Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】鎌倉時代末期の安達氏一族 -師顕と師景-

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本項では、鎌倉時代末期に現れる安達氏一族について紹介したいと思う。

まずは、扱う史料3点を年代順に挙げておこう。

 

【史料A】(正和4(1315)年3月)「施薬院使・丹波長周注進状」(『公衡公記』同月16日条)*1:同月8日、鎌倉で起きた火事の被災者の中に「城介 時顕」、「城加賀守 師景」、「城越後権介 師顕」が含まれる。

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【史料B】(元亨3(1323)年10月)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収:同月に挙行された故・北条貞時13回忌供養の際、「秋田城介時顕朝臣」のほかに「城越前〻司殿」が「銀剱一 馬一疋 置鞍、栗毛、」を進上*2

 

【史料C】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」*3より

去程に高重(=長崎高重)走廻て、……(中略:高重→摂津道準諏訪直性長崎円喜新右衛門の順に自害)……此小冠者に義を進められて、相摸入道(=北条高時 入道崇鑑)も腹切給へば、城入道(=時顕)続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、……城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時…………城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明(=時顕)…………、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 

上記3点における安達氏一族の大半は系図上でも確認ができる。

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▲【図D】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋

 

彼らは、【図D】のみならず他の書状でも弘安8(1285)年の霜月騒動で惣領・安達泰盛に殉じたことが明らかになっている*4宗顕(加賀太郎左衛門尉)重景(城五郎左衛門入道、法名不詳)時長(四郎左衛門尉)それぞれの子や孫であったことが分かる。

ちなみに、師顕については【図D】に「九郎兵衛」と記されるのみであるが、同系図に従えば時顕は左兵衛尉・(秋田)城介を歴任したらしく、師顕も同様に兵衛尉から越後権介に昇進した可能性は十分に考えられるので、同一人物とみなして問題ないと思う。

ここで【史料C】について『参考太平記』を確認してみたい。【史料C】の該当部分*5では次のようになっており、それぞれ比較・考察を掲げる。

*凡例:【古写本系】西源院本…『西』、南都本…『南』/【流布本系】毛利家本…『毛』、今出川家本…『今』、北条家本…『北』、金勝院本…『金』、天正本…『天』

 

城加賀前司師顕:諸本で表記は一致。『参考太平記』では「時長子」と注記。

→ 加賀守師景と混同か。但し師顕は後述の通り「城越前守有時」に比定される可能性があり、官途から判断するに、むしろここは「師景」とするのが正しいのかもしれない。

秋田城介師時:実名について、『金』では「祐時」、『今』・『毛』・『北』・『西』・『南』では「時顕」とする。後者は宗顕の子・時顕に比定。

→ 安達氏系図上で「祐時」・「師時」なる者は確認できず、北条氏の通字「時」を下(2文字目)にする名乗り方にも疑問を感じるので、一応は「時顕」とすべきところなのだろう。但し後述の通り当時の「城介」(=秋田城介)は息子の高景であり、また時顕=延明であるから、単に重複して書かれてしまったものと思われる。

城越前守有時:『北』・『金』・『西』・『南』では「」の記載なし。『今』・『北』・『南』では「越守」とする。

→「城」の無記載からすると安達氏一門かどうかも慎重に判断すべきであるが、【史料B】より「城越前前司(=前越前守)」の実在そのものは認められるので、同人の可能性は極めて高い。但し「有時」なる人物は安達氏系図上に無く、名乗り方としても前述と同様の理由で奇妙に感じる。一部で「越後」と書かれることからすると、【史料A】の「城越後権介師顕」のことではなかろうか。前述の通り「師顕」の名を載せていることからすると、有時と同人か否かにかかわらず、【史料C】で亡くなったメンバーの中に師顕も含まれていた可能性は十分に高いと思われる。

城介高量系図により高景のこととす。

同式部大夫顕高:時顕子、高景弟。

同美濃守高茂:加賀守師景の子。

秋田城介入道延明:『天』での「延時」は誤り。『毛』・『北』・『金』・『西』・『南』の各本では記載なし。

→ 冒頭での自害者「城入道」と同人にして重複記載か。或いはその法名を明かすために書かれたものかもしれない*6

 

【史料C】の『太平記』は元々軍記物語ゆえ、その情報の正確さについては慎重な判断を要する。繰り返しになるが、特に安達師時安達有時なる人物は安達氏の系図上で見られない。【図D】での系統以外では、泰盛時盛重景顕盛らの次兄・景村頼景の弟)の系統である大室氏でも、泰宗が「城大室太郎左衛門」、その弟・義宗が「城三郎二郎」と呼ばれていたことが史料上で確認できるが、そうした他の系統を含めて確認はできないし、やはり安達氏における名乗り方として奇妙である。

 

【史料A】での師顕の官職「越権介」が「越権介」、或いは【史料B】が「城越前司」の誤記であった、いずれの可能性も考えられるが、明確にできる史料がもう1点でも出てこない限り、現時点でその判断は難しい。ただ、【史料B】・【史料C】での「越前守」はかつて安達盛宗が得ていたゆかりのある官職であるから、こちらの方が有力かもしれない。或いは師顕が(兵衛尉→)越後権介→越前守と昇進した可能性も考えられよう。

 

以上、推論も多いので、まだまだ検討の余地を残してはいるが、鎌倉幕府滅亡時、安達時顕父子だけでなく、同様に幕府の要人であったとみられる師景高茂(高義とも)父子や師顕も運命を共にした可能性は十分に高いと考えられよう。

は恐らく父・重景が亡くなった1285年に生まれたか、或いは腹の中にいて死後の誕生かで、1301年に10代執権となったばかりの北条時の偏諱を受けて元服し、【史料A】よりさほど遡らない時期に20代後半~30歳ほどで加賀守に任官、【史料C】当時50歳手前で自害したと思われる。その際、息子・高茂(高義)安達長景(顕盛の弟)にゆかりのある美濃守に任官済みで30歳前後であったと思われるので、辻褄が合うと思う。

もやはり父・時長との年齢差を踏まえて1285年頃に生まれた同世代であろう。同様に時の「師」字を受けて元服したとみられる。【図D】と同じ『尊卑分脈』によると、師顕の子・師之の子孫が鎌倉幕府滅亡後も存続したようである。

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№85-安達師顕 | 日本中世史を楽しむ♪

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№86-安達師景 | 日本中世史を楽しむ♪

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より引用。

*2:【史料C】に拠ってであろう、『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709 では「安達有時」とする。

*3:太平記. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その1) : Santa Lab's Blog

*4:年代記弘安8年 参照。

*5:参考太平記. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:安達時顕 或いは「城入道」の法名が「延明」であったことは 安達時顕 - Henkipedia【史料14】・【史料15】を参照のこと。

摂津親鑒

摂津 親鑑(つ の ちかあき [ちかみ]、1270年代後半?(1280年頃?)~1333年、旧字体表記:津親鑒)は、鎌倉時代後期から末期の武士・吏僚、得宗被官(御内人)。官途は隼人正、刑部権大輔。官位は正五位下法名道準(どうじゅん)

父は摂津親致。子に摂津高親鑑厳(かんげん、刑部卿法印/鶴岡八幡宮供僧/良厳の弟子)がいる。

 

 

史料上における摂津親鑑

細川重男がまとめられた経歴表*1を示すと次の通りである。

 

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№128 摂津親鑒(父:摂津親致、母:未詳)
  生年未詳
  正五位下分脈『中原系図』<続類従・系図部>

  隼人正(分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)
  刑部権大輔(金文374・414等に拠る。分脈,『中原系図』<続類従・系図部>,「権」なし)
  出家(法名道準=官職・通称に拠る)

1:正安3(1301).8. 東使
2:嘉元3(1305).12. 在寺社奉行
3:徳治2(1307).7. 東使
4:正和1(1312).8. 在越訴頭人
5:   4(1315).  問注所執事補佐
6:            .6. 若宮事始大奉行
7:文保1(1317).3. 東使
8:正中1(1324).7.  在御所奉行
9:   2(1325).5.25 在御所奉行
10:嘉暦1(1326).3. 在評定衆
11:   2(1327).4.17 五番引付頭人
12:元徳2(1330).1.24 四番引付頭人
13:元弘1(1331).1.23 辞四番引付頭人
14:   3(1333).5.22 没(為鎌倉滅亡)

 [典拠]
父:分脈。
1:『興福寺年代記』正安3年8月10日条。『皇年代記』正安3年8月10日条。
2:嘉元3年12月15日付「摂津親鑒下知状案」(『金剛三昧院文書』)。
3:『実躬卿記』徳治2年7月14日条。『歴代皇紀』徳治2年7月14日条。
4:正和元年8月18日付「平忠綱譲状」(『第二回西武古書大即売展目録』)。分脈。「中原系図」(続類従・系図部)。
5:武記・正和4年条に「摂津刑部大輔親鑑被相副時連」とある。
6:『鶴岡社務記録』正和4年6月27日条。
7:『一代要記』文保元年3月条。『続史愚抄』文保元年4月7日条。『歴代皇紀』文保元年条,4月7日上洛とす。
8:『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記』元亨4年7月11日条。この日行われた将軍守邦親王の病気平癒修法の奉行が「刑部大輔入道」=親鑒であった。職務内容から,彼は当時御所奉行であったと思われる。
9:『鶴岡社務記録』正中2年5月25日条「御所奉行摂津刑部大輔入道々準・後藤信濃前司」に拠る。
10 : 金文374。分脈。「中原系図」(続類従・系図部)。
11 :鎌記・嘉暦2年条。
12 : 鎌記・元徳2年条。
13 : 鎌記・元弘元年条。
14 : 太平記・巻10「高時幷一門以下於東勝寺自害事」。

