足利家時
足利 家時(あしかが いえとき、1260年~1284年)は、鎌倉時代中期の武将、鎌倉幕府の御家人。 足利宗家第6代当主。
父は足利頼氏。母はその "家女房"(侍女)であった上杉重房の娘と伝わる*1。通称・官途は足利太郎、式部丞、式部大夫、伊予守。
生没年と烏帽子親について
家時の生没年については近年の研究において、「瀧山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年(=1284年)逝去、廿五才、」*2(年齢は数え年、以下同様)とあるのが確認され、今日ではこれが有力とされている*3。
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逆算すると文応元(1260)年生まれとなり、1240年生まれと判明した父・頼氏との年齢差を考慮しても十分妥当で、また頼氏が亡くなる1262年までに生まれたことになって辻褄が合う。
更に、初めて史料上で元服後の実名が確認できるのは、建治2(1276)年8月2日付「関東下知状案」(『紀伊金剛三昧院文書』)*4での「足利式部大夫家時」であり、この当時17歳となることにも何ら問題はない。
ところで紺戸淳氏は、足利氏歴代当主の各々生年から推定される元服の年次*5と、北条氏得宗家の各々当主の座にあった期間とを比較し、次の【図A】に示すように一字(偏諱)のやり取りがあったことを考証されている*6。
【図A】を見ると、歴代当主の中で家時が唯一「得宗からの偏諱+通字の氏」という名乗りの構成の例外となっており、それ故に「足利氏の政治的地位をいっそう低下させ、また北条氏との関係も円滑さを欠くようになった」と評価する論考もあった。しかし、家時の元服に至るまで、その慣例は「泰氏―頼氏」のたかが2代続いたのみ*8で、しかも頼氏(初名:利氏)は改名によって得宗(北条時頼)の偏諱を受けたのであり、貞氏―高氏がまだ生まれていないこの段階で「得宗の偏諱+氏」の名乗りでないことを低評価に繋げるべきではない。尚、早世した貞氏の最初の嫡男(高氏の兄)は「高義」と名乗っている。
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「家」は頼氏亡き後、幼少の家時に代わって家督を代行していたとされる伯父(頼氏の長兄)家氏*9の1字と思われるが、一方の「時」は北条氏の通字である*10。【図A】に示した通り、元服当時の得宗 および 執権は北条時宗である*11から、「時」の字を与えた烏帽子親は時宗以外に考えられないと思う。
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「時」字の配置についてはこちら▲を参照いただければと思うが、いずれにせよ北条氏から一字を拝領したことは認められ、得宗・北条時宗との関係も良好であったと思われる。その証左の一つとして、次の史料にもある家時の伊予守補任が挙げられる。
【史料B】『勘仲記』弘安5(1282)年11月25日条
(前略)
今夕被行小除目僧事、
権少外記中原師鑒、兼、 侍従藤原公尚、
少内記家弘、 伊勢守藤盛綱、
伊豫守源家時、 按察卿二男右近少将源親平、
清原泰尚、
(以下略)
前述の「瀧山寺縁起」温室番帳との照合からしても、この史料中の「伊予守源家時」は足利家時に比定される。前田治幸氏は、この家時の伊予守補任は時宗による対蒙古政策としての源氏将軍復活に連動した “源義経の再現” を意図したものであったと解されている*12。
家時の死について
冒頭で示したように、この2年後、4月4日には時宗が亡くなり、6月25日には家時もこの世を去った。『尊卑分脈』には「早世」とあるのみだが、25歳という若さでの死去を考慮して、死因は『続群書類従』所収「足利系図」に記載の「切腹(=自殺)」という見方が有力である。
その理由については『難太平記』にある所謂「置文伝説」のエピソードも知られるが、それ以外の研究として、本郷和人氏・熊谷隆之氏らが安達泰盛(翌1285年の霜月騒動で滅亡)の強力な与党で失脚した佐介時国が義理の外叔父であったため連座したとする説を唱える一方で、田中大喜氏らは元寇を受けて強まった「源氏将軍」を待望する空気の高揚の中で、家時自身に野心があるのではないかとの猜疑心を抑えるべく北条時宗に殉死することで得宗家への忠節を示し、これにより鎌倉幕府末期まで足利氏が得宗家に次ぐ家格・地位を保持したと説かれている。
時国が六波羅探題(南方)を罷免の上で関東へ召し下された日付については史料ごとに若干異なるが、20日~23日の間には絞られている。家時はこれより間もない25日に「切腹」したので、この時国捕縛の知らせが最終的なきっかけを与えた可能性は十分に考えられる。
但しそれは恐らく「連座」ではなかっただろう。確かに霜月騒動で吉良氏や斯波宗家といった一門が連座してはいるものの、それらの事件に関連して足利本家(息子の貞氏など)が罰せられた形跡は確認できない。恐らく家時に謀反の意志は無く、特に直接の関係も無い安達泰盛一派に肩入れするつもりも無ければ、時国事件にも全く関与していなかったが、「源氏将軍」として担ぎ上げられる危険性を感じたので、事実上の "時宗への殉死" という形を取ったのではないだろうか。
或いはここに「置文伝説」のエピソードを絡めても良さそうである。すなわち、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という先祖・源義家の置文が存在していたことで、7代孫にあたる家時に葛藤を生ませた可能性もある。当時の政治的情勢は家時にとってチャンスにもなり得たが、かつての祖父・泰氏の失脚事件のことも聞かされていたのだろうか、家時は得宗に叛逆しないことを選択したのであった。
義家の置文、「源氏将軍観」の高揚、時宗の死、安達泰盛派と平頼綱派の抗争、時国の逮捕……。こうした一連の流れが家時を精神的に追い詰めていったものと推測される。
ちなみに、家時が執事・高師氏に遺した書状が師氏の孫・師秋に引き継がれ、後に家時の孫・直義がそれを見て感激し、師秋には直義が直筆の案文(控え)を送って正文は自分の下に留め置いた、という直義の書状が残っており、「家時の置文」そのものの実在は確かである*13。
その原文は明らかにされていないが、直義が感激するような内容であったとすれば、やはり孫の代に託したという内容でもおかしくないだろう。直義は兄・尊氏と共に鎌倉幕府に代わって権力者となったが、その後にたまたま祖父・家時も同じことを願っていたことを知れば「感激」すると思う。
父の頼氏に続き、25年(満24年)という短い生涯ではあったが、激動の北条時宗執政期の中、家時は足利家の地位を確かに後の世代へ繋げたのであった。
(参考ページ)
脚注
*1:『尊卑分脈』のほか、「深谷上杉系図」には重房の女子(頼重の妹)の注記に「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母…」、「関東管領上椙両家及庶流伝」のそれにも「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母堂」(いずれも『諸家系図纂』所収)と書かれている。
*2:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)P.402、前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(同書P.189)。この記事に信憑性があることは、新行紀一「足利氏の三河額田郡支配―鎌倉時代を中心に―」(同書P.286)を参照。「伊与」は「伊予」の別表記である。
*3:『世界大百科事典 第2版』「足利家時」の項 より(コトバンク所収、執筆:青山幹哉)。
*4:『鎌倉遺文』第16巻12437号。
*5:鎌倉時代当時における一般的な元服の年齢を10~15歳と仮定。
*6:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.12。
*7:前注紺戸氏論文 P.12に掲載の図に修正を加えて作成。年(西暦)は、北条氏は各々得宗の座にあった期間(経時は省略)、足利氏は推定される元服の年次を示す。
*8:泰氏の父・義氏の「義」については、年代的には北条義時から偏諱を受けたという見方が出来るかもしれないが、元々源氏から続くそれまでの通字とみるのが妥当と思われるので、この字は義時とは特に関係は無いと判断したい。
