工藤貞景
工藤 貞景(くどう さだかげ、生年不詳(1280年代?)~1333年?/1334年?)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。通称および官途は 六郎、左衛門尉。藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏助光流一族の者と推測される。工藤時光の子で工藤貞祐の弟か。
まずは、貞景の実在が確かめられる史料を掲げておきたい。
●【史料1-a】(嘉元2(1304)年)卯月(4月)2日付「工藤貞景書状案」(『東寺百合文書』)*1:「塩飽入道殿」宛て、署名に「貞景」
●【史料1-b】同日付「塩飽右近入道書状案」(『東寺百合文書』)*2:「播磨田左近入道」宛て。冒頭に「塩飽右近入道殿返状案 自工藤六郎殿仰談候若州田畠弐町余事……」とあり。
*貞景とやり取りした塩飽入道ないしは塩飽右近入道は、貞和2(1346)年2月日付「若狭国太良庄禅勝申状案」(『東寺百合文書』)*3の文中にある同国恒枝保・富田郷などの給主「塩飽右近入道法〔ママ、塩飽右近入道道法か〕」*4に比定されるのではないかと思われ、筆者は塩飽盛遠(了暁)の父と推測する。
●【史料2】(元亨3(1323)年)「東寺供僧申状案」(『東寺百合文書』)*5:文中に「工藤六郎左衛門尉貞景」
●【史料3】(元亨3年)「東寺供僧申状案」(『東寺百合文書』)*6:文中に「工藤六郎左衛門尉貞景」
●【史料4】(建武元(1334)年?)3月26日付「若狭国太良庄地頭代・脇袋彦太郎代官 僧・順生請文」(『東寺百合文書』):「……将又工藤六郎 并 恒枝保先給主塩飽右近入道状等案文二通副進候、……」*7
●【史料5】(建武元年?)3月26日付「若狭国太良庄百姓等申詞」(『東寺百合文書』):「……其後給主工藤六郎殿知行時、……」*8
●【史料6-a】建武元年4月付「百姓等申詞」(『東寺百合文書』):
「……当荘給主工藤六郎貞景、於関東有其沙汰之処、……」*9
「……一. 工藤六郎貞景状之正文事、可有敵方状にて候、……」*10
●【史料6-b】建武元年4月20日付「僧・良厳注進状」(『東寺百合文書』):
「……一. 工藤六郎貞景 并 塩飽右近入道之状等案、」*11
●【史料7】建武元年6月26日付「若狭国太良荘百姓等書状」(『東寺百合文書』):「……且先御給主工藤六郎左衛門尉殿跡、当国永富保 并 国中御内御領于所々、……」*12
この史料により、建武元年に入って貞景の「跡」=旧領が、同国にある北条氏得宗領と共に収公されたことが窺える。前々年(1333年)の鎌倉幕府滅亡を受けての処置であろうから、貞景も東勝寺合戦、或いは後述の大光寺合戦(1334年)で運命を共にしたのではないかと思われる。
●【史料8】建武2(1335)年「若狭国太良荘雑掌申状案」(『東寺百合文書』):「……竹向方上表之後者、工藤六郎左衛門尉貞景給之、任竹向之例、二十余箇年知行之、……」*13
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この貞景についてはどの系図上でも確認できないが、同じく得宗被官であった工藤次郎右衛門尉貞祐の兄弟と推測する見解もある*14。貞祐については、近年今野慶信氏が「南家伊東氏藤原姓大系図」*15に着目して系譜を明らかにされた。
確かに、得宗被官であるだけでなく、貞景の「景」が工藤景光に通ずることからしても、貞祐の近親者であった可能性は高いだろう。「六郎」の仮名や「左衛門尉」の官途を持つことからすると、祐光の子(この場合、貞祐の従兄弟)、或いは貞祐に次ぐ時光の準嫡子(貞祐の弟)のいずれかが有力ではないかと思う。「六郎」は必ずしも6男を表すわけではないことに注意しておきたい。
貞祐などの工藤氏一族は20代で左衛門尉、右衛門尉等に初任官する傾向にあったとみられ、貞景もその例外ではないだろう。【史料1】にあるように1304年当時は無官で「工藤六郎(貞景)」とのみ呼ばれていたようだが、これは元服からさほど経っていなかったからであったとみられ、若くとも10代半ば位であったと推測できる。
そして【史料2】・【史料3】が示すように、初出から19年経った1323年当時は左衛門尉に任官済みであったことが分かるが、若くとも30代というのは在任の年齢として全然問題はない。
よって、逆算すると遅くとも1280年代後半の生まれになるだろう。1304年当時、得宗・副将軍(前執権)の北条貞時(出家して崇演)の偏諱を許されて「貞景」を名乗っていることからすると、貞景は貞時の執権期間(1284~1301年)*17内に元服して一字を拝領したものと判断される。
備考
『新編弘前市史 通史編1』には、「後醍醐方では、同年(=1333年)九月には津軽四郡の検注を工藤貞景に命じ、津軽地方の支配固めに入ったのであるが、ことはそう容易ではなかった。津軽の武士のなかにはなお幕府方に思いを寄せるものも多く、実際のところ先の検注の命を受けた貞景自身、のちに幕府方につく人間であるから、右の検注が成功したかどうかも怪しいものである。」との記述がある*18。
