Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

金沢貞顕

北条 貞顕(ほうじょう さだあき、1278年~1333年)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人、北条氏一門。金沢顕時の嫡男。母は遠藤為俊の娘・入殿。金沢流北条氏の第4代当主で、金沢貞顕(かねさわ ー)とも呼ばれる。鎌倉幕府においては第12代連署、第15代執権を歴任した。

é¢é£ç»å 

金沢貞顕北条貞顕)の肖像画(国宝、称名寺蔵、神奈川県立金沢文庫保管)

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

金沢流では、初代・(初名:実義)が第3代執権の長兄・北条時から1字を受けて改名し、2代・が泰*1、3代・(のち顕時)が北条宗を*2、それぞれ烏帽子親として元服を遂げたことが判明しており、嫡流は代々得宗家と烏帽子親子関係を結んでいたことが指摘されている*3

」の名もこの慣例に倣い、永井晋が説かれる通り、得宗北条偏諱」と父・顕時の「顕」によって構成されたと考えて何ら問題はないだろう*4

 

細川重男のまとめ*5によると、『北条時政以来後見次第』東京大学史料編纂所架蔵影写本、以下『北次第』と略記)に元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡に殉じた時56歳(数え年、以下同様)であったといい、逆算すると弘安元(1278)年生まれとなる。

*異説として、『武家年代記』正和4(1315)年条の貞顕の注記に「正中三五十八出家七十二」の記載があり*6、逆算すると建長7(1255)年生まれとなるが、元服する2年前の顕時(時方)8歳の時の子となってしまって矛盾するため、細川氏が述べられる通り、誤りである。

 

吾妻鏡』を見ると、実時・顕時はともに10歳で元服を遂げており、貞顕の元服の年次も同年齢を迎える弘安10(1287)年頃であったと推測可能である。同7(1284)年からは貞時が9代執権の座にあり*7顕も執権・時を烏帽子親として元服したと考えて良いだろう。

 

同8(1285)年の霜月騒動の影響により初出仕が遅れたらしいが、『北次第』には貞顕の最初の活動として、永仁2(1294)年12月16日に左衛門尉となり、東二条院後深草天皇中宮・西園寺公子)の蔵人を兼務した旨が記されている*8。この当時17歳で元服済みであったことは確かだろう。

 

永井氏によると、顕時追善供養のために起草された諷誦文では、貞顕が3人の兄を超越して家督を継いだと記されており、「3人の兄」とは僧籍に入った庶長子の顕弁(けんべん)を除く顕実・時雄・顕景を指すと考えられ*9元服の際に名乗った最初の通称も、父・顕時の越後守に因んだ「越後」と6男を表す「六郎」を合わせた「越後六郎」であったという*10。永井氏は、「六郎」は実際に長幼の順によって付けられたもので5人の兄がいたのではないかと説かれている系図類では確認できないが、前述の4人の他に夭折した兄がもう一人いたのかもしれない)

特に顕実・時雄は同母の兄で、貞顕は「生まれながらの嫡子ではなかった」*11はずだが、それまでの家督継承者のみに許されていた得宗偏諱を賜っていることもまた事実であり、元服の段階では嫡男に定められていたのではないかと思われる。逆に言えば、得宗偏諱を受けずに先に元服したであろう顕実・時雄は、元服の段階では庶子(もしくは準嫡子)扱いであったものと推測される*12。貞顕が嫡子となった理由について、永井氏は器量によって選ばれたのではないかと説かれている*13。 

 

 (関連記事)

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

(参考ページ)

北条貞顕 - Wikipedia

 金沢貞顕(かねさわさだあき)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 金沢貞顕

 

脚注

*1:吾妻鏡』天福元年12月29日条。

*2:吾妻鏡』正嘉元年11月23日条。

*3:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27) より。

*4:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.3。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.96。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:注4前掲永井氏著書 P.15 および 注5前掲職員表。

*9:注4前掲永井氏著書 P.5~6。

*10:注4前掲永井氏著書 P.3・5。

*11:注4前掲永井氏著書 P.6。

*12:顕実は文永10(1273)年生まれと判明しており(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪)、1282年頃の元服と思われるが、その実名は父・顕時の「顕」と祖父・実時の「実」によって構成されたと思われ、恐らくは顕時が烏帽子親を務めたのであろう。時雄も恐らくは父・顕時が加冠を務め、嫡子に定めていた貞顕に関しては顕時が得宗・貞時に加冠と偏諱を願い出たのではないかと思われる。

*13:注4前掲永井氏著書 P.17。

島津久時

島津 久時(しまづ ひさとき、1225年~1284年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人島津忠時の嫡男で、島津氏の第3代当主。晩年に島津久経(ひさつね)に改名。法名道忍(どうにん)。子に島津忠宗島津忠長(久長)。通称は大隅修理亮、下野守など。

 

 

はじめに

まずは、次の史料5点を見ておきたい。 

【史料1】弘安8(1285)年7月3日付「将軍家(惟康親王)政所下文」:文中に「薬寿丸亡父前下野守久経法師 法名道忍*1

【史料2】正応3(1290)年5月12日付「関東下知状」:「…嶋津下野彦三郎忠長……(中略)……大隅前司忠時領也、譲与子息久経 忠長父 之刻、……」*2

【史料3】正応5(1292)年4月12日付「関東下知状」*3より一部抜粋

嶋津大隅前司忠時法師 法名道佛 女子尼忍覚 代入蓮 与 下野彦三郎忠長 代了意 相論信濃国大田庄神代郷内腰中村田在家事、

……道佛文永二年六月二日、雖譲与于忠長亡父道忍、…………道忍嫡子忠宗 忠長舎兄 …………久時 道忍俗名…………(以下略)

正應五年四月十二日

  陸奥守平朝臣(花押)連署・大仏宣時

  相模守平朝臣(花押)*執権・北条貞時

 

【史料4】永仁3(1295)年7月29日付「関東下知状」:「…嶋津下野三郎左衛門尉忠長……(中略)……建治三年御所造営時、忠長父下野前司 于時修理亮、……」*4

【史料5】元徳元(1329)年10月5日付「鎮西下知状」:「……弘安八年四月廿七日関東御下知状者、嶋津下野前司久経子息薬寿丸(=のちの忠長/久長)……」*5

 

以上5点の史料より読み取れる情報をまとめると次の通りである。

【史料2】における「大隅前司忠時」の「子息久経(島津下野彦三郎)忠長父」と、【史料4】の「(島津下野三郎左衛門尉)忠長父下野前司」は、【史料1】と【史料5】により同一人物とみなして問題ない(下野前司は「前下野守」の意)

そして【史料1】により久経は、【史料3】の「(島津下野彦三郎)忠長亡父道忍」とも同一人物とみなせるが、【史料3】では「道忍俗名」が「久時」であったと記している。

 

詳しくは次節で紹介するが、『吾妻鏡』では一貫して「島津大隅修理亮久時」等と記されており、「信濃太田庄相伝系図」にも「久時 法名道忍」とある*6から、島津久経は初名が「久時」、法名が「道忍」であったことが分かる。

そして、【史料4】より官途が「修理亮→下野守→下野前司(=前下野守)」であったこと、【史料1】で「亡父」と記すことから1285年の段階では故人であったことも認められよう。

 

 

忠時の嫡男

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で紹介の通り、『吾妻鏡』を見ると1240年代以降、父の忠時が「大隅前司」等と呼称されていたことが窺える*7

その後、建長4(1252)年4月3日条に「嶋津大隅修理亮久時」として初めて久時(久経)が現れ、「大隅修理亮」の通称名で通されて25回登場している*8

【史料1】・【史料2】より、久時=久経は「嶋津大隅前司忠時法師 法名道佛」の「子息」であったことが明らかとなっており、『吾妻鏡』での通称名は前大隅守・忠時の子で(久時自身が)修理亮であったことを表している。

 

『島津家文書』には、「す里乃す遣*9ひさ時(=修理亮久時)にゆつりわたす(譲り渡す)」とした文永2(1265)年6月2日付「道佛(=忠時)譲状」も保存されている*10。忠時はこの7年後に亡くなっているから、この頃忠時から久時(久経)への家督継承がなされたものと考えられよう。