*9:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:注2前掲田中氏著書)P.166-167。
*10:小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」(所収:注2前掲田中氏著書)P.131。
*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*12:注2前掲前田氏論文(所収:注2前掲田中氏著書)P.203)。
*13:佐藤進一『日本歴史9 南北朝の動乱〈改版〉』(中央公論社〈中公文庫〉、2005年)P.129~132。注10前掲小谷氏論文、阪田雄一「高氏・上杉氏の確執をめぐって」(注2前掲田中氏著書P.124・313)。
安達時盛
安達 時盛(あだち ときもり、1241年~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。
『関東評定衆伝』建治2(1275)年条にある「城左衛門尉藤原時盛法師(秋田城介義景男)」のプロフィール*2によると、弘安8(1285)年6月10日、高野山にて45歳で亡くなったことが分かり(後掲【系図B】にも同様の記載あり)、逆算すると仁治2(1241)年生まれとなる*3。これに基づき、紺戸淳氏の論考*4に従って元服の年次を推定するとおおよそ1250~1255年となり、鈴木宏美氏のご推測通り、時盛の「時」は当時の執権・北条時頼(在職:1246年~1256年)を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものであろう*5。
『吾妻鏡』での初見は、建長2(1250)年正月1日条「城九郎泰盛 同四郎時盛」であり*6、前年(1249年)に9歳で元服を遂げたものと推測される*7。
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通称名は各々、(当時の)秋田城介=安達義景の「九郎(9男 ※ここでは安達氏嫡男代々の仮名で、実際には3男)」「四郎(4男)」の意であり、この頃はまだ泰盛・時盛ともに無官であった。そして、建長8(1256=康元元)年8月23日までこの通称名であったものが、正嘉元(1257)年6月23日条からは「城四郎左衛門尉時盛」となっており*8、この間16~17歳で左衛門尉任官を果たしたことが窺えよう。
『吾妻鏡』での終見は、弘長3(1263)年11月22日条。前執権で烏帽子親の時頼(法名:道崇)が亡くなった悲しみのあまり、時盛も剃髪(出家)した。前述の『関東評定衆伝』同箇所によると「爐忍」のち「道供」(下記【系図B】では「道洪」。単純にいずれかが漢字の偏の誤記であろう)と号したという。下記【系図B】では建治2(1276)年の出家とするが、『関東評定衆伝』同箇所により、これは寿福寺に入って隠棲・遁世したことを言っているものであることが分かる。【系図C】(『系図纂要』)では「道供」への改名はこの時と解釈されている。
▲【系図B】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋
『関東評定衆伝』 によると、建治2年の遁世の際に所領は悉(ことごと)く没収され、兄・泰盛や妹・潮音院殿(覚山尼、相模守北条時宗室)らからも「義絶」されたという。これについて福島金治氏は北条時宗執権期において泰盛の立場を強化するにあたり排除されたと解釈されている*9。泰盛に同じく得宗を烏帽子親にしていた時盛は元々準嫡子だったと思われ、泰盛ひいてはその嫡男・宗景を脅かし得る存在だったのかもしれない。
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一方、上記各系図に掲載の通り、時盛には時長という息子がいたが、弘安8(1285)年の霜月騒動で一族と運命を共にしており、若年であった故か、父・時盛には連座しなかったようである。北条時宗から1字を受けたと思われ、伯父・泰盛の庇護下に置かれたのであろう。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№84-安達時盛 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)
脚注
*1:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。
*2:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№84-安達時盛 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)。福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府 ―霜月騒動とその周辺』〈有隣新書63〉(有隣堂、2006年)P.67。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。
*5:鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.333。
*6:注3前掲福島氏著書 同箇所。御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.198「時盛 安達」の項。
*7:この頃は佐々木(六角)頼綱や武田時綱(いずれも北条時頼の烏帽子子)などのように9歳という若さでの元服は珍しくなかった。
*8:注6同箇所。
*9:注3前掲福島氏著書 P.68。
大友頼泰
大友 頼泰(おおとも よりやす、1222年~1300年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。大友氏第3代当主。初名は大友泰直。法名は道忍(どうにん)。官途は式部大夫、丹後守、出羽守、兵庫頭。
父は大友親秀、母は三浦氏一門・佐原家連の娘。子に大友泰能、大友親時、女子(北条宗頼室、宗方母)。大友貞親・大友貞宗の祖父にあたる*1。
詳しい事績については
等をご参照いただければと思う。
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こちら▲の記事でも紹介の通り、「頼泰」の名は第5代執権・北条時頼から偏諱を受けて改名したものであることが、次の【系図1】に明記されている(「北條時賴賜一字」)。
●【系図1】『続群書類従』所収「大友系図」より抜粋
以下本項では、花押カードデータベース【検索画面】ー 東京大学史料編纂所 などでの検索結果に基づき、大友頼泰に関連する書状類を幾つかピックアップし、その官途や実名の変化を追うと共に、【系図1】の記載について考証してみたいと思う。
●【史料2-a】仁治3(1242)年2月13日付「六波羅御教書案」(『鷹尾家文書』)*2、「六波羅御教書写」(『鷹尾家文書』)*3:「大友式部大夫殿」
●【史料2-b】仁治3年2月18日付「関東下知状案」(『大友文書』)*4:「大友式部大夫泰直」
【系図1】などの系図類によると、初名は「泰直」であったという。いずれも同年6月に3代執権・北条泰時が亡くなる数ヶ月前の書状であり、【2-b】は泰時自ら発給したものである。すなわち「泰直」は泰時が存命のこの時までにその偏諱「泰」を許されていることが分かる。これは言うまでもなく烏帽子親子関係であろう。すなわち、大友泰直は北条泰時の加冠により元服し、その一字を拝領したと判断できる。
尚「式部大夫」という官途から、既に叙爵済みであったことが分かる*5ので、この時20歳程度にまで達していたことが推測できる。1222年生まれが正しいことの裏付けになるだろう(この場合、仁治3年当時は数え21歳)。元服は恐らく1230年代前半であったと推定される。
また、「直」の字は祖父・大友能直に由来するとは思われるが、【系図1】で「初号泰忠」と誤記(同系図で「初泰直」とも書かれているため)されているように、音の共通から「やすただ」と読むのが正しいのであろうか。「直ちに」等での読み方に同じで、人名では足利直義(ただよし)などの例がある。能直についても「よしなお」と読まれるのが通説となっているが、管見の限り特にそう読む根拠(史料)は見当たらないので、こちらも「よしただ」が正しい可能性がある。