詳しくは後述するが、この貞景は「工藤治部右衛門二郎貞景」という、通称名が異なる同姓同名の人物である。治部右衛門とは「治部大輔」等治部省関係の役職にありながら右衛門尉に任官していたことを表すとみられ、貞景はその「二郎(息子、本来は次男の意)」であったことになる。従って前述の "六郎" 貞景とは別人と見なすべきであろう。
まずは、貞景に検注を命じたというその書状を紹介する。
●【史料α】元弘3(1333)年9月24日付「掃部助某等連署奉書案」(岩手大学所蔵『新渡戸文書』)*19:
(端裏書)「治部衛門二郎殿〔ママ〕 御書下案文」
津軽四郡田数 并 得分員数及給主交名事、帯文書者可令写進之、無其儀者不曰不国急速可被進也、仍執達如件、
元弘三年九月廿四日 沙弥 有判
前賀賀〔ママ、加賀カ〕守 同
掃部助 同
工藤治部右門二郎殿〔ママ〕
そして、この「工藤治部右〔「衛」 脱字か〕門二郎」は、翌建武元(1334)年11月19日、持寄城に楯籠っていた旧鎌倉幕府方の名越時如・工藤高景*20らが降伏したことにより終結した、いわゆる大光寺合戦から約1ヶ月後、12月14日付けで南部師行が陸奥国司の北畠顕家など全軍に報告するために、降伏した捕虜52人と預人21人の名簿としてまとめた「津軽降人交名注進状」(『遠野南部家文書』)にある「工藤治部右衛門二郎貞景」*21と同人であろう。この貞景は安保弥五郎入道のもとに身柄を預けられたが「死去」の注記がある通り、何かしらの処分が下される前に亡くなったらしい。
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脚注
*1:『鎌倉遺文』第28巻21782号。ミ函/15/1/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書、ゑ函/12/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書。
*2:『鎌倉遺文』未収録文書99900506号(データベース検索結果より)。ミ函/15/2/:塩飽右近入道書状案|文書詳細|東寺百合文書。
*3:リ函/45/:若狭国太良庄禅勝申状案|文書詳細|東寺百合文書。
*4:『東寺百合文書』リ之部24~34号-三 P.50。『福井県史』通史編2 中世。
*5:ゑ函/26/:東寺供僧申状案|文書詳細|東寺百合文書。
*6:無号之部/23/:東寺供僧申状案|文書詳細|東寺百合文書。小泉聖恵「得宗家の支配構造」(所収:『お茶の水史学』40号、1996年)P.29。
*7:『大日本史料』6-1 P.544~545。ゑ函/122/:若狭国太良庄地頭代脇袋彦太郎代僧順生請文|文書詳細|東寺百合文書。
*8:『大日本史料』6-1 P.545。ゑ函/123/:若狭国太良庄百姓等申詞|文書詳細|東寺百合文書。
*11:『大日本史料』6-1 P.548。ゑ函/27/:若狭国太良庄良厳注進状|文書詳細|東寺百合文書。
*13:『大日本史料』6-2 P.564。は函/93/:若狭国太良庄雑掌申状案|文書詳細|東寺百合文書。
*15:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)。
*16:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*18:『新編弘前市史 通史編1 古代・中世』 P.314。
*19:『新編弘前市史 資料編1 古代・中世編』六二九号文書。
*20:安達高景とする説が誤りと思われることは 【論稿】大光寺合戦における工藤氏一族について - Henkipedia 参照。
横溝高貞
横溝 高貞(よこみぞ たかさだ、1310年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官(御内人)。通称は八郎(横溝八郎)。
横溝氏は、元は伊豆国を本貫とする、藤原姓工藤氏一族の御家人であった。「南家 伊東氏藤原姓大系図」によると、工藤景光の弟・時澄が「横溝四郎」を称したことに始まり、息子の横溝五郎資景(資重)・七郎時忠の2系統に分かれたようである*1が、陸奥国糠部郡内の各地で得宗領の給主として確認され、次第に得宗被官化していたことが知られる。
鎌倉幕府の年頭行事の一つである的始(まとはじめ)の記録である『御的日記』には、この横溝氏の一族とみられる者が散見される中、以下の箇所で「横溝八郎高貞」の名が確認できる*2。
① |
日程 |
試合番号 |
対戦相手 |
勝敗 |
②成績 |
399 |
正中3(1326)年正月9日 |
3 |
本間山城四郎泰忠 |
勝利 |
9/10 |
409 |
嘉暦2(1327)年正月11日 |
2 |
本間孫八為頼 |
引き分け |
9/10 |
443 |
元徳3(1331)年正月12日 |
1 |
