Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【🌸ようこそ🌸】偏諱 について・入門

Henkipedia(ヘンキペディア)にようこそ!

筆者の西園寺史雄です。

さて、皆さんは歴史上の人物(日本史)の名前に着目したことはありますか?

よーく見てみると面白いことが起こっています。

 

 

1.偏諱とは?

武田信玄

信玄は出家後の法名。本名は武田信(はるのぶ)。

」の字は室町幕府第12代将軍・足利義から賜った。←この「晴」を偏諱(へんき)という。

 

上杉謙信

謙信は出家後の法名長尾為景の子で初名は長尾景虎

上杉憲の養子となり「」の偏諱を受けて上杉

のち室町幕府第13代将軍・足利義から「」の偏諱を受けて上杉

そして上杉謙信へ。

 

徳川将軍家

徳川:初め館林藩主。のち、偏諱を与えた兄の4代将軍・の跡を継いで5代将軍に。

徳川紀伊徳川家出身。初め頼久。兄たちの早世により紀伊藩主を継いだ折に5代将軍・綱偏諱を賜る。のち徳川将軍家を継ぐ。

徳川水戸徳川家出身。一橋家を継いだ折に12代将軍・偏諱を賜る。

 

徳川家というと、初代・康や3代・光のように「」の字を代々使う(これを通字という)イメージがあるかもしれません。しかし、上記の3名は本来ならば将軍家を継ぐはずではなかったため、「家」の字が含まれていないんですね。

ちなみに、⑥家宣(初め豊)や ⑭家茂(初め福)の場合は、分家の出身者で初めは将軍の偏諱を賜っていましたが、将軍就任後に「●」という形に改名したというわけです。

 

このような現象は徳川の分家(松平氏含む)や外様大名などで見られました。

 

水戸徳川家:家康―頼房―圀=條---(略)---昭―篤(慶喜の兄)

薩摩 島津氏久―久―久―貴---(略)---興―彬=久(のち忠義)

公家・二条家道―平=平---(略)---信―

 

また、の3男、②の場合は「」の字を代々使うことが慣習となる前ということもありますが、豊臣吉の時代に「」の偏諱を授かったという理由による名乗りです。という兄がいたので、2文字目には家康の父・松平広忠に由来の「忠」を使用しています。

……これはもう誰からもらったか、言うまでもないですよね(笑)?

 

以上のように、

室町時代は 足利 将軍家

安土桃山時代は 織田信長 豊臣秀吉

江戸時代は 徳川 将軍家

 

から全国各地の大名は1文字(=偏諱)を貰う、という慣習がありました。

もちろん、「将軍⇒大名」という図式だけではなく、大名(本家筋)から分家や家臣へのやり取りもありました。

時代が現代に限りなく近いということもあって、その様子が窺える史料(系図や、加冠状という書状など)は沢山残されています。 

 

2.鎌倉時代の一字付与

さて、そうすると鎌倉時代はどうだったでしょうか?

 

将軍征夷大将軍)はいたことはいたものの、源氏→九条家親王と一定していません。そして、これに代わって、代々執権となった北条氏が実権を握っていました。

 

(歴代の鎌倉幕府将軍)

①源朝 ②頼家 ③  ④九条  ⑤頼嗣

親王 ⑦惟康親王 ⑧親王 ⑨親王

 

(北条氏略系図

時政―義時――時(初め時)―時氏――

      ―時          ―時時―時―

      ―重時―――――――――長時―――義時―時―益時

      ―義(のち実

 

(足利氏略系図 義氏―氏―(初め利氏)―家氏―氏(のち尊氏)

 

北条氏は、義時の息子数名と、その後は泰時の系統(=得宗家)と重時の系統(=赤橋流)が将軍の偏諱を賜ったようです。

しかし、のちに将軍家となる足利氏の歴代当主に着目すると、将軍から賜った形跡はありません。それどころか、何と同じく御家人であるはずの北条氏から1字を与えられているように見受けられます。

*頼氏の場合も、自身が北条時頼の甥(母が時頼の妹)であり、改名した時の将軍は宗尊親王、執権が時頼であったので「頼」の字は九条家からの偏諱であるはずはなく、時頼から賜ったとみるのが妥当です。

 

このように「将軍 ⇒ 北条氏(特に得宗家) ⇒ 他の御家人」という形式の、事実上二重構造となっているため、(将軍の1字を受けていない泰時・貞時・高時の場合は迷うことは無いですが)鎌倉時代中期の場合は、「経」や「頼」が九条頼経 or 北条経時・時頼、「宗」が宗尊親王 or 北条時宗 いずれかであるかの判別がし難い、そういう御家人が何名か見られます。

 

このブログでは、誰から1字を貰ったのかというところで、そうした御家人について、筆者独自の見解を述べようと思います。

三浦時明 (安芸守)

三浦 時明(みうら ときあきら、1270年頃?~1333年?)は、鎌倉時代後期の武将、御家人三浦(杉本)宗明の嫡男。母は平頼綱の娘。通称および官途は 六郎、左衛門尉、安芸守。

 

 

時明に関する史料

本稿で取り上げるのは、次の系図中の時明である。

系図1】『諸家系図纂』所収「横須賀系図」より抜粋

使 従五位下 六郎左エ門尉

時連  ―――――――┐

┌―――――――――┘

│ 従五位下 対馬守 十郎左エ門尉

├―頼連 弘安合戦時滅亡

│ 正五位下 使 下野守 六郎左エ門尉

└―杉本―――――――――┐

┌――――――――――――┘
│ 従五位下 使 安芸守 六郎右衛門
└―時明 母平左衛門頼綱―――貞連 始貞明

以下、この時明の活動や関係史料について、鈴木かほるのまとめ*1などに頼りながら紹介したいと思う。

 

【史料2】『徳治二年矢開日記』(『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」)*2:「成就御所〔ママ〕」=幼少の北条高時(幼名:成寿)が雀を射たことで行われた、徳治2(1307)年7月12日の矢開に「三浦安芸守」が参加。この「三浦安芸守」について、この史料を紹介された中澤克昭は、7年後となる次の【史料3】にある「時明 三浦安芸前司」と同人ではないかとして表を纏めておられる*3が、筆者も異論はない。

 

【史料3】『公衡公記』正和3(1314)年10月条より*4

六日、……(略)……今夕以春衡遣時明許、引遣馬一疋、黒□〔毛〕、各雖不對面、両使共引送馬之間、下向之時又引遣之、流例也、後聞、行曉昨日延引、今日一定下向云々、

【読み下し】今夕春衡を以て時明の許に遣わし、馬一疋〈黒毛、各々対面せざると雖も、両使共に馬を引き送るの間、下向の時またこれを引き遣わす。流例なり〉を引き遣わす。後聞、行暁(=二階堂行貞)昨日延引す。今日一定下向と云々。

七日、春衡來、去夜向時明 三浦安藝前司椙本宗明子云々、許對面、馬請取之、明曉 八日、一定可下向之由申之云々、

【読み下し】春衡来たり。去る夜時明三浦安芸の前司、故杉本宗明の子と云々〉の許に向かい対面す。馬これを請け取り、明暁〈八日〉一定下向すべきの由これを申すと云々。

八日、時明今日下向云々、……(以下略)

【読み下し】時明今日下向と云々。

 

【史料4】(文保元(1317)年?)正月30日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*5

当寺柱三本事、三浦安藝前司に昨日申候了、忩々可加下知之由令申候、使者に問答之趣、無相違候間、使者語申候之間、悦入候、申落候之間、重申候、恐惶謹言、

 正月卅日 貞顕

方丈(釼阿)

---------

(紙背)
(ウハ書)
「称名□□□  貞顕

 

【史料5】(元応元(1319)年?)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*6

神事無為悦存候之間、自是只今可申之由、思給候之処、先立御礼、喜悦候、抑道明御房今日秋元(=上総国周准郡)御下向之旨承候了、安藝下野守之由承候者、三浦安藝前司事歟、所労之間は不申候き、其後彼仁舎弟他界候之際、御神事中不申通候き、近日申遣之、可申……(以下欠)

 