●【史料3】『吾妻鏡』寛元2(1244)年12月20日条:「大友式部大夫頼泰」
この当時の名乗りとして「頼泰」が誤りであることは後述参照。
★寛元4(1246)年 経時逝去。弟・北条時頼が5代執権に就任。
●【史料4】『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条:「大友豊前々司跡」
「大友豊前前司」とは豊前守であった亡き祖父・能直のことで、「跡」とは本来その人物が持っていた旧領などの財産・地位・業績などを意味し、通常はその相続人を指す。
寛元2(1244)年と建長3(1251)年の閑院内裏造営(再建)に際し修理の費用を担ったことが書かれているが、寛元2年7月26日*6、宝治3(1249)年の焼亡に伴う建長3年6月27日*7の「閑院遷幸」に向けた事業を指しているものであろう。『百錬抄』では、この「閑院」に「関東よりこれを造進す」と注記されているので、関東の御家人たちがその造営(修理)に際しての雑掌(=請負人)を担ったことが窺えるが、幕府が閑院造営の雑掌を奏することを記した『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条には、陳座および東屋の建設の請負人を「大友豊前々司跡」 が担当していることが確認できる。大友親秀(法師寂秀)は宝治2(1248)年に既に亡くなっていた*8ので、その跡を継いだ泰直(頼泰)を指すと考えて良いと思われる。
●【史料5-a】建長4(1252)年4月3日条:「大友式部大夫頼泰」
●【史料5-b】建長4年12月26日付「関東下知状案」(『豊後詫磨文書』)*9:「大友式部大夫泰直」
この頃の諱は、一応は実際の書状(一等史料)である【5-b】の方を採用すべきであろう。但し『吾妻鏡』では名前の変化に注意して記述されている人物も多いため、この頃「泰直」から「頼泰」への改名を行った可能性も考えられる。
●【史料6】建長6(1254)年6月5日付「幸秀・頼秀連署契約状」(『肥後志賀文書』)*10:「守護所 自丹後前司殿」
▲建長7(1255)年5月20日付「大友頼泰安堵状」(『肥後志賀文書』)*11での花押
●【史料7】建長8(1256)年8月11日 「関東下知状案」(『筑後大友文書』)*12:「守護人頼泰」
*「頼泰」と現れていることから、時頼の執権辞任以前に「頼」の字を賜ったことが確実となる。
★建長8(=康元元)年11月22日、時頼が執権職を辞して出家。
★弘長3(1263)年11月22日、時頼(道崇)逝去。
●【史料8】文永2(1265)年12月26日付「関東御教書案」(書陵部所蔵『八幡宮関係文書』29)*13:文中に「大友式部大夫頼泰」
●【史料9】(文永3(1266)年カ)12月25日付「清原国重書状」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』22)*15:「……宰府小弐入道殿 并 豊後大友出羽殿 此両人の為沙汰……」
★この間、出羽守を辞したか。
●【史料10】(文永4(1267)年カ)正月17日付「大友頼泰書状」(『大隅日向薩摩八幡宮造営一件文書』):「前出羽守頼泰」の署名と花押
●【史料11】(文永4(1267)年3月24日)「某書状」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』29)*16:「……府小弐入道殿 并 豊後国守護大友出羽殿、此両人為沙汰、……」
※【史料9】と同文であり、同一重複の可能性がある。
●【史料12】文永7(1270)年3月25日付「関東御教書案」(『大友文書録』)*17:宛名に「大友出羽前司殿」
●【史料13】文永7年5月6日付「関東御教書」(『諸家文書纂』10 所収『野上文書』)*18:宛名に「大友出羽前司との(殿)へ」
●【史料14】文永7年6月14日付「大友頼泰書下」(『諸家文書纂』10 所収『野上文書』)*19:発給者「前出羽守」の署名と花押
●【史料15】文永8(1271)年2月10日付「関東下知状案」(『豊後詫摩文書』)*20:文中に「大友出羽前司頼泰」
●【史料16】(文永9(1272)年カ)2月朔日付「豊後守譲大友頼泰書下」(『野上文書』):発給者「頼泰」の署名と花押
●【史料17】文永10(1273)年10月6日付「大友頼泰注進案」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』33)*21:「前出羽守平頼泰」の署名と花押
*この他にも、文永10年には「大友出羽前司」、「前出羽守頼泰」等と書かれた書状が多数残されている。
●【史料18】文永11(1274)年7月1日付「大友頼泰請文」(『日向田部文書』)*22:発給者「前出羽□□」の署名
●【史料19】文永11年11月1日付「関東御教書案」(『大友文書』)*24:宛名に「大友兵庫頭入道殿」
●【史料20】建治元(1275)年7月17日付「関東御教書案」(『大友文書』)*25:宛名に「大友兵庫入道殿」
●【史料21】建治3(1277)年9月11日付「関東下知状案」(『筑前宗像辰美氏所蔵文書』)*26:文中に「大友出羽前司頼泰」
*過去を遡る形で、その当時の通称名で書かれたものと思われる。
●【史料22】弘安3(1280)年12月8日付「関東御教書」(『立花大友文書』)*27:宛名に「大友兵庫頭入道殿」
●【史料23】弘安7(1284)年6月19日付「豊後守護大友頼泰召文」(『野上文書』):発給者「沙弥」の署名と花押
*花押の一致から頼泰のものと判断できる。「沙弥」とは、剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者を表す呼称である*28。
●【史料24】(弘安7年カ?) 9月10日付「北条尚時書状」(『新編追加』)*29:
(前略)
条々。急速為有御沙汰。以前九州所領相分三方也。於博多可尋沙汰。頼泰法師行宗肥前 筑前 薩摩。盛宗教経豊後 豊前 日向。経資法師政行肥後 筑後 大隅。各守此旨可奉行。……(以下略)
九月十日 尚時 判
明石民部大夫(=行宗)殿
●【史料25】弘安7年11月25日付「関東御教書案」(『新編追加』)*30:鎮西神領返付の相奉行(合奉行)の一人として「大友兵庫頭頼泰法師」。
(前略)
条々 弘安七。六。廿五。
一.鎮西為宗神領事
甲乙人等。称沽却質券之地。猥管領之由有其聞。尋明子細。如旧為被返付。所差遣 明石民部大夫行宗。長田左衛門尉教経。兵庫助三郎政行 也。大友兵庫頭頼泰法師。越前守盛宗。大宰少弐経資法師。可為合奉行。……
(以下略)
大友兵庫入道殿
●【史料26】弘安8(1285)年7月3日付「関東御教書」(『筑前宗像辰美氏所蔵文書』)*31:文中に「大友兵庫頭頼泰法師 法名道忍」
●【史料27】永仁3(1295)年5月1日付「関東下知状」(『祢寝文書』)*32:文中に「大宰少弐経資法師 法名妙恵〔ママ、浄恵カ〕・大友兵庫〔ママ〕頼泰法師 法名道忍」
●【史料28】正安元(1299)年6月11日付「豊後守護大友頼泰書下」(『志賀文書』):発給者の花押
この花押は少々角ばってはいるが、筆跡を辿ればこれまでの花押に同じであり、これも頼泰の花押と見なせる。すなわちこの当時78歳で頼泰が存命であったことが窺える。
以降頼泰発給の史料は確認できず、【系図1】の記載通りこの翌年に亡くなったと考えて良かろう。 鎌倉時代後期に成立の野津本「大友系図」においても「正安二年九〔月 脱字か〕十七日死 他界同十八日」の注記が見られる*33。
備考
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こちら▲の記事でも紹介の通り、北条宗方は頼泰の外孫(宗方の母=宗頼の妻が頼泰の娘)にあたり、その生年は弘安元(1278)年であったという。頼泰がその祖父であれば、各親子の年齢差を考慮しておよそ1238年より前の生まれでなくてはおかしい。この点から言っても、頼泰は時頼執権期間に生まれた世代ではないことが裏付けられ、時頼からの「頼」字拝領は元服時ではなく、改名の際になされたものと判断できる。
尚、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌法要について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)には、「銀剱一 馬一疋 置鞍、鹿毛、」を進上する人物として「薬醫 兵庫頭入道道忍」の名が見られる*34。同じ官途と法名を持つが、ここでの「薬醫(やくい・「醫」は「医」の旧字体)」とは典薬(典薬寮)の唐名とみられ*35、恐らくは父親の官途と思われるが、頼泰の父・親秀は大炊助(大炊寮での次官)であった*36ため、頼泰とは別人と判断して良いだろう。仮にこの頃存命であった場合100歳を超えていたことになり、当時としてあまり現実的であるとは思えない。