合田余一高遠 |
引き分け |
9/10 |
①:下記太刀岡氏論文の表での通し番号。 ②:(的中数/射数)で示した。
的始は、弓矢に堪能な御家人を射手に選び、2人一組で弓矢を射させて的中数で勝負を競ったものである。高貞の場合、毎回的中率が9割と好成績を残しており、同等に強い相手と良い勝負を繰り広げていた様子が窺える。弓の才があったのだろう。
初出当時の執権・得宗は北条高時(在職期間:1316年~1326年)*3であり、同年3月に出家するまでに高貞がその偏諱「高」を許されていたことが窺える。亡くなる1333年まで無官で「八郎」とのみ名乗っていることからしても、弓始参加時は元服からさほど経っていなかったと考えられ、高時と高貞は烏帽子親子関係にあったと判断される(ちなみに、3回目の対戦相手、合田高遠も同様であろう)。
元弘3(1333)年5月16日、関戸の戦いで「横溝八郎」が安保氏(安保入道道潭父子)らと北条泰家(高時の弟、左近大夫入道恵性)を大将とする軍勢に属して倒幕勢力と戦い戦死したことが次の史料2点に見えるが、通称名の一致から高貞に比定されよう。
●『太平記』巻10「三浦大多和合戦意見事」*4:「大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。」
●『梅松論』:「翌日十五日分配〔ママ、分倍か〕・関戸河原にて終日戦けるに命を落とし疵を蒙る者幾千万といふ数を知らず。中にも親衛禅門の宗徒の者ども、安保左衛門入道道潭・粟田・横溝ばら最前討死しける間、鎌倉勢ことごとく引退く処、則ち大勢攻めのぼる間、鎌倉中の騒ぎ、只今敵の乱入たらんもかくやとぞおぼえし。」
『太平記』の方では、泰家に追い縋る敵兵に対し、横溝八郎(高貞)がそれを庇う形で踏み止まり、時の間に射落とした後に主従三騎で討ち死にしたと伝える。前述の弓始での好成績を髣髴とさせる活躍ぶりで、自身の命と引き換えに大将を逃がす忠義を貫いたのであった。
尚、下記の『多摩市史』では、久米川の戦いでの幕府軍の敗戦を受け、急遽分倍河原に派遣された泰家の軍勢の中の「安東左衛門尉高貞」*5と横溝八郎高貞を同一人物ではないかとする。その書きぶりからすると、恐らく同じ得宗被官であることや「高貞」という実名の共通からの判断によるものと思われるが、左衛門尉への任官が確認できる安東高貞と、無官で「八郎」と名乗ったままで討死した横溝高貞とでは、通称の観点からそれには無理があると思うし、前述『御的日記』と合わせれば「横溝八郎」→「安東左衛門尉」→「横溝八郎」となぜか一時的に通称を変えたことになって現実的と言えないだろう。
*当該期に「高貞」の名を持つ人物は他にも、宇都宮高貞、塩冶高貞、戸次高貞(早世)、二階堂高貞と少なからず確認できる。戸次については系図に明記されているように、彼らは自身が烏帽子親・北条高時から受けた「高」と、父が北条貞時から受けた「貞」とで実名を構成しており、安東・横溝も同様だったのではないか(特に安東の方は安東左衛門尉貞忠の子ではないかと筆者はみている)。
一方で、前述の『御的日記』には元亨4(1324)年正月14日の的始にて原孫六郎資頼に勝利した「猿渡八郎高貞」なる人物が確認でき、「八郎」の仮名と10/10という好成績の共通から、まだこちらと同一人物とする方が良いかと思うが、同じく根拠に弱いため、筆者は養子入りの可能性も低いと判断の上で、同名の別人として扱う。ただ、猿渡八郎も同じく高時の偏諱を受けた烏帽子子であろう。
(参考ページ)
●『多摩市史 通史編1』(多摩市史編集委員会 編、多摩市、1997年)
①P.622~623「横溝八郎と安保道潭」
②P.626~627「横溝八郎の墓」
● 橋場万里子「関戸合戦と関戸の地域性」(第5回多摩川流域歴史セミナー、2017年)開催報告資料 P.2
脚注
*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67 より。
*2:太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:「太平記」三浦大多和合戦意見の事(その4) : Santa Lab's Blog。
*5:『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」。尚、時系列としては久米川の戦い→分倍河原の戦い→関戸の戦い(横溝高貞ら戦死) の順である。
高島泰信
佐々木 泰信(ささき やすのぶ、1230年頃?~没年不詳(1263年~1292年の間か))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。通称および官途は 孫四郎、左衛門尉。佐々木信綱の次男で高島氏の家祖・佐々木(高島)高信の嫡男で、高島泰信(たかしま ―、旧字体:高嶋泰信)とも呼ばれる。子に佐々木(高島)泰氏、佐々木行綱。
『吾妻鏡』を見ると、寛元3(1245)年8月15日条「佐々木孫三〔四〕郎泰信」を初見とし、翌4(1246)年8月15日条にも「佐々木孫四郎泰信」とあって、この時までに元服を済ませていたことが窺える。