 

 

下野守任官と「久経」への改名

前述の通り、【史料4】には建治3(1277)年当時も修理亮であったと書かれている。

一方『薩藩旧記雑録』所収 山田譜に掲載の弘安3(1280)年12月19日付「関東御教書案」*11には「嶋津下野守久時」とあり、1277~1280年の間に下野守に任官したことが窺える。

尚、弘安4(1281)年4月16日には、息子・忠宗らに向けた自筆の譲状を書いている*12が、わざわざ実名を書き忘れたとして改めて「久経」と署名しており、理由は不明ながらどうやらこの頃改名したようである。

『薩摩八田家文書』には、弘安7(1284)年正月23日付で「前下野守」が発給した施行状の案文(写し控え)が収録されて、これを島津忠宗に比定する見解もある*13が、忠宗が下野守となるのは後のことである*14から、これも久時(久経)に比定して良い。同年閏4月3日付「島津久経鋳鐘願文」(『三国名勝図会』)*15にも「大願主 前下野守藤原朝臣〔久〕法名道忍」とあって(後述『島津国史』にも言及あり)このことを裏付けており、1280~1284年の間に下野守を辞して出家したことが分かる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

それより間もなく急死したのであろうか、久経は同年閏4月21日に筑前国筥崎で没したといい(次節参照)、同日には嫡男・忠宗が「宗忠(初名か?)」の署名と花押を据えて書状を発給している*16

翌年の史料である【史料1】や【史料3】のほか、弘安9(1286)年11月5日付「関東下知状案」(『薩藩旧記 六』所収『指宿文書』)にも「忠宗亡父下野守〔ママ〕久経」とある*17ことからも1284年の死去が裏付けられよう。

 

 

烏帽子親の推定

『島津国史』巻三:「道忍公 初名久時。後改久経。道佛公之子也。称修理亮。任下野守。法名道忍義阿弥陀佛。……(中略)……弘安……七年。甲申。夏閏四月。公修浄光明寺。施新鐘一枚。以資道佛公宴福。……鐘銘刻曰弘安七年歳甲申閏四月已巳三日。大願主前下野守藤原朝臣□経法名道忍。……二十一日。公薨於筑前筥崎。年六十。…(以下略)」

寛政重修諸家譜:「久経 初久時 修理亮 下野守 剃髪号道忍 母は念性(=伊達判官入道念性)が妹。……(中略)……弘安……七年閏四月二十一日筥崎にをいて卒す。年六十。…(以下略)」 

 

ところで、これらの史料にあるように、弘安7(1284)年に亡くなった時享年60であったとされ、逆算すると嘉禄元(1225)年生まれとなる。historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

これらの記事で言及の通り、特に忠宗・貞久をはじめとする島津氏歴代家督元服の年齢はおよそ16歳であったと考えられ、久時の元服も1240年頃であったと推測できる。実名「」に着目すると、祖父・島津忠久に由来の「久」に対して「」は執権・北条氏の通字であり、恐らく当時の3代執権・北条泰(在職:1224~1242年)*18を烏帽子親として偏諱を賜ったものではないかと思われる。

 

(参考ページ)

 島津久経 - Wikipedia

 島津久経(しまづ ひさつね)とは - コトバンク

 島津久経の墓

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.188(一九四号)P.551(五四三号)

*2:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.189(一九六号)

*3:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.190~192(一九七号)

*4:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.193~194(二〇〇号)

*5:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.576(五五五号)

*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.298(306号)。この系図は、嫡流が忠久の曾孫・忠宗、庶流でも忠久の玄孫の代以降の記載が無く、鎌倉時代後期の成立と推測され、信憑性は高いと思われる。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.344「忠時 島津」の項 より。寛元元(1243)年7月17日条・8月16日条に「大隅前司」、同4(1246)年7月11日条に「大隅守忠時」、宝治元(1247)年6月14日条に「嶋津大隅前司忠時」とあるのが確認できる。

*8:吾妻鏡人名索引』P.73「久時 島津」の項 より。

*9:この部分の変体仮名については、変体仮名を調べる(り)変体仮名を調べる(の)変体仮名を調べる(け)を参照のこと。

*10:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.87(一四二号)

*11:『鎌倉遺文』第19巻14219号。

*12:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.487~489(四九三・四九四号)

*13:『鎌倉遺文』第20巻15057号、年代記弘安7年

*14:島津忠宗 - Henkipedia 参照。

*15:『鎌倉遺文』第20巻15171号。

*16:弘安7(1284)年後4月21日付「異国警固番役覆勘状」(『比志島文書』)。年代記弘安7年も参照のこと。

*17:『鎌倉遺文』第21巻16023号。

*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

島津忠宗

島津 忠宗(しまづ ただむね、1251年~1325年)は、鎌倉時代中期から末期にかけての武将、御家人。島津氏第4代当主。父は島津久経、母は相馬胤綱の三女・谷殿(浄温夫人、尼・妙智)*1。子に島津貞久など。通称は三郎、左衛門尉、下野守。法名道義(どうぎ)。初名は島津宗忠(むねただ)か。

 

 

系譜や法名などについて

まずは、島津忠宗に関する基本的な情報が分かる史料を数点紹介したいと思う。

【史料1】正応5年4月12日付「関東下知状」(『島津家文書』)*2より一部抜粋

嶋津大隅前司忠時法師 法名道佛 女子尼忍覚 代入蓮 与 下野彦三郎忠長 代了意 相論信濃国大田庄神代郷内腰中村田在家事、

……道佛文永二年六月二日、雖譲与于忠長亡父道忍、…………道忍嫡子忠宗 忠長舎兄 …………久時 仁 道忍俗名、…………(以下略)

正應五年四月十二日

  陸奥守平朝臣(花押)連署・大仏宣時

  相模守平朝臣(花押)*執権・北条貞時

この書状から系図を作成すると次のようになる。

f:id:historyjapan_henki961:20200428184156p:plain

これは、鎌倉時代に書かれたとみられる信濃太田庄相伝系図*3の内容にも合致し、系譜について史料で裏付けることが出来た。島津忠宗は道忍(俗名:久時)の嫡子で、忠長の舎兄であった。

系図には忠宗の注記に「法名道義」とあるが、元徳元(1329)年10月5日付で「修理亮平朝臣」=第4代鎮西探題北条(赤橋)英時が発給した「鎮西下知状」*4の文中に、

【史料2】

(前略)……薩摩国……当国守護人大隅守忠時法師 法名道佛 状者、…………正応二年七月十五日、永仁二年七月卅日、同四年八月卅日、同五年七月五日、同年六月卅日、守護人下野前司入道ゝ義 于時忠宗、今者死去、状者、……(以下略)

とあるによって確認ができる。また、この書状からは次のことが読み取れる。 

 正応永仁年間当時「忠宗」と称していた道義薩摩国守護人として書状を発給していたこと。

 入道(出家)する前の最終官途が「下野前司(=前下野守)」であったこと。

 「今者(今は)死去」とあり、1329年当時既に亡くなっていたこと。

 

これらの情報は、次節で紹介する各関連史料との整合性の点で矛盾しない。

また、忠宗=道義であったことは、延文4(1359)年卯月(4月)五日付の「道鑒(=島津貞久)書状」の冒頭に貞久自らが「祖父道佛〔ママ〕亡父道儀〔ママ〕代々任置文之旨、……*5と書いていることからも裏付けられよう(貞久が忠宗の嫡男で、道鑑がその法名であることは下記記事参照)

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

 

関係史料の紹介

次に、本節では忠宗に関する史料(書状群)を以下に列挙する(特に記載の無いものは『島津家文書』所収)。特に通称や官途の変化に着目していただければと思う。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

【史料3】弘安4(1281)年4月16日付「島津久経自筆譲状」*6:文中に登場する息子たちの仮名「三郎」・「又三郎」のうち、前者「三郎」が嫡男・忠宗とみられ、史料上での初見であると共に、この時までに元服を済ませていたことが窺える。