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* 各番号は後述の史料とも対応させている。

*『続群書類従系図部所収「中原系図」については、後掲【系図X】を参照のこと。

 

次に摂津親鑑(道準)の実在および活動が確認できる史料を以下に列挙する。 

 

 ◆1300年頃、隼人正正六位下相当)に任官か。

 

【史料1】『興福寺略年代記』正安3(1301)年8月10日条『皇年代記』同日条:「八月十日関東両使 丹後入道道西・隼人正親 上洛

*現在確認されている限りでは親鑑の初見の史料であり、この頃東使として上洛したことが窺える。

 

【史料2】嘉元3(1305)年12月15日付「摂津親鑒下知状」(『金剛三昧院文書』)*2:「散位親鑒」が寺社奉行越訴奉行)在任。

 

【史料3】『実躬卿記』徳治2(1307)年7月14日条*3:「……今日関東使者摂津隼人正親鑒京都〔=着〕……」

*この頃、再び東使として上洛したことが窺える。

 

 ◆この間、隼人正を退任か。

 

【史料A】徳治3(1308)年2月7日付「関東下知状」(『東京国立博物館所蔵文書』)*4:「上野国高山御厨北方内大塚・中□□□〔栗須郷預所前隼人正親鑒代道盛」と小林入道道跡を買得した一分地頭・三善朝清の妻である大江氏女が、大塚・中栗須両郷内の知行分をめぐって相論し下地を和与*5

 

 ◆この間、刑部権大輔正五位下相当・次官級/権官に任官か。

 

【史料4】正和元(1312)年8月18日付「平忠綱譲状」*6

ゆつりわたす(譲り渡す)所領事ちやくし(嫡子)まこわか〔=孫若?〕(が)所に

一. 武蔵国こまのくん高麗郡ふんおほまちの村三分いち

一. 同国たさいのこほり(多西郡)とくつねの郷(得恒[徳常]郷)忠綱か知行分三分二、并ニふなきたの庄(=多西郡舟木田庄)内きゝりさハのむら、但ふなきたの庄のきゝりさハにおきてハ、はゝいちこのゝちしるへし(母一期の後知るべし)、山ハ八幡の御前のゆさハをさかいとしてのほりに、ゆさハかしらを大つかみちのうえのとゝをさかうて、みなミハ(南は)ゆき=柚木?さかいをのほりに、いすかやまさかいへ、にしハ(西は)ひらやま(平山)さかいを山のねをくたりに、不動堂のまつゝおのくちさかいを八幡の御前をさかう

一. かまくらあまなハ(鎌倉甘縄)のほくとたうのまへ(前)の屋地さんふん二(三分の二)

 

右、御けち(御下知)をあいそえて(相副えて)、ゑいたい(永代)ゆつりわたすところ也、したいてつきのせうもん(証文)ハ、忠綱しさい(子細)を申所に、忠助ふんしちのよし申あいた紛失の申す間)、ふけんのたんしやうのちう(普賢?の弾正忠)の奉行として、案文をめし給て、ふんしちしやう(紛失状)を申へきよし(申すべき由)、そせうをいたすうヘハ(訴訟を致す上は)、申給へきなり、又そりやうともさかいをたつへしといへとも(雖も)、いたハリのあいた、まつふんけんをかきおく(書き置く)也、はゝ(母)のほからひにて、さかいをたつへし、

一. やこうの又二郎よりくに〔頼国?〕のゆいりやう等のゆつりしやう(譲状)、まこわかにゆつる也、つのきやうふの大輔殿のて(手)にて、おつそを申うヘハ(越訴を申す上は)、あいついて申給へし(相次いで申し給うべし)、御たらん〔ママ〕時ハ、まこわかゝはからい(孫若が計らい)として、田七分かいち(七分が一)なさきいたして、はんふんをハ(半分をば)まこいぬ〔=孫犬?〕に、のこり五ふん三をまこわう〔=孫王?〕に、又のこり三分か二をまつやさこせんに、さんふんかいち(三分が一)をまついぬこせん〔=松犬御前?〕にわたすへし、いつれもゑいたいいづれも永代)なり、のこるところハ、一ゑん(一円)にまこわか知行すへし、

一. やまな〔山名〕の又二郎*7をハ、ちゝ(父)大せんのしん〔=大膳進か?〕にかへして、返事をとりたるなり、仍譲状如件、

 正和元年八月十八日 平忠綱(花押)

昭和44(1969)年に発見されたという書状である*8。発給者・忠綱は、現在の東京都八王子市平町(旧・北平村)から日野市南平に広がる「平村」に住み「平」姓を名乗った、高麗氏の支流とされるが、同氏にあやかって「高麗」を称した、桓武平氏(秩父平氏)一族・武家(たけいえ、武基の長男)の系統とも考えられる。

そして、文中にある「(摂津)のきやうふの大輔(=刑部大輔」とある人物は、後述の史料とも照合すれば摂津氏(親鑑)に間違いない。「摂津(国)」は古名が「津国(つのくに)」であり、延暦12(793)年3月9日に摂津国が置かれた後もその名残りでそのまま「のくに」とも呼ばれることもあった*9。そのため、「中原」から「藤原」に改姓した父・親致の代から称する摂津氏の読み方は「せっつ-し」ではなく「-し」とするのが正確であったことが窺える

 

【史料5】『武家年代記』正和4(1315)年条:「摂津刑部大輔親鑑被相副時連*10

 

【史料B】(正和4年3月)「施薬院使・丹波長周注進状」(『公衡公記』同月16日条)*11:同月8日、鎌倉で起きた火事の被災者の一人に「刑部大輔 親鑒」。

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【史料C】『公衡公記』正和4年5月22日条より(読み下し、原文漢文)*12

覺円僧正来たり。去る夜召しに依って仙洞に参り。最勝講の間の事、法皇の仰せを重々これを伝え承る。請文に於いては直に申し上げをはんぬ。所詮山門すでに承諾の気有るか。神妙々々。春衡関東より音信 去る六日の状なり、今朝出仕すべし。奉行人天野加賀*13摂津刑部権大輔これを差し定めらる。先ず神妙。今度上洛定めて遅々せざるかの由これを申す。

 

【史料6】『鶴岡社務記録』正和4年6月27日条:「……若宮事始大奉行攝津刑部大輔親鑒……」

 

【史料C】(文保元(1317)年3月)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*14:「…刑部権大輔近日上洛之間、…」

【史料7-a】『一代要記』文保元年3月条:「三月、関東使者刑部権大輔親鑒上洛、御持世事云々。」

【史料7-b】『続史愚抄』文保元年4月7日条:「四月……七日癸卯。被始行新内裏迁幸〔=遷幸〕御祈御読経等。関東使刑部権大輔親鑒入洛。申入主上御世務事云。」

【史料7-c】『歴代皇紀』文保元年条:「四月七日、東使摂津刑部権太輔〔ママ〕親鑒上洛。」

*この頃、再び東使として上洛したことが窺える。

 

【史料D】(文保3(1319=元応元)年4月)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15:「…六波羅使者下向之間、刑部権大輔信濃前司(以下欠)」

【史料E】(元応元年)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*16:「……又愚身出仕事、昨日刑部権大輔為御使、忩可出仕之旨、被仰下候之間、……」

 

 ◆この間に出家か(法名: 道準)。

 

【史料F】(元亨3(1323)年10月)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収:同月に挙行された故・北条貞時13回忌供養の際、「砂金五十両 銀剱一 馬一疋 置鞍、黒駮、」を進上する「刑部権大輔入道*17

【史料8】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」元亨4(1324)年7月11日条*18:「奉行刑部大輔入道

【史料G】文和4(1355)年9月日付書状(『東寺百合文書』1-12)*19・11月日付書状(同41-53)*20より

「……去元亨四年永嘉門院(=宗尊親王王女・瑞子女王)、於関東(雖)被出御訴訟、奉行刑部大輔入道々隼〔ママ〕信濃前司入道々大……」

*『東寺百合文書』60所収の書状*21文中の「……就之文永親王(=宗尊親王御跡前永嘉門院又被下御使於関東、仍三方御相論、重々有沙汰、奉行摂津刑部権大輔入道々準信濃前司入道々大……」も同内容を伝えるものと思われる。

 

【史料9】『鶴岡社務記録』正中2(1325)年5月25日条:「……到来御所奉行摂津刑部大輔入道〻準(=道準)後藤信濃前司……」

 

【史料H】(正中3(1326)年?)正月17日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*22

御吉事等、猶々不可有尽期候、忠時(=貞顕の嫡孫/貞将の子)去十一日参太守(=得宗/14代執権・北条高時候、長崎新左衛門尉(=長崎高資、兼日、内々申之際、参会候て、引導候て、太守御前にて三献、御引出物ニ御剣左巻、給之候、新左衛門尉役也、若御前(=高時の嫡男・万寿〈のちの北条邦時〉か?)同所へ御出、御乳母いたきまいらせ候、其後御台所の御方へ大御乳母引導候、三こんあるへく候けるを、大乳母久御わたり、御いたわしく候とて、とくかへされて候、御引出物ハ砂金十両 はりはこニ入てかねのをしきにをく 、其後御所へ参候、自太守御使安東左衛門尉貞忠にて候き、兼日刑部権大輔入道ニ申之間、大夫将監親秀(=摂津親秀:親鑒の弟)参候て申次、御所へは貞冬(=貞顕の子/忠時の叔父)同道候て、御前へ参了、御剣被下也、女房兵衛督殿役也、其外近衛殿・宰相殿以下御前祗候云々、見めもよく、ふるまいもよく候とて、御所ニても太守にても、御称美之由承候之際、喜悦無申計候、又…(以下欠)