次いで建長4(1252)年4月3日条に「佐々木四郎左衛門尉泰信」とあり、左衛門尉の官職を得たことも確認できる。同8(1256)年8月15日条「佐々木近江弥〔孫〕四郎左衛門尉」とあるように、佐々木信綱(四郎、近江守)の孫で仮名が四郎、官途が左衛門尉であったが故にそのようにも呼ばれていたことが窺え*1、『尊卑分脈』佐々木氏系図における高信の長男・泰信(左門尉)に比定されよう。以後、弘長3(1263)年8月15日条「佐々木孫四郎左衛門尉泰信」に至るまで計13回登場する*2。
父・高信については生没年不詳のようだが、その兄弟については、太郎重綱が1207年*3、三郎泰綱が1213年、四郎氏信が1220年の生まれと判明しており、"信綱二男、高島次郎左衛門" 高信*4の生年は1208~1212年の間に推定できよう。
*『吾妻鏡』元仁元(1224)年正月1日条には「佐々木右衛門次郎信高〔ママ、高信〕 同三郎泰綱」とあり、高信・泰綱兄弟が10代前半の適齢を迎えて元服済みであったことが分かる。
間を取って1210年頃の生まれとすると、現実的な親子の年齢差を考慮して、長男・泰信の生年は早くとも1230年頃と推定できる。この場合、初出の1245年には元服して間もない位の16歳(数え年、以下同様)、左衛門尉任官後の1252年には23歳となり、十分妥当な年齢と言えよう。
*参考までに佐々木氏一族の近親者の例を見ておこう。
まず、佐々木氏六角流の例だと、従弟にあたる頼綱は5代執権・北条時頼の邸宅にて9歳で元服し、『吾妻鏡』での呼称の変化から16歳で左衛門尉に任官していたことが窺える。頼綱の父・泰綱も『吾妻鏡』で確認してみると、11歳の段階で確実に元服を済ませており、17歳までは無官で「佐々木三郎」とのみ呼ばれていたものが、25歳までには左衛門尉に任官済みであったことが分かる。
京極流の祖・氏信は16歳にして「近江四郎左衛門尉氏信」の呼称で『吾妻鏡』に初めて現れ、左衛門尉任官済みであったことが分かる(のちに対馬守に任官)。同じく『吾妻鏡』にて、その長男・頼氏は16歳の時に「対馬太郎頼氏」として初出し、その3年後には「佐々木対馬太郎左衛門尉頼氏」と表記が変化している*5。
そして高島氏の祖である父・高信は『吾妻鏡』前述の初見記事(「佐々木右衛門次郎信高」、当時15歳位)からしばらく現れないが、嘉禎元(1235)年7月27日条で「近江入道虚仮(=信綱)子息次郎左衛門尉高信」と再登場し*6、当時20代半ば位で左衛門尉に任官済みであったことが分かる。
ここで「泰信」の名に着目すると、「信」が祖父・信綱、父・高信より継承してきた通字であるのに対し、「泰」の字は、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が亡くなる仁治3(1242)年*7までに元服しその偏諱を賜ったものと考えて良いだろう。叔父・泰綱がその前例であったが、泰信も同様に泰時と烏帽子親子関係にあったと判断される。
以後の高島氏は、嫡流が「四郎」を代々の通称とし、嫡男の高島泰氏をはじめ、一族には高信の「高」や泰信の「泰」を含む者が多く見られる*8。
尚、正応5(1292)年10月24日には「あまめうこ」=尼・妙語(後述参照)による平仮名や変体仮名が用いられた譲状が出されている*9が、「……(※読み下し)四郎右衛門行綱ニ譲り賜うべしといえども、ちゝ四郎さゑもん入多う(=父四郎左衛門入道)の習い置く所をも背き、ことごとく不孝のものなるによりて長く勘当し」たので、「をい之(甥の)て者(出羽)の三ろうさゑもん(三郎左衛門)より能ふ(頼信)」に所領を譲り渡す旨が記されている。後世の永和3(1377)年12月21日付「足利義満袖判裁許状」でも「佐々木出羽守氏秀……曾祖母妙語」について「…而実子行綱依為不孝之質、譲与(譲り与える)甥佐々木出羽三郎左衛門尉頼信。…」と言及されている*10から、すなわち妙語の実子が四郎右衛門行綱なのであり、『尊卑分脈』での泰信の子・右衛門尉行綱(佐々木行綱)に比定される。「父四郎左衛門入道」は泰信ということになり、妙語はその妻および行綱の母ということになる。
妙語がこの当時出家して尼になっていること、実子の行綱や、泰信の甥(頼綱の子)頼信に所領を譲る話をしていることからして、正応5年当時、泰信は既に亡くなっていたと考えられる。その呼称から、生前左衛門尉から国守等に昇ることなく出家していたことも窺える。
(参考ページ)
● 武家家伝_高島氏
● 佐々木泰信譲状
脚注
*1:越中家(高島)と能登家(平井)の系譜―高島七頭(1): 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ)、武家家伝_高島氏 より。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.327「泰信 佐々木」の項。