 

 ★この間に左衛門尉任官か。

 

【史料4】弘安7(1284)年後4月21日付「異国警固番役覆勘状」(『比志島文書』)*7:発給者「宗忠」の署名と花押

【史料5】弘安8(1285)年5月1日付「島津忠宗覆勘状」(『比志島文書』):発給者「」の署名と花押

f:id:historyjapan_henki961:20200429195650p:plain f:id:historyjapan_henki961:20200429195813p:plain

*この二つの花押は一致していると言え、「宗忠」と「忠宗」は同一人物と考えて良いのだろう。「宗忠」については単なる誤記の可能性が考えられなくもないが、本人が署名の際に名前を間違えるとは考えにくく、恐らく初め、得宗北条時宗が弘安7年4月に亡くなるまでは、その偏諱「宗」を上(1文字目)にしていたのかもしれない。

 

【史料6】弘安9(1286)年12月30日付「関東御教書案」:宛名「嶋津三郎左衛門尉*8

(● 正応5(1292)年4月12日付「関東下知状」:「忠宗」 ※前述【史料1】参照。)

【史料7】正応6(1293=永仁元)年2月7日付「関東御教書」:宛名「下野三郎左衛門尉殿*9

【史料8】正応6年3月21日付「関東御教書」:宛名「嶋津下野三郎左衛門尉殿*10

【史料9】正応6年4月5日付「関東御教書」:宛名「下野三郎左衛門尉殿*11

 

 ★この間に下野守任官か。

 

【史料10】永仁5(1297)年8月15日付「島津忠宗書状」:発給者「忠宗」の署名と花押*12

f:id:historyjapan_henki961:20200429195246p:plain

【史料11】永仁6(1298)年4月6日付「北条実政書状」*13:宛名「下野守殿」。「前上総介」=初代鎮西探題北条(金沢)実政が「島津大隅前司入道道仏遺領」を知行する旨を伝達。

*この書状の文中にも「惣領下野前司入道道忍」とある通り父・久経は下野守を辞して出家済みで、かつ既に故人であったことは冒頭の【史料A】に「亡父道忍」と書かれていることから明らかである。後述【史料13】で下野守=忠宗であることが裏付けられる。

【史料12】永仁6年7月10日付「島津忠宗異国警固番役覆勘状」:発給者「忠宗」の署名と花押*14

f:id:historyjapan_henki961:20200429194927p:plain

【史料13】永仁6年10月1日付「島津忠宗神馬送文案」(『豊前益永家文書』):発給者「下野守忠宗*15

 

 ★この間に下野守を辞す。

 

【史料14】正安2(1300)年7月13日付「関東御教書(『薩摩旧記』所収『国分寺文書』):宛名「島津下野前司殿*16

【史料15】正安3(1301)年正月10日付「島津忠宗書下案」(同前『国分寺文書』):発給者「前下野守*17

【史料16】正安3年8月23日付「鎮西御教書案」(同前『国分寺文書』):宛名「下野前司殿*18

【史料17】正安3年8月25日付「島津忠宗施行状」(同前『国分寺文書』):発給者「前下野守*19

 

 ★この間に出家。

*正安3年8月22日には得宗北条貞時が9代執権を辞して剃髪、9月には鎮西探題の実政も出家しており、忠宗もいずれかに追随した可能性が高いと思われる。

 

【史料18】嘉元3(1305)年8月7日付「関東下知状案」:「嶋津下野前司法師 法名道義*20

【史料19】嘉元3年後12月15日付「島津道義(忠宗)書状」(『薩摩旧記』所収『冠嶽文書』):発給者「道義*21

*前掲【史料2】と照合すれば、忠宗が嘉元3年の段階で既に出家していたことが確実と認められる。よって、「嘉元二年参上、同三年三廿九御進物請取」の端見返書があって同年の発給とみられる、3月29日付「北条貞時書状」の宛名「嶋津下野三郎左衛門尉殿」について、『大日本古文書』などでは忠宗とする*22が、正しくは息子の貞久と判断できる。

 

【史料20】延慶2(1309)年2月10日付「関東御教書:宛名「嶋津下野前司入道殿*23

 

【史料21】文保元(1317)年12月21日付「将軍家政所下文案」:文中冒頭に「嶋津下野前司入道ゝ義*24

【史料22】文保2(1318)年3月15日付「沙弥道義(忠宗)譲状」*25:「沙弥道義」、署名と花押(下図)を据えて「ちやくし(=嫡子)三郎左衛門尉貞久」や「女子大むすめ」に対する譲状を発給。

f:id:historyjapan_henki961:20200429194056p:plain

【史料23】元亨元(1321)年9月6日付「島津道義(忠宗)譲状」:発給者「道義」の署名と花押*26

【史料24】元亨元年10月27日付「島津道義(忠宗)譲状」:発給者「とうき(=道義)」の署名と花押*27

f:id:historyjapan_henki961:20200429194417p:plain f:id:historyjapan_henki961:20200429194529p:plain

 

生没年と烏帽子親について

『島津国史』・『嶋津家譜』の記載によれば、島津忠宗正中2(1325)年11月12日に享年75(数え年、以下同様)で逝去したといい*28、逆算すると『嶋津家譜』や『島津系図大略』でも明記されている通り、建長3(1251)年生まれ(誕生月日不詳とする)*29となる。

【史料2】により1329年の段階で故人であったことは前述した通りであり、【史料】22~24に挙げた通り、文保2年や元亨元年には譲状を出して家督や所領の移行・譲渡を行っている様子が窺えるので、正中2年死去説は十分信ずるに値すると思う。

 

そして、建長3年生まれとして前節の各史料を振り返ってみると、30歳程度で左衛門尉に、40代前半で下野守に任官したことになる。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

『島津国史』などの記載を信ずるならば、祖父・忠時(初名:忠義)が20代半ば程度で左衛門尉に任官し、30代半ば~42歳の間で大隅守に任ぜられてこれを辞している。

同様であれば、嫡男・貞久も37~55歳の間左衛門尉に在任で、50代後半で上総介に昇ったことになる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

任官年齢を見ると当主ごとに異なってはいるが、昇進のタイミングが大幅に違っているわけでもなく、忠宗の建長3年生まれ説は十分的を射たものと言って良いだろう。

ここで「」の名乗りに着目すると、「忠」は島津忠久・忠時父子で継承された字であるから、「」が烏帽子親からの一字拝領と推測される。というのも、この字は将軍・親王、或いは宗尊の烏帽子子で執権となった北条時偏諱を許されたものと考えられるからである。

 

1269年生まれの久は、1284年に得宗となった北条時の加冠により元服したと考えられるので、他家に比べると若干遅いが16歳での元服であった可能性が高い。『吾妻鏡』を見ると、祖父・忠時の初見時20歳、父・久経(初名:久時)のそれが、修理亮任官済みの状態で28歳であるから、やはり元服のタイミングは同様に遅かったのではないか。

忠宗が同じく16歳で元服したのだとすれば、その年はちょうど宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年*30となる。このあたりの時期に宗尊と烏帽子親子関係を結んだとすれば、当然反得宗勢力と見なされる可能性はあっただろうから、得宗家当主で次期執権でもあった北条時宗*31に加冠を願い出たと考えるのが現実的であろう。

そのように考えるもう一つの根拠として、それまでの「忠―久」が北条氏の通字「」を賜っていること、前述の通り忠宗の嫡男・久も北条時の1字を受けていることが挙げられる。忠宗だけが将軍を烏帽子親にしたとは考えにくく、島津氏嫡流の歴代家督継承者は代々、北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んでいたと捉えるのが自然であろう。よって、島津忠(初名:忠か)得宗北条時を烏帽子親として元服し、その偏諱を賜ったものと判断しておきたい。

 

(参考ページ)

 島津忠宗 - Wikipedia

 島津忠宗(しまづ ただむね)とは - コトバンク

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.105(一五四号「相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図」・一五五号「京都四条東洞院敷地相伝系図」)より。

*2:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.190~192(一九七号)

