Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

葦名盛宗

葦名 盛宗(あしな もりむね、1259年?~没年不詳(※諸説あり))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。葦名泰盛の嫡男。蘆名盛宗芦名盛宗とも表記される。子に葦名時盛葦名盛貞

 

生没年については諸説伝えられる。

 

【史料1】『葦名系図』『葦名系図并添状 全』(『東大謄写』)

「葦名三郎左衛門尉。従五位下遠江守。関東引付評定衆。徳治二年九月十五日卒。四十九歳。法名道真」*1

=1307年49歳(数え年、以下同様)で死去 → 逆算すると1259年生まれ

 

【史料2】『会津四家合全』「黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事」所収 葦名家系図*2より

葦名遠江守盛宗(泰盛男)

文永八年辛未五月四日生、弘安九年丙戌十六歳家督継、暦応元年戊寅八月九日六十八歳死、勇健院殿一夢法性大居士と号、興徳寺薨

=1338年68歳で逝去 → 逆算すると文永8(1271)年生まれ*3

 

葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四(1296)年丙申八月十二日生、文保二(1318)年戊午二十三家督継、建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳、正傳庵月浦道円と号、但祠堂会津興徳寺の裏に在り

まず、【史料2】の場合、弘安9(1286)年に家督を継承したということも考えると、10代前半に既に元服していたと考えて良く、北条時宗の執権在任期間(1268~1284年)*4内に行われたことが確実となる。

一方【史料1】の場合でも、6代将軍・宗尊親王が解任および京都に送還される文永3(1266)年*5(当時8歳となる)までの元服とは考え難い。

よって「」の名は、葦名氏代々の通字「盛」に対し、「」は8代執権・北条時偏諱を許されたものと見て良いだろう。弘安7(1284)年4月までに時を烏帽子親として元服したものと判断される。

 

以下、葦名盛宗に関するものとされる史料等を紹介しておきたい。 

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▲【図3】『蒙古襲来絵詞』に描かれる「あしなのはんくわん(葦名判官)」

この絵は、文永の役を経た翌年の建治元(1275)年頃、幕府御恩奉行・安達泰盛の甘縄邸において竹崎季長が庭中*6を行っている際に、居間には芦名判官らがいて「秋田城介殿の侍、諸人出仕の躰(=体)」との注記がある*7。この「芦名判官(葦名判官)」が盛宗と考えられている。律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)*8を名乗っていることから、この当時既に左衛門に任官済みであったことになり、「芦名判官」=盛宗というのが正しければ生年が【史料1】の可能性が高くなる。尚、泰盛に近侍した人物として弟の葦名泰親(四郎左衛門尉)も登場する。

また、会津大鎮守六社のひとつで、福島県会津若松市に鎮座する諏方(すわ)神社の鉄製注連(しめ、福島県指定重要文化財に「永仁二年」の銘記があり、1294年に当時の黒川城主であった盛宗が信州諏訪神社に戦勝祈願をしたところ、戦わずに勝利したことから信州よりご神体を迎え、城下に奉ったのが始まりと伝えられている*9

更に、元弘元(1331)年に「葦名遠江守盛宗」が会津耶麻郡綾金村に観音堂を建立したとも伝える史料も存在しており*10、没年が【史料2】の可能性が高くなる。

【史料1】の「関東引付評定衆」であった史実は今のところ確認できないが、これらだけを見ても、北条時宗・貞時治世期から葦名氏当主として活動期に入っていたとみて良いだろう。

 

脚注

【論稿】大光寺合戦における工藤氏一族について

 

安達高景の "亡命" 説

【史料1】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より一部抜粋

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)→相模入道北条高時→安達時顕(延明)の順に切腹)……是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

こちらの史料は、鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)の際、得宗北条高時(相模入道崇鑑)に殉じて自害した人物を載せたものである。この『太平記』は元々軍記物語ではあるが、『尊卑分脈』と照らし合わせると、時顕法名:延明)・顕高など他の人物での官職に概ね一致しており、ある程度史実が反映されているものと認められる。

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細川重男のまとめでは、延明や顕高らと共に自害する「城介高量」は字の類似からしても(安達)の誤記の可能性が高いとする一方、『元弘日記裏書』建武元(1334)年11月条には「高景」なる人物が、名越流北条氏と思われる「時如(ときゆき)*1とともに津軽糠部郡持寄城に挙兵したという記述があることを紹介されており*2、『関城繹史』(『常陸史料』所収)や『大日本史料』など*3では安達氏(安達高景)とするが、筆者はこれを誤りと推測する

確かに安達氏は秋田城介を世襲し、元々陸奥国安達郡の豪族ではあった*4が、鎌倉時代以降の秋田城介は武家の名誉称号となって空職化していたといい*5、実際に安達氏が東北地方陸奥・出羽など)で活動していたという記録も見当たらない。従って『元弘日記裏書』で単に「高景」とだけ記される人物が安達氏である確証はなく、義兄の北条高時や父・弟と運命を共にせず、ただ一人津軽に落ち延びたというのもやや不自然に感じる。

では、幕府滅亡後の反乱に参加したこの「高景」は誰であろうか。

 

 

工藤高景と陸奥国糠部郡における一族の反乱

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(*http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-785.html より拝借)

 