*3:佐々木重綱 - Wikipedia。佐々木重綱(ささき しげつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク。
*5:京極頼氏 - Henkipedia を参照。
*6:『吾妻鏡人名索引』P.166「高信 佐々木」の項より。尚、同書では P.258「信高 佐々木」の項と別々で分けてしまっているが、信高=高信と見なせることは 佐々木泰綱 - Henkipedia を参照。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*8:近江における佐々木一族/高島七頭とその城郭 - 滋賀県。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
塩谷泰朝
塩谷 泰朝(しおのや やすとも、1214年~1279年、旧字:鹽谷 ―)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。宇都宮氏一門・塩谷氏第3代当主。通称 および 官途は四郎(周防四郎)、兵衛尉、左衛門尉。父は第2代当主・塩谷朝親(『尊卑分脈』では親朝)。
『吾妻鏡人名索引』*1によると、『吾妻鏡』仁治元(1240)年3月12日条「塩谷四郎兵衛尉」を初見とし、この人物は次いで正嘉元(1257)年8月15日条に「周防四郎兵衛尉泰朝」、同年10月1日条に「塩谷周防四郎兵衛尉泰朝」と出てくることによって、塩谷泰朝と分かる。以降、次の箇所で登場する。
● 正嘉元年12月24日条「塩谷周防四郎兵衛尉追加、」
● 正嘉2(1258)年6月17日条「塩屋〔ママ〕周防兵衛尉」
● 弘長3(1263)年8月8日条「周防四郎左衛門尉」・9日条「周防四郎左衛門尉泰朝」
ちなみに「周防」というのは父の官途=周防守に因んだものであり、当時のそれに相応しい人物は、塩谷朝親である*2。
『秋田塩谷系譜』(秋田県史資料室所蔵)によると、泰朝の生年は建保2(1214)年であったといい*3、初出の1240年当時27歳(数え年)で兵衛尉に任官済みであったことになるが、宇都宮氏一族は20代のうちに最初の官職を得る傾向にあった*4ので特に問題なかろう。
『秋田塩谷系譜』には父・朝親が建長2(1250)年10月14日に57歳で没したとの記載があるようで、逆算すると建久5(1194)年生まれとなるが、没年月日については『吾妻鏡』でも裏付けられ、子・泰朝との年齢差でも現実的で矛盾はない。
<宇都宮氏略系図>
└ 朝業(1174-)―朝親(1194-)―泰朝(1214-)
*塩谷氏は『秋田塩谷系譜』に基づいた各Wikipedia、それ以外の人物は『下野国誌』9 所収の「宇都宮系図」・「横田系図」に拠って生年を掲げたが、こうして照らし合わせてみると上手く辻褄が合っていると言えよう。尚、『下野国誌』には「塩谷系図」も載せられており、生没年に関する情報はあまり記載されていないが、系譜や通称・官途といった注記では『尊卑分脈』や『秋田塩谷系譜』と十分一致している。
前述の生年に基づくと、北条泰時が鎌倉幕府3代目の執権として継いだ元仁元(1224)年*5当時、泰朝は11歳と、元服には十分適している年齢に達していたことになる。両者は「泰」の字を共有しており、烏帽子親子関係にあったと判断される。すなわち、泰朝は執権となったばかりの泰時の加冠により元服し、その一字を賜ったと考えて良いだろう。
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.331「泰朝 塩谷」の項。
*2:『吾妻鏡人名索引』P.365「朝親 塩谷(宇都宮)」の項 によると、建長2年3月1日条「周防前司入道」、同年10月14日条「前周防守従五位下藤原朝臣朝親法師卒」(逝去の記事)、同年11月11日条「故塩谷周防前司入道」・「朝親法師」の3箇所で登場。
*3:塩谷泰朝 - Wikipedia 参照。
*4:詳しくは 宇都宮泰親 - Henkipedia を参照のこと。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
宇都宮泰親
宇都宮 泰親(うつのみや やすちか、1220年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。通称および官途は 五郎、左衛門尉、淡路守。呼び方は横田泰親とも。
『吾妻鏡人名索引』*1によると、『吾妻鏡』寛元4(1246)年7月11日条「宇都宮五郎左衛門尉泰親」を初見とし、以降、弘長元(1261)年7月29日条まで「宇都宮五郎左衛門尉」と書かれていたものが、同年8月8日条からは「越中五郎左衛門尉」と表記が変化しており、弘長3(1263)年8月15日条「越中五郎左衛門尉泰親」に至るまでの11箇所に登場する。