【史料6】「北條貞時十三年忌供養記」(『相模円覚寺文書』)*7:「宝塔品 三浦安藝守二十貫

この史料では国守退任者には「前司」と記載しているので誤記とは考えにくく、以上にあるようにこの時既に「安芸前司」であった時明とは同族別人と見なすべきであろう。中澤氏の表では[貞連]とするが、時明の嫡男・貞連が因幡守より前に安芸守であった史料的根拠は未確認であり、後考を俟ちたい。

 

【史料7】元𪪺(元弘)3(1333)年5月20日付「熊谷直経代直久軍忠状」(『長門熊谷家文書』)*8

熊谷小四郎直経同太郎次郎直久申右、可令退治四ケ国凶徒之旨、被下 綸旨之間、彦三郎直清為大将、就被追罰所之 朝敵等、元弘三年五月十二日、直久相共罷向丹後国熊野郡浦家庄、押寄二階堂因幡入道之城墎〔=郭、以下同様〕、令追罰畢、同十三日、丹後国竹野郡浦富保地頭逐電之間、焼払城墎畢、同郡竹野郡木津郷三浦安藝前司破却城畢、道後郡丹波後藤佐渡次郎入道*9破却城畢、同十四日、木津庄毛呂弥八郎*10破滅畢、同日、船木庄北方支〔友 カ〕破城畢、同十五日、同東方為違勅人逐電之間、焼払城畢、同日、丹波郡内松田平内左衛門入道(=松田秀頼か)*11焼城畢、同郡内善王寺松田平内左衛門入道焼城畢、同郡内光安地頭佐々木三郎判官田奈町六郎焼城畢、同十七日、与謝郡大石庄内三薗令破却城畢、於都合十一ケ所、或令追罰朝敵、或令責落城墎畢、直清為四ケ国之大将、付四ケ国軍勢等着到被進之、所見分明之上者、賜御証判、可備後日亀鏡候、恐惶謹言、

 元弘三年五月廿日 平直久(裏花押)

奉行所

後醍醐天皇が配流先の隠岐から伯耆国船上山に帰還し、全国の諸侯に参陣を呼びかける中で、大塔宮護良親王の令旨が千種忠顕より熊谷直経(小四郎)の許にも届けられ、5月7日に足利高氏丹波国篠村八幡社で宮方となり船上山に誠忠を誓うと、直経もこれに呼応した。但し直経はこの年2月の千早城での戦いで22ヶ所を負傷する重傷を負っていたため、【史料7】にある通り、分家筋の熊谷直久(太郎次郎)熊谷直清(彦三郎)を代理の大将として軍勢を丹波・丹後など4ヶ国の朝敵の討伐へ向かわせ、鎌倉幕府側の11ヶ所の拠点を落としたという。

その中で5月13日には丹後国木津郷の三浦安芸前司の城を「破却(=原形をとどめないようにすっかり壊)」したと伝えているが、この安芸前司も時明もしくは【史料6】 の「三浦安芸守」に比定されるだろう。この人物は鎌倉幕府滅亡直前に、幕府側のまま城を攻め落とされたことになり、その後の史料上に現れない様子から、この時戦死したのではないかと思われるが、死没について不明な時明の可能性もあるため、紹介した次第である。

 

尚、幕府滅亡後の建武政権下で、延元元(1336)年4月に武者所二番衆の一人となっている「三浦安芸二郎左衛門尉 平時続*12はその通称から三浦安芸前司の子息であったと判断され、「時」の通字から、系図に掲載されない時明の息子(貞連の弟)であった可能性も考えられる。

 

生年と烏帽子親についての考察

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父・宗は「明」の字が祖先の三浦義由来とみられ、義明の長男・杉本義宗名跡をを継承・再興する意図からか、杉本(椙本)氏を称したということが【系図1】ないしは【史料3】の10月7日条から窺える。しかし、【史料2】~【史料7】を見る限りだと子・時明の代からは再び「三浦」で呼ばれていた様子である。それでも宗明の嫡男として、仮名「六郎」の名乗りは継承している。

事実上得宗被官化していた当該期の三浦氏一族において、父・が8代執権・北条時、子・(のち貞連)が9代執権・北条時から1字を賜ったとみられる中で、間のも北条氏の通字「時」を受けたと考えるのが自然であると思われるが、その「時」は父に同じく宗の偏諱ではないかと推測される

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【史料2】にある通り、時明は徳治2(1307)年当時安芸守従五位下相当)在任であったことが窺えるが、その適齢である30代半ば程度(目安、上記記事参照)には達していた筈である。よって、父・宗明との年齢差も考慮して1270年頃の生まれになるのではないかと思われる。やや狭い感じはあるが外祖父・平頼綱との年齢差でもほぼ問題はなく、小笠原宗長(1272-)河越宗重(1271-)などと同様に、北条時宗晩年(1284年)の頃に元服を遂げ偏諱を受けた、彼らの同世代人と考えておきたい。

 

脚注

*1:鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.295「三浦安芸前司時明」の節。

*2:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収:井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』、岩田書院、2008年)P.200。細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)P.959。

*3:前注中澤氏論文 P.203 表2。

*4:橋本義彦・今江広道 校訂『公衡公記 第1』〈史料纂集〔第3〕第1〉(続群書類従完成会、1968年)P.236・241。読み下し文は、年代記正和3年 より。

*5:『鎌倉遺文』第34巻26194号。金沢貞顕書状 · 国宝 金沢文庫文書データベース

*6:『鎌倉遺文』第35巻27161号。金沢貞顕書状 · 国宝 金沢文庫文書データベース

*7:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』(神奈川県、1973年)二三六四号 P.698。

*8:『大日本古文書』家わけ第十四 第一 熊谷家文書 P.61(三六号)。『鎌倉遺文』第41巻32176号。

*9:『尊卑分脈』の後藤氏系図で「佐渡守」と注記される後藤基宗の次男とみられ、官職に就かないまま出家したことが窺える。同系図では基宗の子に壱岐守基雄を載せるのみだが、その弟がいたのであろう。同じく「基」の通字を持っていたとは思うが実名不詳である。

*10:毛呂季光の子孫とみられる。武家家伝_毛呂氏に掲載の「大谷木家系図」を見ると、季光の曾孫・重季から長男・季信の系統と3男・季邑の系統に分かれており、後者がその後長く続いたのに対して、前者が「季信―季勝―季広」の3代で途絶えているので、弥八郎は3代のいずれかに比定されるかもしれない。

*11:藤原重雄「史料紹介 春日大社所蔵『徳治三年神木入洛日記(中臣延親記)』」(所収:『東京大学史料編纂所研究紀要』第25号、2015年)P.75 (14ページ目) にある「松田平内左衛門尉秀頼」が出家した同人と考えられる。『宮津市史』資料編所収の「丹後松田氏系図」を基に作成された武家家伝_丹後松田氏掲載の系図によれば、建治元(1275)年の御家人交名に見える丹後の御家人「松田八郎左衛門入道」と思しき松田頼盛の孫にあたる。

*12:『大日本史料』6-3 P.332

【史料紹介】「城九郎安達直盛」関連史料『尾張国愛智郡小船津里文書』について

ja.wikipedia.org

安達氏 - Wikipedia では、鎌倉幕府滅亡(1333年)に殉じた安達時顕高景ら滅亡後の同氏について、「暦応3(1340)年に熱田神宮社領尾張国小舟津里を「城九郎直盛」が押領している記録があり、城九郎直盛足利尊氏直義天龍寺供養に同席している。通称から見て安達氏の生き残りと見られる。」と紹介されている。

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詳しくはこちら▲の記事をご参照いただければと思うが、天龍寺供養への同席については、『大日本史料』を通じて「丹後権守藤原直盛」と思しき「城丹後権守」 (ともに『園太暦』)の随伴が確認できる。軍記物語の『太平記』でさえも「城丹後守〔ママ〕」が登場しており、安達(ただもり)の実在はこれらだけでも十分に認められ、筆者は足利の烏帽子子・偏諱拝領者ではないかと推定した。

 

ところが、「城九郎直盛」による尾張国小舟津里の押領については、出典や根拠となる史料について明記されていなかった(※2025年12月の本稿執筆時点)ので、何とかこれについて確かめたいと思い、市内の大きな図書館まで出向いて、とりあえず『愛知県史』で調べてみることにした。

最初『通史編』の方で特に記述が見られなかったので心配ではあったが、さすが『資料編』の方で確認することができたので、以下本稿にて紹介したいと思う。

 

『愛知県史 資料編8 中世1』*1によると、「城九郎直盛」や「直盛」と書かれた書状が6点もあり、光厳天皇院宣も加えた計7通の古文書が「一連の文書であったと推定される」ということで、尾張国愛智郡小船津里文書』(『粟田家文書』)として纏められている。いずれも近世(江戸時代)に入ってからの写しであるというが、成立年代や人物比定等に矛盾がないかどうかについては本稿にて検証する。

一連の内容としては、直盛の尾張国小舟津里における押妨おうぼう(他人の所領などに押し入って乱暴を働いたり、不当な課税をしたりすること)濫妨らんぼう(暴力を用いて無法に掠めとったり、 他人のものを理不尽に強奪したりすることといった、日本中世において正当な理由なく他人の所領や知行を妨害する意味合いも持った行為に対し、光厳院はこれをとどめて、僧・長継ちょうけいの知行を認め、荒尾あらお宗顕むねあきらが同地を長継に引き渡したといったものである。

以下、その7通である。

 

(一)光厳上皇院宣

 (前欠?) 