(参考ページ)
脚注
*1:大友貞親 - Henkipedia【史料8】および 大友貞宗 - Henkipedia【史料2】より。
*2:『鎌倉遺文』第8巻5981号。
*3:『鎌倉遺文』第8巻5983号。
*4:『鎌倉遺文』第8巻5984号。
*5:式部大夫とは、式部丞(大丞:正六位下、少丞:従六位上 相当)で五位に叙せられた者の呼称(→ 式部の大夫(シキブノタイフ)とは - コトバンク を参照)。
*6:『平戸記』7月26日条・『百錬抄』同日条、『吾妻鏡』8月8日条・『平戸記』8月25日条。
*7:『吾妻鏡』6月21日条・『百錬抄』6月27日条、『吾妻鏡』7月4日条。「大日本史料 第五編之三十五」(『東京大学史料編纂所報』第49号、2013年、P.34~35)も参照のこと。
*9:『鎌倉遺文』第10巻7507号。
*10:『鎌倉遺文』第11巻7768号。
*11:『鎌倉遺文』第11巻7871号。
*12:『鎌倉遺文』第11巻8020号。
*13:『鎌倉遺文』第13巻9474号。
*14:官位相当表(抄)、http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse010.html より。
*15:『鎌倉遺文』第13巻9624号。
*16:『鎌倉遺文』第13巻9678号。
*17:『鎌倉遺文』第14巻10609号。
*18:『鎌倉遺文』第14巻10623号。『諸家文書纂』10 P.13・P.27~28。
*19:『鎌倉遺文』第14巻10639号。『諸家文書纂』10 P.14。
*20:『鎌倉遺文』第14巻10777号。
*21:『鎌倉遺文』第15巻11428号。
*22:『鎌倉遺文』第15巻11682号。
*23:兵庫の頭とは - コトバンク より。
*24:『鎌倉遺文』第15巻11742号。
*25:『鎌倉遺文』第16巻11962号。
*26:『鎌倉遺文』第17巻12854号。
*27:『鎌倉遺文』第19巻14207号。
*28:沙弥(しゃみ)とは - コトバンク 参照。
*29:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15302号。『豊津町史 上巻』第四編 中世 P.607(または PDF)。
*30:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15218号・15363号。
*31:『鎌倉遺文』第20巻15617号。
*32:『鎌倉遺文』第24巻18821号。
*33:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館 研究報告』5、1985年)P.46。「他界」については死去と同義で使われることもあるが、本来は「人が死亡した時、その魂が行くとされる場所」の意であり(→ 他界 - Wikipedia)、ここでは死の翌日に葬儀等が行われて死後の世界へ昇天したことを言いたいのかもしれない。
*34:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.706。
*35:薬医とは - コトバンク より。
*36:『吾妻鏡』宝治2(1248)年10月24日条(親秀逝去の記事)および 大友貞親 - Henkipedia にある『尊卑分脈』系図 より。
土岐高頼
土岐 高頼(とき たかより、1290年代?~没年不詳)は、鎌倉時代末期の武将、僧。
『尊卑分脈』所収土岐系図(以下『分脈』と略記)や、「土岐家伝大系図」(東大謄写、岐阜県稲葉郡加村・徳山ひさ 氏原蔵)に、土岐頼貞の次男として記載されている。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちら▲の記事で紹介の通り、頼貞については文永8(1271)年生まれとされ、『分脈』にはその嫡孫・頼康の傍注に嘉慶元(1387)年12月25日(西暦:1388年2月3日)瑞岩寺に於いて70歳で卒去した旨の記載があって、逆算すると文保2(1318)年生まれと判明している。
従って、頼貞の6男で、頼康の父にあたる頼清の生年は明らかになっていないが、1291~1298年あたり(各親子の年齢差を20以上とした場合)とするのが妥当であろう。僅かに「明智氏一族宮城家相伝系図書」での頼宗(頼清)の注記に「正応四(1291)年辛卯十一月八日生」とあり、兄の高頼らも同様に1290年前後の生まれであったと考えられよう(腹違いや双子等ということも考えられる)*1。
【図1】
ここで、土岐氏歴代当主の実名に着目すると、頼貞の代から先祖(源頼光・源頼国父子)由来の「頼」の通字を "復活" させ、以降「頼○」型の名乗りを原則としていたことが窺えるが、一時期足利将軍(義持、義成[のち義政])の偏諱を受けた場合には成頼のように「○頼」型となることもあった*2。
次に頼貞の男子の名乗りに着目してみたい。僧籍に入った道謙・周崔を除くほとんどの者が「頼○」型である中、高頼だけがその例外である。すなわち「高」を1文字目に据えたのには何かしらの理由があったと判断して然るべきであるが、やはり烏帽子親からの偏諱と考える他にない。候補となり得るのは得宗・北条高時であろう。
前述の生誕時期に基づけば、高時が得宗家家督を継いだ応長元(1311)年に、高頼はちょうど10代前半と元服の適齢を迎える。上記記事で言及の通り父・頼貞も北条貞時(高時の父)の1字を拝領したと考えられるので、その慣例に倣ったのであろう。
そして、そのような扱いであったことからすると、恐らく高頼は頼貞の当初の嫡男に指名されていたのではないか(頼直は頼貞の庶長子か*4)。しかし『分脈』にあるように高頼は「遁世」してしまったため、家督継承者の座は頼清(父に先立って死去のため次いで頼遠)に移ることとなった。
尚、『分脈』(【図2】)高頼の傍注での「僧・妙光 是(これ)也(なり)」(妙光はこの高頼である)という記載から、成立した室町時代当時 "妙光" なる僧はかなり知られていた人物だったかもしれないが、その記録は今のところ特に確認されていない。
僅かに『越中宝鑑』などによると、専福寺の前身は美濃国麻生谷城主であった土岐高頼が越中国婦負郡二屋村(現・富山市八尾町)に開いた天台宗の草庵で、正慶元(1332)年、本願寺三世覚如に帰依して、自らの名を慶順、寺号を専福寺と改め、浄土真宗に改宗したという。他史料での裏付けが難しく、「慶順」と「妙光」の違いがあるなど、この伝承が正しいかどうかは判断し難いが、高頼が鎌倉幕府滅亡の直前に "遁世" していた可能性を示す参考資料にはなるだろう。
冒頭で掲げた2つの系図以外に高頼の名は確認できず、今後の課題としてはその実在を確かめる必要があることと、南北朝時代の妙光なる僧についての情報が求められると思う。これについては後考を俟ちたい。
(参考ページ)
● 土岐家伝大系図 土岐高頼が載っていました! - 九里 【九里】を探して三千里
● 北谷山 専福寺
脚注
*1:『分脈』に従えば、頼直・道謙・周崔が同母兄弟であったという。
*2:他の例としては康行の孫・持頼が挙げられる。また「頼」字でなくても、持益・政房も同じく偏諱を1文字目に置いており、早世した持益の嫡男・持兼も同様であった。後には政房の弟たちや3男・治頼など「○頼」型の人物も出てくるが、系図を見る限り当初は偏諱を受けるなどのよほどの理由が無い限り「頼○」型を原則としていたと判断される。これは頼光・頼国と同じ構成を重視したものなのではないか。
*3:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上)(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』39巻、2012年)P.36 より。
*4:頼直が道謙・周崔と同母兄弟であることは注1で言及の通りだが、その母親の詳細については明かされていない。しかし、道謙・周崔が僧籍に入っていることからするとあまり身分の高い女性でなかった可能性が高く、頼直もその理由から家督継承者とならなかったと考えられる。