「越中」とは父の官途=越中守に因むものであり、この頃のそれに該当する人物は「越中前司頼業」*2と書かれた宇都宮(横田)頼業(宇都宮四郎左衛門尉、宇都宮大夫判官)であろう。『尊卑分脈』宇都宮氏系図でも越中守頼業の長男に淡路守泰親の記載が見られる。但し、同系図には頼業の同母兄・宇都宮(上条)時綱の末子である淡路守親泰の注記に「為頼業子」と叔父・頼業の養子になったことが書かれており、頼業の子にたまたま同じ淡路守になった、字が逆転しただけの「泰親」と「親泰」が別々にいたと考えるよりは、この二人が同一人物であったと考える方が現実的であろう。
ここで着目したいのが、『吾妻鏡』初出の1246年当時、既に左衛門尉に任官済みであったということである。宇都宮氏近親者を例にその適齢を調べてみよう。
「横田系図」によると、養父・頼業は建治3(1277)年に83歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい*3、逆算すると1195年生まれと分かる*4。『吾妻鏡』承久元(1219)年7月19日条「宇都宮四郎」として初出し、次の安貞2(1228)年7月23日条「宇都宮四郎左衛門尉」までに、25~34歳で左衛門尉に任ぜられたことが窺える。
もう一人の叔父・泰綱は24歳までに修理亮の官職を得ていたことが分かっており*5、その子・景綱も正嘉2(1258)年~文応元(1260)年の間に24歳前後で左衛門尉に任官したことが判明している*6。
よって、泰親も同様に24歳位の年齢で左衛門尉に任官した可能性が高く、その時期を初出の1246年の前半と仮定した場合、1223年頃の生まれと推定できる。生年がこれより下ることは無いだろう。
また、「宇都宮系図」によると祖父・頼綱は正元元(1259)年に88歳で亡くなったとあり*7、逆算すると1172年生まれとなる(82歳没で1178年生との説もあり)ので、各親子間の現実的な年齢差を考慮すると、子の時綱が早くとも1192年、孫の泰親が同じく1212年の生まれと推定できる。特に時綱は、前述の頼業の数年年長の兄となってほぼ妥当な推定と言えよう。
以上より、泰親の生年は1212年~1223年の間と推定可能である。『尊卑分脈』に泰親(親泰)の兄として長高、時村、時親が載せられているのを考慮して、1220年頃の生まれと推定しておくことにしよう。
そして、元服は通常10代前半で行われることが多かったから、「泰親」の名は元服当時の執権・北条泰時(在職期間:1224年~1242年)*8を烏帽子親とし、その偏諱を許されたものと判断される。
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.327「泰親 宇都宮」の項。
*2:『吾妻鏡人名索引』P.415~416「頼業 宇都宮」の項。
*3:『下野国誌』9 (31ページ目)所収「横田系図」頼業 の注記より。
*4:ちなみにこの年の7月に頼業の祖母である稲毛女房が亡くなっている。
*5:宇都宮泰綱 - Henkipedia 参照。
*6:宇都宮経綱 - Henkipedia【表1】参照。
*7:『下野国誌』9 (6ページ目)所収「宇都宮系図」頼綱 の注記より。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
諏訪盛経
諏訪 盛経(すわ もりつね、1230年頃?~没年不詳(1290年代?))は、鎌倉時代中期の武将。北条氏得宗家被官である御内人。主な通称および官途は 三郎、左衛門尉、左衛門入道。法名は真性(しんしょう、旧字体:眞性)。
諏訪盛重の3男。子に諏訪宗経。
諏訪盛経に関する史料
まず、盛経(真性)の史料上での登場箇所は次の通りである*1。
●【史料1】『吾妻鏡』建長3(1251)年11月27日条:「諏方三郎盛綱〔ママ〕」
*『分脈』に盛綱なる人物は載せられておらず、下記の通り僅か2年後に諏訪氏で同じ「三郎」を持つ盛経と同人と考えるのが妥当であろう*2。また、別史料により諏訪七郎盛綱の存在が明らかとなっており*3、恐らく系図類に載せられていない盛重の子である可能性も考えられるが、諏訪氏一門・世代の近い者同士(盛重の子であれば兄弟間)で「盛綱」と名乗る人間が2人もいたとは考え難く、この点からも三郎=盛経で良いと思う。
●【史料2】『吾妻鏡』建長5(1253)年1月3日条:「諏方三郎左衛門尉盛経」
●【史料3】『吾妻鏡』建長8(1256)年1月5日条:「諏方三郎左衛門尉盛経」
●【史料4】(文永2(1265)年?)「下総香取社𡡛殿遷宮用途注文」(『香取神社文書』):文中に「……仍地頭諏方三郎左衛門入道真性造進之、……」*4
●【史料5】『吾妻鏡』文永3(1266)年6月19日条:「諏方三郎左衛門入道」
●【史料6】(建治3(1277)年か)4月5日付「渋谷重経(定仏)書状案」(『薩摩入来院文書』)の宛名「諏方入道殿」*5
●【史料7】「けんち3ねん」6月24日付「渋谷重経(定仏)置文案」(『薩摩入来院文書』):文中に「……すわとのにつきたてまつりて申上て候か、……」*6
●【史料8】『建治三年記』7月23日条「関東評定事書」:「諏方左衛門入道」*7