*3:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.298(三〇六号)。この系図は、嫡流が忠久の曾孫である忠宗、庶流でも忠久の玄孫の代までで記載が終わっており、鎌倉時代後期の成立と推測され、信憑性は高いと思う。

*4:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.575(五五五号)

*5:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.93(一四八号)

*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.487~489(四九三・四九四号)

*7:年代記弘安7年 より。

*8:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.264(二九九号)

*9:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.22(三三号)

*10:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.22~23(三四号)

*11:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.23(三五号)

*12:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.501(五〇二号)

*13:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.23~24(三六号)『編年史料』後伏見天皇紀・永仁6年正~4月 P.45

*14:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.501(五〇三号)

*15:『鎌倉遺文』第26巻19838号。

*16:『編年史料』後伏見天皇紀・正安2年7月 P.53

*17:前注同箇所。

*18:『史料稿本』正安3年8~9月 P.25

*19:前注同箇所。

*20:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.261(二九八号)

*21:『史料稿本』嘉元3年閏12月 P.27

*22:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三八号)『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年3月 P.60

*23:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.24(三七号)

*24:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.264(二九九号)

*25:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三九号)P.27(四〇号)

*26:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.92(一四六号)

*27:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.93(一四七号)

*28:『史料稿本』後醍醐天皇紀・正中2年11~12月 P.1314

*29:前注に同じ。

*30:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*31:弘長3(1263)年の父・北条時頼(道崇)逝去に伴い得宗家督を継承。執権在任期間は1268~1284年であった。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)を参照のこと。

島津貞久

島津 貞久(しまづ さだひさ、1269年~1363年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人島津忠宗の嫡男で、島津氏第5代当主。薩摩・大隅・日向の守護大名

通称は三郎左衛門尉、上総介、上総入道など。法名道鑑(どうかん、表記は道鑒とも*1)。

 

 

生没年と烏帽子親について

『島津正統系図』・『嶋津家譜』・『島津国史』などによると、島津貞久貞治2(1363)年7月3日に95歳(数え年、以下同様)で逝去したと伝えられ*2、享年(没年齢)の記載は無いものの『島津家過去帳』でも同日に亡くなった旨の記述がある*3ほか、最後に後述するが、同年4月に子女たちに向けて書いた譲状が残っていて生存が確認できる。当時にしてはあまりにも長寿ゆえか、享年については本郷和人が異説があると紹介されている*4が、『嶋津家譜』では文永6(1269)年4月8日に生まれたとも明記しており、没年齢からの逆算との整合性にも問題はないので、一応は参考にすべき情報であろう。

ここで「」の実名に着目すると、「久」は島津氏祖・島津忠久に因むもので、祖父・久経(初め久時)も使用していた字である。結果的にではあるが「忠久―忠時―久時―忠宗」と、家督継承者が「久」・「忠」を交互に使う形となったので、忠宗の嫡子は「久」を使うように定められていたのであろう。

その一方で、わざわざ上(1文字目)に用いられている「」の字が烏帽子親からの一字拝領と推測されるが、これは得宗・第9代執権の北条偏諱を受けたものと思われる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

前述の生年に従うと、貞時が先代・北条時宗の死に伴って跡を継いだ弘安7(1284)年*5当時、貞久は16歳。元服の年齢としてはやや遅めだが、家格の高い足利氏でも足利高氏(のちの尊氏)の15歳といった例がある*6ので、全くあり得ないことでもない。繰り返すが貞治2年までの生存は確認できるため、没年齢の観点からして生年が1269年より遡ることは考えにくく、執権となったばかりの時から「」字を拝領したことは確実と言って良いだろう

 

 

鎌倉時代の史料における貞久

「嘉元二年参上、同三年三廿九御進物請取」の端見返書がある、3月29日付で得宗北条貞時が花押を据えて発給した書状の宛名「嶋津下野三郎左衛門尉殿 御返事」について、『大日本古文書』などでは父・島津忠宗とする*7が、同年(1305年)8月7日付「関東下知状案」に「嶋津下野前司法師 法名道義」とあり*8、忠宗が既に出家していたことが確認できるので、三郎左衛門尉はその息子・貞久に比定すべきであろう。通称名は父・忠宗が下野守、自身の仮名(輩行名)が「三郎」で、左衛門尉に任官していたことを表すものである。すなわち、これが史料上における初見と思われ、貞時との関係性が窺える。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

島津氏のこれまでの例だと、こちら▲の記事で紹介の通り、曽祖父(忠久の子)島津忠時(初名:忠義)が20代半ば程度で左衛門尉に任官しており、他家の例を見てもその任官年齢は早くとも元服後の10代後半、一般的にも20~30代が多かったので、貞久は遅くとも1280年頃には生まれていたと推測可能で、この観点からも貞時執権期間の元服が裏付けられよう。前述の生年に基づけば恐らく1290年代半ばには左衛門尉になっていたものと推測できよう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

文保2(1318)年3月15日付の沙弥道義(=忠宗)の譲状(『島津家文書』)に「ちやくし(=嫡子)三郎左衛門尉貞久」とあり*9、元亨2(1322)年11月25日付で修理亮(=鎮西探題・赤橋英時)が発給した「鎮西問状御教書」(『島津家文書』)の宛名「下野三郎左衛門尉殿*10、翌3(1323)年11月日付「国分友貞申状」(『薩摩国分寺文書』)の文中「島津下野三郎左衛門尉貞久*11は、いずれも島津貞久に同定される。

 

その後、嘉暦4(1329)年3月日付「関東下知状写」(『信濃矢島文書』)に初めて「島津上総入道*12と現れ、正慶元(1332)年12月1日付「将軍家守邦親王政所下文」(『島津家文書』)に「嶋津上総介貞久法師 法名道鑑*13、元弘3(1333)年7月日付「薩摩山田忠能等申状案」(『薩摩山田文書』)にも「島津上総前司貞久法師 法名道鑑*14とあって、これらの史料から貞久が出家前「上総介」となって退任していたこと、嘉暦4年までに出家して法名が「道鑑」であったことが分かる。

『薩藩旧記』和泉忠氏譜には「元亨五年乙丑 前年十二月改元 正中、是歳二年也、閏正月二十二日、道鑒狩巡封 、……」とあり*15、前述の「国分友貞申状」以後、恐らくは元亨4(1324=正中元)年中に出家を済ませていた可能性が高い。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

同じ頃、正中3(1326=嘉暦元)年3月の得宗・第14代執権の北条高時(貞時の子)の剃髪に追随したのか、同じく「」字を拝領した少弐筑後入道妙恵)大友(近江入道具簡)も出家しており、鎌倉幕府滅亡時には貞久(道鑑)と共に鎮西探題の英時を攻め滅ぼしている*16

その後の道鑑は、南北朝時代を通じ一貫して尊に従っており、4男・島津の名もその偏諱を受けたものと推測される。再び『薩藩旧記』を見ると、貞治2年卯月(4月)10日付で「道鑒」の署名を据えて師久・氏久らに出した譲状が数点収録されていて*17、この時までの生存が確認できると共に、冒頭で示した同年7月3日での死去を裏付けている。

 

(参考ページ)

 島津貞久 - Wikipedia

 島津貞久(しまづさだひさ)とは - コトバンク

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.94(一四八号)や、亡くなる直前の譲状など、貞久本人の署名の場合。

*2:『大日本史料』6-25 P.131~の各史料を参照のこと。

*3:前注同箇所。

*4:『朝日日本歴史人物事典』島津貞久の項(コトバンク)より。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:足利尊氏 - Henkipedia 脚注1参照。典拠は『続群書類従』所収「足利系図」。

*7:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三八号)『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年3月 P.60

*8:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.261(二九八号)

*9:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三九号)。『鎌倉遺文』第34巻26592号。

*10:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.516(五一四号)。『鎌倉遺文』第36巻28244号。

*11:『鎌倉遺文』第37巻28604号。

*12:『鎌倉遺文』第39巻30552号。

*13:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.28(四一号)。『鎌倉遺文』第41巻31907号。