 

【史料I】(正中3(1326=嘉暦元)年3月)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*23

太守禅門(=北条高時 入道崇鑑)御労、今日はいよ々々めてたき御事ニて候へは、返々よろこひいり候なり、愚老(=貞顕)出家暇事、十三日夜、以長崎新左衛門尉(=高資)雖申入候、無御免候之間、両三度申上候了、雖然猶不及御免候程に、明旦重可参申之由申候て退出、十四日可参申旨思給候之処、以刑部権大輔入道種々被仰下候き、然而猶愚詞重々申入候了、猶無御免候て、重〔=重ねて〕大輔入道にて被仰下候之上、長崎入道(=円喜)直にさま々々に申さるゝむね候しかとも、愚存之趣、再三申候き、所詮、若御前御扶持事以下、落飾候て申旨共候し間、申畏承候由候了、五ケ度雖申入候、御免なく候之際、周章無極候、……(以下欠)

 

【史料10】(正中3年)3月「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*24

愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人々、陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守駿河守尾張前司 遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃貢の事、信濃左近大夫(以下欠)

【読み下し】愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々……(以下略)

文中の「愚老」・「予」とは一人称*25、すなわち筆者である貞顕で、3月16日に長崎新兵衛尉(実名不詳、新左衛門尉高資の一族であろう)から15代執権就任の知らせを聞いた直後に書かれたものであることが分かる。そして同日の評定のメンバーに「刑部権大輔入道」が含まれており、評定衆のメンバーであったことは次の史料によっても裏付けられる。

 

【史料J】鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*26

法名は「道準」と書かれるべきところを、俗名「親鑒」と混同して誤記されたものと思われるが、これらにより却って摂津親鑒(道準)であることがむしろ明確になろう。

 

【史料11】『鎌倉年代記』嘉暦2(1327)年条*27:引付五番頭人に就任。

「四月十七日引付頭 茂時 道順 貞直 延明 道準

 

【史料K】(嘉暦4(1329元徳)年?)「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『花供導師作法裏文書』)*28:文中に「……愚状□□□□□□□候き、刑部禅門ひらに申□□□□□□□候ほと……」

【史料L】(嘉暦4年?)2月2日付「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『鉢撞様』裏文書*29:文中に「……評定奉行を刑部□□□□□〔権大輔入道□□□れて候よし承……」

【史料M】元徳年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*30:「明日刑部入、明後日問注所信入一瓶持来候へきよし申……」

【史料N】元徳年)10月28日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)末筆部分*31

(前略)

一. 刑部権大輔入道備中国吉備津宮造国并社領事に、愚状をこひ〔請い〕候し程に、書遣候了、能々御意に入られ候て、御さた〔沙汰〕〔脱字あり?〕 、代官参入之時も、御対面候て、よく御あひしらひ候へく候、あなかしく、

 十月廿八日

(切封墨引)
元徳元十一十三、雑色帰洛便到」
 

 

【史料O】元徳年)11月11日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*32

一. 去月十九日夜、甘縄の城入道の地の南頰いなかき左衛門入道宿所の候より、炎上出来候て、其辺やけ候ぬ、南者越後大夫将監時益北まてと承候、彼家人糟屋孫三郎入道*1 以下数輩焼失候、北者城入道宿所を立られ候ハむとて、人を悉被立候程ニ、そのあきにてとゝまり候ぬ、南風にて候しほとニ、此辺も仰天候き、北斗堂計のかれて候之由承候、目出候々々、

一. 去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時門前より火いてき候て、亀谷の少路へやけ出候て、土左入道宿所やけ候て、浄光明寺西頰まてやけて候、右馬権助右馬権頭貞規後室・刑部権大輔入道宿所等者、無為に候大友近江入道宿所も同無殊事候、諏方六郎左衛門入道*2 家焼失候云々、風始ハ雪下方へ吹かけ候き、後ニハ此宿所へ吹かけ候し程ニ、驚存候しかとも、無為候之間、喜思給候、火本ハ秋庭入道右馬権助家人高橋のなにとやらん同前*3 か諍候之由聞□〔候、あなかしく、

 十一月十一日

(切封墨引)

 

*1:糟屋入道道*33。実名は不詳。

*2:得宗被官・諏訪氏の一族。他史料上に現れる「諏訪六郎左衛門尉」*34が出家した同人とみられるが、系譜・実名は不詳。

*3:秋庭氏については六波羅探題被官の出身、高橋氏は得宗被官の一族と推測される*35 

この時、親鑒(道準)の宿所は「無為(=無事)」であったという。これは鎌倉幕府御所(=宇都(津)宮辻子幕府)から亥の方角に位置し、次の『浄光明寺敷地絵図』に「刑部」として示される、曽祖父・中原師員以来相伝の摂津氏本邸*36のことを指すと考えて良かろう。

▼【図P】『浄光明寺敷地絵図』*37

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【史料Q】元徳年)12月5日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*38

(前欠)可得其意候、

一.彼堂事、月公状并注文給候了、のとかに能々み候て、不審候者、重可申候、

一.北方(=六波羅探題北方・常葉範貞)使者山本九郎帰洛之由、承候了、

一.能書人不尋出之旨同前、猶々可有御尋候、宗人等者、はか々々しく尋出候ハしと覚候、他所の仁に申され候へく候、一童雑色等事、子細同前、

一.刑部権大輔入道代官参申旨承候了、可被入御意候、

一.長門六郎兵衛入道跡事、同承候了、尤不審候、舎兄者、行意か諸事計申候之旨、語申候き、不実候哉、あなかしく、

 十二月五日

(切封墨引)
元徳元十二、親政下人便到、」

 

【史料R】元徳年)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*39

長門六郎兵衛入道跡、いかやうにゆつりて候やらん、子息等年少にて、弥御要人不足に候事、返々々歎入候々々、又京都も不審候、能々内々者可有御用心候也、今月十二日御札、同廿三日到来候了、

一.佐々木近江入道子息等返状、慥賜候了、

一.出雲次郎左衛門尉(=波多野通貞?)返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、

一.神津五郎兵衛尉秀政、於播州所領他界之旨、承候了、暇も不申候て下向之条、不可思儀〔議〕候、右筆奉行五人つゝにて候しか、刑部権大輔入道奉行にて、近年六人になされ候事、不可然覚候、時に欠出来もくるしからす

(以下欠)

 

【史料S】元徳年)12月22日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*40

(前略)

一 常陸前司(=小田時知)伊勢前司(=伊賀兼光)佐ゝ木隠岐前等、一級所望事、宮内大輔奉行、其沙汰候。被訪意見候之間、皆可有御免之由、申所存候了。而城入道常陸隠岐両人者、可有御免、伊せ〔伊勢〕ハ難有御免之由被申候云ゝ。刑部権大輔入道同前候歟之旨推量候伊勢常陸よりも年老、公事先立候。丹後筑後(=小田貞知)日来座下候。近此頭人にてこそ候へ、伊せハ十余年頭人候。器量御要人候之間、一級御免不可有其難候歟之由、再三申候了。宮内大輔披露いかゝ候らん。不審候。あなかしく。

十二月廿二日

(切封墨引)
元徳二正二、北方雑色帰洛便到」
 

文中に登場する「宮内大輔」は、同年のものとされる8月29日付の貞顕(崇顕)書状(『金沢文庫文書』)*41に「…兼日為宮内大輔高親奉行…」とあることから、後述の【史料W】系図X】や『分脈』と照らし合わせても、息子の摂津高親であると判断できる。

冒頭、3名の一級昇進について宮内大輔=高親が「為…奉行(奉行として)」その沙汰を行ったとあり、高親が務める「奉行」は所謂官途奉行であったと見なされる。

 

【史料T】元徳年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*42

(前略)

一. 忠伊法印父子三人被殺害事、承候了、先驚存候、評定之趣、子細とも候へとも、忠伊名仁候之上、関東へ下向候て、鑑厳僧都従父兄弟候之間、 刑部権大輔入道無内外候、仍関東へ御注進候□□□宜候ぬと覚候、自公家如此被仰下候、可為何様候哉之由、可有注進候、又此事自諸方、内々馳申候ぬと存候之間、其以前ニ先長崎入道父子(=円喜・高資)城入道ニ沙汰候て、雖可令注進候、先為御意得、令申候之由、自御辺示給候とて、昨日廿四日、長崎入道父子ニハ、以盛久令申候了、入道ハ、

(以下欠)

忠伊法印父子3人が殺害されたことに貞顕が驚いた様子が窺える書状である。忠伊法印は「名仁」として鎌倉でも評判が良く、鶴岡八幡宮供僧・鑑厳の従兄弟であったため、親鑒(道準)とも「無内外」=親密であったという*43。鑑厳(鑒厳)が親鑒の子であった*44からであろう。

 

【史料12】『鎌倉年代記元徳2(1330)年条:安達時顕(延明)の後継として引付四番頭人に転任。

「正月廿四引付頭 茂時 道順 貞直 道準 道蘊

「七月廿四日引付頭 貞時〔貞将 道順 貞直 道準 道蘊

「十二月二日 貞将 貞直 範貞 道準 道蘊

*翌1331年正月23日の引付改編では、四番頭人塩田俊時(道順=時春(時治)の甥)に、五番頭人安達高景(時顕の嫡男)に交代している。

 

【史料U】元徳2年?)「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『供養法作法裏文書』)*45:文中に「……□□〔佐々〕木隠岐前司清高・□□□□□□□〔摂津?〕刑部権大輔入道々準・□□□□□□……」

【史料V】元徳2年?)6月9日付「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『供養法作法裏文書』)*46:文中に「……定日不□□□□□□□□事に刑部禅秘計□□□□□□□と覚候程……」