●【史料9】『建治三年記』12月10日条「関東評定定文」:「諏方左入(=左衛門入道の略記)」*8
●【史料10】『建治三年記』12月16日条:「諏方」
●【史料11】『建治三年記』12月25日条「関東評定事書」:「……評定以後、城務・康有(=『建治三年記』筆者自身)・頼綱・真性御前に召さる。御寄合有り。……」*9
●【史料12】(弘安元(1278)年?)「渋谷重経(定仏)後家尼妙蓮等重訴状」(『薩摩入来院家文書』):「一通.定仏遣諏方入道真性許状案」*10
●【史料13-a】弘安7(1284)年正月4日付「得宗家奉行人奉書案」(『東寺百合文書』な):発給者「沙弥」の署名と判*11
●【史料13-b】弘安7年9月9日付「得宗家奉行人奉書」(『相模円覚寺文書』):発給者「真性」の署名と花押*12
*【史料13】はいずれも左衛門尉・平頼綱に次ぐ奉者第二位*13。ちなみに第三位は加賀権守・佐藤業連。
●【史料14】弘安10(1287)年10月3日付「関東下知状」(『薩摩山田文書』):「以諏方入道、申人子細之由、」*14
*元亨2(1322)年のものとされる「平河道照申状」(『肥後平川文書』)*15の文中に「……其後惣越訴事、皆以被与奪御内之時、為諏方左衛門入道直性 于時在俗 奉行執沙汰処、」とあり、前半の内容は、笠松宏至・細川重男両氏が言及の通り『鎌倉年代記』正安2(1300)年条の「十月九日止越訴、相州家人五人奉行之」*16に比定されるから、同年に直性が「相州(=相模守・北条貞時)家人五人奉行」の一人としてまだ在俗(出家前)であったことが分かる*17。よって【史料14】の「諏方入道」も直性の父・真性に比定して問題ない。
●【史料15】正応5(1292)年10月13日付「執権(北条貞時)公文所奉書案」(『東寺百合文書』リ)*18:「工藤右衛門入道殿(=工藤杲禅)」に宛てたもの。細川氏は、奉者第一位「左衛門尉」、第二位「沙弥」を各々「平宗綱カ」・「諏訪盛経カ(=真性)」と推定*19。
生年と烏帽子親の推定
『吾妻鏡』では弟・諏訪盛頼が先に登場し、初出は建長2(1250)年1月1日条「諏方兵衛四郎盛頼」である*21。すなわち前年(1249年)までには元服を済ませていたことが分かり、兄である盛経の元服もそれ以前であることが確実となる。
更に、盛頼は翌建長3(1251)年1月10日条にも「諏方兵衛四郎盛頼」とあったものが、同6(1254)年1月4日条からは「諏方四郎兵衛尉」と呼称が変化しており、1252~53年の間に父・盛重と同じ兵衛尉に任官したことも窺える。
兄弟で比較すると、1251年には三郎盛綱〔盛経〕(【史料1】)、四郎盛頼は共に無官であったが、1253年には兄・盛経が兵衛尉より上位の左衛門尉に任官済み(【史料2】)であるから、前年の1252年に兄弟揃って官職を得たものの、兄が左衛門尉、弟が兵衛尉という形で差が付けられたことが窺えよう。相応の年齢を考えると、この時、兄弟ともに20代には達していたものと推測される。
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弟・盛頼についてはこちら▲の記事で1233年頃と推定したので、兄・盛経の生年は1230~32年あたりとなろう。
ここで「盛経」の名に着目すると、「盛」が父・盛重から継承した1字であるのに対し、「経」は10代前半で迎える元服の際、当時の4代執権・北条経時(在職期間:1242年~1246年)*22を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと考えられる。父の代から得宗被官化していた身分で、経時の烏帽子親でもある4代将軍・藤原(九条)頼経から「経」の1字を賜ったとは考え難い。
【系図16】にも載せられている嫡男・宗経も盛経の「経」字を継承し、得宗・北条時宗(8代執権)の偏諱を受けたと考えられている*24。そして「諏方左衛門入道*25(=前述の直性、宗経と同人とされる)が子息諏訪三郎盛高」(『太平記』巻10)も「盛」の字と得宗・北条高時(時宗の孫、14代執権)の1字により名付けられたとみられる。諏訪氏の得宗被官嫡流は「盛経―宗経―盛高」の3代に亘り北条氏得宗と烏帽子親子関係を結ぶこととなるのである。
(参考ページ)
● 諏訪真性(すわ・しんしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
脚注
*1:『吾妻鏡』での登場箇所は、御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.290「盛経 諏訪」の項 に拠った。