土岐頼貞
土岐 頼貞(とき よりさだ、1271年~1339年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人、守護大名、歌人。父は土岐光定。母は北条経時の娘か(後述参照)。室町幕府の初代美濃守護。主な通称 および 官途は、隠岐孫二郎、伯耆守、伯耆入道。法名は存孝(ぞんこう)。
生年と烏帽子親について
『尊卑分脈』土岐氏系図(以下『分脈』と略記)・『開善寺過去帳』・『常楽記』・『土岐累代記』などによると、頼貞(存孝)は暦応2(1339)年2月23日に亡くなったとされ*1、『村庵小稿』*2「土岐伯州源頼貞公画像賛并序」でも同月21日に発病し、22日の「明日(=23日)」に逝去とするが、その享年を「年六十九歳」(数え年、以下同様)とする*3。逆算すると文永8(1271)年生まれとなり、下記参考ページなどでもこれが採用されている。
ちなみに『分脈』には、孫・頼康の傍注に嘉慶元(1387)年12月25日(西暦:1388年2月3日)瑞岩寺に於いて70歳で卒去した旨の記載があり、逆算すると文保2(1318)年生まれとなる。祖父―孫の年齢差を考慮しても、頼貞の生年は遅くとも1270年代とすべきであろうから、文永8年生まれというのは十分妥当であると言えよう。
この生年を信ずれば、北条貞時が9代執権に就任した弘安7(1284)年4月*4当時、14歳と元服の適齢を迎える。頼貞の「貞」は執権に就任して間もない貞時が烏帽子親となって偏諱を与えたものと考えて良いだろう。実際は誤りと思われるが『分脈』で母が北条貞時の娘と書かれていることが、却ってその近い関係性を暗示していると言えよう。
尚、別説として「明智氏一族宮城家相伝系図書」(以下「宮城系図」とする)では享年を76と記載し、逆算すると1264年生まれとなるが、この偏諱の観点からすると採用し難い。或いは「67歳」等の誤記とも考えられよう。
尚、光国以降の当主は代々、祖先・源頼光の「光」を通字としていたが、頼貞の場合は頼光・頼国父子間で継承された「頼」を "復活" させている*5。このような事例は、特に鎌倉時代後期において他家でも多く見られた現象である。以後、頼貞の系統(美濃土岐氏)は足利将軍の偏諱を受けた者を除き「頼」を通字としている。
▲本稿投稿当時のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する、土岐氏当主の土岐頼芸(よりのり)、土岐源氏出身とされる主人公・明智光秀
母親について
『分脈』では頼貞の母親について「母平貞時女 定親同母」との注記があり、北条貞時の娘と解釈されているが、貞時は頼貞と同い年*6であるため、「貞時―頼貞」を「外祖父―孫」とするには年代が明らかに合わず、北条時定(経時・時頼の弟)の誤記*7などと考えられている。
池田町宮地の河野氏から分家した大野町瀬古、古川村の「河野氏系図」には、光定の妻が北条経時三女とあるらしい。一般の個人系図であるため、一応情報の扱いには注意を要するが、「宮城系図」でも同様に「母北條武蔵守平経時女 或又北條相模守平貞時女共云々」と記載されているから、特に他の説が見当たらないことからしても、一定の信憑性は置けるのではないか。ちなみに、この河野氏は鎌倉から嫁いだ北条氏の娘にお供して美濃に移り、その後土岐氏より土地を与えられて帰農したと伝えられる。
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経時は1224年生まれであり*8、 頼貞がその孫として1271年に生まれたとしても、祖父―外孫の年齢差として十分相応である。よって『分脈』での記載は「母平経時女」とすべきところを「貞時」と誤記または誤写してしまったものと推測される*9。
史料における頼貞
詳しくは後述するが、頼貞が実際の史料上に現れるのは数え54歳の時であり、それまでの活動は不詳である。但し、その間に次の史料が確認できる。
●【史料1】『鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条*10より
今年嘉元三……四月……廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明、預三浦介入道、使工藤右衛門入道、茂明逐電了、工藤中務丞有清、預遠江入道(=名越時基?)、使諏方三郎左衛門尉、豊後五郎左衛門尉光家、預陸奥守、使大蔵五郎兵衛入道、海老名左衛門次郎秀綱、預足利讃岐入道、使武田七郎五郎、白井小次郎胤資、預尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、五大院九郎高頼、預宇都宮下野守、使広沢弾正忠、赤土左衛門四郎長忠、預相模守、使佐野左衛門入道、井原四郎左衛門尉盛明、預掃部頭入道、使粟飯原左衛門尉、比留新左衛門尉宗広、預陸奥守、使武田三郎、甘糟左衛門太郎忠貞、預兵部大輔、使工藤左近将監、岩田四郎左衛門尉宗家、預相模守、使南条中務丞、土岐孫太郎入道鏡円、預武蔵守、使伊具入道、同月四日、駿河守宗方被誅、討手陸奥守宗宣、下野守貞綱、既欲攻寄之処、宗方聞殿中師時館、禅閤(=北条貞時入道崇演)同宿、騒擾、自宿所被参之間、隠岐入道阿清為宗方被討訖、宗方被管〔被官〕於処々被誅了、於御方討死人々、備前掃部助貞宗、信濃四郎左衛門尉、下条右衛門次郎等也、被疵者八人云々、同十四日、禅閤并相州師時移武蔵守久時亭、今日禅〔評〕定始、七月十六日、金寿御前逝去訖、
この史料の伝えるところだと、嘉元3(1305)年4月23日、連署・北条時村が誤って殺害される事件が起こり、翌月にはその討手12名が斬首(但し和田茂明は逐電して生き延びた)となったが、その中に「土岐孫太郎入道鏡円」が含まれている。
この人物は『分脈』において「隠岐孫太郎」・「出家鏡圓(=鏡円)」・「左京大夫時村合戦懸前被討」等と注記される土岐定親(さだちか)に比定される。頼貞の同母兄でありながら、蜂屋頼俊(山県頼経の子で蜂屋氏祖)*11の子・頼親の養子となって*12跡目からは外れていたようである。
いわゆるこの嘉元の乱における頼貞の詳細な動向は確認されていないが、特に兄・定親(鏡円)に連座した様子が見られないことから、貞時との繋がりもあってか得宗側について生き残ったのであろう。一方、乱の首謀者とされる北条宗方も頼貞の義兄弟(妻の兄または弟)にあたるが、定親が反時村方(事実上の宗方サイド)についたのもその婚姻関係を通じての交流があったためかもしれない。
●【史料2】(元亨4(1324=正中元)年)9月26日付「結城宗広書状」(『越前藤島神社文書』):「……土岐伯耆前司宿所 唐笠辻子……」*13
『鎌倉遺文』第40巻31512号にある宗広書状(『伊勢藤島神社文書』所収とする)も全く同文であり、恐らくはこの【史料2】と同一物であろう。そして、署名が法名の「道忠」ではなく「宗広」となっていることから出家して「白河上野入道」と称したことが史料で確認できる嘉暦4(1329)年*14より前のものであることも分かる。
この史料は、後醍醐天皇による最初の倒幕計画=正中の変(1324年)の知らせを受けた宗広が、上野七郎兵衛尉(=長男・親朝か*15)に書き送ったものとされる。この書状の中では、情報が鎌倉に届いた直後の9月23日に、土岐伯耆前司の鎌倉・唐笠辻子の屋敷にも幕府の兵が押し寄せて家臣たちを捕縛したと書かれている*16。
この時討たれた多治見国長について『花園院宸記』9月19日条に「田地味丶丶国長 伯耆前司頼員〔ママ〕外戚之親族云々」とあること*17に加え、『分脈』等の系図類や、後掲【史料9】とも照合すれば「土岐伯耆前司」(伯耆前司は「前伯耆守」の意)は伯耆守であった頼貞に比定されよう。前述の生年を採れば、この当時54歳となるが、伯耆守を辞した後の年齢としても十分相応と言える。
最終的に頼貞個人が咎められた形跡は無いため、事件とは無関係だったと思われるが、一族*18が天皇への加担者として幕府軍に討たれたため、惣領である頼貞にも嫌疑がかけられたものとみられる。
●【史料3】元徳3(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』):
この史料は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*19。