結論から言えば、『元弘日記裏書』建武元年11月条における「高景」は、同じく時の偏諱を受けた工藤に比定し得ると思う。『奥南落穂集』によれば工藤行光の長男・長光が建久年間に陸奥国岩手郡栗屋河(厨川)に下向し、これに同行した行光の弟・三郎祐光の子孫が同国糠部郡に分住したのだという*6。実際、建武元年4月晦日付「源貞綱(多田杢助貞綱)書状」(『南部文書』)を見ると、南部又次郎師行戸貫出羽前司河村又次郎入道の3人に宛がわれた糠部郡の闕所のうち一戸と八戸が工藤氏の旧領であったことが確認でき*7同年12月14日付の書状(『南部文書』)にある津軽での反乱で捕虜となった者の交名(リスト)に工藤姓の人物が多数見られる*8ことからも、工藤氏の一族が得宗被官(御内人)として*9この地域に勢力を張っていたことが窺える。

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▲【図2】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*10

 

前述の三郎祐光は「すけみつ」という音の共通から、「南家 伊東氏藤原姓大系図*11での行光の弟・資光、および『吾妻鏡』での三郎助光に比定され*12、その子孫「光長〔光泰光頼〔頼光宗光(工藤右近将監)貞光(新右近)」は代々得宗偏諱を受けてその被官として続いた*13建武元年7月29日には「糠部郡七戸内 工藤右近将監(=貞光」が伊達行朝に宛がわれており*14、この家系もそれ以前に糠部郡内を領していたことが窺える。

 

●【表3】『楠木合戦注文』に基づく幕府軍の構成メンバー表

河内道(大手) 大将軍 遠江弾正少弼治時
軍奉行 長崎四郎左衛門尉高貞
大和路 大将軍 陸奥右馬助
軍奉行 工藤次郎右衛門尉高景
大番衆 新田一族 里見一族 豊島一族 平賀武蔵二郎跡
飽間一族 園田淡入道跡 綿貫三郎入道跡
沼田新別当跡 伴田左衛門入道跡 白井太郎
神澤一族 綿貫二郎左衛門入道跡 藤田一族
武二郎太郎跡
紀伊 大将軍 名越遠江入道
軍奉行 安東藤内左衛門入道円光
大番衆 佐貫一族 江戸一族 大胡一族 高山一族
足利蔵人二郎跡 山名伊豆入道跡 寺尾入道跡
和田五郎跡 山上太郎跡 一宮検校跡
嘉賀二郎太郎跡 伊野一族 岡本介跡 重原一族
小串入道跡 連一族 小野里兵衛尉跡 多桐宗次跡
瀬下太郎跡 高田庄司跡 伊南一族 荒巻二郎跡

(*表は http://chibasi.net/soryo14.htm より拝借)

そして、工藤高景は【表3】にあるように『楠木合戦注文』に通称「次郎右衛門尉」と書かれている*15ので、「高光―時光二郎右衛門入道、法名杲暁〕貞祐二郎右衛門と続いた資光(助光/祐光)の弟・重光の家系の出身、すなわち貞祐の嫡男ではないかと推測されている*16工藤杲暁(こうぎょう)貞祐(さだすけ)父子は得宗被官として若狭守護代を務め「若狭国今富名領主次第」「若狭国守護職次第」、杲暁は得宗公文所執事にも抜擢され、貞祐も1331年まで「多田院造営惣奉行」を務めるなど様々な活動を行っていたことが確認できる*17のだが、元弘の乱における動向が不明なのである。

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【史料1】での高時に殉死者に工藤氏の掲載はないが、幕府滅亡後には工藤氏の者が処刑されたことを伝える史料が残る。『近江国番場宿蓮華寺過去帳』(『群書類従』巻514所収)には建武元年12月4日に「公藤二郎」と「同次郎右衛門尉五十二歳」が六条河原で斬首されたとする記述が見られるが、「公藤」が「くどう」と読める(例:家(げ)など)ことから、この2名は工藤氏と考えられ、通称名の一致と世代から、貞祐・高景の可能性がある。また、『鶴岡社務記録』文和2(1352)年5月20日条には「相模次郎(=北条時行)」と共に「工藤次郎」が処刑された旨の記述があり*18、この者は高景の次世代であったと推測されている*19

 

これらの考察を踏まえると、工藤氏の中でも惣領のような立場にあった工藤高景が、津軽での反乱に全く無関係であったとは思えない。すなわち、建武元年11月の反乱(いわゆる大光寺合戦)は、高景を中心とした工藤氏一族が、本拠地である津軽糠部郡に結集し、主家・北条氏一族の生き残りである名越時如を大将に迎えて起こしたものだったのである。 

ja.wikipedia.org

 

 <まとめ>建武元(1334)年 陸奥工藤氏の反乱

  • 2月晦日:留守彦二郎(余目家任)が「二迫栗原郷栗原並竹子沢内工藤右近入道(宗光)」の知行を命じられる*20
  • 4月晦日陸奥国糠部郡一戸の工藤四郎左衛門入道跡、同子息左衛門次郎(義村)跡、および同郡八戸の工藤三郎兵衛尉跡が闕所地とされる。
  • 7月29日:「工藤右近将監(貞光)」の旧領であった糠部郡七戸が闕所地とされる。
  • 11月19日:「津軽凶徒(名越)時如、(工藤)高景」以下の反乱を鎮圧。工藤左近二郎*21の子である孫二郎義継孫三郎祐継兄弟以下、工藤氏一族の多くが捕虜となる。
  • 12月4日:「公藤二郎(工藤高景?)」と「同次郎右衛門尉(工藤貞祐?)」が六条河原にて斬首。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.369に掲載の『前田本平氏系図』によれば、系譜は「義時―朝時―時章―篤時―秀時―時如」。「掃部助」と注記される。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)。