*14:『大日本史料』6-1 P.9。『鎌倉遺文』第41巻32433号。

*15:『史料稿本』後醍醐天皇紀・正中2年1~閏1月 P.64。元亨から正中への改元が1324年12月であることについては、元亨 - Wikipedia および 正中 (元号) - Wikipedia を参照のこと。

*16:『大日本史料』6-1 P.7~の各史料を参照のこと。

*17:『大日本史料』6-25 P.49~53

島津忠時

島津 忠時(しまづ ただとき、1202年~1272年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人島津忠久の嫡男で、島津氏第2代当主。子に島津久時(久経)。初名は島津忠義(ただよし)。通称は三郎兵衛尉。大隅守。法名道仏(どうぶつ)。

 

 

吾妻鏡』における忠義(忠時)

まずは『吾妻鏡人名索引』*1に従って登場箇所を確認する。

初出は、承久3(1221)年6月18日条、承久の乱に際し幕府側として参戦した「嶋津三郎兵衛尉」とされる。次いで貞応元(1222)年2月6日条、7月3日条にも「嶋津三郎兵衛尉忠義」とあり、この頃元服済みであったことが窺える。尚、「三郎」は嫡男として父・忠久の仮名を引き継いだもので、必ずしも3男を意味するものではなく、以後家督継承者代々の称号と化している。

翌2(1223)年10月13日条まで「嶋津三郎兵衛尉〔ママ〕」であったものが、次の安貞2(1228)年7月23日条から同年10月15日条、貞永元(1232)年閏9月20日と3回に亘って「嶋津三郎左衛門尉」と書かれており、20代半ば程の年齢で左衛門尉に任官したようである

その後、寛元元(1243)年7月17日条、8月16日条に「大隅前司」、同4(1246)年7月11日条に「大隅守忠時」とあるが、宝治元(1247)年6月14日条に「嶋津大隅前司忠時」とあることから、左衛門尉忠義は後に大隅となって退任し、名乗りも「忠時」に改めたことが窺える(忠義と忠時が同人であることは後述参照)。以後、文応元(1260)年正月1日条まで登場し、実名の表記も「忠時」で通されている。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

尚、建長4年4月3日条に「嶋津大隅修理亮久時」と現れて以降、嫡男の島津久時(のちの島津久経が「大隅修理亮」の通称名で通されて25回登場しており*2、父である忠時大隅守(大隅前司)であったことを裏付けている。

 

 

『島津家文書』における忠義(忠時)

ところで、忠時忠義の改名後の名前であることは「信濃太田庄相伝系図」に「忠義 道佛 改忠時」とある*3によって裏付けられるが、前節で紹介した『吾妻鏡』ではその改名時期を確定させることが難しい。特に左衛門尉時代に関しては実名が書かれていないのでどちらであったかが不明である。

そこで本節では、『島津家文書』に所収の実際の一等史料(書状)における登場箇所を次に掲げながら、その名乗りに着目してみたいと思う。

 

承久3(1221)年8月25日付「関東下知状」:「嶋津三郎兵衛尉忠義*4

承久3年閏10月15日付「関東下知状」:「左兵衛尉惟宗忠義*5

貞応2(1223)年6月6日付「関東下知状」:「左衛門尉藤原忠義*6

貞応3(1224)年9月7日付「関東下知状」:「左衛門少尉藤原忠義*7

嘉禄3(1227)年6月18日付「島津忠久譲状」:「左衛門尉惟宗忠義*8

嘉禄3年10月10日付「将軍家藤原頼経安堵下文」:「左衛門尉惟宗忠義*9

 

前節で紹介した『吾妻鏡』での表記の変化ともほぼ問題なく合致しており、貞応2(1223)年(忠義22歳)の段階で左衛門尉に任官し、その間も「忠義」と名乗っていたことが分かる。

 

 

名乗りについて

以上の内容を踏まえて「忠義」・「忠時」の実名に着目してみたい。

『島津国史』によれば「忠」の字は父・久が元服時に烏帽子親の畠山重から偏諱を受けたものという*10が、一方で忠久の実父は惟宗忠康で単に「忠」字を継承しただけとする説もある。

いずれにせよ、父・忠久から継承した字ということになり、従って「義」の字が烏帽子親からの一字拝領の可能性が考えられる。前節で紹介の通り、当初は2代執権・北条時自らが「忠」の名を記して書状を発給しているが、自らの偏諱である「義」字の使用を認めていたことになる。勿論、義時に「義」字を与えたとされる三浦氏*11の一門(義村・和田義盛など)や、元々通字としていた足利氏一門(義氏など)のように「義」を使っている御家人も少なからずいたが、安達のように「義」字を用いた前例の無い氏族の場合、執権・義時からの一字拝領が十分に考えられると思う。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

忠義の場合、生年に基づくと元服の年次は1211~1216年頃であったと推定されるが、同じく当時の執権であった(在職:1205年~1224年)*12を烏帽子親にした可能性を考えても良いだろう。

 

そして、嘉禄3(1227)年10月~寛元4(1246)年の間に「」に改名したというが、「時」は紛れもなく執権・北条氏の通字である。従って、北条氏から1字を与えられての改名とみて良いだろう。義時の死後、3代執権となった北条泰時(在職:1224年~1242年)*13も「忠義」と書いて下知状を発給しているから、泰時が執権就任後直ちに「時」字を強制したわけではなく、それは「義」が父・義時の偏諱であったからではないかと思われる。

 

ここで参考にしたいのが、泰時の弟・実泰の例である。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

吾妻鏡』によると、建保2(1214)年10月3日、3代将軍・源実朝の御前において元服し、「実」の偏諱と父・義時の1字により当初は「」と名乗っていたが、表記の変化から、嘉禄元(1225)年~安貞2(1228)年1月の間に兄・泰時の1字を受けて「」と改名したようである。

嘉禄3年10月まで「忠義」を名乗り、その後間もなく「忠時」に改名したのだとすれば、実泰の改名時期とほぼ重なる。寛元年間当時の4代執権・経時、或いは寛元4年3月に5代執権となったばかりの時頼の代になって突如「時」字が与えられるというのも妙な話だと思うので、やはり泰時の代に「時」字の付与が行われたと考えるのが自然だと思われるが、泰時晩年期になって突如与えられるというのもまた不自然であろうから、改名時期は実泰とほぼ同じと考えて良いのではないか。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

この頃の泰は、寛喜元(1229)年に武田信、天福元(1233)年に実泰の子で甥にあたる金沢実の烏帽子親を務めて「」字を与えており*14、島津忠も同様にして改名がなされたと推測される。忠時が自らの意志により願い出たものなのか、泰時側から強制されたのかは分からないが、泰時―忠時が烏帽子親子に準じた関係を結んで連携を強化しようとした狙いがあったのではないかと思われる。

忠時の子・久も「時」の偏諱が許され、以後「忠久」も得宗と烏帽子親子関係を結んだようである。

 

(参考ページ)

 島津忠時 - Wikipedia

 島津忠時(しまづ ただとき)とは - コトバンク

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.340「忠義 島津」および P.344「忠時 島津」の項 より。

*2:吾妻鏡人名索引』P.73「久時 島津」の項 より。

*3:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.298(306号)。この系図は、嫡流が忠久の曾孫・忠宗、庶流でも忠久の玄孫の代以降の記載が無く、鎌倉時代後期の成立と推測され、信憑性は高いと思われる。

*4:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.14(20号)

*5:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.15(21号)

*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.15(22号)

*7:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.17(25号)

*8:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.17(26号)

*9:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.18(27号)

*10:鶴峰旭『畠山重忠資料集』第8編「畠山重忠と島津家」P.7・13。

*11:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。

*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪細川氏のブログ)より。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.47・49。

宇都宮貞綱

宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな、1266年?~1316年)は、鎌倉時代中・後期の武将、御家人。宇都宮氏第8代当主。父は宇都宮景綱、母は安達義景の娘。

 

 

