるが由来は不明)と改名している。

*23:石瀧豊美「まちの史跡めぐり149 来年のNHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』Ⅱ」(『Sue Towns Magazine』コラム、福岡県須恵町、2013年)より。

*24:『大日本史料』10-22 P.33

*25:『大日本史料』10-22 P.1718

*26:宮田逸民「あかし楽歴史講座 第6回 三木城と明石」(2018年)P.1。

*27:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄元年正~2月 P.59

*28:『大日本史料』10-7 P.178

*29:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄元年正~2月 P.64

*30:『史料稿本』正親町天皇紀・永禄元年正~2月 P.65

*31:香川 信景|戦国日本の津々浦々 より。

*32:『大日本史料』11-3 P.745

*33:『大日本史料』11-3 P.746

*34:『大日本史料』11-7 P.530

*35:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション森氏 - Wikipedia武家家伝_森 氏 参照。

*36:森氏の系譜については前注参照。頼継の子・可光の代から突如、通字が突然「可」に変わるなどやや不自然な点があることから仮冒ではないかとする説もあるが、少なくとも森可成一家が(実際の真偽に関わらず)源義隆を先祖と仰いでいたことはこの観点から認められよう。

【コラム】『麒麟がくる』明智光秀の偏諱

諸説ある明智光秀の出自について〜ほんとうに土岐氏の系譜なのか - うつつなき太守のブログ

2020年度NHK大河ドラマ麒麟がくる』の主人公、明智光秀偏諱」を受けたとみられる人物としては、明智秀満藤田秀行が挙げられよう。

 

明智満(左馬助)は光秀の叔父・光安の子とも言われ、別名として伝わる「光春」・「光遠」・「光俊」等を名乗っていた可能性もある。やがて光秀の娘婿となり、それを機に「秀満」に改名したのではないかと思われる。

藤田は、光秀の家臣・藤田行政(伝五)の嫡男。行政は明智光綱(光秀の父)の代から仕えていたとも言われ、その息子が光秀の代に元服を遂げてもおかしくないだろう。わざわざ上(1文字目)にしていることからしても、この「秀」は主君・光秀からの一字拝領と推測される。