*3:『大日本史料』6-2 P.135安達高景 - Wikipedia #備考 を参照。

*4:安達氏(あだちうじ)とは - コトバンク 参照。

*5:秋田城介(アキタジョウノスケ)とは - コトバンク 参照。

*6:『奥南落穂集』「岩手郡之次第」(「近世こもんじょ館」HP)、奥州工藤氏 - Wikipedia #厨川工藤氏 参照。

*7:『大日本史料』6-1 P.522

*8:『大日本史料』6-2 P.135~139

*9:鎌倉時代には北条氏が糠部郡の地頭を務め、一戸~九戸の各戸に家臣を地頭代として配置していたという。糠部(ぬかのぶ)とは - コトバンク を参照のこと。

*10:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*11:翻刻は、前注今野氏論文 P.130~135のほか、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料編 古代・中世』(2006年)にも収録。

*12:注10前掲今野氏論文 P.112。

*13:注10前掲今野氏論文 P.113。

*14:前注同箇所 および 『大日本史料』6-1 P.657

*15:正慶乱離志 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。

*16:注10前掲今野氏論文 P.114。

*17:前注同箇所。

*18:『鶴岡社務記録』 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*19:注10前掲今野氏論文 P.114。

*20:笠原信男「栗原郡における中世の修験 ー羽黒先達及び熊野先達ー」(所収:『東北歴史博物館研究紀要』、東北歴史博物館、2010年)P.54。『鎌倉遺文』第42巻32855号。注10前掲今野氏論文 P.113。

*21:鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条において連署北条時村殺害犯の一人、甘糟忠貞を預ける際の使者を務め(→ 工藤時光 - Henkipedia【史料15】)、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)において七番衆の一人となっている「工藤左近将監」の子か。

平賀貞義

平賀 貞義(ひらが さだよし、1294年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人平賀朝村の次男。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男・朝政(=平賀朝雅の曾孫で、平賀貞経の弟である。

 

朝政(朝雅)は猶父でもあった頼朝から「朝」の偏諱を受けたとみられ、子・朝経、孫・朝村とこの字を代々継承していったが、朝村の息子は経、義と名乗っている。これは得宗北条(9代執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2から偏諱を受けたためであろう。

このことを裏付けるものとして、上記記事では『分脈』の兄・貞経の傍注に「城十郎時景(母が安達時景の娘)とあることから、その生年を1293年頃と推定した。『分脈』では貞義はその弟として書かれており、さほど年齢の離れていない兄弟であったと考えて良いだろう。祖先「」の4代で継承された「」の字を使用したものと見受けられる。

 

「楠木合戦注文」には、正慶2(1333)年初頭、楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞*3の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって*4、武蔵守に補任された平賀義信平賀朝雅の子孫が御家人として鎌倉時代末期まで存続したことが確認できる*5が、貞義については史料上でその活動は確認できず不詳である。

 

脚注

平賀貞経

平賀 貞経(ひらが さだつね、1293年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人平賀朝村の嫡男。

 

尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男・平賀朝政の曾孫である。その注記には頼朝の岳父でもある北条時政の娘婿となり、いわゆる牧氏事件で討伐されたことが書かれており、その内容や名前の読みの共通から、朝政は平賀朝雅のことを指していると考えて良い。

『分脈』によると、朝政(朝雅)には妻の時政娘との間に嫡男の平賀朝経(四郎二郎)があったという。朝雅の「朝」は猶父でもあった頼朝の偏諱とみられ、子・朝経、孫・朝村と通字として継承されたことが窺える。

 

しかし、朝村の息子は経、義と名乗っている。結論から言えば、これは得宗北条(9代執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2から偏諱を受けたためであろう。

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『分脈』には貞経の傍注に「城十郎時景」とあり、安達時景の娘を母親としていたことが分かる。時景については上記記事にて1253年生まれと推定しており、外祖父―外孫の年齢差を考慮すれば、(各親子間の年齢差を20とした場合)貞経の生年は早くとも1293年頃と推定可能である。多少前後はするだろうが、通常10代前半で行われる元服当時の得宗北条貞時であった可能性はほぼ確実で、その「」の偏諱を許されたものと判断される。「経」は言うまでもなく祖父・朝経の1字を取ったものであろう。

 

「楠木合戦注文」には、正慶2(1333)年初頭、楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞*3の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって*4、武蔵守に補任された平賀義信平賀朝雅の子孫が御家人として鎌倉時代末期まで存続したことが確認できる*5が、貞経については史料上でその活動は確認できず不詳である。

 

脚注

安達時顕

安達 時顕(あだち ときあき、1282年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人法名延明(えんめい / えんみょう)。通称は秋田城介、城入道、別駕など。

 

 

系譜・生年・烏帽子親について

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)等によれば、父は安達宗顕、母は山河重光(山川重光)の娘。子に安達高景安達顕高、女子北条高時室:後掲【史料11】・【図16】)、女子二階堂貞衡室・二階堂高衡(行直)母)*1がいる。

 

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▲【図1】『尊卑分脈』〈国史大系本〉より、安達氏顕盛流の系図

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「弘安八被誅廿一」とある通り、父・宗顕は弘安8(1285)年の霜月騒動に際し誅伐され、遠江で自害しており*2この時までに時顕は生まれている筈である。そして宗顕はこの時享年21であったというから、親子の年齢差を考えれば時顕はまだ生まれたばかりの幼児であったことも確実で、次の史料により裏付けられる。

 

【史料2】(文保元(1317)年11月)「安達宗顕三十三年忌表白文」より*3

「……適雖出襁褓之中、未離乳母之懐中、纔雖遁戦場之庭、未離懐飽之膝上……」

(現代語訳:襁褓(むつき)を出たとはいえ、未だ乳母の懐の中を離れず、辛うじて戦場を遁れたが、まだ抱きしめてくれる膝の上を離れていなかった)

 