はじめに ー 北条貞時からの一字拝領

先学で既にご指摘のように、「」の名は得宗・9代執権の北条から偏諱を受けたものとされる*1。「綱」は宇都宮氏の通字であり、それまで祖父・宇都宮、伯父・宇都宮*2、ひいては貞綱の子・(のちの公綱)*3が北条時、時、時の偏諱を受けたとみられること、貞時存命の間に「貞」の字が許され、例えば嘉元の乱に際しても貞時の命に従う等の姿勢が見られることから疑いは無いと思う。 

従って、貞綱の元服は貞時執権期間(在職:1284~1301年)*4に行われたと考えるのが良いと思われるが、一方で辞書等を見ると貞綱は弘安4(1281)年の弘安の役に参戦したというのである。その一例として岡田清一*5によると、  

弘安4年(1281年)の元寇弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した。その功績により戦後、引付衆に任じられた。

というが、通説によれば当時16歳という元服からさほど経たない青年だったようである。 

www.sankei.com

年齢的には参戦するにあたって差し支えないと思うが、すると時宗が存命にもかかわらず、その嫡男である貞時から1字を拝領したことになる

しかし『関東評定衆伝』を見る限り、この頃の「引付衆」のメンバーの中に宇都宮貞綱らしき人物は載せられておらず評定衆に父の「宇都宮前下野守藤原景綱」が含まれている)*6、更に "出陣したが戦闘には間に合わなかった" とするものもあり*7、もしそうであれば幕府に従順な姿勢を見せただけで(遅刻したことが無関係で)功績を称えられたことになるが、その理由も不可解である。そもそも山陽・山陰地方の6万の軍勢を率いる総大将に、戦場での経験が浅いであろう16歳の若者を起用するというのはあまりにも現実的な想定とは言えないのではないか

 

以上より、貞綱の弘安の役参戦、および生年について疑問に思うところがあったので、以下本項にて再考察を試みたいと思う。

 

 

貞綱の弘安の役参戦について

ところで、貞綱が弘安の役に参加したとする根拠は何であろうか。先学で具体的に言及されていないと思うが、その史料と思われるものを、管見に入った範囲で紹介したいと思う。

【史料A】「深堀系図証文記録」より

弘安四年五月蒙古襲来于筑之博多、賊船無数、其兵十余万侵九州、探題秀堅・大友豊後守時重・太宰小弐父子三人・菊池四郎武通・秋月九郎・原田・松浦・宗像大宮司・三原・山鹿・草野・島津其外御家人三十二人、防戦于豊筑之際、厚東・大内介来加、于豊前賊兵挑戦不利而退、探題被疵、大友戦死、従六波羅宇都宮貞綱為大将其勢六万余騎、先陣已着于長府、蒙古大将出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺帰者幾希、神国霊験異国巻舌、此時深堀左衛門尉時光・深堀弥五郎時仲有戦功

 

【史料B】『備中府志』四 後月郡 より*8

 高越城 東江原村 当城開基宇都宮貞綱、後宇多院弘安四年辛丑蒙古乃(の)兵船来て我国を伐乃(の)とき、山陽道堅固の要として、鎌倉f:id:historyjapan_henki961:20191222165700p:plain(の)下知f:id:historyjapan_henki961:20191222165830p:plainf:id:historyjapan_henki961:20191222170350p:plain(により)当城を築、貞綱城主f:id:historyjapan_henki961:20191222165849p:plain(に)任し(じ)給ふ。

(*変体仮名については http://www.book-seishindo.jp/kana/覚えておきたい 古文書くずし字200選』(柏書房)組見本 を参考とした。) 

 

【史料C】頼山陽 著『日本外史』巻之四 より

仆檣架虜艦,登之擒虜將王冠者安達次郞、大友藏人踵進。虜終不能上岸,収據鷹島時宗宇都宮貞綱,將兵援實政。未到閏月,大風雷,虜艦敗壞。少貳景資等因奮撃鏖虜兵。伏尸蔽海。海可歩而行。虜兵十萬,脱歸者纔三人。元不復窺我邊,時宗之力也。

 

読み下し*9:(弘安)四年七月、水城に抵る。……(略)…帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、 虜の将の王冠せる者を擒にす。安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。 虜、終に岸に上る能はず。収めて鷹島に拠る。時宗、 宇都宮貞綱を遣して、兵に将として(金沢)実政を援けしむ。 未だ到らず。閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。 少弐景資ら、因って奮撃し、虜兵を鏖にす。  

 

【史料D】「江木次郎右衛門家譜」(近藤芳樹「防長国郡志邊要志」巻四*10より

弘安四年大元國之兵数百之船に乗て日本を撃んとす、太宰府に着す、九州諸将戦負大内介弘定*1 厚東彌太郎武仲*2を先鋒とし八郎弘貞右田八郎太郎重俊を卒て赤間を渡り小倉に陣す。菊池肥後守武運〔武通?〕大友豊後守太宰大弐と牒し合て戦ふ。弘定大に利を得給ひ、異賊早速征伐之旨江木六郎弘房*3を以て京都六波羅へ注進あり、六波羅朝綱異賊と九州の諸将と戦て、無利由を聞て下向し給へり。備後國鞆にて行逢朝綱江木に對面褒美不斜弘房防州に帰候よし申傳候事。

*1: 大内弘貞のことか。 *2: 厚東武実の父。 *3: 大内弘貞の実弟。江木次郎右衛門の祖先にあたる人物であろう。

 

【史料B】以下3点の史料については、『備中府志』(『古戦場備中府志』とも)が江戸時代中期の享保20(1735)年の成立*11、『日本外史』や近藤による「防長国郡志邊要志」は1800年代の成立*12であり、いずれも鎌倉時代当時の一等史料とは言えない。よって、これらは江戸時代当時における研究成果と捉えるべきである。

対して【史料A】の「深堀系図証文記録」は深堀氏が建長7(1255)年に肥前国彼杵郡地頭職を与えられて以来の古文書を保存・集成したもの*13である。よって史料的な価値は高く、他の史料3点もこれを直接、或いは間接的に基にしたのではないかと思うが、だからといってそれに誤記が無いとは言い切れない。恐らく上記史料での「貞綱」は父「景綱」の誤りではないかと思う。或いは【史料D】の「朝綱(ともつな)」が正しく、貞綱の初名を伝えるものかもしれない。

 

 

貞綱の生年について

そもそも前節での弘安の役参戦説が成り立ってしまったのは、貞綱の生年が関係していると思われる。

細川重男の研究*14によると、正和5(1316)年7月25日に55歳で亡くなったといい(『佐野本 宇都宮系図』)、逆算すると弘長2(1262)年生まれとなるから、『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条の新日吉社五月会流鏑馬5番にある「下総三郎左衛門尉藤原貞綱」についても「下」が「下」の誤記として当時30歳の宇都宮貞綱であるという。ちなみに、1266年生年説は弘安の役当時16歳であったというところから逆算した異説と思われ、1262年生まれとしても21歳となるから、一応戦闘に参加出来ない年齢でもない。このあたり矛盾が生じていないので、特に異論が出ていなかったのだと思う。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

しかし、こちら▲の記事で指摘した通り、『実躬卿記』の「下総三郎左衛門尉藤原貞綱」は『尊卑分脈』により二階堂頼綱(下総守)の子・貞綱(三郎左衛門尉、本名師綱)にこそ相応しいと思う。よって、宇都宮貞綱が正応4年当時(相応の年齢に達して)左衛門尉であったとする根拠は無くなる。

 

あわせて宇都宮氏歴代当主の官途に着目してみたい。 

宇都宮泰綱*15

建仁3(1203)年生まれ(1)

~嘉禄2(1226)年:修理亮*16(24)

暦仁元(1238)年:下野守・叙爵(36

宇都宮景綱*17

嘉禎元(1235)年生まれ(1)

文応元(1260)年頃:左衛門尉*18(26)

~文永6(1269)年:下野守35

文永9(1272)年~:前下野守(38) 

弘長2(1262)年生まれ(1)

正安2(1300)年「宇津宮三河貞綱」(39)

嘉元2(1305)年「宇都宮下野守貞綱」(44*20

宇都宮高綱(公綱)(1302-1356)*21

建武元(1334)年8月:「宇津宮兵部少輔 公綱」*22(33)