  ]地下之由、可被仰武家之旨、院御気色所候也、仍執達[  ]隆蔭頓首謹言

 暦応元

  十月廿三日  権中納言隆蔭(四条)

 進上 中務権大輔殿

恐らく冒頭には、他の書状に同じく直盛による小舟津里押領についての記述があったのではないかと思われるが、虫食いであろうか、欠けている様子である。

四条(油小路)隆蔭は、延元2/建武4(1337)年1月7日より権中納言であった*2。同じく暦応元年には8月15日付で「権中納言隆蔭」から「中務権大輔殿」に対して進上された「光厳上皇院宣案」(「加賀前田家所蔵文書」)が残されているが、この「中務権大輔殿」について『南北朝遺文』*3では「今出川家雑掌」(実名不明)とする。

年齢的な矛盾はないだろう。

(二)洞院公賢御教書写

御施行

熱田社神宮寺薬師講法花経〔=法華経、以下同じ〕愛智郡東条小船津□〔里〕直盛押妨事、大宮中納言奉書 副具書 如此、子細見状候欤之□〔由〕前右大臣殿可申旨候也、恐々謹言、

  (暦応元

   十月廿四日 沙弥宣隆

 謹上 武蔵守(=高師直殿

 

(三)差符写

差符 院宣 西園寺前右大臣家御消息

一.熱田社神宮寺薬師講法花経料田愛智郡東条小船津里直盛押妨

渡進候、恐々謹言、

(暦応元

  十月廿六日  有国 判

安冨右近大夫(=安富行長)殿

(二)や次掲(四)の「前右大臣」、そして(三)の「西園寺前右大臣」は洞院公賢に比定して問題なかろう。「西園寺」とは洞院家藤原北家閑院流西園寺家の庶流であったが故の呼称と考えられ、むしろ西園寺公賢とも呼ばれていたことが窺える。

 

以降4点は発給年が明記されている。

(四)引付方頭人左京大夫施行状写

御教書

熱田社前権座主軸律師長継申、社領神宮寺薬師講田□□〔同法〕花経料田愛智郡東条小船津里

院宣前右大臣家御消息 副譲状具書、如此、早相野左衛門蔵人相共、止[   ]〔城九郎 か〕直盛濫妨、沙汰居長継於下地、可被全所務状、依仰執達□□〔如件〕

  暦応元年十一月廿四日 左京大夫吉良満義力) 御判

 荒尾民部権小〔少〕(=荒尾宗顕)殿

 

(五)荒尾宗顕打渡状写

使渡状

熱田社前権座主輔律師長継申、当社神宮寺薬師講法花経料田愛智郡東条小船津里事、任去□〔月〕[   ]相野左衛門蔵人相共、止城九郎真〔直〕濫妨、所□□〔付沙〕長継渡下地之状如此、

 暦応元年十二月十三日  民部権少輔宗顕(荒尾)

 

(六)引付方頭人左京大夫施行状写

重御教書

熱田輔律師長継申、神宮寺薬師講田同法花経料田愛智郡東条小船津里事、重申状如此、就被下院宣□□度被施行之処、城九郎直盛寄事於牛立築籠、致濫妨□太無謂、厳密可□〔打〕渡之、若又有子細者可被注申、依仰執達□□〔如件〕

  暦応三年三月廿四日 左京大夫吉良満義力) 御判

 越後守(=高師泰殿

 

(七)尾張守護・高師泰遵行状写

施行

熱田輔律師長継申当社神宮寺薬師講田同法花経料田愛智郡東条小船津里事、引付奉書 副訴状具書、如此、城九郎直盛寄事於牛立築籠濫妨云々、致尋沙汰無相達者、可打渡之、有子細者可注申之状如件、

  暦応三年四月廿一日 越後守(=高師泰

 高八郎(=高師貞)殿

最後は高氏について述べておきたい。

南北朝遺文フルテキストデータベースで調べてみても、『愛知県史』での記載通り、(二)の「武蔵守」は高師直、(六)・(七)の「越後守」は高師泰の兄弟に比定されよう。

師直は、建武2(1335)年6月3日付の副状(埼玉県立文書館所蔵『安保文書』)*4で「武蔵守師直」、翌3(1336)年7月付「御神本兼継軍忠状写」国史考所収)*5に「奉行所 高武蔵守師直」、11月29日付「高師直施行状写」(宝翰類聚坤)*6に「武蔵守師直」とあるのが武蔵守の初見とみられ、恐らく主君・足利尊氏からのバトンタッチではないかと思われる。(二)と同年の暦応元(1338)年には、9月16日に「武蔵守」の署名と師直の花押を据えた「高師直奉書」が発給されており、12月27日付「足利尊氏下文案」(『薩摩樺山文書』)*7の署名部分にも「高武蔵守」の記載が見られ、当時の武蔵守も師直であったことが明らかである。

一方師泰は、建武3(1336)年6月付「朝山景連軍忠状写」(『出雲朝山系図勘記』)の冒頭に「越後守高階師泰(※高氏高階姓)*8、翌4(1337)年3月日付の「市河経助軍忠状」や「市河助房(経助の兄)小見経胤軍忠状」(いずれも本間美術館所蔵『市河文書』)に「高越後守*9とあるのが越後守の初見とみられ、(六)・(七)と同時期となる暦応3(1340)年3月22日にも「越後守師泰」の署名と花押を据えた書状(明治百年大古書展出品目録)を出している*10

このように、師直・師泰兄弟は建武年間に武蔵守・越後守に任じられ、観応2(1351)年に出家の上、2月26日に摂津武庫川において上杉能憲(又は養兄弟の上杉重季とも)に誅殺される*11まで在任であったようであるから、この観点からも『小船津里文書』の年代的な矛盾はない。

 

そして、(七)の宛名「高八郎殿」については実名が「師貞(もろさだ)」に比定し得るる。正平7(1352)年2月18日付「円覚寺新文書目録」*12に「高八郎師貞請文一通」、貞治2(1363)年4月付「相模国円覚寺文書目録」*13や応安3(1370)年2月27日付「円覚寺文書目録」*14にも「高越後守請文……同八郎師貞請文(いずれも『相模円覚寺文書』)とあるのが確認できる。但し、『尊卑分脈』の高氏系図*15上でその名は見られず、系図上での位置づけは不明である。

 

脚注

*1:『愛知県史 資料編8 中世1』(愛知県史編さん委員会 編、愛知県、2001年)P.639~641 一〇八九号。

*2:四条隆蔭(しじょうたかかげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク国史大系 第10巻 公卿補任中編 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*3:南北朝遺文』九州編第1巻1233号。

*4:南北朝遺文』関東編第1巻242号。

*5:南北朝遺文』中国四国編第1巻434号。

*6:南北朝遺文』東北編第1巻259号。

*7:南北朝遺文』九州編第1巻1296号。

*8:南北朝遺文』中国四国編第1巻393号。

*9:南北朝遺文』関東編第1巻676・678号。

*10:南北朝遺文』九州編第2巻1492号。

*11:『大日本史料』6-14 P.815~の各史料を参照。

*12:南北朝遺文』東北編第2巻1118号。

*13:南北朝遺文』関東編第4巻3088号。

*14:南北朝遺文』東北編第2巻1897号。

*15:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第19-20巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

安達直盛

安達 直盛(あだち ただもり、1320年代?~没年不詳(1345年以後))は、南北朝時代の武将。旧鎌倉幕府の有力御家人であった安達氏の生き残りとみられるが、系譜は不詳。通称および官途は 九郎、丹後権守。呼び方は城直盛とも。

 

 

安達直盛に関する史料

尾張国愛智郡小船津里文書』

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史料上での初見とみられるのが、暦応元(1338)年~同3(1340)年にかけて熱田神宮社領尾張国小舟津里を「城九郎直盛」が押領したという記録である*1。以下近世(江戸時代)に書かれたという、それに関連する7通の書状の写しである*2

(一)光厳上皇院宣

 (前欠?) 