この史料を紹介された細川重男*4は、これを基に弘安5(1282)年頃の生まれと推定されている。細川氏は、16歳の時に父(時顕の祖父)顕盛を亡くした宗顕は伯父で惣領の安達泰盛 或いは 北条政長の庇護下にあったと考えられ、その時期に生まれたと考えられる霜月騒動の後も政村流北条氏の庇護下で成長し、その当主・北条(政長の兄、1287年鎌倉に帰還)を烏帽子親として元服し「」の偏諱を受けたと説かれている。

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▲【図3】安達宗顕 周辺関係図*5

 

 

史料上における秋田城介時顕

本節では、時顕に関連する史料を幾つかピックアップして紹介しておきたい。

 

 ★1300年頃?:左兵衛尉任官か。

*『分脈』(前掲【図1】)によれば、「加賀兵衛尉」とも呼ばれたというが、祖父・顕盛の最終官途=加賀守 に因んだものであろう。但し、今のところこの通称で書かれた史料は見つかっていない。

 

【史料4】高景者、以正安時顕参入之例参入、……」(『花園天皇宸記』元弘元(1331)年10月21日条の頭書

前日(20日条)にはこの頃、安達高景二階堂貞藤(道蘊)と共に東使として上洛したこと*6が記されるが、ここには高景が正安年間(1299~1302年)に父・時顕が東使として参った前例に倣ったとあり、これが史料上で確認できる時顕の最初の活動であろう。

 

 ★この間に秋田城介継承か。

 

【史料5】嘉元2(1304)年2月29日付「秋田城介添状案」(『金剛三昧院文書』)*7:発給者の署名「秋田城介

*『鎌倉遺文』では秋田城介=宗景とするが、宗景は霜月騒動で亡くなっている*8からこれは明らかに誤りである。この頃に秋田城介であり得るのは時顕しかいないだろう。

 

【史料6-a】『歴代皇紀』嘉元4(1306=徳治元)年2月条:「二月……関東使 城介時顕 能登入道行海(=二階堂政雄)…… 」

【史料6-b】『実躬卿記』徳治元年2月13日条:関東御使(東使)として前日の夜に京都入りした「秋田城介時顕」、9日に入洛「能登入道行戒〔ママ、行海=二階堂政雄〕」と共に関白亭に参る。

【史料6-c】『実躬卿記』同年2月25日条:「東使城介時顕」、かつて使節として上洛した祖父・顕盛が後嵯峨天皇から、その弟・長景が亀山天皇から、各々御剣を下賜された先例に倣って御剣を賜うとの話があって召し出されるが、後宇多上皇は参らず。筆者の正親町三条実躬はこのことについて「不審」と表現。

【史料6-d】『実躬卿記』同年2月27日条:「今暁城介時顕下向云々(=鎌倉へ下向・帰る)

 

【史料7】『一代要記』徳治2(1307)年正月22日条:「徳治二年丁未正月二十二日東使時顕入洛(=東使として再上洛)

 

【史料8-a】『武家年代記』徳治3(1308=延慶元)年7月8日条: 「延慶元七八、久明親王可有御上洛之由、以城介被申入之、

【史料8-b】『北條九代記』正応2(1289)年条(『鎌倉年代記』と同内容):将軍・久明親王についての記事に「徳治三年七月八日、有御上洛之由、以秋田城介時顕被申之」。

 

【史料9】「金沢貞顕書状」:延慶2(1309)年4月の寄合衆の中に「別駕(下記記事の史料を参照)

*「別駕」とは、諸国の介(すけ)唐名*9。秋田城"介"であった時顕に比定される。

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【史料10-a】『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』:「……十月小 長井左近大夫入道ゝ漸秋田城介時顕上洛……」

【史料10-b】『延慶三年記』延慶3(1310)年10月17日条*10

十七日、天晴、自関東使節両人之内一人城介令京着方〔ママ〕云々、尾張国一国召具登云々、相州禅門(=貞時)被付之云々、或為山門沙汰上洛之説在之、又或為謀叛人沙汰令着上之説有之、

これらの史料により、延慶3(1310)年10月、東使として長井貞広と上洛したことが分かる。

*『鎌倉大日記』にも「長井左近大夫将監入道・秋田城介時顕為使入洛」とあり、『増補 続史料大成』第51巻では延慶元年条に書かれているが、生田美喜蔵所蔵本では同3年条にあるといい、上記2つの史料を裏付けるものとなる。

 

【史料11】『保暦間記』より

……彼(=北条高時内官領長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打レシ平左衛門入道〔=が:以下同じ〕光綱子、高時秋田城介時顕、彼ハ弘安ニ打レシ泰盛入道覚真カ舎弟、加賀守顕盛カ孫也、彼等二人ニ、貞時世事申置タリケレハ、申談シテ如形子細ナク年月送ケリ、…… 

*この史料により、時顕が泰盛の弟・顕盛の孫であったこと、北条高時の舅(岳父)であったことが分かる。後者については後掲【図16】(『系図纂要』)にも記載があるほか、金沢流北条顕実・時雄・貞顕三兄弟の母親である入殿(遠藤為俊の娘、金沢顕時の妻)に関する史料「入殿三十五日回向文土代」(『金沢文庫文書』)*11の文中に「彦子為副将軍之夫人(彦子副将軍の夫人と為(な)る)」とあり、『正宗寺本北条系図』を見ると金沢顕時の子・顕雉〔ママ、=時雄*12の娘に「秋田城之介時顕」と書かれることから、「入殿―時雄―女子(時顕妻)―女子(高時*13妻)」という系譜であったと考えられている*14

 

【史料12】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の、施薬院使・丹波長周の注進状*15

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【史料13】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)*16:元亨3(1323)年10月の貞時十三年忌供養に関する史料。