従五位下相当、次官級*23

建武2(1335)年正月28日:「宇津宮左馬権頭公綱」*24(34)

従五位上相当、長官級*25権官

建武2年11月19日:「宇都宮治部大輔公綱」*26

管見の限り「治部大輔」とするのは軍記物語の『太平記』のみであり(他にも複数箇所に「宇都宮治部大輔」の名で登場)、史実として扱うかどうかについては慎重になるべきである。

(任官時期不詳):備前権守 従五位下相当、長官級(国守)、権官

(任官時期不詳、最終官途):左少将(=左近衛権少将)*27(享年55)

正五位上相当(次官級)*28権官 

宇都宮氏綱(1326-1370)*29

足利尊氏の烏帽子子であろう。

観応2(1351)年4月13日付の書状に「宇都宮孫三郎氏綱 修理亮 所望の事」とあり*30東福寺造営の功を以て、尊氏の弟・足利直義が氏綱を修理亮に吹挙しているが、翌正平7(1352)年閏2月16日付「前遠江(=南宗継)執達状」の宛名に「宇都宮下野守殿」とあるのが確認でき*31、どうやら下野守への任官が認められたようである*32。観応2/正平6年当時26歳での任官となる。

その裏付けとして、『師守記』貞治6(1367)年7月5日条に掲載の宣旨によれば、「藤原朝臣義政(=小山義政)」が「藤氏綱(=藤原氏綱)替」えとして下野守に任ぜられたといい*33、これ以前の下野守が宇都宮氏綱であったことを示している。  

宇都宮基綱(1350-1380)*34

足利基氏(尊氏の子、初代鎌倉公方の烏帽子子であろう。

永和3(1377=天授3)年11月17日に2代鎌倉公方足利氏満(基氏の子)が「小山下野守(=義政)」・「宇都宮下野守(=基綱)」両名にそれぞれ、鎌倉円覚寺造営を理由として従来守護にしか許されていなかった領内での棟別銭を命ずる書状を発給しており*35、先行研究では江田郁夫が宇都宮基綱に小山義政と同時期に下野守を名乗ることなどを認めたことで小山氏・宇都宮両氏の対立を助長した可能性をする*36など、のちの裳原(茂原)の戦い(1380年、基綱が敗死)に繋がった史料としても扱われている*37

前述の通りこの当時氏綱は亡くなっているので、「宇都宮下野守」は息子の基綱に比定され、当時28歳で既に任官が認められていたことになる。

 

以後も宇都宮氏歴代当主のほとんどが下野守に任官している*38が、その年齢に着目すると35~36歳(鎌倉時代)→ 27歳程度(南北朝時代)と次第に低年齢化していることが窺える。

ところが貞綱の場合、上の表で見ると下野守より前、三河守在任が初めて確認できる年齢ですら39歳、と遅いように思える。三河守・下野守はともに従五位下相当の上国守である*39が、その任官が祖父や父に比べ遅れる理由は何なのであろう。

そして、何よりも妙なのが、安達義景の娘婿であった父・景綱が、義兄弟(妻の兄弟)安達泰盛一派が討たれた霜月騒動の際に失脚しているのに対し、泰盛の甥にあたる貞綱については特にそういった事実が伝わっていないことである。霜月騒動が任官の遅れに影響したのだとすれば納得がいくが、これを断定し得る史料は確認できない。

 

よって、少なくとも弘長2年生年説については、元々一等史料ではない系図(『佐野本宇都宮系図』)に基づく情報であることからして、直ちに信ずるべきではないと思われる。数年遅らせただけになるが1266年生まれとするのがまだ妥当で、或いは1270年代の生まれとするのが良いのかもしれない。この辺りについては、後考を俟ちたいところである。

 

(参考ページ)

 宇都宮貞綱 - Wikipedia

 宇都宮貞綱(うつのみや さだつな)とは - コトバンク

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪

 

脚注

*1:江田郁夫 編著『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年)P.9。

*2:宇都宮経綱 - Henkipedia 参照。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*5:安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)P.81 「宇都宮貞綱」の項(執筆:岡田清一)。

*6:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*7:宇都宮貞綱とは - はてなキーワード より。

*8:『大日本史料』6-15 P.551

*9:日本外史』(著:頼山陽/訳:頼成一・頼惟勤、岩波書店)より。

*10:防長史談会『防長叢書』(1934年)所収。

*11:新日本古典籍総合データベースCiNii 論文 -  岡山県新見市の金売吉次伝説

*12:日本外史 - Wikipedia近藤芳樹(こんどう よしき)とは - コトバンク より。

*13:収蔵品紹介 公益財団法人鍋島報效会 徴古館長崎市│深堀家系図・深堀系図証文記

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№104-宇都宮泰綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*16:『明月記』嘉禄2(1226)年7月6日条

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その105-宇都宮景綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*18:吾妻鏡』での表記による。詳しくは 宇都宮経綱 - Henkipedia【表1】を参照のこと。

*19:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*20:名越貞宗 - Henkipedia【史料A】・【史料B】 参照。嘉元の乱での討手方としての登場。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:『大日本史料』6-1 P.753

*23:兵部省 - Wikipedia より。

*24:『大日本史料』6-2 P.263

*25:左馬頭(サマノカミ)とは - コトバンク より。

*26:『大日本史料』6-2 P.709

*27:『大日本史料』6-20 P.883同6-5 P.482

*28:左近衛少将(サコンエノショウショウ)とは - コトバンク  より。

*29:宇都宮氏綱(うつのみや うじつな)とは - コトバンク より。

*30:『大日本史料』6-14 P.955~956

*31:『大日本史料』6-16 P.46。また、同年正月の着到状にも「宇都宮下□守□綱」とあり、『大日本史料』6-15 P.596 では(下野守)貞綱とするが、これも正しくは氏綱であろう。すなわち、前年のうちに下野守に任じられた可能性が高いと思われる。

*32:『尊卑分脈』氏綱の注記には「下野守」とあるのみで修理亮に任官した経歴は確認できない。高祖父・泰綱にゆかりの「修理亮」を望んだ氏綱の意に(良い意味で)反し、泰綱・景綱・貞綱が就任してきた「下野守」への任官を認めたようである。

*33:『大日本史料』6-28 P.291

*34:『諸家系図纂』所収「宇都宮系図」(→『編年史料』後亀山天皇紀・天授6年4~5月 P.63)基綱の注記に康暦2年に小山義政と戦って戦死した時31歳との記載がある。

*35:『編年史料』後亀山天皇紀・天授3年9~11月 P.38

*36:大塚秀哉「小山義政の乱に関する一考察」(所収:『大正大学大学院研究論集』41号)P.75。典拠は江田郁夫「小山義政の乱をめぐる諸問題」(所収:『室町幕府東国支配の研究』、高志書院、2008年/初出:1990年)。

*37:宇都宮基綱 - Wikipedia小山氏の乱 - Wikipedia などを参照のこと。

*38:下野国 - Wikipedia  #下野守 参照。

*39:官位相当表(抄)より。

宇都宮高房

宇都宮 高房(うつのみや たかふさ、1297年?~1366年?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人豊前宇都宮氏(=城井氏)の当主で、城井高房(きい ー)とも呼ばれる。通称は弥六、官途は左衛門尉、常陸介。

 

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)によると、宇都宮宗綱の弟・宗房の後裔にあたる宇都宮頼房(大和守)の子で「常陸介  冬綱 次改守綱」と注記があり、のちに宇都宮冬綱(ふゆつな)、次いで宇都宮守綱(もりつな)と改名したという*1

『紀井宇都宮系図*2でも「頼房ノ子 宇都宮常陸介冬綱 正四位以下〔誤記?〕評定衆 法名宗閑 暦応二年三月豊前守護職 貞治五年二月三日於京都卒七十歳云々 冬綱延文五年〔四年の誤記〕八月於筑後国鰺坂(=味坂)ノ陣官軍合戦。」とあるが、この系図は頼房の父・通房について誤った記述があるなど、情報の扱いには注意を要するという*3