  ]地下之由、可被仰武家之旨、院御気色所候也、仍執達[  ]隆蔭頓首謹言

 暦応元

  十月廿三日  権中納言隆蔭(四条)

 進上 中務権大輔殿

 

(二)洞院公賢御教書写

御施行

熱田社神宮寺薬師講法花経〔=法華経、以下同じ〕愛智郡東条小船津□〔里〕直盛押妨事、大宮中納言奉書 副具書 如此、子細見状候欤之□〔由〕前右大臣殿可申旨候也、恐々謹言、

  (暦応元

   十月廿四日 沙弥宣隆

 謹上 武蔵守(=高師直殿

 

(三)差符写

差符 院宣 西園寺前右大臣家御消息

一.熱田社神宮寺薬師講法花経料田愛智郡東条小船津里直盛押妨

渡進候、恐々謹言、

(暦応元

  十月廿六日  有国

安冨右近大夫(=安富行長)殿

 

(四)引付方頭人左京大夫施行状写

御教書

熱田社前権座主軸律師長継申、社領神宮寺薬師講田□□〔同法〕花経料田愛智郡東条小船津里

院宣前右大臣家御消息 副譲状具書、如此、早相野左衛門蔵人相共、止   〔城九郎 か〕直盛濫妨、沙汰居長継於下地、可被全所務状、依仰執達□□〔如件〕

  暦応元年十一月廿四日 左京大夫吉良満義力) 御判

 荒尾民部権小〔少〕(=荒尾宗顕)殿

 

(五)荒尾宗顕打渡状写

使渡状

熱田社前権座主輔律師長継申、当社神宮寺薬師講法花経料田愛智郡東条小船津里事、任去□〔月〕[   ]相野左衛門蔵人相共、止城九郎真〔直〕濫妨、所□□〔付沙〕長継渡下地之状如此、

 暦応元年十二月十三日  民部権少輔宗顕(荒尾)

 

(六)引付方頭人左京大夫施行状写

重御教書

熱田輔律師長継申、神宮寺薬師講田同法花経料田愛智郡東条小船津里事、重申状如此、就被下院宣□□度被施行之処、城九郎直盛寄事於牛立築籠、致濫妨□太無謂、厳密可□〔打〕渡之、若又有子細者可被注申、依仰執達□□〔如件〕

  暦応三年三月廿四日 左京大夫吉良満義力) 御判

 越後守(=高師泰殿

 

(七)尾張守護・高師泰遵行状写

施行

熱田輔律師長継申当社神宮寺薬師講田同法花経料田愛智郡東条小船津里事、引付奉書 副訴状具書、如此、城九郎直盛寄事於牛立築籠濫妨云々、致尋沙汰無相達者、可打渡之、有子細者可注申之状如件、

  暦応三年四月廿一日 越後守(=高師泰

 高八郎(=高師貞)殿

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▲【系図8】安達氏略系図*3

 

城九郎」または「九郎」はかつて、安達藤九郎以降、秋田世襲した安達氏の家督継承者"城太郎"義景は除く)(『吾妻鏡』)(『吾妻鏡』・『関東評定衆伝』)宗景(『関東評定衆伝』)が名乗っていた仮名であったことから、「」の字を持つことからも直はこの安達氏の生き残りとみられる。この直盛足利尊氏・直義兄弟の天龍寺供養に同席したというが、前述・洞院公賢の日記である『園太暦』の次節に掲げる2箇所の記事により裏付けられる。

 

『園太暦』

●【表9】康永4年8月17日叙位(「光明院宸記」『京都御所東山御文庫記録』) 

叙位 名前 任官
正五位下 藤原経春
源家兼(足利家兼
藤原定頼
源貞家(吉良貞家
源和義(石橋和義
 
従五位上 源具通
藤原基数
源秀綱(佐々木導誉の子・秀綱
※秀綱は25日叙
 
従五位下 藤原輔忠
藤原仲秀
藤原直盛
平行連(三浦貞宗の子・行連)
源武光
平直重(河越直重
藤原朝房(上杉朝房
源義宗(里見義宗
源行康


丹後権守
遠江
阿波権守
出羽守
左馬助
民部少輔
民部丞

https://chibasi.net/souke18.htm より引用)

まず、『園太暦』康永4(1345=貞和元 / 興国6)年8月17日条*4には「丹後権守藤原直盛 東大寺八幡宮神輿造替功」とあり*5、前日(16日)夜の除目で「藤原直盛」なる人物が東大寺八幡宮(=東大寺の近くに鎮守社として建立された手向山八幡宮のことか)神輿造替の功として丹後権守(丹後守〈正六位下〉の権官*6に任ぜられ、更に「従五位下」(=すなわち叙爵)となった者にも「藤原直盛 丹後権守」が名を連ねている*7

この人物は同年同月に同じ官職を持つ、「城丹後権守」に同定して良いであろう。すなわち安達直盛に比定される。『園太暦』貞和元年8月29日条には、同日に行われた足利尊氏・直義兄弟の天龍寺供養に随伴する一人に「城丹後権守」の名が見え*8、同内容を描く『太平記』巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」にも「城丹後守〔ママ〕」の名が見られる*9。更に、表記は異なるものの、『師守記』同日条にある「城六郎〔ママ〕*10も、同じく安達直盛を指す可能性が高い*11

 

 

直盛に関する一考察

生年および烏帽子親の推定

前節での内容を踏まえて、直盛の生年・世代を推定してみたいと思うが、ここで参考にしたいのが鎌倉時代における安達氏の叙爵の年齢である。

前田治の研究*12によると、景盛は建保6年3月6日に秋田城介、同年4月9日に叙爵しており(『吾妻鏡』宝治2年5月18日条)義景は秋田城介任官と同日に28歳で叙爵している(『関東評定衆伝』建長5年条)ことから、秋田城介任官と叙爵の時期はほぼ同時であったと考えられている。細川重男のまとめでも泰盛宗景父子は、23歳で引付衆、24歳で秋田城介となっている*13が、前田氏は両名も秋田城介任官と同年の24歳での叙爵であったのではないかと推測されている。そして、秋田城介家を再興した時顕高景父子も同じく24歳での叙爵と考えられている。

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安達高景の場合は20代前半で讃岐権守(讃岐守〈従五位下相当〉の権官*14に任官し、その後父・時顕の出家を受けての秋田城介任官であったが、叙爵は讃岐権守任官と同じタイミングのやはり20代であったと考えて良いのではないかと思う。

よって、1345年に同じく国守権官に任ぜられ、同時に叙爵した直盛も当時20代に達していたのではないかと推測される。よって、直盛は1320年代の生まれで、1330年代~1340年頃の元服だったのではないかと思われる

異説はあるものの、安達盛長武蔵国足立郡を拠点とする足立氏と同族で上野国の奉行人も務めたとされ、また盛長以降、秋田城介家が現在の甘縄神明神社付近(または近年の研究で扇ガ谷の無量寺谷付近とも)とみられる鎌倉甘縄の地に邸宅を持っていたなど、安達氏の拠点は関東であったと言えるので、直盛も元々関東在住だったのではないかと推測される。

1333年12月には、鎌倉将軍府開設のため、足利直義成良親王を奉じて鎌倉の地へ下向してきている。よって、安達元服の際、将軍府執権であったを烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと推定しておきたい。

 

 

系譜上での位置付け(推定)