・ 25日の法要において「御願文」の「清書」を「秋田城介時顕朝臣」が担当。

・ 同日の「一品経調進方々」の中に「安楽行品 城介殿(=卅貫)」。

・「廿六日、法堂供養也、……同堂左雨打間、太守(=北条高時御坐、其次間、別駕洒掃・長禅(=長崎円喜以下御内宿老参候、……」

・「……凡今月中旬以来、於此 、諸方御追修計会、……城務廿六日、……」

・ 27日の法要では「城介殿」が「砂金百両 銀剱一」を献上。

 

【史料14】『鎌倉年代記』/『北條九代記』

元亨2(1322)年条:「七月十二日引付頭 守時 顕実 時春 貞直 時顕

嘉暦元(1326)年条:「五月十三日引付頭 茂時 顕実 道順 貞直 延明

引付頭人のメンバーを記したものであるが、1322年から1326年の間にその変化がある。しかし、三番引付頭人は塩田流北条時春が出家して「道順」と号したものであり*17、五番引付頭人についても安達時顕がこの間に出家したための変化であることが窺える。その期間は1324年*18~1326年の間に絞り込められ、時顕の法名が「延明」であったことは次の史料により裏付けられる*19

 【史料15】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*20

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行曉

出羽入道道薀        後藤信乃入道覺也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

相模左近大夫将監(北条泰家)行暁(二階堂行貞)覚也(後藤基胤)道大(太田時連)行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、彼らが正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時剃髪に追随して出家した後の評定衆などのメンバーを記したものと分かる。そしてこれは行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までに書かれた筈であるから、この史料からも時顕(延明)が嘉暦年間に出家していたことが確実となり、細川重男がご推測の通り正中3(1326=嘉暦元)年3月の娘婿・北条高時の剃髪に追随したと思われる*21。時顕の法名「延明」については次の系図にも記載が見られる。 

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▲【図16】『系図纂要』安達氏系図 より

 

そして、この【図16】と冒頭の【図1】に共通して、元弘3(1333)年5月22日の東勝寺合戦において自害したとの記載があり、次の史料により裏付けられる。 

【史料17】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)の順に切腹)……此小冠者に義を進められて、相摸入道(=高時…【図16】)も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

この『太平記』は元々軍記物語で、多少の脚色も無くはないが、史実に基づいて描かれている。時顕(延明)がこの時亡くなったことは、次節に掲げるその後の史料によっても裏付けられよう。

 

時顕死後の所領について

【史料18】(元弘3年8月5日)「足利尊氏宛書状」(『比志島文書』)*22後醍醐天皇から「足利殿(=足利尊氏」に恩賞として与えられた幕府旧領の中に「同国(=武蔵国麻生郡時顕」。

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▲【図18'】麻生の歴史を探る 麻生郷〜尊氏領〜 | 麻生区 | タウンニュース より拝借

*冒頭には「泰家」、「貞直」のように書かれており、その後は同人が続く場合に「同」と記すなど、略記されていることが窺える。従って「時顕」の部分も「」が省略されていると考えられ、武蔵国麻生郡が時顕が所有する鎌倉幕府直轄領(旧領)であったことが分かる。同地は現在の神奈川県川崎市麻生区に相当し、この史料は「麻生」の地名が初出するものとしても注目されている

尚、この「時顕」は上図にあるように、【史料17】の自害者の一人である金沢流北条氏一門の甘縄時顕(顕実の孫)にも比定し得るが、泰家が法名の「恵性」で書かれていないことから、安達時顕(延明)の可能性も捨てきれない。

 

【史料19】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*23

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道等跡闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

 

【史料20】延文2(1357)年6月11日「越後守護代芳賀高家施行状」(『桜井市作氏所蔵文書』)*24

当国瀬波郡小泉庄内城介入道五藤〔ママ、後藤〕信乃入道二階堂山城入道等事、為兵粮料所々被預置也、一族并同心之輩、依忠浅深、可被配分之由候也、仍執達如件、

 延文二年六月十一日 伊賀守(花押)

  色部遠江(=色部長忠)殿

」の記載がある通り、越後国小泉庄内にあった時顕二階堂行貞(行暁)後藤基胤ら【史料15】にも名を連ねる高時政権中枢メンバーの旧領が、幕府滅亡後闕所地となり(行貞と基胤は幕府滅亡前に逝去)、【史料20】は色部長忠が芳賀高家(正しくは高貞か)よりこれらの闕所地を「忠の浅深」によって「一族并びに同心の輩」に配分する権利を得たものである。

時顕の死後、その旧領であった麻生郡は尊氏に、 小泉庄内の所領も色部長忠一族らに渡ったのであった。  

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(参考ページ・論文)

 安達時顕 - Wikipedia

 安達時顕(あだち ときあき)とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その89-安達時顕 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 細川重男「秋田城介安達時顕 得宗外戚家の権威と権力ー」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)

 

脚注

*1:『分脈』二階堂氏系図の行直の注記に「母城介時顕女」とある。

*2:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.174。

*3:『鎌倉遺文』第34巻26431号。

*4:以下、細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)第二節「出自」P.142~145 に従って解説する。

*5:注4前掲細川氏著書 P.144 より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。尚、同職員表は細川氏の著書『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末にも掲載。

*7:『鎌倉遺文』第28巻21756号。

*8:安達宗景 - Henkipedia より。

*9:別駕(ベツガ)とは - コトバンク より。

*10:『延慶三年記』 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*11:『鎌倉遺文』第37巻28544号。

*12:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.5。

*13:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、注6前掲細川氏著書 P.263~264 注(55)を参照のこと。この場合の「副将軍」は年代的に考えて高時でしかあり得ない。