*「禅」は禅門(=入道)の略記であろう。貞顕も自身の書状の中で"長崎入道"=長崎円喜を「長禅門」、"城入道"=安達時顕(延明)を「城禅門」と呼ぶことは多々あったが、「禅」と略記した例は確認できない。但し、他の史料だと、前述【史料 】『北條貞時十三年忌供養記』の文中で「別駕(=城介時顕)洒掃(=掃部頭長井宗秀)長禅(=円喜)以下御内宿老 参(られ)候」と記された例も確認され、同様の書き方と見受けられる。

 

【史料W】(元弘2(1332)年)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢称名寺文書』)より*47 

(前略)

御乗之路次無為一昨日 十七日酉刻 下着候了。左候□、同前候。返ゝ目出喜入候。神宮寺殿御乳母両人進物、去夕被遣候之処、領納。悦喜候之間、悦思給候。左候者、五月其憚候之間、来月可見候。此程も無心本候。

右馬助貞冬罷当職一級事令申候之処、一昨日有御沙汰、御免候。御教書進之候。小除目之次、可有申御沙汰候。同時ニ駿川駿河大夫将監顕義(=貞顕の兄・金沢顕実の子)越後大夫将監時益*48。・相模前右馬助高基相模右近大夫将監時種等御免候了。此人ゝゝ自貞冬上首候之間、不可超越候程ニ不知存候。仍竹万庄沙汰人帰洛之由、令申候之際、事付候。此人ゝゝ同時ニ被叙候之様 (中欠) 人と同日ニ可被叙候。評定衆昇進之時、引付衆・非公人之上首候哉覧と沙汰ある事ハ古今無沙汰事候。旧冬四人評定衆・鎮西管領(=赤橋英時*49御免候しも、引付衆・非公人の上首、御さたなく候き。今度始御沙汰候歟。高基時種等を被付上候。背本意候。官途執筆高親眼□事候之際、道準令申沙汰候。城入道・長崎入道(=長崎円喜はかり相計候云ゝ。内挙も罷官申候も、所望の方人にて候事なと、つやゝゝ無存知人候之間、歎入候。

(以下略)

 

(切封墨引)  五月十九日

この史料は1332年に書かれたと考えられ*50元徳2(1330)年のものと考えられる2月19日付の貞顕(崇顕)書状(『金沢文庫文書』)*51の文中に「官途執筆宮内大輔高親」とあることから、高親が就いていた官途奉行は当時「官途執筆」と呼ばれていたらしい。貞冬・顕義・時益高基・時種の北条氏一門5名の一級昇進についてもやはり高親が関与していたことが窺える。

但し、【史料S】【史料W】をよく見ると、高親による官途推挙には父・道準(親鑒)の意向が反映されていたことが示唆されている。細川氏によると、高親の職務は単なる事務手続きのみで、官途申請の取捨を行う権限は事実上無く、推挙に際し発言権を有していたのは、北条高時政権首班の長崎円喜・安達時顕(延明)、次いで貞顕(崇顕)・親鑒(道準)の4名であったという。鎌倉時代末期の高時政権において道準も上層部(「寄合合議制」)の一人として一定の権力を持っていたことが窺えよう。

*『門司文書』所収「中原系図」では高親を親鑑の「弟」とするらしいが、この【史料W】によって否定されよう。親は元服時に時の偏諱を受けたとみられ、世代的にも親鑑の子とするのが妥当である。

 

 

 

親鑑(道準)の最期と鎌倉幕府の滅亡

翌1333年、親鑒(道準)高親父子は鎌倉幕府滅亡と運命を共にすることとなる。

 

【史料14】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」*52より

去程に高重(=長崎高重)走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門(=長崎高直?)に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部大夫〔ママ〕入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿(=北条高時の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。…………其外の人々には、……摂津刑部大輔入道……摂津宮内大輔高親同左近大夫将監親貞、……我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。……元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

太平記』は元々軍記物語ゆえ、多少の表記違いや「権」の脱字は考慮しなくて良いだろう。東勝寺に駆け込んで来た長崎次郎高重が、弟の新右衛門に酌を取らせ三度飲み干した盃を親鑒(道準)の前に置いて自害すると、道準も「見事な肴だ、どんな下戸であろうと呑まないわけには行かない」と戯れを言いながら盃半分ほどを呑んで腹を切り最期を遂げたと伝える。

次に盃を置かれた諏訪直性は、元服時に北条時(執権在職: 1268~1284年)偏諱を受け「」を名乗ったとされ、この当時80代あたりに達していたと思われる。実際、直性は切腹の際のセリフで自身を「年老」、高重・道準らを「若者共(ども)」と言っており、道準が直性に比べ若い世代であったことが示唆されている。

自害者のリストには、嫡男・高親系図上で確認できないがその近親者と思われる親貞(ちかさだ)も含まれており、親鑒(道準)と運命を共にしたことが窺える。

*「左近将監」の官途の一致や「貞」字の共通からすると、後掲【系図X】上に見える摂津貞高(親鑒の甥、高親の従兄弟)を指す可能性も考えられる。

 

【史料14】の内容は、幕府滅亡後の史料によって裏付けが可能である。

一つ目に、建武2(1335)年10月4日付の加賀国向け太政官符の文中に「……刑部権大輔親鑒法師、為(…として)師茂後胤 相続知行、経年序訖、今度朝敵滅亡之間、師利預勅裁訖、……」とあるのが確認できる*53。同国の石川郡(現・石川県)河北郡加賀郡)にまたがる倉月荘(くらつきのしょう)は、中原師茂の後胤として相続・知行し、地頭職・領家職の両方を有していた親鑒(道準)が "朝敵"=鎌倉旧幕府の滅亡に殉じたため、建武政権によってその旧領は中原家の家督を自認する中原師利に知行が認められた旨が記されている*54

*但し、師利の知行は翌1336年に足利尊氏の発した「元弘没収地返付令」で否定され、同年親鑒の弟・親秀が親鑒旧領を本領として返付されることとなり、次に紹介する親秀の譲状に繋がっていく。

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▲【系図X】

次いで、『士林証文』に収録されている親鑒の弟・摂津親秀の書状を見ておきたい。そのうち、暦応4(1341)年8月12日付の譲状*55では、自身の所領を孫である「惣領 能直(よしなお)」などに分割して相続させる旨を記しているが、その中で唯一例外的に「摂津三郎時親の事」という項目がある*56。その中身は次の通りである。

 

【史料Y】暦応4(1341)年8月7日付「摂津親秀譲状」(『士林証文』)

一.摂津三郎時親

右親類等悉所分*1之上者、尤雖可計宛、及訴訟之間不能所分、雖然御沙汰落居*2之後、為惣領之計(=惣領の計らいとして)、以備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分、可去与時親、但違惣領之命者、可申賜当所之状 如件、

 暦応四年八月七日  掃部頭親秀

*1: 所領*57

*2: 物事の決まりが落ち着くこと*58 

「右(=摂津時親)親類等」の悉くの所領の事(扱い)について、訴訟に対する沙汰が決定した後に、惣領の計らいとして「備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分」を摂津時親に与える旨を記したものであるが、「等(など)」という表現からすると当然時親以外の一門も含まれると考えられる。系図X】と照らし合わせれば、対象となり得るのは、親如(ちかゆき)致顕(むねあき)父子の系統か、時親の系統であろう。

しかし、細川氏によると同文書に「一.隼人正入道宗準 分」と書かれている*59のは、『建武年間記』の関東廂番三番衆の一人に「前隼人正致顕*60、康永3(1344)年3月21日付「室町幕府引付番文」(『白河結城文書』)の四番に「摂津隼人正入道」と見える*61ことから、致顕が出家した同人ではないかという。すなわち、致顕は別の項目で書かれていることが分かる。

*致顕は隼人正への任官、「準」字を持つ法名の点で伯父・親鑑との共通点を持っている。

 

従って、「等」に含まれるのは時親を含む兄・親鑒(道準)の系統で、「親類等悉所分」というのは、北条氏と運命を共にした親鑒やその嫡男・高親の遺領をも指す表現ではないかと思われる鎌倉時代末期において親鑒が摂津氏をまとめる立場にあったことは前に掲げた史料により明白であるが、暦応4年の段階で次の「惣領」に嫡孫・能直を指名できる立場にあったことも踏まえると、親秀は親鑒高親父子の死に伴って摂津氏惣領の座を継承していたと考えられる。【史料H】にある通り、親秀も当初は鎌倉政権下で活動していたことが窺えるが、滅亡時には幕府や長兄・親鑒一家と距離を置いて生き残ったのであろう。

【史料14】から1年を迎える建武元(1334)年5月、別府尾張権守幸時(別府幸時)が、後醍醐天皇から恩賞として「上野国下佐貫内羽禰継 刑部権大輔入道道」を賜っており(『駿河志料』)*62、一方で親秀は1330年代後半から安堵方頭人・引付方頭人としての活動が確認できる*63。また、前掲【図P】鎌倉幕府滅亡直後に描かれたとされ、その図中に「刑部」と書かれていることも踏まえれば、【史料14】は軍記物語でありながら史実に基づいたものと考えて良いだろう。

尚、当時の時親は「三郎」と称するのみでまだ無官であったことが分かるが、元服してさほど経っていない段階であったからであろう。当時の年齢を元服適齢の10代前半と仮定すると、父・高親の活動期にあたる1330年頃には生まれていたことになる。従って親子の年齢差を考えれば、高親は1310年頃までには生まれていたと推定可能で、祖父にあたる親鑒(道準)の生年もやはり前述の通りで良いと思われる。

 