さて、安達直盛なる人物は前述の通り、安達氏の生き残りと考えて良いと思うのだが、次に掲げる『尊卑分脈』の安達氏系図上では確認できず、その系譜は不明である。

霜月騒動後は、主に宗景の遺児・安達貞泰陸奥太郎)の他に以下の3系統が存続している。

【図10】『尊卑分脈』安達氏系図より*15

       藤

  九郎兵衛  五郎左衛門 太郎兵衛 太郎八 三郎二郎

時長師顕──師之┬─師長──長盛──盛行

         │  藤城介   城介

         └─盛信──盛義

重景師景──高茂

宗顕時顕┬─高景

       └─顕高

薄緑字霜月騒動薄赤字東勝寺合戦鎌倉幕府滅亡時)での戦死または自害者*16

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こちら▲の記事で紹介の通り、『公衡公記』で時顕師顕師景3名揃っての実在が確認できる。霜月騒動の際、安達宗顕の遺児であった時顕がまだ幼児であったことが明らかとなっており*17顕・景も同様でのちに鎌倉幕府10代執権・北条時の偏諱を受けた同世代人(1280年初頭生まれ)と思われる。

よって【図10】ではこの3名を縦に揃えて、以降の系図を載せてみたが、鎌倉幕府滅亡の際、時顕・師景は息子と共に自害したが、師顕の子・安達師之(もろゆき)はその殉死者に含まれていたかどうかが確かめられず、むしろその後も子孫が続いたことが窺える。

師之の系統では、かつての安達氏の通字「」が復活しており、よって師顕や師之の系統に属する可能性は十分に考えられると思う。前述の推定から考えると、世代的には、師之の息子、師長盛信の兄弟あたりに位置付けられるのではないか

或いは元 "城九郎" 家・貞泰の孫という可能性もあり得るかもしれないが、そもそも貞泰に息子がいたかどうかすらも系図上では確かめられないので、あまり有力ではないと判断しておきたい。

これ以上の考察は史料不足のため困難であるが、新史料の発見等に期待をしたいところである。

 

脚注

*1:安達氏 - Wikipedia織田信長の先祖 ー 日本史疑 より。

*2:『愛知県史 資料編8 中世1』(愛知県史編さん委員会 編、愛知県、2001年)P.639~641 一〇八九号 より。

*3:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*4:南北朝遺文』関東編第3巻1579号。

*5:『大日本史料』6-9 P.224

*6:丹後国 より。

*7:『大日本史料』6-9 P.226

*8:『大日本史料』6-9 P.250

*9:『大日本史料』6-9 P.315

*10:『大日本史料』6-9 P.276

*11:康永四年 足利尊氏・直義、天龍寺供養 供奉人

*12:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」〈所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)P.225~226 註(7)。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その83-安達宗景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*14:讃岐国 より。

*15:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.287。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:安達師顕・安達師景の2名については、『太平記』巻10「高時并一門以下於東勝寺自害事」には殉死者の一人に「城加賀前司師顕」とあり、官途から師景の誤記と判断する細川重男の説に従う(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№86-安達師景 | 日本中世史を楽しむ♪)一方で、「師顕」という記載から安達師顕も同日の死去と判断する(→ 【論稿】鎌倉時代末期の安達氏一族 -師顕と師景- - Henkipedia も参照)。

*17:(文保元(1317)年11月)「安達宗顕三十三年忌表白文」(『鎌倉遺文』第34巻26431号)。安達時顕 - Henkipedia【史料2】を参照のこと。

河越直重

河越 直重(かわごえ ただしげ、1320年代?~没年不詳(1368年以後))は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、武蔵国の国人。武蔵平一揆の中心人物の一人。桓武平氏良文秩父氏嫡流である武蔵河越氏最後の当主で、河越高重の嫡男とされる。通称および官途は 次郎、出羽守、弾正少弼

 

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こちら▲の記事で紹介している、中山信名撰『平氏江戸譜』静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図には高重の子として、某(次郎、此時亡)と 女子(佐竹伊予守義愛妻、覚海妙真)の2人を載せる。「此時亡」(この時亡びる(滅びる)、か)の注記は、河越氏についてこの人物の代で滅んだという意味で書かれたものと思われるが、先行研究では平一揆を率いた直重の代に河越氏が没落したと解釈されている*1から、某=直重と判断される。もしこれが正しければ、直重は高重の嫡男で、河越氏嫡流の通称「次郎」を称していたことになる。

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こちら▲の記事において、重は元服時に得宗・北条時の偏諱を受けた、1300年代初頭生まれの世代と推定した。

すると、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、直重は早くとも1320年代の生まれと推測できる。「」という諱については「なおしげ」と読まれることが多いが、偏諱についてのコラム*2も書かれている角田朋彦は、直重の「」の字についても足利からの偏諱と考え、直義が相模守として成良親王を奉じて鎌倉にいた期間(1333年12月~)元服したのではないかと説かれており*3、筆者もこれに賛同である。よって「ただしげ」と読ませていただく。

 

●康永4年8月17日叙位(「光明院宸記」『京都御所東山御文庫記録』) 

叙位 名前 任官
正五位下 藤原経春
源家兼(足利家兼
藤原定頼
源貞家(吉良貞家
源和義(石橋和義
 
従五位上 源具通
藤原基数
源秀綱(佐々木導誉の子・秀綱
※秀綱は25日叙
 
従五位下 藤原輔忠
藤原仲秀
藤原直盛(安達直盛
平行連(三浦貞宗の子・行連)
源武光
平直重(河越直重
藤原朝房(上杉朝房
源義宗(里見義宗
源行康


丹後権守
遠江
阿波権守
出羽守
左馬助
民部少輔
民部丞

https://chibasi.net/souke18.htm より引用)

『園太暦』康永4(1345=貞和元 / 興国6)年8月17日条*4には「出羽守平直重 天龍寺造営功」とあり*5、前日(16日)夜の除目で、「平直重」なる人物が天龍寺造営の功として出羽守従五位下相当)*6に任ぜられ、更に「従五位下」(=すなわち叙爵)となった者にも「平直重 出羽守」が名を連ねている*7。この直重は河越直重と考えられており、これ以前に高重から直重への当主の交代があったとみられている*8が、河越氏であることは次の史料により裏付けられる。

同年8月29日には後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて足利尊氏・直義兄弟による天龍寺落慶供養が行われ、『園太暦』・『師守記』・『伊勢結城文書』など他の史料*9では見られないものの、関連史料とみられる年月日未詳「山城国天龍寺供養随兵等交名写」東北大学日本史研究室保管文書)*10にはその際の供奉人として「河越出羽守」の名が確認できる。実際の参加の有無はさておき、「平直重 出羽守」=「河越出羽守」と判断できる貴重な材料である。

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出羽守といえば、『常楽記』元亨3(1323)年6月13日条に「河越出羽入道他界五十三」とあるように、河越氏で任官の前例がある、ゆかりの役職であった。「出羽入道」について前述の『平氏江戸譜』では、この『常楽記』での記載に基づいて、『続群書類従』第六輯下所収「千葉上総系図」でも「出羽守」と注記される河越宗重*11に比定されているが、これ以来に再び "河越氏の出羽守" が誕生したのであった。

 

但し、直重はその後、官位相当がランクアップとなる弾正少弼正五位下相当)に転任したようである。

文和2(1353)年7月2日付「修理大夫(=関東執事・畠山国清施行状案写」(『相模鶴岡等覚相承両院蔵文書』)*12、同3(1354)年6月24日付「足利尊氏充行状」文化庁所蔵『島津文書』)*13および同日のものとされる「足利尊氏御内書」国立歴史民俗博物館所蔵『越前島津家文書』)*143点での宛名「河越弾正少弼殿」、文和3年8月12日付で直重が「河越上野介殿」宛てに出した遵行状(同前『越前島津家文書』)*15、施行状(同前『島津文書』)*16での「直重(花押)」、同年10月27日*17、11月20日*18に各々2通残存の「河越直重請文」(同前『越前島津家文書』、同前『島津文書』)での「弾正少弼直重(裏花押)」は全て同一人物で河越直重に比定される。

これらの書状から当時、直重が相模国守護職を得ていたことが窺え、「河越上野介」は相模守護代であったと考えられている*19

しかし、貞治2(1363)年2月2日付「陸奥(=高師有施行状」(鎌倉国宝館所蔵神田孝平氏旧蔵文書)*20の宛名「河越弾正少弼殿」も直重と見なされるが、この翌月(3月)に上杉憲顕(道昌)が初代鎌倉公方足利基氏の要請を受けて関東管領職に復帰すると、相模守護職を罷免されたという。