これは後醍醐天皇による2度目の倒幕運動=元弘の変に際し、幕府が京へ差し向けた軍勢の名簿であり、その中に「土岐伯耆入道」も含まれている。これも【史料2】の後に「土岐伯耆前司」が出家した同人、すなわち頼貞(存孝)に比定されよう*20。
以下、同じ通称名を持った人物が度々史料上に現れるが、同じく頼貞(存孝)に比定される。1333年の鎌倉幕府滅亡に殉ずることなく、足利尊氏に従い生き残ったことが窺えよう。
●【史料4】正慶元(1332)年6月日付「山城臨川寺領目録」(『山城天龍寺文書』):「……地頭土岐伯耆入道并一族云々……」*21
●【史料5】建武元(1334)年12月23日付「源家満軍忠状」(『熊谷家文書』)*22:「美濃国鵜飼庄一方地頭太郎三郎家満申、依謀叛人蜂起事、去十八日、土岐伯耆入道代官神戸五郎入道共令内談、……(中略)……同日戊時、土岐伯耆八郎(=頼仲か)相共渡阿志賀河之先陣」
●【史料6】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文(『国立国会図書館所蔵文書』)*23
(中略)
十九日、辻堂・片瀬原合戦
御方打死人敷
三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
土岐隠岐五郎(=貞頼) 土岐伯耆入道孫兵庫頭(=頼古?)、同舎弟(=頼孝?)
昧原三郎
手負人
佐々木備中前司父子 大高伊予権守
味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
降人於清見関参之、
千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
海上筑後前司 天野参川権守
伊東六郎左衛門尉(=祐持?) 丸六郎
奥五郎
諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠)
*隠岐五郎については、『分脈』で光定長男・国時の孫にあたる貞頼に「隠岐五郎」と注記があり*24、これに従っておく。
*兵庫頭兄弟の人物比定については佐々木紀一氏の説*25に従う。『分脈』等では "十郎太郎"頼古(よりふる?)と "十郎次郎" 頼孝を親子とする*26が、佐々木氏が説かれる通り、伯耆十郎(=伯耆守頼貞の「十郎(=10男)」頼兼)の「太郎(=長男)」、「次郎(=次男)」と見なすのが妥当であろう。
●【史料7】(建武3(1336)年*27)『太平記』巻17「隆資卿自八幡被寄事」より
……城中是に躁れて、声々にひしめき合けれ共、将軍(=尊氏)は些共不驚給、鎮守の御宝前に看経しておはしける。其前に問注所の信濃入道々大と土岐伯耆入道存孝と二人倶して候けるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候悪源太(=頼直?)を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追払はせ候はんずる者を。」と申ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打見て、「いかに上の手の軍は未始まらぬか。」「いやそれは未存知仕候はず。三条河原まで罷向て候つるが、東寺の坤に当て、烟の見へ候間、取て返して馳参じて候。御方の御合戦は何と候やらん。」と申ければ、武蔵守(=高師直)、「只今作道の軍に打負て引退くといへ共、是御陣の兵多からねば、入替事叶はず、已に坤の角の出屏を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事此時也。一騎なりとも御辺打出て此敵を払へかし。」畏て、「承り候。」とて、悪源太御前を立けるを、将軍、「暫。」とて、いつも帯副にし給ける御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。……
●【史料8】建武5(1338)年5月11日付「足利直義御教書」(『熊谷家文書』)*28:
●【史料9】暦応2(1339)年2月18日付「足利直義奥上署判下文」(『土岐家文書』)*29
【史料9】は頼貞が亡くなる僅か5日前の史料であるが、その前日(2月17日)に頼貞が孫の頼重に向けて譲状を発給していたことが記されている。『村庵小稿』に21日発病とあることは冒頭で前述した通りであるが、譲状発給の理由を考えれば、この頃からその予兆があったと判断して良かろう。
婚姻関係・烏帽子親子関係を通じて繋がりのあった北条氏得宗家に鎌倉幕府滅亡の直前まで従い、続いて清和源氏・北条氏末裔という同じルーツを持つ足利尊氏*30の室町新幕府樹立を見届け「御一家(=足利氏)の次、諸家の頭」(『家中竹馬記』)、「土岐絶えば足利絶ゆべし」(『土岐家聞書』)とまで信任された頼貞*31は、その69年の生涯を閉じたのであった。
▲土岐頼貞公の墓(旧光善寺跡、https://tabi-z.com/tokiyorisada-no-haka より拝借)
尚、没年については次の史料にも存孝(頼貞)33回忌についての記載があって裏付けが可能である。
●【史料10】『後愚昧記』応安3(1370)年12月15日条:「十五日、雨下、今日土岐大膳大夫入道(=頼康 入道善忠)下向尾州了、……(中略)……明年(=1371年)正月父〔ママ、"祖"脱字カ〕入道存考〔ママ〕相当卅三廻之間、為執行彼仏事云々、……」
(参考ページ)
● 美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ)
● 佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上)・(下){所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』39巻(2012年)・40巻(2013年)}
● 宝賀寿男「古代氏族系譜集成にみる土岐一族 ―土岐一族関係系図の各種検討(試論)―」
脚注
*2:『続群書類従』12(文筆部 巻第331)所収(村庵小稿 - 成田山仏教図書館蔵書目録 より)。室町時代の画僧・周文の伝記を概括した、希世霊彦『周文都管像賛』の別名(→ 周文)。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*5:頼貞の「頼」については、別説として佐々木哲氏が妻の父である北条宗頼に由来するのではないかと推測されている(→ 美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校)が、宗頼は弘安2(1279)年に亡くなっており(→ 『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.5)、それまでに9歳以下で元服を済ませたとはあまり考え難い。頼貞の弟・頼久についても同様である。よってこの「頼」はやはり摂津源氏の通字と見なすのが妥当であろう。
*6:但し、貞時は得宗家の慣例に従い、建治3(1277)年に7歳で先に元服を済ませている。注4前掲同箇所より。
*7:美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校 より。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪より。
*9:『分脈』では同様の記載ミスが他にも確認できる。例えば、尊卑分脈 - Wikipedia や 源義清 (左京権大夫) - Wikipedia で紹介しているところだと、源義忠の子・義清の母を「平忠盛の娘」とするが、年代的に合わないため、正しくは「平正盛の娘(=忠盛の姉)」と考えられている。
*10:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1979年)P.59。
*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*12:『分脈』および 蜂屋氏 - Wikipedia より。
*13:『鎌倉遺文』第37巻28835号。書き下し文は 年代記元弘元年 を参照。
*14:宗広の出家時期については 結城宗広 - Henkipedia を参照のこと。
*15:南北朝列伝 #結城親朝 より。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】親広(改親朝)の注記にも「白河七郎」・「左兵衛尉」とある。
*16:南北朝列伝 #土岐頼貞 より。