【史料T】にも登場した、もう一人の息子(高親の兄弟)鑑厳僧都も、建武3(1336)年8月25日に南朝新田義貞方の大将の一人として、北朝方・足利尊氏の軍勢と戦い、八幡大路にてもう一人の大将である「越後松寿丸*64」と共に生け捕られた後、誅殺されたと伝わる*65

 

(参考ページ)

 摂津親鑑 - Wikipedia

 摂津親鑒とは - コトバンク

 南北朝列伝 ー 摂津氏

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.88。

*2:『鎌倉遺文』第29巻22417号。

*3:柳原家旧蔵本(書陵部 柳0492~0640)-実躬卿記 一五 徳治二年 00006476 ページ目。

*4:『鎌倉遺文』第30巻23167号。

*5:角川日本地名大辞典』「大塚郷」・「栗須郷(中世)」各解説ページ より。

*6:『鎌倉遺文』第32巻24638号。『第二回西武古書大即売展目録』または『神奈川県史 資料編2』に収録。

*7:清和源氏流山名氏の一族と思われるが『尊卑分脈』を見る限り該当し得る人物は確認できない。

*8:2013/07/08: 木瓜爺撮歩63-12 南平・平水山壽徳寺 (No.1643) | Choi-boke 爺ちゃん より。

*9:摂津国 - Wikipedia より。

*10:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1983年)P.96。

*11:注1前掲細川氏著書 P.19。

*12:年代記正和4年 より引用。

*13:天野加賀守については他の史料で特に確認できず、実名不詳であるが天野氏一門の者と推測される。天野氏については、福田榮次郎「御家人天野氏の領主制をめぐって ー中世領主制の一考察ー」(所収:『明治大学人文科学研究所紀要』41号、1997年)に詳しい。

*14:『鎌倉遺文』第34巻26127号。

*15:『鎌倉遺文』第35巻27016号。

*16:『鎌倉遺文』第35巻27145号。

*17:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*18:『大正新脩大蔵経』図像第11巻(大正新脩大蔵経刊行會、1934年)P.1022。

*19:『大日本史料』6-19 P.933

*20:『大日本史料』6-20 P.85

*21:『大日本史料』5-32 P.4

*22:金沢文庫古文書』369号。『鎌倉遺文』第38巻29313号。

*23:『鎌倉遺文』第38巻29389号。

*24:『鎌倉遺文』第38巻29390号。『金沢文庫古文書』374号。注1前掲細川氏著書 P.319、年代記嘉暦元年 にも掲載あり。

*25:愚老(グロウ)とは - コトバンク より。

*26:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*27:前掲『続史料大成』P.32。

*28:『鎌倉遺文』第39巻30505号。

*29:『鎌倉遺文』第39巻30507号。二階堂行貞 - Henkipedia【史料20】を参照のこと。

*30:『鎌倉遺文』第39巻30782号。

*31:『鎌倉遺文』第39巻30765号。

*32:『鎌倉遺文』第39巻30775号。

*33:同じく『金沢文庫文書』に所収の、元徳元(1329)年12月2日付「伊勢宗継請文案」(『鎌倉遺文』第39巻30788号-1)、および同年のものとされる「金沢称名寺雑掌光信申状案」(『鎌倉遺文』第39巻30792号)に「糟屋孫三郎入道々暁」とあるによる。東氏 ~上代東氏~ も参照のこと。

*34:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.197 注(13)に言及されている通り、『円覚寺文書』に所収の史料2点、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)の一番中に「諏方六郎左衛門尉」、『北條貞時十三年忌供養記』には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「銭十貫文」を進上する人物として「諏方六郎左衛門尉」(注3前掲『神奈川県史』P.710)の記載がある。

*35:これについては、大村拓生「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(所収:『都市文化研究』3号、大阪市立大学大学院文学研究科 都市文化研究センター、2004年) P.75 を参照。

*36:玉林美男「鎌倉における『吾妻鏡』に記された陰陽師等の方位表記とその位置について(2)」P.51。

*37:前注玉林氏論文 P.43 図8 より。

*38:『鎌倉遺文』第39巻30796号。

*39:『鎌倉遺文』第39巻30797号。

*40:注1細川氏著書 P.326より引用。『鎌倉遺文』第39巻30829号。『金沢文庫古文書』414号。

*41:『鎌倉遺文』第39巻30730号。

*42:『鎌倉遺文』第39巻30832号。『金沢文庫古文書』413号。

*43:朽木氏の系譜―高島七頭(2): 佐々木哲学校 より。

*44:南条貞直 - Henkipedia【史料2】を参照。

*45:『鎌倉遺文』第40巻31120号。

*46:『鎌倉遺文』第40巻31119号。

*47:注1細川氏著書 P.324~325 より引用。

*48:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪。尚、『武家補任』によると時益は元徳2(1330)年の上洛の段階で既に左近将監に任官済みであったという(→ 『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳2年4~7月 P.51)。

*49:鎮西探題在職は1321年頃~1333年(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その31-赤橋英時 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。

*50:この史料は年次未詳であるが、文中に「城入道」とあることから、秋田城介・安達時顕(法名:延明)が出家した嘉暦元(1326)年以後に書かれたものであることは確実である。細川氏によれば、この書状は金沢貞顕の次男・貞冬の官位昇進についてのものであるという。貞冬は右馬助を辞して一級昇進することが認められたが、貞冬の「上首」であった従兄弟の甘縄顕義や北条時益・普音寺高基・北条時種を超越する形で貞冬だけを昇進させるわけにいかないということで、「上首」4名も同時に昇進することとなったようである。これに対し貞顕は、前年の冬に評定衆および鎮西探題が昇進した際には「引付衆・非公人」で「上首」であった者には何の沙汰も無かったという前例まで挙げて不平不満を述べていることが分かる。『鎌倉年代記』裏書によれば、元徳3(1331=元弘元)年9月の幕府軍上洛の段階でも大将の一人として「右馬助貞冬」と名乗っていたから、右馬助を辞す話が出るとすればこれ以後であろう。記載の日付も踏まえると1332年または1333年と推定されるが、鎌倉幕府滅亡直前の混乱期にあたる1333年5月19日に書かれたとは考え難く、前年の1332年で良いと判断される。

*51:『鎌倉遺文』第39巻30909号。『金沢文庫古文書』419号。注1細川氏著書 P.326 または 摂津高親 - Henkipedia【史料4】も参照のこと。

*52:太平記. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その1) : Santa Lab's Blog

*53:『大日本史料』6-2 P.615

*54:倉月荘とは - コトバンク より。

*55:『大日本史料』6-6 P.881~

*56:『大日本史料』6-6 P.885

*57:所分(しょぶん)とは - コトバンク より。

*58:落居(ラッキョ)とは - コトバンク より。

*59:『大日本史料』6-6 P.884

*60:【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕を参照のこと。

*61:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。

*62:『大日本史料』6-1 P.5523.鎌倉幕府の滅亡と鎌倉後期の佐貫荘 - 箕輪城と上州戦国史幡羅郡家は別府郷にあった成田四家

*63:注1前掲基礎表 No.132「摂津親秀」の項。

*64:『大日本史料』6-5 P.434を見ると、越後守北条仲時の遺児である松寿(『諸家系図纂』所収「北条系図」)に相応しき呼称だが、同系図には「後号左馬助友時」の注記もあり、『鶴岡社務記録』や『歴朝要紀』には1339年2月に伊豆仁科城で反乱を起こした37人のうち、大将の"普薗寺左馬助" 友時以下13人が相模龍口にて斬られたと記されていて、正確なところは不明である。

*65:『大日本史料』6-3 P.699

北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき、1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。鎌倉幕府第2代執権。

北条時政の次男。母は伊東入道(=祐親か)の娘と伝わる(『前田本平氏系図』)*1。通称および官途は 江間小四郎、相模守、右京権大夫 兼 陸奥守。法名は観海 または 徳崇とも。

 

本項では「義時」の名乗りについて述べたい。

北条氏代々の通字「時」に対し、その上(1文字目)に戴く「」の字は烏帽子親からの偏諱と考えられるが、細川重男は三浦氏三浦義明 または 三浦義澄)からの一字拝領ではないかとする見解を説かれている*2。尚、「義」の字は、三浦為継(為次)の子・継(義次)が 源家から賜って*3以来、三浦氏代々の通字となっていた。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年) でも、北条義時(写真手前)と三浦義村は従兄弟(伊東祐親の孫)同士にして盟友関係。

 

系図類によれば、三浦氏でも義村の母が「伊東入道女(=娘)」であったと伝えられる(『諸家系図纂』、『系図纂要』、『佐野本 三浦系図』)*4。すなわち、北条時政・三浦義澄の父同士が伊東祐親の娘婿として親交があったとされ、義時の烏帽子親を務めるきっかけとなったのであろう。その参考として、義澄の末弟・義が義時の弟・(のちの時房)、義澄の子・義が義時の子・政の烏帽子親を務めた記録が『吾妻鏡』に残されている。息子同士にしてほぼ同世代であったと思われる義時と義村もまた、盟友的な関係にあったとされ、反対に義村の子・は「元服之時北条(義時の子)加冠、授諱字(「佐野本三浦系図」)*5だったようである。

 

2代執権を務めた晩年期には、元服時の烏帽子親として「」の字を安達に与えたと考えられている*6

 

その他、生涯・事績について以下のページをご参照いただきたい。

 

(参考ページ)

 北条義時 - Wikipedia

 北条義時とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪

 名前のややこしさ、そして偏諱という補助線 – 徳田神也のblog

 

脚注

*1:『大日本史料』5-22 P.258

*2:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。

*3:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。

*4:大日本史料』5-14 P.4075-22 P.115P.133

*5:『大日本史料』5-22 P.134今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。

*6:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.40。鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.330。