そうした経緯もあり、応安元(1368)年2月~6月にかけて、足利義満元服祝いのため、2代鎌倉公方金王丸(のち義満の偏諱を受け足利氏満の代理として上洛した憲顕の留守を狙って反乱を起こすが敗れ(武蔵平一揆の乱)、伊勢国に敗走したという*21。その間、5月21日には直重が花押を据えた「河越直重充行状」(『武蔵町田文書』)*22が発給されている。

伊勢国に落ち延びた後の消息は不明。

 

(参考ページ)

 河越直重 - Wikipedia

 河越直重とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな

 武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越直重

 河越直重

 

脚注

*1:関幸彦 編『武蔵武士団』(吉川弘文館、2014年)P.123~131(執筆:角田朋彦)。

*2:角田朋彦「偏諱の話」(所収:再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四合併号、2004年)。

*3:関幸彦 編『武蔵武士団』(吉川弘文館、2014年)P.123(執筆:角田朋彦)。

*4:南北朝遺文』関東編第3巻1579号。

*5:『大日本史料』6-9 P.224

*6:出羽国 より。

*7:『大日本史料』6-9 P.226

*8:注3前掲箇所。

*9:『大日本史料』6-9 P.236~の各史料を参照。

*10:南北朝遺文』関東編第3巻1587号。

*11:「千葉上総系図」には直重の記載は無いが、宗重はその大伯父(祖父・貞重の兄)とされる。

*12:南北朝遺文』関東編第4巻2467号。『大日本史料』6-18 P.185~186

*13:南北朝遺文』九州編第3巻3688号。

*14:南北朝遺文』関東編第4巻2565号。『大日本史料』6-19 P.103

*15:南北朝遺文』関東編第4巻2578号。

*16:南北朝遺文』九州編第3巻3712号。

*17:南北朝遺文』関東編第4巻2600号・九州編第3巻3739号。

*18:南北朝遺文』関東編第4巻2612号・九州編第3巻3749号。

*19:武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越直重

*20:南北朝遺文』関東編第4巻3065号。

*21:『大日本史料』6-29 P.358~の各史料を参照。

*22:南北朝遺文』関東編第5巻3468号。

結城直光

結城 直光(ゆうき ただみつ、1330年~1396年)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、安房国守護。下総結城氏第8代当主。

結城朝高(朝祐)の次男。兄は結城直朝。通称および官途は 八郎、左衛門尉(※推定)、中務大輔。法名聖朝(せいちょう)

 

 

直光の主な活動内容と烏帽子親について

本節では、荒川善夫の研究成果*1にも頼りながら、直光の大まかな活動について纏めていき、その過程で元服の際の烏帽子親についても記したいと思う。

 

康永2/興国4(1343)年4月、関城の戦いで兄・直朝が19歳の若さで戦死したのに伴い、14歳の弟・直光が下総結城氏の家督を継承することとなった。後述するが、この前後に元服を遂げたものと思われる。

直光が著したとされる軍記物『源威集』によれば、文和元(1352)年閏2月の武蔵金井原の戦いに際し、「結城中務大輔直光」が真っ先に足利尊氏の許へ500騎を率いて馳せ参じて尊氏を感心させたといい、翌2(1353)年8月、尊氏が鎌倉から上洛する際にも「結城中務大輔直光 廿四歳(年齢は数え年で、逆算すると1330年生まれ)が先陣に抜擢され、武蔵の先代(千台)・平方荘を尊氏から与えられたという*2。これが史料上での初見とみられる。

その間、文和元年11月24日付の「結城直光書下」と名付けられる書状(『常陸健田須賀神社文書』)*3では花押を据えている。

 

その後は、貞治2(1363)年4月の時点で「結城禅門*4、同年11月2日付「足利義詮御教書」(『出羽上杉文書』)の文中でも「結城中務大輔入道」と呼ばれており*5、この時までに直光(聖朝)中務大輔を最終官途として、まだ35歳の若さながら出家していたことが窺える。応安2(1369)年*6をそれほど遡らない時期には安房守護職に任命され、至徳2(1385)年10月*7まで在職であったことが『相模円覚寺文書』から窺える。

そして、応永3(1396)年正月17日に67歳で亡くなったと伝わる*8。逆算すると、林崎文庫本「結城系図*9で記される通り、元徳2(1330)年生まれとなり、前述『源威集』での記載とも合致する。後述する嫡男・基光との年齢差を考慮しても問題ないだろう。

 

これを踏まえ、「」の名乗りについて考察してみたい。「光」が家祖・結城朝光以来の "復活" であるのに対し、上(1文字目)にわざわざ置く「」は兄・直朝に同じく烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、これは尊氏の弟・足利偏諱ではないかと推測される。名前の読みについては「なおみつ」とするものが多いが、僅かに宮内庁書陵部のホームページ内では「ただみつ」としており*10、どちらも史料的根拠はない。朝光(13~14歳)や祖父・結城貞広(12歳以前)の前例に倣い、そのくらいの年齢を迎える1340年代前半元服を遂げたと思われるが、鎌倉将軍府の執権であった直義は、室町幕府の成立後も兄・尊氏と将軍権力を分担し、一方が京都にあるときはもう一方は鎌倉にあって、それぞれ京都と鎌倉の首長として政治を行ったといい*11、結城氏が領する下総国もその頃は鎌倉府の管轄下にあった*12ので、兄・直朝に同じく直義が加冠役(烏帽子親)を務めたのであろう。

 

 

補論:足利義満治世下での「結城左衛門尉」について

ja.wikipedia.org

ちなみに、直光の跡を継いだ嫡男の結城は1349年生まれとされ*13、直光が数え20歳の時の子となる。荒川氏は「基」が初代鎌倉公方足利(尊氏の子、在職:1349年~1367年)からの一字拝領と見なしておられる*14が、矛盾はなく、筆者も同意である。この点からも直光の生年については特に疑いの余地はないと判断される。

 

あわせて、荒川氏が翻刻の上で紹介された「松平文庫」松平宗紀氏所蔵・福井県立図書館保管)No.242「結城家譜草案」所収の古文書から、「書礼之内部大政大臣義満公御代」と記された所に収録される2点の書状*15について言及したい。尚、史料番号は荒川氏の論考と同じとした。

No.26.細川頼之書状写

若君様御誕生一七夜之御祝儀 久国鴾毛馬 致進上候、此旨可預御披達候、恐々謹言、

 八月十九日  頼之細川右京太夫

  結城左衛門督殿

ー・ー・ー・ー・ー・ー

No.27.結城左衛門督書状写

去剋於 殿中御連歌候、一句可有吟味之旨、被 仰出候、及微陰、可成 出御候、其節可遂被構〔講〕之由、依 上意如斯、恐々謹言、

 二月六日 結城左衛門督イ

  日野中納言殿

右之返事ニ者、結城左衛門督殿と御座候、

荒川氏の解説*16によると、「書礼之内部大政大臣義満公御代」という記載から、No.26は細川頼之管領在職期間(1367年11月25日~1379年閏4月14日)内、No.27は足利義満の将軍就任日から命日までの期間(同じく1367年11月25日~1408年5月6日)内に書かれたものと推定されるという。そして両書状に出てくる「結城左衛門督(または左衛門尉)」については、朝光から直朝に至るまで「左衛門尉」を名乗ったと記す古記録・古文書・系図が多いことから、「左衛門督」や「左衛門尉」を名乗ったことは確認できないものの、その頃結城氏の惣領であった直光または基光の可能性が高いと説かれている。

しかし、当該期間の直光は「結城中務大輔入道」であったことは前述した通りなので該当し得ない。一方、基光は、荒川氏が「史料上基光が下野守護であったことが確認できる在職期間」の始期とされる、至徳4(1387)年8月5日付「結城基光軍勢催促状」早稲田大学所蔵『下野島津文書』)*17において、花押を据えながら「弾正少弼」と署名している。

左衛門督正五位上相当、長官級)から弾正少弼正五位下相当、次官級への実質ランクダウンのような転任というのもあまり考え難いが、左衛門尉(左衛門少尉=正七位上相当、三等官級)の方が正しければランクアップとなるので、「義満御代(=治世期間)」においては20代であった基光が最初、左衛門尉となり、その後1387年までに弾正少弼に昇進したと考えるのが妥当ではないか。