また、異説として『佐田系図』では、実は宇都宮貞綱の子、宇都宮公綱(初め高綱)の弟であるというが、同系図では高房の後継者・家綱についても公綱の子とすることから『豊津町史』上巻はこの記載について疑問を呈されている*4

 

元徳元(1329)年12月には頼房の跡を継いでいたらしく、「大和弥六殿」が「大友近江入道殿(=大友貞宗入道具簡)」とともに、弥勒寺造営料について奉行を命ぜられている(『豊前小山田文書』)*5。これが史料上における初見であろう。父が薩摩守*6であった頼房が永仁7(1299)年当時「薩摩六郎左衛門尉」と呼ばれていた*7のと同様に、その後延慶2(1309)年までに大和守となって退任した「大和前司頼房*8の子で「弥六」を称していたことが窺え、この頃までに元服を済ませていたことも分かる。 

ここで「」の実名に着目すると、宗房以来代々の通字「房」(祖先・藤原房前に由来か)に対し、「」は得宗北条偏諱を許されたものと見受けられる*9。後にこの字を改めている(後述参照)ことからしても、高時を烏帽子親として元服したと考えて良いだろう。『紀井宇都宮系図』での記載に従って逆算すると1297年生まれとなるが、同年生まれの足利高義や、1歳上の京極高氏(のちの道誉)の例に同じく、延慶2(1309)年に7歳で元服*10、応長元(1311)年10月26日の父・貞時の死*11に伴い得宗家の家督を継承したばかりの高時から一字を拝領したものと推測される。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

次の2つの史料は、その後元徳3/元弘元(1331)年のものとされ、高房の左衛門尉任官が裏付けられる。

 

史料A】4月21日付「宇都宮高房宇佐宮神馬送文」(『豊前益永家文書』)*12

(端裏書)「弥勒寺造営関東御代官左衛門神馬送文」

神馬壹疋引進候、恐ゝ謹言、

  卯月廿一日  左衛門尉高房 f:id:historyjapan_henki961:20200420002208p:plain

 謹上 宇佐宮惣検校殿

*この文書の案文(控え写し)には「左衛門尉高房」の傍注に「宇都宮常陸」とあるという*13

 

史料B】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*14

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉       安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 

【史料B】は、後醍醐天皇笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げた(元弘の変)ことを受け、9月初頭に幕府側が差し向けた討伐軍の名簿であり、この時高房も従軍していたことが窺える。

次いで、下記2点の史料も見ておきたい。

【史料C】(元弘)3年5月28日付「宇都宮高房執達状」(『田口文書』)*15

〔五〕月廿五日、武蔵   〔修理〕亮英時以下□〔誅〕伐の時、舎弟□〔重〕貞、疵を被る間の事、見候いおわんぬ。仍って執達   〔件の如し〕

    〔元弘〕三年五月廿八日  高房 f:id:historyjapan_henki961:20200420002208p:plain

  田口孫三郎(=信連)殿

 

【史料D】元弘3年6月13日付「前常陸介(=高房)執達状」(『上妻文書』)*16

今年五月廿三日 綸旨、同四月廿七日御教書如此、早任被仰下旨、急速可被上洛也、仍執達如件、

 元弘三年六月十三日  常陸介 f:id:historyjapan_henki961:20200420002208p:plain

  宮野四郎入道(=教心)殿

【史料C】は、書状の保存状態(虫食い等)によるものか、一部欠字が少なからずあるが、推測可能な所もあり、元弘3(1333)年5月25日に鎮西探題北条(赤橋)英時が滅ぼされた*17直後に出されたものと分かる。従って高房鎌倉幕府滅亡と運命を共にしなかったのであった。

【史料D】も花押の一致から「常陸」=高房発給の文書であることが分かり、鎌倉幕府滅亡の直前に常陸となって退任したことが裏付けられよう。

この当時もまだ「高房」を称していたことが窺えるが、翌建武元(1334)年10月の段階で「冬綱」の名が確認できる*18

【史料E】「沙弥善覚請文」(『大悲王院文書』)*19

 筑前国雷山千如寺衆徒申、当山造営用途兵粮米代銭未進弐拾陸貫文事

正員宇都宮常陸前司冬綱為警固可令下向鎮西之由、被仰下之間、既令下国候畢、所詮、於件銭貨者、於国任員数可令究済候、以此旨可有御被〔披〕露候、恐惶謹言、

 建武元年十月十六日  沙弥善覚「請文」

宇都宮常陸前司冬綱」の名は翌2(1335)年2月20日付の雑訴決断所下文でも確認ができ*20鎌倉幕府滅亡後間もなく改名し、建武政権下で鎮西(九州)現地に赴任したことが分かる。山口隼正が説かれる通り「」が得宗北条高時に通じていたが故の改名であったとみて良いだろう*21。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

その後、高房(冬綱)足利尊氏に従ったが、観応の擾乱期に入って尊氏の庶子足利直冬(直義の養子)長門探題として九州に下向してくると、ほぼ一貫して直冬党として活動している。山口氏は「冬」の字が直冬に通じていたと述べられている*22が、前述の「」の初見は直冬の元服より前である*23から、直冬から与えられたものではなく、むしろ先祖と仰ぐ藤原に由来するものであろう。但し、観応の擾乱を経た文和3(1354)年9月の段階では「守綱」に改名していたようであり*24、のちに直冬の家来と見られるのを避けるべくその1字を憚ったことは認められると思う*25

冒頭で掲げた『紀井宇都宮系図』に従えば、暦応2(1339)年に豊前守護職に補任され、延文4(1359)年、筑後川の北方にある鯵坂(あじさか)(現・福岡県小郡市に陣を敷いた少弐頼尚に従い、征西将軍・懐良親王を奉じた菊池氏ら南朝方官軍と戦った*26という。

 

(参考ページ)

 宇都宮冬綱 - Wikipedia

 宇都宮冬綱(うつのみやふゆつな)とは - コトバンク

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:『太宰管内志』中巻「築城郡 - 紀井家」の条に内容の記載あり。

*3:http://miyako-museum.jp/digest/pdf/saigawa/2-3-2-4.pdf P.199。

*4:『豊津町史 上巻』P.627

*5:『鎌倉遺文』第39巻30803号。『豊津町史 上巻』P.627

*6:『分脈』では(宇都宮)景房とするが、実際は宇都宮通房。

*7:『豊津町史 上巻』P.614P.651

*8:延慶2年6月12日付「鎮西下知状」(『肥後佐田文書』、『鎌倉遺文』第31巻23700号)。

*9:『豊津町史 上巻』P.651

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*12:『鎌倉遺文』第40巻31413号。

*13:前注同箇所。

*14:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*15:読み下し文は http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/4-3-1-3.pdf P.626 より。原文は漢文体。

*16:山口隼正『南北朝期 九州守護の研究』(文献出版、1989年)P.59 より。

*17:『大日本史料』6-1 P.7~の各史料 および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その31-赤橋英時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)を参照のこと。

*18:『豊津町史 上巻』P.651

*19:注16前掲山口氏著書 P.63。『南北朝遺文』九州編1 P.43 142号。

*20:『大日本史料』6-2 P.288

*21:注16前掲山口氏著書 P.62~63。

*22:注16前掲山口氏著書 P.62・66。

*23:直冬の生年や幼少期の活動については 足利直冬 - Wikipedia を参照のこと。

*24:『豊津町史 上巻』P.651~652。注16前掲山口氏著書 P.62・66・118。文和3年8月19日付、9月12日付の尊氏の書状にそれぞれ「宇都宮常陸前司殿(宛名)」(→『大日本史料』6-19 P.133)、「宇都宮前常陸介守綱」(→『大日本史料』6-19 P.154/『南北朝遺文』九州編3 P.382 3726号)とあり、正平17(1362)年7月11日付の書状(『宇佐益永証文』)にも「宇都宮常陸前司守綱」とあるのが確認できる(→『大日本史料』6-24 P.339)。

*25:『豊津町史 上巻』P.652。注16前掲山口氏著書 P.62。

*26:この合戦については 筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)とは - コトバンク を参照のこと。