*14:注6前掲細川氏著書 P.151。

*15:注6前掲細川氏著書 P.19 より。

*16:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.690・696「別駕」・697・698・699・705・710。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その39-塩田時春 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*18:『花園天皇宸記』元亨4(1324)年10月30日条の裏書に「時顕」とある。注4前掲細川氏著書 P.150。

*19:他にも『増鏡』17「月草の花」の文中に高時・貞顕・円喜と並んで「城介入道円明〔ママ〕」とある。注4前掲細川氏著書 P.149 より。

*20:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*21:福島金治の見解では、高時の弟・泰家に追随しての出家とする(→コトバンク所収『朝日日本歴史人物事典』「安達時顕」の項)が、泰家は高時の後、貞顕が次の15代執権となったことを恥辱として出家したのであり、いずれにせよその時期はほぼ変わらない。元々安達氏一族は、一門・大室氏出身の母を持つ泰家を後継の執権に推挙していた。

*22:『大日本史料』6-21 P.853

*23:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*24:前注清水氏論文 P.10。『新潟県史 資料編 中世』2755号。

大仏高政

北条 高政(ほうじょう たかまさ、1310年頃?~1333年?)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。北条氏一門・大仏貞直の嫡男で、大仏高政(おさらぎ ー)とも。通称は五郎。

 

本項で扱うのは、次の史料に現れる人物である。

【史料A】(嘉暦4年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*1より

去月廿七日御返事、長州上野前司使下向之便、今日到来、委細承候了、

一. 道蘊使節事、大略落居、近日可被出御返事之旨、承候了、治定分、北山殿さたハ、可有御存知候、内々御尋候て、可示給候、

一. 為重朝臣上洛候て、申旨候者、有御対面、委可被聞候、

一. 駿州子息五郎高政官途事、未申候哉、聞書出来之時、可写給候、

一. 同人長崎左衛門入道招請事、致用意被請候之処、固辞候て不参候之間、周章之由承候、彼固辞候上者、城入道も不参候歟、又京都ニハ可有上洛之旨風聞之由…

(以下欠)

ここでいう「駿州」とは当時の駿河であった人物を指すものであり、その息子として五郎高政なる人物が確認できる。元服からさほど経っていなかったためか、無官で「五郎」とのみ名乗っていたことが窺えるが、「官途の事、未だ申し候や(=まだ申していないのでしょうか)*2と言っているように、この当時高政に任官の話が出ていたことも分かる。

 

では、この高政の父である「駿州駿河守)」とは誰なのか。『鎌倉遺文』では北条(甘縄)顕実*3、『金沢文庫古文書』では北条(大仏)貞直、としていて意見が分かれており、これについて考証してみたい。

そのためにはまず、この書状が何時のものかを推定する必要がある。ここで注目すべきは、文中にある、高時政権の最高権力者、長崎円喜安達時顕法名:延明)両名の通称「長崎左衛門入道」・「城入道」である。

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こちら▲の記事で紹介の通り、円喜(俗名:長崎盛宗か)は延慶2(1309)年に出家済みであったが、「城入道」というのは秋田城介であった時顕が入道(出家)してから呼ばれる筈であり、その年は高時に同じく正中3(1326)年である。

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従って【史料A】は正中3年以後、鎌倉幕府滅亡時(1333年)までに書かれたものであることは確実である。上に示したように『鎌倉遺文』では嘉暦4(1329=元徳元)年と推定しているが、永井晋の研究によると同年3月、後醍醐天皇の譲位を巡る問題を重く見た幕府は道蘊こと二階堂貞藤を使者(東使)として上洛させたといい*4、「道蘊使節事、大略落居、…」以下の一節はそのことを言っているものなのであろう。

 

次いで、正中3年以後に駿河であり得る人物について考察したい。

 伊具斎時:不詳*5

*『常楽記』での逝去の記事で「伊具駿河入道」と記されることから、生前駿河守となってから出家したことが分かる。『鎌倉年代記』正和2(1313)年条には、7月26日に二番引付頭人として「斎時」の名があるから、出家はこれより後のことである。同文保元(1317)年条を見ると12月27日の引付改編で記載が無いことから、二番引付頭人を辞したことが分かるが、この時政界を引退した可能性が高く、同時に出家したのではないか。すなわち斎時の駿河守在任は1317年以前だったのではないかと推測される。

甘縄顕実:不詳*6

*弟・金沢貞顕の書状に現れる「駿川修理亮顕香」*7、「駿河大夫将監顕義」*8は『前田本 平氏系図*9により、『常楽記』にある「甘縄駿河入道(俗名顕実)」の子(貞顕の甥)とみなせるので、顕実の最終官途が駿河守であったことは認められる。斎時に同じく逝去時の通称から、生前駿河守となってから出家したことが分かるが、『鎌倉年代記』を見ると嘉暦元(1326)年5月13日における二番引付頭人に「顕実」とあって在俗であるから、出家の時期は逝去の直前であったことが窺える。

 大仏貞直:後述【史料B】より。

 常葉範貞:1329.12.13~1333.5.22(幕府滅亡)*10

 

判明しているだけでも駿河北条重時以来、北条氏一門により世襲されていたと言って良く、1301~1305年の北条宗方までは判明している*11。上記の彼らもまた、北条氏一門であり、【史料A】の高政が北条氏であることが確実となる。

ここで次の史料を紹介しておきたい。

【史料B】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*12

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行曉

出羽入道道薀        後藤信乃入道覺也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

「城入道延明(安達時顕)」のみならず、相模左近大夫将監(北条泰家)行暁(二階堂行貞)覚也(後藤基胤)道大(太田時連)行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、彼らが正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時剃髪に追随して出家した後に書かれたものであることは確実である。そしてこれは、行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までに書かれた筈でもある。