*17:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上) P.37 および 同(下) P.46。
*18:『花園院宸記』同年9月19日条では土岐十郎五郎頼有、同年10月3日付「和田助家着到状」では土岐伯耆十郎(頼貞の子・頼兼か)とする。
*19:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738。
*20:現存の史料からだと、その少なさから頼貞の出家時期を特定するのは難しいが、タイミングとしてあり得るとすれば、正中3(1326)年3月の得宗・北条高時の出家への追随が考えられよう。
*21:『鎌倉遺文』第41巻31771号。
*22:『大日本古文書』家わけ第14「熊谷家文書」P.204 二二三号。
*23:『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。大須賀氏二 #大須賀宗朝 にも掲載あり。
*24:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*25:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(下) P.45、P.49 注(25)。
*26:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*27:『太平記』では7月13日とするが、実際は6月30日であるという。
*28:『大日本古文書』家わけ第14「熊谷家文書」P.84 六〇号。
*29:群馬県立歴史博物館寄託。書状の画像は 特別展『~光秀の源流~ 土岐明智氏と妻木氏』|土岐市美濃陶磁歴史館 ー 土岐市文化振興事業団、翻刻は明智城は4度落ちた?|城田涼子|note より。
*30:足利氏は源義家の子・義国の流れを引く名門で、途中足利泰氏が泰時の外孫、続く頼氏が時頼の甥であるなど婚姻関係を通じて北条氏の血を引いていた。
平盛貞
平 盛貞(たいら の もりさだ、生年不詳(1280年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人、内管領・平宗綱の子か。
まず、盛貞の実在が確認できる次の史料を掲げておきたい。
【史料A】正安3(1301)年3月3日付「関東下知状」(『常陸鹿島神宮文書』)*1
鹿嶋社権禰宜実則子息大禰宜則氏申、常陸国大窪郷内塩片倉村田五町・在家五宇事
右郷者、右大将家、元暦元年於当社為不断大般若転読御寄進之最初、嚢祖禰宜大夫則親拝領以降、至亡父実則五代相伝知行無相違、而大夫僧正坊忠源、以件田・在家為新平三郎左衛門尉盛貞跡拝領之由申之、盛貞非地頭、又無名主之儀、但苽連沙汰人称願、限三ヶ年所買得也、若令寄附彼証文歟、依之、
難被没収之由、則氏依申之、被尋問之処、当給人忠源去年十一月八日請文者、彼田在家者、依御祈祷忠〔源 脱字カ〕拝領之間、当所之由来不存知云々、而尚没収時、盛貞相伝由緒及御沙汰否、被尋問安東左衛門尉重綱之処、如重綱請文者、為盛貞跡、被没収否、為奉行不申沙汰之間、不存知云々者、当郷社領之条、代々御下知分明也、於正応没収之地者、人領尚以就理非被裁許、況神領、難及没収之間、於彼田在家者、所被返付実則跡也、次替事、可被充行当給人者、依鎌倉殿仰、下知如件、
正安三年三月三日
この史料は、正安3年3月3日に「新平三郎左衛門尉盛貞」なる人物の跡(=旧領)であった常陸国大窪郷内の「塩行倉村田五町・在家五宇」を、僧正・忠源が祈祷の恩賞として拝領した旨の内容となっている。
梶川貴子氏は「盛貞跡」について、「正応没収の地」とあること、盛貞の由緒について得宗被官の安東重綱に尋問していることなどから、平禅門の乱に関連して収公された土地であったと説かれており、「貞」が北条貞時の偏諱と見られること、通称が「三郎」であることから盛貞は平宗綱の子だったのではないかと推測されている*3。
以下、この見解について検証してみたいと思う。
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まず、この梶川氏の考え方には、「新・平三郎左衛門尉盛貞」という通称名の捉え方が前提にあるが、この当時「新平」という苗字の武士は特に確認できないので、筆者も同氏の見解には同意である。「新」と付くのは、平頼綱の出家後、「平左衛門尉」・「平三郎左衛門尉」等と呼ばれていた宗綱と区別されたためであろう。
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北条貞時執権期間(1284年~1301年)*4内に元服の適齢である10代前半を迎え「貞」の1字を受けたのだとすれば、早くとも1270年代の生まれとすべきであろう。この場合だと、正応6(1293)年の平禅門の乱で頼綱らと共に討たれたとしても、当時20歳頃で左衛門尉在任であったことになるからおかしくはない。その反面、年齢差の観点から宗綱との父子関係に疑問が残り、飯沼資宗(宗綱の実弟)の弟の可能性も出てくる。
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上記記事にて宗綱の生年を1260年頃と推定したが、盛貞がその子であれば早くても1280年代の生まれとするのが妥当と思われる。この場合で同様に平禅門の乱で滅んだとすると、当時10~13歳で左衛門尉であったことになり、13歳で"飯沼判官"と呼ばれていた資宗の例もあるから決してあり得ないとは言い切れないものの、やはり左衛門尉任官済みの年齢としては早い感じも否めない。
但し、「新・平三郎左衛門尉」という通称はあくまで【史料A】が出された正安3年当時のものであり、平禅門の乱当時のそれであったかどうかは判断が難しい。前述したように、乱後に盛貞の所領が没収されたことは確かであろうが、盛貞が乱で命を落としたとは断定できない。乱後、頼綱と対立していた宗綱でさえ一時的な処置として流罪となっているから、盛貞への処罰も所領の没収のみに留まり、【史料A】に「故~(=故人)」の記載が特にないことからして正安3年当時も存命であったと考えることも決して不可能ではないだろう。
よって、盛貞が正応6年当時必ずしも左衛門尉である必要性は無くなり、やはり宗綱の子であった可能性が高くなるだろう。但し得宗からの偏諱が下(2文字目)となっていることから、資宗を嫡子にと考えていた頼綱の影響があってか、庶流として扱われていたのかもしれない。
以上、平盛貞が当時の得宗(執権)・北条貞時の1字を受けていたことはほぼ確実と思われるが、生年や系図上での位置については検討の余地を残しており、今後新しい史料の発掘に応じて後考を俟ちたいところである。
脚注
*1:瓜連関係史料 より。『鎌倉遺文』第27巻20723号。
*2:社家の姓氏-中臣鹿島氏- 掲載の系図より。
*3:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.117。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
葦名盛貞
葦名 盛貞(あしな もりさだ、1296年?(一説に1285年とも)~1335年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。父は葦名盛宗。蘆名盛貞、芦名盛貞とも表記される。主な通称は大夫判官、葦名判官。法名は道円(どうえん)か。
多くの系図では、葦名盛員(もりかず)と書かれており、これが広く信ぜられているが、筆者は誤伝ではないかと思う。本項では主に実名についての再検討を行う。
葦名盛員の最期
実際の史料・系図類で確認できるのは、盛員(盛貞)の最期についてである。まずは次の関連資料3点をご覧いただきたい。
【史料A】『会津四家合全』黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事*1 より一部抜粋
葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四年丙申八月十二日生、文保二年戊午二十三家督継、建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳、正傳庵月浦道円と号、但祠堂会津興徳寺の裏に在り
葦名式部太輔高盛(盛員男)
文保二年戊午八月十五日生、建武二年乙亥八月十七日父同片瀬川にて討死す時十八歳