北条貞村

北条 貞村(ほうじょう さだむら、1270年代?~1305年)は、鎌倉時代後期の武将、北条氏一門。政村流北条氏・北条時村の子。

 

細川重男の研究*1によれば、嘉元3(1305)年4月23日子の刻に、得宗北条貞時(副将軍*2・前執権、法名:崇演)の「仰」と号する(『保暦間記』)武装集団が、鎌倉・葛西ヶ谷にある連署北条時村(数え64歳)の邸宅を襲って彼を斬殺した際嘉元の乱、嫡孫・貞泰(煕時)以下、時村の子息・親類の多くは難を免れたものの(『実躬卿記』同年4月27日条)、50余りの人が時村と共に落命したといい(『実躬卿記』同年5月8日条)、その中に子息・貞村(『佐野本 北条系図』)も含まれていたと考えられている。ちなみに『諸家系図纂』所収の「北条系図」でも時村の子・貞村に「同父被誅」の記載が見られる*3

鎌倉時代末期の成立とされる『入来院本 平氏系図』においても、時村に「嘉元三四廾〔三 脱字か〕被討了」、その息子の一人・式部大夫茂村に「同時打死(=討死)」の注記があり*4、貞村と茂村が同一人物なのか、或いは兄弟共に討たれたのかは判断し難いが、少なくとも父・時村と共に亡くなった息子がいたということは認めても良いのだろう。

 

尊卑分脈』北条氏系図によると、時村の嫡男(すなわち長兄にあたる)為時は父に先立ち弘安9(1286)年10月6日に22才で亡くなったといい*5、逆算すると文永2(1265)年生まれである。息子・煕時(1279年生まれ)とは僅か14の年齢差となってしまうが、父・時村が仁治3(1242)年生まれである*6ことを考慮すれば、その正確性に問題無しと思う(煕時は為時が数え15歳の時の子となるが、この頃同様の事例は少なからず確認される)

村がその弟だとすれば、早くとも1260年代後半、或いは1270年代の生まれになるだろう。また、嘉元の乱当時は元服を済ませていた筈で10代後半以上には達していたであろうから、遅くとも1290年頃までに生まれていたことも推測可能である。

その名乗りに着目すると、「村」は祖父・政村、父・時村と継承されてきた通字であり、上(1文字目)に戴く「」が元服時、烏帽子親からの偏諱と考えられるが、弘安7(1284)年4月から正安3(1301)年の間、9代執権の座にあった*7から受けたものと考えて問題なかろう。

 

(参考ページ)

 政村流時村系北条氏 #北条貞村

 

脚注

北条時益

北条 時益(ほうじょう ときます、1301年?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題南方。北条氏政村流・北条時敦の嫡男。兄弟に親雅(しんが)*1がいる。主な通称および官途は、左近将監、越後(左近)大夫将監。

 

 

生年の推定

時益の生年は不明であるが、父・時敦が弘安4(1281)年生まれと判明している*2ため、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、おおよそ1301年以後と推定可能である。

 

元亨3(1323)年10月に挙行された北条貞時13年忌供養の際、「銭五十貫 銀剱一」を進上する「越後左近大夫将監殿(『相模円覚寺文書』所収『北條貞時十三年忌供養記』が、『神奈川県史』*3の推定通り時益ではないかと思われ、これが史料上での初見になるだろう。

そもそも「越後左近大夫将監」という通称は、父が越後守で、自身が当時左近大夫将監であったことを示す。この頃の越後守としては、延慶3(1310)年*4~文保元(1317)年*5の間は父・時敦、元亨4(1324)年の段階では金沢貞将が退任済み*6で、正中2(1325)年~元徳元(1329)年の間は常葉範貞が在任であった*7ことが確認されている。他にも甘縄顕実が越後守であったと伝える系図史料がある(『佐野本北条系図』)*8が、少なくとも元亨3年当時は駿河守であった可能性が高く*9、「越後左近大夫将監殿」がその息子にはなり得ない。

以上の考察により、「越後左近大夫将監殿」=北条時益 と見なして良かろう。そして、嘉元元(1303)年に父・時敦が左近将監となった時23歳(数え年)であった*10ことを踏まえると、この当時の時益もほぼ同じくらいの年齢に達していたと考えるべきではないか。よって時益の生年は1301年頃と推定するのが妥当であろう。

 

鎌倉から京都へ

次の史料に着目したい。

【史料1】(元徳元(1329)年?)11月11日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*11

一. 去月十九日夜、甘縄の城入道の地の南頰いなかき左衛門入道宿所の候より、炎上出来候て、其辺やけ候ぬ、南者越後大夫将監時益北まてと承候、彼家人糟屋孫三郎入道*1 以下数輩焼失候、北者城入道宿所を立られ候ハむとて、人を悉被立候程ニ、そのあきにてとゝまり候ぬ、南風にて候しほとニ、此辺も仰天候き、北斗堂計のかれて候之由承候、目出候々々、

一. 去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時門前より火いてき候て、亀谷の少路へやけ出候て、土左入道宿所やけ候て、浄光明寺西頰まてやけて候、右馬権助右馬権頭貞規後室・刑部権大輔入道宿所等者、無為に候、大友近江入道宿所も同無殊事候、諏方六郎左衛門入道*2 家焼失候云々、風始ハ雪下方へ吹かけ候き、後ニハ此宿所へ吹かけ候し程ニ、驚存候しかとも、無為候之間、喜思給候、火本ハ秋庭入道右馬権助家人高橋のなにとやらん同前*3か諍候之由聞□〔候、あなかしく、

 

十一月十一日(切封墨引)

 

*1:糟屋入道道*12。実名は不詳。

*2:得宗被官・諏訪氏の一族。他史料上に現れる「諏訪六郎左衛門尉」*13が出家した同人とみられるが、系譜・実名は不詳。

*3:秋庭氏については六波羅探題被官の出身、高橋氏は得宗被官の一族と推測される*14 

こちらは元徳元年のものとされる書状であるが、同年10月19日の夜、甘縄(現・神奈川県鎌倉市長谷)安達時顕(延明)邸の南側*15にある「いなかき左衛門入道(=稲垣左衛門入道か、人物の詳細は不明)」なる者の宿所を火元とした火事があり、周辺にあった時益の邸宅にも燃え広がったと伝える。後に六波羅探題として京に移る時益が当初、鎌倉在住であったことが裏付けられよう

前述のように生年が1301年頃と推定されることに加え、父・時敦が六波羅探題南方として京に上ったのが延慶3(1310)年7月25日であった(入洛は8月中旬とされる)*16ことも踏まえると、時敦・時益父子はともに鎌倉で生まれ育ったと見なされる。

複数の史料が伝えるところでは、【史料1】より間もなく、時益六波羅探題南方として上洛することとなり、元徳2(1330)年7月20日前後には鎌倉を出発し、8月7日には入洛したという*17。ちなみに、元徳元年のものとされる9月9日付の貞顕の書状(『金沢文庫文書』)に「……時益大夫将監上洛事、未承及候、……」とあり*18、この上洛は前年の段階で内定されていたようである。

また、鎌倉出発より約半年前、元徳2年正月24日のものとされる貞顕の書状には「越後大夫将監時益□□□□□□□弾正少弼ニ被□□□□□□□□事、令申候、……」と記されている*19。恐らくは書状の保存状態による欠損で読めない部分が多くあるが、上洛を控えた時益に対し、かつての父・時敦の例*20に同じく弾正少弼任官の話が持ち上がっていたことが推測される。しかし、他史料で左近将監と兼務したとの記録は今のところ未確認で、恐らくは何かしらの不都合があって見送りになったのであろう。

 

尚、『太平記』巻6「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」の冒頭に「元弘二年三月五日、左近将監時益越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。……」とある*21が、次節に掲げる実際の史料によって、その時期が誤りであることは明らかである。『太平記』は元々軍記物語ゆえ、その構成上変更されたのかもしれない。

 

 

六波羅探題(南方)として

以後は、六波羅探題北方常葉範貞 → 普音寺仲時との連名による発給書状(御教書)を中心に、多数の関連史料が確認される。

 

【史料2】元徳2年8月12日付「六波羅御教書」(『和泉 松尾寺文書』):署名「左近将監(花押)駿河守(花押)*22

【史料3】元徳2年10月25日付「六波羅御教書案」(『和泉 田代文書』):署名「左近将監(御判)駿河守(御判)*23

元徳2年12月27日、北条越後守仲時六波羅探題北方に赴任*24

【史料4】元徳3(1331)年正月23日付「六波羅御教書案」(『萩藩閥閲録』121-4「周布吉兵衛」の項):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*25

【史料5】元徳3年3月20日付「六波羅御教書」(『壬生家文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*26

【史料6】元徳3年4月20日付「六波羅御教書案」(『福智院家文書』):署名「左近将監(御判)越後守(御判)*27

【史料7】元徳3年4月28日付「六波羅御教書」(『東寺百合文書ぬ』):署名「左近将監(在判)越後守(在判)*28

【史料8】元徳3年5月20日付「六波羅御教書」(『備前 金山寺文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*29

【史料9】元徳3年7月5日付「六波羅御教書」(『白河 本東寺文書』121):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*30

【史料10】(元弘元/元徳3年8月25日)『伊勢光明寺文書残篇』文中:「廿五日……主上御座山門之由、被聞食定之旨、以両使 北方高橋孫五郎。南方糟屋孫八。被申関東云々。」*31