すなわち、1326~1329年の間に貞直が駿河守在任であったことが確実となり、駿河守在任者の変化は

 顕実(1326~1327)貞直(1327~1329)範貞(1329~)

 貞直(~1326.5)顕実(1326.5~1327)(1327~1329)範貞(1329~)

のいずれかとなる。

前述したように【史料A】は1329年のものである可能性が高いから、「駿州」=顕実とする『鎌倉遺文』の人物比定は成立し得ない。

そして、のように顕実と範貞の間に駿河守であった人物が判明していないというのはどうも不自然であり、また貞直が駿河守を辞して「前駿河守」「駿河前司」等と呼ばれた形跡も史料で確認できない。

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞直は1329年12月頃に「奥州拝任」をし、その後の元弘の変に際しては「陸奥守貞直」として幕府軍大将の一人を務めている。前述のように捉え、駿河守からそのまま陸奥守へ転任したと考えるのが自然なのではないか。

よって嘉暦年間当時の駿河守は貞直で、【史料A】の「駿州」=貞直とする『金沢文庫古文書』の見解が正しいと判断される。すなわち、系図には見られないが、貞直には高政という息子がいたことになる

上の記事で貞直の生年を1290年頃と推定したが、これに従い親子の年齢差を考慮すれば、高政の生年は早くとも1310年頃となる。この場合【史料A】当時20歳(数え年)位となり、北条氏一門で何かしらの官職に就く話が出る年齢としては相応であろう。

元服は通常10代前半で行われたから、「」の名は1326年までに14代執権・北条を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと判断される。大仏流北条氏では宣時の長男・宗宣の系統(宣―(維貞) )が嫡流として代々得宗家と烏帽子親子関係を結んでいたが、次男・宗泰の系統(泰―)も準嫡流として同様に一字を拝領していたのであろう。父・貞直は大仏朝直(宣時の父)の1字を用いたが、高政の「政」は更に遡った先祖・北条時政から取ったものと見受けられる*13。また「五郎」の輩行名は実際に5男だったわけではなく、貞直の嫡男として、宣時・宗宣父子が名乗った仮名を称したものであろう。

 

先行研究でも貞直の子としてあまり浸透していないためか、関連する史料が残されていないこともあって大仏高政の動向は不明である。但し、父・貞直は1333年5月22日の鎌倉幕府滅亡東勝寺合戦時に戦死、同日には高時以下一門も自害しており*14、その「佐介の人々」または「門葉たる人二百八十三人」の中に高政も含まれていたのではないかと思われる。『系図纂要』には貞直の子として大仏顕秀の記載があり、恐らくは15代執権・貞顕の偏諱を受けた高政の弟と思われるが、同じく幕府滅亡時に戦死したと伝わる。

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第39巻30702号。『金沢文庫古文書』688号(武将編P.126 391号)。

*2:「未」は漢文における再読文字で「いまだ~(せ)ず」(→ 高等学校古文/漢文の読み方/再読文字 - Wikibooks)。「申候」は「申します」、「候哉」は「…でしょうか/…するであろうか」の意(→ 古文書の勉強候の用例辞典 - 古文書ネット)。

*3:他にも 北条高政 (顕実の子) - Enpedia(典拠は北条氏研究会 『北条氏系譜人名辞典』 〈新人物往来社、2001年〉P.206)でもこの説を採用するが、本項ではこれを否定する。

*4:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.118。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その53-伊具斎時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『尊卑分脈』および 『常楽記』嘉暦4(1329)年9月3日条「伊具駿河入道他界六十八」。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『常楽記』嘉暦2(1327)年3月26日条「甘縄駿河入道殿他界五十五俗名顕実」。

*7:元徳2年カ)2月22日付書状(『鎌倉遺文』第39巻30917号)。

*8:元徳2年2月26日のものとされる書状(『鎌倉遺文』第39巻30930号)。

*9:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.375。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:駿河国 - Wikipedia  #駿河守 参照。

*12:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*13:大仏流の近親者では、貞直の弟(高政の叔父)・大仏宣政や、貞房の末子・大仏貞政(『分脈』、貞直の従兄弟)がこの字を用いている。

*14:「太平記」巻10 高時並一門以下於東勝寺自害の事(その3) : Santa Lab's Blog

二階堂高行

二階堂 高(にかいどう たかゆき、1312年頃?~1392年?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。通称は三郎。のちに二階堂行光(ゆきみつ、二階堂行元とも)に改名か。

尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると父は二階堂貞衡。兄・二階堂行直(初名:高衡)には母が秋田城介・安達時顕の娘と注記されるのに対して、高行については特に記載が無く、その異母弟なのかもしれない。

 

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・貞衡については正応4(1291)年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、早くとも1311年頃の生まれと推測可能である。historyofjapan-henki.hateblo.jp

そして、こちら▲の記事で兄・行直が南北朝時代初期に得宗北条偏諱を受けた「衡」から改名したことを紹介したが、弟であるも同様であったと考えて問題なかろう。北条高時執権期間(1316~1326年)*2内の元服であろうから、高衡(行直)とさほど年齢の離れていない弟であったと推測される。

 

 

二階堂行光(中務少輔)とその関連史料について 

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ところで筆者はこちら▲の記事で、『分脈』において別々に書かれている高貞(改め行広)の子・行元が、高行が改名後の同人でないかと推測した*3。兄・高衡が「行直」と改名したのに対し、弟である高行がそうでないというのは不自然に感じるからである。