*2:「経」と「綱」は混同・誤記の範囲であろう。例えば、大友氏系図で少弐盛経(貞経の父)を「盛綱」と誤る同じ例があったり(→ 少弐貞経 - Henkipedia 注6参照)、嘉元3(1305)年5月、北条時村殺害犯として首を刎ねられた12人のうち、足利貞氏に預けられていた(使いは武田時信)海老名左衛門次郎の諱(実名)について、『鎌倉年代記』裏書では「秀綱」、『武家年代記』裏書では「秀経」と異なっていたり(→ 竹内理三 編『増補 続史料大成』第51巻〈臨川書店、1979年〉P.59・P.152。「秀」の方でも誤読または誤写の類が生じており、正しくは「季綱(海老名季綱)」とされる)するのが確認できる。
*3:『鎌倉遺文』第31巻24054号。詳細は 諏訪盛重 - Henkipedia を参照のこと。
*4:『鎌倉遺文』第13巻9257号。
*5:『鎌倉遺文』第17巻12699号。
*6:『鎌倉遺文』第17巻12763号。
*7:『鎌倉遺文』第17巻12778号。
*8:『鎌倉遺文』第17巻12932号。
*9:『鎌倉遺文』第17巻12948号。
*10:『鎌倉遺文』第17巻13076号。
*11:『鎌倉遺文』第20巻15051号。
*12:『鎌倉遺文』第20巻15301号。
*13:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.193。以下『得宗専制論』と略記する。
*14:『鎌倉遺文』第21巻16353号。
*15:『鎌倉遺文』第36巻28298号。
*16:鎌倉年代記 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ。
*18:『鎌倉遺文』第23巻18030号。
*20:細川『得宗専制論』P.426~427 より引用。尚、盛頼の項にある「出家真性」は本来、兄・盛経の項にあるべきものの誤りであることは【史料4】を参照。
*21:『吾妻鏡人名索引』P.297「盛頼 諏訪」の項 より。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*25:細川『得宗専制論』P.188 によると、幾つかのパターンが伝わる『太平記』の諸本のうち、流布本系統では「諏方左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高」となっているが、古態の西源院本・神田本などでは「左衛門」或いは「さへもん」となっており、こちらが正しいと説かれている。
諏訪盛頼
諏訪 盛頼(すわ もりより、1233年頃?~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将。北条氏得宗家被官である御内人。諏訪盛重の4男。主な通称および官途は 四郎(兵衛四郎)、兵衛尉、左衛門尉。
『吾妻鏡』を見ると、正月行事にて、椀飯の際に馬引きを担当したり、御的始の儀で射手を務めたりしたことが下記の記事にて確認できる*2。「兵衛四郎」は兵衛尉であった盛重の「四郎(4男)」として相応しい呼称であるから【系図α】とも辻褄が合う。
● 建長2(1250)年1月1日条「諏方兵衛四郎盛頼」
● 建長3(1251)年1月8日条「諏方兵衛四郎」
同月10日条「諏方兵衛四郎盛頼」
● 建長6(1254)年1月4日条「諏方四郎兵衛尉」
● 正嘉2(1258)年1月6日条「諏方四郎兵衛尉」
● 弘長元(1261)年1月1日条「諏方四郎兵衛尉」
加えて、「諏方四郎」の仮名が共通すること、【系図α】で盛頼の注記に「左衛門尉」とあることから、弘長3(1263)年1月1日条の「諏方四郎左衛門尉」も1261~62年の間に左衛門尉に昇進後の盛頼に比定されよう。
初出(1250年元旦)の段階で「盛頼」と名乗っていることが確認できるので、前年(1249年)までに元服を済ませていたと判断できる。1252~53年の間に兵衛尉に任官したことになるが、1251年の時点で同じく無官であった兄・盛経が1253年正月の時点で先に左衛門尉に任官したことが確認できるので、1252年に兄弟揃って官職を得た可能性が高い。
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ここで「盛頼」の名に着目すると、「盛」が父・盛重から継承した1字であるのに対し、「頼」は活動当時の執権・北条時頼の偏諱を許されていることが窺える。初出時に無官であったことを考えると時頼を烏帽子親として元服したと考えて良いのではないか。父の代から得宗被官化していた身分で、時頼の烏帽子親でもある4代将軍・藤原(九条)頼経から「頼」の1字を賜ったとは考え難い。
よって盛頼の元服は時頼が5代執権に就いた寛元4(1246)年*3以後ということになり、同年に元服の適齢である10代前半であったことになる。
他氏の例を踏まえると、1252年頃に兵衛尉に任官した当時は若くとも20歳程度であるのが相応しい。仮に20歳とすると、1246年当時14歳と元服の適齢になる。元服・任官各々の適齢を考えるとこれより引き上げられても1~2歳が限界であろう。或いは兵衛尉任官を18~19歳位に引き下げても良いかもしれない。いずれにせよ、逆算すれば1233年頃の生まれと推定可能である。
尚、1263年以後は史料上で確認ができず、不詳である。
(参考ページ)