【史料A】は江戸時代に成立の、葦名など四家についての家伝であるが、照らし合わせると【史料B】の内容に拠っていることが推測される。これらを見ると、建武2(1335)年8月、片瀬川の戦いで息子の高盛とともに討ち死にしたと伝える。【系図C】での記載も盛員の没年齢(享年)を除いては同内容となっている。
次の史料は、その時の様子を伝える実際の書状である。
【史料D】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文(国立国会図書館所蔵「延暦寺申状」)*4
(中略)
十九日、辻堂・片瀬原合戦
御方打死人敷
三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
土岐隠岐五郎(=貞頼) 土岐伯耆入道孫兵庫頭(頼古?)、同舎弟(頼孝?)、
昧原三郎
手負人
佐々木備中前司父子(=時重・仲親) 大高伊予権守
味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
降人於清見関参之、
千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
海上筑後前司 天野参川権守
伊東六郎左衛門尉(祐持カ) 丸六郎
奥五郎
諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠)
地名(片瀬川→片瀬原)や日付(17日→19日)に若干の違いはあるものの、1335年の中先代の乱で葦名道円(どうえん)・六郎左衛門尉父子が打死(=討ち死に) したことは事実として確認できる。通称名や官途は全く一致しないが、「道円」は【史料A】に盛員の法名として記載があり、そのまま当てはめれば、盛員入道道円・高盛父子と捉えられる。
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ちなみに『太平記』でもこの内容を描く部分があり、「葦名判官入道」 は通称名の一致からして【史料D】の道円に比定して良いだろう。
【史料E】『太平記』巻13「中前代蜂起事」・「足利殿東国下向事付時行滅亡事」より一部抜粋
……相摸次郎時行には、諏訪三河守・三浦介入道(=時継)・同若狭五郎(=氏明)・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門已下宗との大名五十余人与してげれば、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共不相付云事なし。時行其勢を率して、五万余騎、俄に信濃国に打越て、時日を不替則鎌倉へ責上りける。……(略)……平家の後陣には、諏方の祝部身を恩に報じて、防戦ひけり。…(略)…平家の兵、前後の敵に被囲て、叶はじとや思けん、一戦にも不及、皆鎌倉を指て引けるが、又腰越にて返し合せて葦名判官も被討にけり。始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。……(以下略)
実名と烏帽子親について
【史料】A~Cにあるように「盛員」と記すもの(或いは読まれているもの)が多く残されているが、冒頭で述べた通り実際は「盛貞」が正確な名であろう。
結論から言えば、通字「盛」に対する「貞」は得宗・北条貞時の偏諱であろう。父・盛宗が北条時宗、長男・高盛が北条高時、各々の1字を受けたとみられ、「盛宗―盛貞―高盛」3代が歴代得宗「時宗―貞時―高時」と烏帽子親子関係を結んでいたと考えるのが自然だと思う。
その裏付けとして、生年は前述の2説が伝わっているが、いずれを採っても通常10代前半で行う元服当時の得宗は北条貞時(在職:1284年~1301年、1311年逝去)*5となって辻褄が合う。貞時からの偏諱「貞」を下(2文字目)に置いているのは、盛貞が当初、時宗の1字を受けた嫡兄・時盛(のちに遁世または早世と伝わる)に対する庶子(準嫡子)であったためであろう。
実際、比較的古い時代に成立の系図では「盛貞」と書かれている。その例を以下に挙げておこう。
▲【系図F】「三浦和田氏一族惣系図」(『三浦和田文書』)より*6
上記2つのほか、葦名盛宗周辺の系図を載せるものとしては次の『系図纂要』が挙げられるが、表記は「盛員」となっている。
▲【系図H】『系図纂要』平氏3「平朝臣姓 佐原・蘆名」より*8
『系図纂要』は江戸時代幕末期の成立であり、盛員(盛貞)の兄・時盛に対する系線が間違っている等、その信憑性には注意を払わなければならないが、【史料D】の道円=盛員とするなど、当時における研究成果をまとめたものとして見ることは可能である。
もっとも【史料B】は『塔寺八幡宮長帳』*9の異本*10であるというから、伝わる過程で誤読 あるいは 誤写が起こった可能性は十分に考えられよう。「員」と「貞」の崩し字はよく似ており*11、同様に読み間違えたケースは他にも確認できる。参考までに翻刻(活字化)前の画像を掲げておこう。
▲【系図I】『系図纂要』内閣文庫所蔵原本(草稿)の前掲【系図H】部分*12
▲【図J】『養蚕秘録』(上垣守国 著、1802年)での「員」の崩し字*13
【図I】の「盛員」の部分について、確かに【図J】に似てはいる。そもそも「員」の崩し字は異体字である「貟」に基づく書き方であるが、一方「貞」の崩し字についても「貝」の上「┣」の縦棒が斜めに書かれた例は少なからずある*14。そう考えると右隣にある貞連・貞政兄弟(従兄弟にあたる)の「貞」ともかけ離れてはいない。
『系図纂要』編纂にあたっては恐らく、同じく江戸時代成立の【系図G】も参照したのではないかと思われるが、崩し字の影響からか、その伝写の際に「貞」を「員(貟)」と誤読、または「貞」のつもりで書いていたものが翻刻の際に「員(貟)」と読まれてしまったのではないかと推測される。
【系図F】・【系図G】といった古系図での表記からしても、これまで「葦名盛員」とされてきた人物の正確な氏名は、得宗・北条貞時の偏諱を受けた「葦名盛貞」であったと判断される。
(参考ページ)
● 蘆名盛員
脚注
*1:http://aizufudoki.sakura.ne.jp/yamanouchi/yamanouchi9-1.htm より。
*4:『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。北条時行史料集〜中先代の乱〜。大須賀氏二 #大須賀宗朝。延暦寺申状 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*6:『新横須賀市史』資料編 古代・中世Ⅱ(横須賀市、2007年)P.1025~1027。髙橋秀樹氏によるとこの系図は永和元(1375)年までの成立であるという(同P.1132)。
*7:前注『新横須賀市史』P.1040~1041。『諸家系図纂』は江戸時代にまとめられたものであるが、この系図に関しては、三浦介家を義同・義意父子まで載せるのに対し、葦名氏については盛貞までを墨書し、それ以後を朱で補筆していることから、髙橋秀樹氏は、この系図の原形が南北朝期の成立で、三浦介の系統を書き継いで再編集したものと考えられている(同P.1132~1133)。尚、葦名氏部分の「 」部分(朱書)は宇都宮家蔵「葦名系図」で補った旨が記されており、同内容を載せる『続群書類従』六上所収の「三浦系図」はこれを底本としているようである(同前)。
*9:この史料については 塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう) - 会津坂下町 および 塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう)とは - コトバンク を参照のこと。
*10:元来は同一の書物であるが、伝承の過程で文字や語句、構成等において相違するところが生じた本のこと(→ 異本とは - コトバンク 参照)。
*11:「員」(U+54E1) および 「貞」(U+8C9E)(いずれも 日本古典籍くずし字データセット | ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター より)を参照。
*12:宝月圭吾・岩沢愿彦『系図纂要』第八冊(名著出版、1974年)P.96~97。
*13:養蚕秘録 P.31 - 日本古典籍データセット より。
*14:注11前掲「貞」(U+8C9E)参照。