また、『分脈』を見ると、行元の注記に「実貞衡子」と書かれており、高行・行元両者とも「三郎」を称したという。同系図にはないものの、貞衡の嫡男・高衡(行直)が「次郎」を称したことは史料で確認できるが、その下に「三郎」を名乗る弟が2人いたというのもまた不自然と言わざるを得ない。

いずれにせよ、『分脈』での「実貞衡子」行元(=行光)の記載は後世、豊臣秀吉の命を受けた山中長俊によって編纂された『中古日本治乱記』*4巻8「持氏渡御於佐介 三浦義高夜討評定事」の文中に「二階堂山城守行直・舎弟中務少輔行光」とある*5によっても裏付けが可能であり、後述するが如く行直の地位継承者でもあった。

尚、行元(行光)の実名については、崩し字が似ているため「元」と「光」での混乱があるようだが、正しくは「行光」であろう。木下聡は「系図によっては『行光』とするものもあるが、崩し字の誤読による誤伝」として「行元」説を採られるが、後述するように当時の史料に現れるのは「行光」の方であり、それらが誤読とは考え難い。逆に「行元」と読まれているのはそれこそ系図である『分脈』や軍記物語の『太平記』(一部)ぐらいしかなく、史料的な質を考慮すればむしろこちらを疑うべきではないか(典拠不明ながら息子・忠広の別名が「元栄」であったというがこちらも正しくは「光栄」の可能性がある)。同名の祖先にあやかって「行光」に改名したのではないかと思われる。

以下、行光に関する史料を列挙する。

 

【史料1】康永4(1345)年8月、故・後醍醐天皇七回忌供養のため天竜寺に参詣した足利尊氏・直義兄弟に随兵として同行。

尊卑分脈:「康永天竜供養随兵」 

南北朝遺文 関東編第三巻』(東京堂出版)1581号:「山城三郎左衛門尉行光

同1382・1585号:「山城三郎左衛門尉

同1583・1584・1586号:「二階堂山城三郎左衛門尉

『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事大佛供養ノ事」:文中に「二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光」。  

 

【史料2】『太平記』巻27「御所囲事」足利直義高師直両派間の対立が頂点に達していた貞治5/正平4(1349)年8月、師直派がクーデターを起こした際に、師直邸に集結した武将たちの中に「二階堂山城三郎行元」。

 

【史料3】『鎌倉大日記』観応2(1351)年条:「『政所』山城大夫判官 行光 行恵行暁の誤記貞衡

 

 ★ 1363年、2代将軍・足利義詮政権下で中務少輔に任官。

 

【史料4】貞治2(1363)年12月26日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺恒例

 歳末巻数令披露

 候了、仍執達如件、

  貞治二年十二月廿六日 中務少輔(花押)

 

【史料5】貞治3(1364)年12月27日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 巻数入見参候了、

 仍執達如件、

  貞治三年十二月廿七日 中務少輔(花押)

 

【史料6】貞治4(1365)年12月22日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 巻数入見参候了、

 仍執達如件、

  貞治四年十二月廿二日 散位(花押)

 

【史料7】貞治5(1366)年12月22日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

 

 ★ 1367年、将軍・義詮の死去を悼んで出家(法名:行照)。

 

【史料8】応安元(1368)年12月27日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 御祈禱巻数入見参

 候了、仍執達如件、

  應安元年十二月廿七日 沙弥(花押)

*「沙弥」とは「剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者」の意で、日本ではしばしば "入道" あるいは "法師" と呼ばれる者がこれを用いることがあった*6

 

【史料9】『花営三代記』応安4(1371)年11月1日・2日条*7:この年の後円融天皇即位に関連して、1日、幕府御即位の沙汰が管領細川頼之の邸宅にて行われ、この際の奉行人の筆頭に「山城中務少輔入道 于時政所」。翌2日の御所における御沙汰においても「相州(=相模守であった頼之)中書入*8」らが参加。

 

ところで、上記史料における「山城」とは本来、父が山城守である場合に付けられる筈である*9。兄・行直も当初は父・美作守貞衡の官途にちなんで「美作次郎左衛門尉高衡」・「美作大夫判官」と呼ばれていたことが確認できる(下記記事参照)。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

それにもかかわらず、高行 或いは 行光が「美作三郎」ではなく「山城三郎」、そしてその後も「山城三郎左衛門尉」・「山城中務少輔入道」と呼ばれているのは妙である。『分脈』に従えば、行光は叔父・高貞の養子であったが、上記で紹介した複数の「巻数返事」発給は、兄・行直が政所執事として行っていたことを引き継いだものであると言え、最終的には行直の後継者の立場にあったと捉えられる。その通称名から兄・行直の養子(或いは猶子)に転じたのではないかと思われる。 

 

(参考ページ)

 二階堂行元 - Wikipedia

南北朝列伝 ー 二階堂行元

『亀山市史』古代中世資料綱文・史料リスト

亀博WEB図録 亀山市内に伝わる中世文書

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-1 P.423

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*3:『分脈』には同一人物が別々に書かれているケースが無いわけではない。例えば、北条時頼の弟として為時・時定が載せられるが、この2人は花押の一致によって同一人物であることが判明している。

*4:山中長俊(やまなか ながとし)とは - コトバンク より。

*5:『大日本史料』7-25 P.141

*6:沙弥(しゃみ)とは - コトバンク より。

*7:『大日本史料』6-34 P.357

*8:「中書」は中務省唐名(→ 中書(ちゅうしょ)とは - コトバンク)、「入」は入道の略。

*9:「山城宮内(少輔)」と呼ばれた氏貞は山城守行直の嫡子とされ、他にも二階堂忠貞(=摂津判官)、二階堂貞藤(=出羽判官)など、父の官途を付した通称を名乗っていた者は二階堂氏一門に多く見られる。