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鎌倉時代末期成立の『結城小峯文書』所収「結城系図」をはじめとする結城氏の各系図や『吾妻鏡』等の史料によれば、家祖・朝光以降、代々の当主が左衛門尉となっており、20代で早世した時広貞広もその例外ではなく、基光の祖父にあたる朝高(朝祐)も20代で左衛門尉となっていたことが確認できる(『真壁長岡文書』)。直光の兄・直朝の場合は、恐らく近い将来に左衛門尉任官を控える中、19歳の若さで戦死したと考えられる。

よって、史料No.26・No.27での「結城左衛門尉(No.26の「督」は「尉」の誤記と推定)結城基光であると判断される。

ちなみに、直光も『源威集』での「中務大輔正五位上相当、次官級)」にいきなり任じられるとは考え難いため、その直前の20~23歳あたりでは最初に左衛門尉に任官していたのではないかと思うが、史料的根拠に弱いため、あくまで推論に留めておきたい。

 

(参考ページ)

 結城直光 - Wikipedia

 結城直光(ゆうき なおみつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

南北朝列伝 #結城直光

 

脚注

*1:荒川善夫「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:荒川 編 『下総結城氏』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年)P.14。

*2:『大日本史料』6-18 P.285287

*3:南北朝遺文』関東編第3巻2374号。

*4:貞治2年4月付「相模国円覚寺文書目録」(『南北朝遺文』関東編第4巻3088号)より。

*5:『大日本史料』6-25 P.242『大日本古文書』家わけ第十二 上杉家文書之一 P.21~22(三五号)。『南北朝遺文』関東編第4巻3134号。

*6:応安2年5月17日付「関東管領上杉朝房奉書」(『南北朝遺文』関東編第5巻3506号)の宛名「結城中務大輔入道殿」(→『大日本史料』6-30 P.467)。

*7:至徳2年10月25日付「関東管領上杉憲方奉書」(『南北朝遺文』関東編第6巻4270号)の宛名「結城中務大輔入道殿」(→『編年史料』後亀山天皇紀・元中元年4~9月 P.39~40)。

*8:『大日本史料』7-2 P.349~の各史料・系図等を参照。

*9:『大日本史料』7-2 P.350

*10:「結城直光(聖朝)寄進状」(ギャラリー一覧 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム)

*11:鎌倉府 - Wikipedia #鎌倉と京都・二つの幕府構想 より。

*12:鎌倉府 - Wikipedia #管轄国 参照。

*13:結城基光(ゆうき もとみつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*14:注1荒川氏著書 P.15。

*15:荒川善夫「北下総結城氏関係文書の紹介 ―「松平文庫」「伊達政宗記録事蹟考記」「伊豆順行記」から―」(注1前掲荒川氏著書 所収)P.373。

*16:前注同論文 P.383。

*17:南北朝遺文』関東編第6巻4364号。

結城直朝

結城 直朝(ゆうき ただとも、1325年~1343年)は、南北朝時代の武将。下総結城氏7代当主。結城朝高(朝祐)の長男。弟は結城直光。幼名は犬鶴丸。通称は七郎。

 

 

以下、荒川善夫のまとめ*1や、建武4(1337)年8月日付「野本鶴寿丸軍忠状」(『熊谷家文書』、以下「野本軍忠状」と略記)*2などに沿って述べていきたいと思う。

 

家督相続と元服

直朝は後述の没年および享年から逆算により、正中2(1325)年生まれと判明している。

「野本軍忠状」によると、「建武二年(=1335年)十二月八日」に足利尊氏が鎌倉を出立した際には鶴寿丸の父・野本朝行(のもと・ともゆき)もこれに「御共」し(書状終盤で朝行は1337年3月27日に他界したとあり、軍忠状の冒頭にも「今者(は)死去」とある)箱根・竹ノ下の戦いの前哨戦となる「十一日……中山合戦之時」には「結城判官手勢」が朝行の若党である岩瀬信経ら一族と共に尊氏方で参戦したという。更に、翌「建武三年(=1336年・延元元年)正月……八日」の際も岩瀬一族や「結城手勢」が「八幡御敵」を追い落としたらしい。これらは父・朝祐(七郎左衛門尉)の活動と見なされる。

しかし、松平基則伯爵本「結城系図」によると、朝祐は九州多々良浜の戦いの最中の延元元年4月19日に戦死してしまい、当時12歳の嫡男・直朝家督を相続することになったという*3

*『結城市史』*4の紹介によると、建武3年7月日付の「岡本良円軍忠状」2通*5には、同年6月晦日名和長年らの率いる後醍醐天皇方と尊氏方の軍勢が京都で戦った(第二次京都合戦)際に、尊氏の弟・足利直義麾下の陸奥の武士である岡本観勝房良円が中御門烏丸において右手を負傷しながらも敵を倒した勲功が記されており、この事実は同所で共に戦った「池上藤内左衛門尉(=池上泰光か?)結城七郎左衛門尉」の両人が "見知っている" とし、後者については朝祐か、その嫡子・直朝のいずれかである筈とする。同書では、4ヶ月前に亡くなった朝祐が再登場する筈がない一方で、直朝がこの当時12歳で良円と共に参戦したというのも年齢的に疑わしいと説かれており、筆者はいずれでもなく、敵方にはなってしまうが、延元元(1336)年4月2日付「結城宗広(道忠)譲状写」(仙台白河家蔵『白川証古文書』一)での「孫子七郎左衛門尉顕朝*6の可能性も考えられるのではないかと思う。

 

家臣に支えられながらではあったと思うが、同年12月日付「茂木知貞軍忠状」(吉成尚親氏所蔵『茂木文書』)*7には「小山・結城・山河・幸島・益戸一族」が北畠顕家や白河結城親朝宗広の子で顕朝の父らによる結城郡攻撃を退けた上、その直後に常陸国関郡から攻めてきた数万騎の南朝軍(関宗祐)を迎え撃っており、再び「野本軍忠状」に戻ると、翌建武4(1337)年「七月八日、常州関城合戦之時」には、「結城犬鶴丸」が故・朝行の子である野本鶴寿丸や山河判官(=山河景重貞重の甥)らと共に「絹河(=鬼怒川)」を渡って、関城の城際まで攻めたという。

「野本軍忠状」が出された建武4年8月当時、13歳の直朝はまだ父・朝高(朝祐)の幼名に同じ「鶴丸*8を名乗っていた可能性もあるが、祖父・結城貞広(12歳以前)や家祖・結城朝光(13~14歳)の前例と同様に、間もなく元服を遂げたのではないかと思う。

」の名乗りは、かつて(初名:宗朝)源頼から拝領し、息子の、そして祐も用いた「」の字に対し、上(1文字目)にわざわざ置く「」は烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、これは尊氏の弟・足利偏諱ではないかと推測される。鎌倉将軍府の執権であった直義は、室町幕府の成立後も、兄・尊氏と将軍権力を分担し、一方が京都にあるときは、もう一方は鎌倉にあって、それぞれ京都と鎌倉の首長として政治を行ったといい*9、結城氏が領する下総国も鎌倉府(直義)の管轄下にあった*10ので、烏帽子親子関係が形成されたものと思われる。

 

直朝の戦死

その後は、康永2(1343)年3月末~4月初めの関城合戦において「敵方結城惣領……討取了(有造館本『結城古文書写』)、「結城七郎以下討死(『伊勢結城文書』)とあり、結城氏の系図類では直朝のこととしている*11。慶長11(1606)~12(1607)年頃に結城晴朝自らが執筆して乗国寺に納めたとされる、『下総崎房秋葉孫兵衛模写文書写』所収の過去帳にも「源直朝 於関館討死 年齢 十九歳 四月三日卒」とあり*12、享年19の若さであったという*13。前述したように、生年はこれより算出したものである。

 

系図類では左兵衛尉、左衛門尉、左衛門大夫、中務少輔などとそれぞれ注記が異なるが、 『伊勢結城文書』での書きぶりからすると、直朝はいずれの官職にも就くことなく、無官のままで亡くなったのではないかと筆者は思う。父・朝高(朝祐)も16歳の段階ではまだ無官で「結城七郎」を名乗っており(『相模円覚寺文書』所収「北條貞時十三年忌供養記」)、「結城七郎左衛門尉」として確認ができるのは20代に入ってからである(『真壁長岡文書』)*14。直朝も20代に達すれば左衛門尉に任官した可能性があったかもしれないが、その願いは叶わず、結城時広以来4代続けて20代以下での早世となった。