神五左衛門尉御内人諏訪氏の一門か?)を通じて、倒幕の計画を企てていた後醍醐天皇延暦寺密幸の情報が伝えられると、六波羅探題は北方(仲時)から高橋孫五郎を、南方(時益)から糟屋孫八をそれぞれ使者として鎌倉に向かわせ(同史料によると29日到着)、このことを伝達させた。これにより、幕府は翌9月初頭に大仏貞直足利高氏(のちの尊氏)らを大将軍とした軍勢を京都へ遣わすこととなる(元弘の変*32。尚、高橋・糟屋の両名はそれぞれ【史料1】にある「糟屋孫三郎入道」や「高橋のなにとやらん」の親戚にあたる、北条氏家人であろう。

但し「延暦寺密幸」は実のところ、側臣の花山院師賢天皇になりすます形で実行されたもので、六波羅探題はまんまと欺かれていたようである。後醍醐は先手を打つ形で皇居を脱出し、南都に赴いており(最終的には笠置山へと逃れる)、この逃亡のための時間稼ぎであったと考えられている*33

 

【史料11】元徳3年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』所収):宛名に「越後守殿 越後左近大夫将監殿*34

【史料12】(元徳3年?)10月3日付「六波羅御教書」(『白河 本東寺文書』59):署名「左近将監平時益(裏花押)越後守平仲時(裏花押)*35

【史料13】元徳4(1332)年2月4日付「六波羅御教書案」(『東大寺文書』4-12):署名「左近将監(御判)越後守(御判)*36

【史料14】元徳4年4月16日付「六波羅御教書」(『紀伊 栗栖文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*37

★「元弘」ではなく「元徳」の元号を使用していた幕府側では、4月28日光厳天皇の即位に伴い「正慶」と改元*38

【史料15】正慶元(1332)年7月16日付「六波羅御教書」(『東大寺文書』1-4):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*39

【史料16】正慶元年8月12日付「六波羅御教書案」(『竹内文平氏所蔵文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*40

【史料17】正慶元年12月5日付「六波羅御教書案」(『紀伊 隅田家文書』):署名「左近将監(判)越後守(判)*41

【史料18】正慶元年12月19日付「六波羅感状案」(『紀伊 隅田家文書』):署名「左近将監(判)越後守(判)*42

 

これより後、時益の動向が確認できる史料としては、その最期を描いた次の部分が挙げられる。

【史料19】『太平記』巻9「主上上皇御沈落事」より*43

……南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて、「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。……

太平記』巻9については「幕府全体の動きよりも、足利高氏という個人の動静が詳述され」ているとの指摘もある*44ように、主として高氏(尊氏)による六波羅攻め(1333年5月)について描かれている。

【史料19】は六波羅の館に火をかけて、両探題(仲時・時益)が後伏見上皇光厳天皇父子を伴い東国へ逃れようとする場面であるが、五月雨の頃にして夜は暗く*45、前後も見えないほどであったその道中、野伏に襲われ、時益も放った矢が首の骨にまで刺さり討ち死にしてしまった。側にいた糟谷七郎(糟屋七郎か。こちらも前述の糟屋孫三郎入道や糟屋孫八の親戚であろう)が矢を抜いた時には息絶えていたともあり、即死であったことが窺える。前述の生年に従えば、享年33の若さであったことになる。

繰り返しになるが『太平記』は元々軍記物語であるが、この時益の死については『関東開闢皇代并年代記』(以下『開闢』と略記)『鎌倉大日記』正慶2年条『尊卑分脈』等の系図類にも記録されている*46。『分脈』での注記では、仲時を江州(=近江国のこと)四宮河原で矢に中(あた)って夭亡(=天寿を全うしないでほろび死ぬこと*47時益を9日江州馬場〔=番場のことか〕で自害とするが、番場宿の蓮華寺にて従者432人と共に自害したのは仲時であり*48、『開闢』での記載も踏まえれば単に混同で逆に書いてしまったものと考えられる。『開闢』では「越後左近大夫将監時益」が7日夕方、官軍に討たれた場所が四条河原であったとする。

仲時・時益両名討伐については次の書状にも記されるところである。

【史料20】(元弘3(1333)年)「後醍醐天皇綸旨事書案」(『伊勢光明寺残篇』所収)*49

上洛輩。可有存知条々。

一. 誅伐仲時時益已下輩、奉捕禁裏仙洞、奉遷本御所可守護申也。……(以下略)

 

(参考ページ)

 北条時益 - Wikipedia

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪

 北条時益とは - コトバンク

 北条時益とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな

 政村流政長系北条氏 #北条時益

南北朝列伝 #北条時益

 

脚注

*1:長井頼重の子・運雅の弟子で、京都六条八幡宮別当を継承。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その50-北条時敦 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。外祖父(母方の祖父)・長井時秀との年齢差の面でも辻褄が合うので、間違いなかろう。

*3:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*4:注2同箇所より。

*5:文保元年4月3日付「六波羅御教書」(『鎌倉遺文』第34巻26142号)では「越後守」と署名していたものが、6月1日付「六波羅下知状案」(『鎌倉遺文』第34巻26222号)以後の書状では「前越後守」・「前越後守時敦」等と変化しており(いずれも陸奥守=六波羅探題南方・大仏維貞との連名)、この間に時敦が越後守を退任したことが分かる。

*6:同年のものとされる「金沢貞将書状」(『鎌倉遺文』第37巻28880号)に「前越後守貞将」の署名がある他、同年11月以後に六波羅探題南方として「前越後守」名義での発給書状が複数残されている。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:注3前掲『神奈川県史』P.707では『供養記』の「駿川〔=河〕守殿」を顕実に比定する。『常楽記』嘉暦2(1327)年3月26日条に「甘縄駿河入道殿他界五十五 俗名顕実朝臣」とあり、顕実の出家前の最終官途が駿河守であったことがわかる。

*10:注2同箇所 より。

*11:『鎌倉遺文』第39巻30775号。

*12:同じく『金沢文庫文書』に所収の、元徳元(1329)年12月2日付「伊勢宗継請文案」(『鎌倉遺文』第39巻30788号-1)、および同年のものとされる「金沢称名寺雑掌光信申状案」(『鎌倉遺文』第39巻30792号)に「糟屋孫三郎入道々暁」とあるによる。東氏 ~上代東氏~ も参照のこと。

*13:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.197 注(13)に言及されている通り、『円覚寺文書』に所収の史料2点、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)の一番中に「諏方六郎左衛門尉」、『北條貞時十三年忌供養記』には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「銭十貫文」を進上する人物として「諏方六郎左衛門尉」(注3前掲『神奈川県史』P.710)の記載がある。

*14:これについては、大村拓生「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(所収:『都市文化研究』3号、大阪市立大学大学院文学研究科 都市文化研究センター、2004年) P.75 を参照。

*15:【史料1】中の「頰」は「ある物の側面。また、それに近接したところ。ある物や場所に面したところ。」の意(→ 面・頬とは - コトバンク より)。

*16:注2同箇所 より。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳2年4~7月 P.51

*18:『鎌倉遺文』第39巻30729号。

*19:『鎌倉遺文』第39巻30876号。

*20:注2同箇所(典拠は『鎌倉年代記』延慶3年条)によると、徳治2(1307)年12月2日に左近将監であった時敦は弾正少弼を兼ねたという。

*21:「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その1) : Santa Lab's Blog

*22:『鎌倉遺文』第40巻31180号。

*23:『鎌倉遺文』第40巻31248号。

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その43-普音寺仲時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。尚、仲時の普音寺流北条氏は、政村流北条氏よりも家格が高く、国守任官までの昇進のスピードが速かった。仲時も25歳の探題就任時、既に越後守任官済みであったことが確認され、父・基時の越後守任官が19歳であった(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その42-普音寺基時 | 日本中世史を楽しむ♪)ことも踏まえると、元徳元(1329)年12月13日駿河守に転任した常葉範貞(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪、【史料2】・【史料3】の「駿河守」も範貞に比定される)の後任として、24歳で就任したと考えられよう。

*25:『鎌倉遺文』第40巻31344号。

*26:『鎌倉遺文』第40巻31390号。

*27:『鎌倉遺文』第40巻31412号。

*28:『鎌倉遺文』第40巻31420号。

*29:『鎌倉遺文』第40巻31431号。

*30:『鎌倉遺文』第40巻31463号。

*31:群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*32:大仏貞直 - Henkipedia 参照。

*33:元弘の変とは - コトバンク および 千葉介の歴代 #千葉介貞胤 より。

*34:『鎌倉遺文』第40巻31509号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*35:『鎌倉遺文』第40巻31518号。

*36:『鎌倉遺文』第41巻31677号。

*37:『鎌倉遺文』第41巻31741号。

*38:正慶 - Wikipedia正慶とは - コトバンク より。

*39:『鎌倉遺文』第41巻31780号。

*40:『鎌倉遺文』第41巻31808号。

*41:『鎌倉遺文』第41巻31911号。

*42:『鎌倉遺文』第41巻31925号。

*43:「太平記」主上・上皇御沈落事(その5) : Santa Lab's Blog

*44:谷垣伊太雄「足利高氏の役割 ―『太平記』巻九の構成と展開―」(所収:『樟蔭国文学』第29巻、大阪樟蔭女子大学学芸学部、1992年)P.27。

*45:五月闇とは - コトバンク より。

*46:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*47:夭亡とは - コトバンク より。

*48:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その43-普音寺仲時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*49:『鎌倉遺文』第41巻32124号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

桑原高近

桑原 高近(くわはら / くわばら たかちか、生年不詳(1300年代?)~没年不詳(1333年以前?))は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官。通称は桑原新左衛門尉。

 

まず、高近については、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要について記録された『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)の以下の箇所でその名を確認することが出来る。

【史料A】

 手長(25日)*1

 桑原新左衛門尉高近  安東五郎左衛門尉泰能

 尾藤孫次郎資氏

 