朝の死後は、同じく義の偏諱を受けた弟・(ただみつ)*15が跡を継いだ。直光自らが著したとされる軍記物『源威集』によれば、文和2(1353)年8月、関東平定を終えた尊氏は京へ戻ることになるが、「『父朝祐直朝二代』に亘って自分のために命を捧げ、さらに昨年の新田氏との戦いでも真っ先に駆けつけて勝利をもたらしてくれた」として「結城中務大輔直光 廿四歳」がその先陣に抜擢され、武蔵の先代(千台)・平方荘を尊氏から与えられたという*16。命を犠牲にした朝祐・直朝父子の働きが報われた瞬間であった。

 

(参考ページ)

 結城直朝 - Wikipedia

 結城直朝(ゆうき なおとも)とは? 意味や使い方 - コトバンク

南北朝列伝 #結城直朝

 

脚注

*1:荒川善夫「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:荒川 編 『下総結城氏』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年)P.13~14。

*2:『大日本古文書』家わけ第十四 第一. 熊谷家文書 P.208210(二二五号)。

*3:『大日本史料』6-3 P.166

*4:結城市史4』P.341。

*5:『大日本史料』6-3 P.474P.553

*6:『大日本史料』6-3 P.274。『南北朝遺文』東北編第1巻224号。

*7:南北朝遺文』東北編第1巻266号。

*8:結城朝高 - Henkipedia を参照のこと。典拠は『結城小峯文書』所収「結城系図」。

*9:鎌倉府 - Wikipedia #鎌倉と京都・二つの幕府構想 より。

*10:鎌倉府 - Wikipedia #管轄国 参照。

*11:『大日本史料』6-7 P.598~600

*12:市村高男「隠居後の結城晴朝」(注1前掲荒川氏著書 所収)P.302・305。

*13:林崎神庫本「結城系図」では、嘉暦3(1328)年に生まれ、関城合戦で亡くなった時16歳であったとする(→『大日本史料』6-7 P.600)が、過去帳での記載から19歳説を採用することとしたい。

*14:結城朝高 - Henkipedia 参照。

*15:「結城直光(聖朝)寄進状」(ギャラリー一覧 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム)

*16:『大日本史料』6-18 P.287 

上野直勝

上野 直勝(うえの ただかつ、1320年代?~没年不詳(1351年頃?))は、南北朝時代の武将。清和源氏足利氏の支流・上野氏の一族。通称および官途は 上野太郎二郎、掃部助、左京亮。別名は上野氏勝(うじかつ)。

 

 

観応の擾乱における上野兄弟

まず、上野直勝に関する史料を紹介しておきたい。阪田雄一の研究*1によると、次の通りである。

観応元(1350)年12月12日付の小佐治基氏に対しての感状(『近江小佐治文書』)に「直勝(花押)*2、同月16日直勝の注申により直義が小佐治基安に与えた感状(『近江小佐治文書』)の文中には「上野太郎二郎」と記されている*3

また、翌2(1351)年4月17日に叙爵の上で掃部助に任ぜられた者として「源直勝(『園太暦』同日条および『結城文書』)*4が確認でき、同年10月11日に直義が基氏に与えた感状(『近江小佐治文書』)の文頭に「江州上野左京亮(江州は近江国の別称)とある*5ので、基氏・基安ら小佐治氏を従えていた直勝が1351年に掃部助→左京亮の官職を得たと判断される。

 

上野太郎二郎」とは「上野太郎」の「二郎(次男)」を表す。これを踏まえると『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)での上野太郎頼遠(頼勝)の子に比定され、阪田氏は左馬助頼兼の弟となる次男・左京亮氏勝と同一人物で、「」は足利義の偏諱を受けた改名前後の諱ではないかと説かれた*6

観応二年日次記』(1351年) 7月30日条にある「錦小路禅門」=直義の北国下向に付き従った供奉人の名簿*7には「上野左馬助兄弟」が含まれており、頼兼・氏勝(直勝)が兄弟揃って直義党の武士として活動していたことが窺える。

しかしそれから間もなく、兄・頼兼は、『園太暦』同年9月12日条に「丹後国……去三日、当国守護上野左馬助被打」、『分脈』での傍注に「観応年中於但馬国死去」とある通り、9月3日に、丹後国と守護を兼ねていた但馬国内にて戦死したようである*8

一方、直勝については、前述の10月11日付書状で「故(故人)」等と書かれていないのでもう少し生き延びていたとは思うが、以後史料上に現れていないため、間もなく亡くなった可能性がある。

 

世代の推定

次いで本節では、頼兼・氏勝(直勝)兄弟の世代を推定してみたいと思う。

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そもそも上野氏足利泰氏庶子・上野律師義弁(ぎべん、旧字体:義辨)に始まる家柄で、泰氏の父・足利義氏が守護となった三河国碧海郡上野荘が苗字の由来であるという。

『分脈』には、義弁の項に「母廣澤判官代義実女」、頼遠の項に「母源長氏女」とあり、これらは世代を推定する上で非常に参考になると思う。義弁の外祖父(母方の祖父)広沢義実は、源義康の長男・義清の子であり、頼遠の外祖父「源長氏」は足利長氏(吉良長氏)に比定されよう。系図にまとめると次の通りである。

【図1】

  ┌義清義実―女子

義康┤       ||―義弁

  └義兼義氏泰氏 ||――頼遠―頼兼

        └長氏―女子    └氏勝(直勝)

『寛政重修諸家譜』所収の花房氏系図によると、花房氏の祖・花房職通(もとみち、五郎)の父であるという義弁を「足利宮内少輔泰氏が八男」とし、「尊卑分脉、或は祖父足利左馬頭義氏が養子となるといふ」とも言及の通り、『分脈』には「為祖父子(祖父の子と為(な)る)」という注記も見られる。義氏の養子になったのは、建長3(1251)年12月2日に父・泰氏が無断出家の罪で足利の本領に閉居し(『吾妻鏡』)、その後も義氏が亡くなる建長6(1254)年11月21日新暦:1255年1月1日)まで実質的な家督の座にあったからであろう。義弁は1250年頃には生まれていたのではないかと思われ、足利氏本家とは兄・頼氏と甥・家時の間くらいの世代に相当することになる。

【図2】

泰氏頼氏家時尊氏

   └―上野義弁

         頼遠―頼兼

            └氏勝(直勝)

家時は早くも13歳となる文永10(1273)年に嫡男の貞氏をもうけたようなので、義弁の息子たちも貞氏とほぼ同世代人になるのではないかと思われ、貞氏に同じく「貞」の字を持つ上野貞遠(さだとお、三郎)は北条時の偏諱を受けたのではないかと推測される。

 

以上のことを踏まえると、頼兼氏勝(直勝)兄弟は、早くとも足利本家の尊氏・直義兄弟とほぼ同世代になるのではないかと思われる。阪田氏も言及の通り、頼兼は建武3年/延元元(1336)年、足利尊氏が九州に西走した際に、同年3月から4月にかけて大将軍として筑後黒木城を攻めたことが史料上での初見とされる。3月8日付の尊氏書状(『筑後近藤文書』)の段階で既に官職を得て「上野左馬助」と書かれている*9ので、この当時20代以上には達していて、遅くとも1310年代半ばには生まれていたのではないか。

そして、直勝も前述の通り、1351年に掃部助や左京亮の官職を得ているから、1330年頃までには生まれているであろう。可能性が高い時期として1320年代の生まれと推定しておきたい。

 

(参考ページ)

 上野直勝 - Wikipedia

 

脚注

*1:阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」(所収:國學院大學地方史研究会機関誌『史翰』21号、1994年)P.5~6。

*2:『大日本史料』6-14 P.103

*3:『大日本史料』6-14 P.121

*4:『大日本史料』6-14 P.958960961963

*5:『大日本史料』6-15 P.269

*6:注1前掲阪田論文 P.6。

*7:『大日本史料』6-15 P.157~158

*8:注1前掲阪田論文 P.5、上野頼兼 - Wikipedia より。

*9:『大日本史料』6-3 P.226