 手長役人(26日)*2

 岡村五郎左衛門尉資行 水原兵衛尉資宣

 桑原新左衛門尉高近  安東五郎左衛門尉泰能

 塩飽藤次高遠     工藤右衛門三郎資景

 

上記の他、27日「唐橋中将」こと唐橋通春*3に「馬一疋 栗毛、銀剱一」を「知久右衛門入道」が進上する際の「御使」を務めた「桑原新左衛門尉」も高近に同定される*4

この他、『御的日記』嘉暦3(1328)年正月9日条(=【史料B】とする)にも「桑原新左衛門尉高近」の名があり、得永祐高(新五郎)との弓の対戦に敗れたという*5

 

桑原氏については特に系図類も伝わっておらず、出自は不明であるが、【史料A】に書かれる尾藤・安東・工藤などといった氏族は、後掲【史料C】にも名を連ねる御内人得宗被官)であり、【史料A】・【史料C】双方に登場の桑原氏も恐らく同様に得宗被官であった可能性が極めて高い。

 

吾妻鏡を見ると北条時頼執権期に「桑原平内盛時(桑原盛時)なる人物が確認でき*6下総国葛飾郡桑原郷発祥の桓武平氏流であったとみられる*7。この頃から桑原氏も得宗被官の一族として活動していた様子が窺える。

更に鎌倉時代後期に入ると、永仁7(1299)年正月27日付「関東下知状案」(『紀伊薬王寺文書』)に「桑原左衛門尉近忠*8なる者が登場する。同3(1295)年の「播磨大部荘申状案」(『東大寺文書』4-91)の冒頭にある「桑原左衛門尉 不知実名(=実名を知らず)*9も恐らく同人であろう。官職と「」字の共通からしてこの桑原近忠(ちかただ)高近の祖先(年代的には父或いは祖父の可能性大)にあたる人物なのではないかと思われる。

もう一つ、次の史料に着目したい。 

【史料C】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)

(花押:北条貞時 円覚寺毎月四日大斎結番事

(前略)

三 番

 大蔵五郎入道     長崎宮内左衛門尉
 越中局        大森右衛門入道
 広沢弾正左衛門尉   大瀬次郎左衛門尉(忠貞)
 葛山六郎兵衛尉    岡村五郎左衛門尉

(中 略)

六 番

 工藤三郎右衛門尉   桑原新左衛門尉
 讃岐局        渋谷六郎左衛門尉
 荻野源内左衛門入道  浅羽三郎左衛門尉
 蛭川四郎左衛門尉   千田木工左衛門尉

(中 略)

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
 
   徳治二年五月 日

この史料における3番衆の一人「岡村五郎左衛門尉」は【史料A】での「岡村五郎左衛門尉資行」と同人、6番衆の一人「桑原左衛門尉」も『鎌倉遺文』*10等で高近と見なしている。

そもそも「」というのは、父が「桑原左衛門尉」で、自身も同じく左衛門尉に任官したので、区別のために付されたものと考えられる。時期の近さからすると「桑原左衛門尉」は前述の「桑原左衛門尉近忠」なのではないか。

【史料C】の「桑原新左衛門尉」=高近とした場合、高近は近忠の子息であった可能性が高くなり、【史料B】までの21年間その通称名を名乗っていたことになる。

 

ところが、前述の『御的日記』を見ると、1303年~1310年の正月で一貫して「岡村左衛門五郎資行」とある*11。1312年では「岡村五郎左衛門尉資行」と一旦は変わるものの、1313年・1314年では「岡村左衛門五郎資行」と戻り、1319・1322~1324年でも同表記となっているから【史料A】との不整合に関して再検討の余地はあるが、岡村資行が当初「左衛門五郎(岡村左衛門尉の「五郎(5男)」を表す)」を称し、後に資行自身も左衛門尉に任官して「五郎左衛門尉」となった可能性が高い。

【史料A】・【史料C】における「岡村五郎左衛門尉」および「桑原新左衛門尉」は必ずしも同人とは限らない、ということになる。

従って筆者の推測としては、【史料C】の「桑原新左衛門尉(=仮名:桑原貞近とする)」は、父「桑原左衛門尉近忠」との区別のために「」が付されたが、やがて近忠が出家(出家すると「左衛門入道」と呼ばれる)或いは逝去するとその必要性が無くなって「桑原左衛門尉」となり、今度は同じく左衛門尉となった息子・高近が「桑原左衛門尉」と呼ばれたと考えられる。

もっとも、「近」の名は得宗北条偏諱と見られ、父・貞時の逝去に伴い家督を継いだ1311年(執権就任は1316年)*12以後に「」の字を受けたと推測される*13

 

脚注

*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.696。

*2:前注『神奈川県史』P.701。

*3:『尊卑分脈』村上源氏系図を見ると、「住関東 左中将」の注記がある。同系図によると曽祖父・通清の母が「平義時(=北条義時女」であったといい、北条氏と縁戚関係にあった。

*4:前注『神奈川県史』P.705。

*5:太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)より。

*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.294「盛時 桑原(平)」の項によれば、寛元2(1244)年正月5日条から弘長元(1261)年正月10日条まで14回登場する。建長4(1252)年11月21日条では「桑原平内平盛時」と記されており、平姓であったことが窺える。

*7:姓名/日本のおもな姓氏とは - コトバンク「桑原」の項 より。

*8:『鎌倉遺文』第26巻19934号。

*9:『鎌倉遺文』第25巻18963号。

*10:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*11:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43 および 太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)を参照のこと。

*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*13:恐らく元服と同時の一字拝領であったと思われるが、改名の可能性も完全には排除できないため、この点については検討の余地を残している。

塩飽高遠

塩飽 高遠(しわく*1 たかとお、生年不詳(1300年代?)~没年不詳(1333年以前?))は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官。通称は藤次。

」字の共通からし塩飽聖(新左近入道、俗名不詳)塩飽盛(右近将監、右近入道了暁)らと同族とみて良いと思われるが、系譜に関しては不明である。

 

『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)を見ると、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要において「手長役人」を務めた中に高遠が含まれている。

 手長役人(25日)*2

 岡村五郎左衛門尉資行 水原兵衛尉資宣

 工藤九郎祐長     諏方〔諏訪〕五郎経重

 塩飽藤次高遠     工藤右衛門三郎資景

 

 手長役人(26日)*3

 岡村五郎左衛門尉資行 水原兵衛尉資宣

 桑原新左衛門尉高近  安東五郎左衛門尉泰能

 塩飽藤次高遠     工藤右衛門三郎資景

 

「藤次」というのは元服後の仮名(藤原姓の「次郎」の意か)であり、当時無官であったことを示す。ここに並ぶのは、塩飽のほかにも諏訪・安東・工藤・桑原などといった、徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*4にも名を連ねる得宗被官の氏族であるが、兵衛尉・左衛門尉など官職を得ている者も少なからずいる。ちなみにその多く「資」字を持つ者は、当時の内管領(得宗家執事)・長崎高資から偏諱を受けたのかもしれない。

一方、官職を得ていない者は塩飽のほか、諏訪・工藤氏に見られるが、いずれも他の人物(諏訪左衛門入道直性、工藤次郎右衛門尉貞祐 など)の例から、左衛門尉など官職を得る資格は十分にあったと考えられるので、恐らく任官に相応の年齢に達していなかっただけであろう。

 

塩飽氏については、参考までに『太平記』巻10「塩飽入道自害事」を見ておきたい。

1333年の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)にあたり、聖遠父子は自害することとなるが、嫡男の忠頼が「三郎左衛門尉」と称していた*5のに対し、その弟*6は無官だったようで「四郎」とのみ称していた。

また、聖遠や了暁はその通称名から、出家前各々左近将監、右近将監であったことが窺える。すなわち、塩飽氏も左・右近将監、或いは左衛門尉といったクラスの官途に昇進し得る家柄であった*7

従って、元亨3年当時の遠は元服からさほど経っていない若者であったと推測される。冒頭で触れた通り「遠」が塩飽氏の通字の一つだとすれば、1文字目に掲げる「」の字は当時の得宗・執権である北条偏諱を許されたものであろう。

高時は1311年に得宗家督を継ぎ、1316~1326年の間、鎌倉幕府第14代執権に在任であった*8から、通常10代前半で行う元服の時期はこの期間内に絞られよう。逆算すれば、高遠の生年は1300年代~1310年頃と推定される。

 

尚、冒頭の史料以外に高遠に関するものが確認されておらず、前後動向が不明である。ただ、南北朝時代の史料にも特に現れていないことから、聖遠父子に同じく1333年の鎌倉幕府滅亡に殉じたか、それ以前に早世した可能性が高い。

 

脚注

*1:「しあく」などとも読まれる(→ 塩飽(しあく、しわく) -人名の書き方・読み方 Weblio辞書塩飽さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net などを参照)が、正中元(1324)年のものとされる「東盛義所領収公注文」(『金沢文庫文書』所収/『鎌倉遺文』第37巻28943号)の端裏書に「塩涌〔ママ〕新右近入道」と書かれており、「(わ-く)」の読み方からすると「しわく」と読まれていたとみて良いだろう。塩飽氏が拠点にしていたと思われる瀬戸内海の塩飽諸島も現在この読み方である。

*2:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698。

*3:前注『神奈川県史』P.701。

*4:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*5:「太平記」塩飽入道自害の事(その1) : Santa Lab's Blog

*6:諱(実名)については、塩飽忠年(→ 塩飽聖遠とは - コトバンク)或いは塩飽忠時(→ 「太平記」塩飽入道自害の事(その2) : Santa Lab's Blog)とされるが、いずれも出典不明。

*7:他にも塩飽修理進、塩飽三郎兵衛尉、塩飽弾正兵衛尉といった人名が確認される。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。