Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】北条高時滅亡後の改名現象・補

 

前回記事では、鎌倉幕府滅亡後、最後の得宗鎌倉幕府第14代執権)であった北条時からの偏諱」を棄てる形で改名する御家人が多く見られたことを取り上げた。
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本項は、この前回記事▲ に補足するものである(以下〔史料●〕〔表●〕と記すものの一部は前回記事に掲載のものであり、アルファベット記号を統一してある)

あわせてご参照いただければと思う。 

 

 

備考: 改名を行った家柄について

さて、北条時からの偏諱」を改めた御家人は〔表C〕の17例を数え、前項ではその理由について考察した。数多くある御家人の中でのごく一部に過ぎないが、他の御家人はそうしなかったのであろうか。幾つかピックアップして確認してみたいと思う。 

 

〔史料H〕『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

元徳三年元弘元年

九月上旬、為対治山徒等、被差上陸奥守貞直足利治部大輔高氏以下之軍勢、其後先帝御座于笠置城云々、

 

〔史料G〕『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

今年元徳、…(中略)…八月…(略)…廿四日、主上竊出鳳闕、令寵笠置城給、仍九月二日、任承久例、可上洛之由被仰渡出、同五六七日、面々進発、大将軍、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、足利治部大輔高氏、御内御使長崎四郎左衛門尉高貞、開東両使秋田城介高景出羽入道道蘊、此両使者践祚立坊事云々、此外諸國御家人上洛、圖合廿万八千騎、九月廿日、東宮受禅、同廿八日、笠置城破訖、先帝歩儀令出城給、於路次奉迎、十月三日遷幸六波羅南方、同日、於楠木城第一宮尊良親王奉虜、同廿一日、楠木落城訖、但楠木兵衛尉落行云々、十一月、討手人々幷両使下著、同月、長井右馬助高冬信濃入道々大、為使節上洛、為京方輩事沙汰也、同八日、以前坊邦良、第一宮康仁親王東宮、…(以下略)

 

元弘元(1331)年、後醍醐天皇笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げると、9月初頭、幕府は承久の乱の先例に任せ(倣って)、討伐軍を差し向けることを決定。その幕府軍は、大仏貞直金沢貞冬江馬越前入道(時見?)*1足利高氏それぞれを大将軍とする4つの軍勢に分割・編成され、そのメンバーは以下の通りであった。 

 

〔表D〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)

楠木城 
一手東 自宇治至于大和道
  陸奥守(大仏貞直)   河越参河入道(貞重)
  小山判官(高朝[秀朝]    佐々木近江入道(貞氏)
  佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎(胤貞)
  武田三郎(政義)    小笠原彦五郎(貞宗
  諏訪祝(時継)   高坂出羽権守(信重)

  島津上総入道(貞久)

  長崎四郎左衛門尉(高貞)
  大和弥六左衛門尉   安保左衛門入道
  加地左衛門入道   吉野執行
   
一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助(金沢貞冬)    駿河八郎
  千葉介(貞胤)   長沼駿河権守(宗親)
  小田人々(高知[治久]    佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
  東大和入道(祐宗   宇佐美摂津前司(貞祐
  薩摩常陸前司     □野二郎左衛門尉
  湯浅人々       和泉国軍勢
   
一手南西 自山崎至天王寺大
  江馬越前入道   遠江前司(名越宗教?)
  武田伊豆守(信武?)   三浦若狭判官(時明)
  渋谷遠江権守   狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道   信濃国軍勢
   
一手 伊賀路
  足利治部大夫(高氏[尊氏]

  結城七郎左衛門尉(朝高[朝祐]

  加藤丹後入道   加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道   美濃軍勢
  尾張軍勢  
   
同十五日
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

 

この軍勢は「承久の乱の先例に倣って」編成されたらしいが、その際の軍勢統率者を次の史料で確認してみよう。  

〔史料I〕『吾妻鏡』承久3(1221)年5月25日条(※旧字体は適宜、新字に改めてある。)

承久三年五月大廿五日戊申。自去廿二日。至今暁。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也。各東海東山北陸分三道可上洛之由。定下之。軍士惣十九万騎也。
 東海道大将軍、従軍十万余騎云々、
相州 武州 同太郎 武蔵前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱

 東山道大将軍、従軍五万余騎云々、
武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山新左衛門尉朝長 結城左衛門尉朝光
 北陸道大将軍、従軍四万余騎云々、
 式部丞朝時 結城七郎朝広 佐々木太郎信実


今日及黄昏。武州駿河国。爰安東兵衛尉忠家。此間有背右京兆之命事。籠居当国。聞武州上洛。廻駕来加。武州云。客者勘発人也。同道不可然歟云々。忠家云。存義者無為時事也。為棄命於軍旅。進発上者。雖不被申鎌倉。有何事乎者。遂以扈従云々。

 

①北条[大仏]時房 ②北条泰時 ③北条時氏 ④足利義氏 ⑤三浦義村 ⑥北条[名越]朝時

 

この〔史料I〕により、承久の乱には、北条氏一門や足利氏のほか、三浦・千葉・武田・小笠原・小山・結城・佐々木の諸氏(一門含む)が参加していたことが分かり、これらの氏族は、後世の元弘の乱(元弘の変)の際にも幕府軍に加わって上洛したことは〔表D〕を見れば明らかである*2

 

 

足利氏一門

前回記事 に掲げた〔表E〕では、元弘元(1331)年幕府上洛軍の編成表に部将として列記された人名中に「足利宮内大輔三河国」が含まれている。これについては、前掲D・G・Hの史料との関係で「足利治部大輔」(=高氏)の誤記ではないかとする説と、足利氏一門の吉良貞家に比定する説とある*3が、続いて「足利上総三郎」(=吉良満貞?*4)の名も確認できることから、後者の可能性が高い。いずれも吉良氏だが、鎌倉時代においては足利(屋号:足利上総)を称しており*5、(尊氏等の)嫡流家からは独立した御家人として捉えられていたようだ*6。吉良氏の場合、年代的に考慮して、満氏の子・氏が北条時の偏諱を受けた可能性も考えられるが、その兄弟または息子とされる貞義*7の嫡男は「満義」と名乗っており、基本的には得宗との烏帽子親子関係は持っていなかったと判断される。

 

同じく足利氏嫡流とは別個の御家人として幕府から遇されていた畠山氏*8では、国、国、国、国の名に得宗から偏諱を受けた形跡が見られる。特に国は尊氏と同じく嘉元3(1305)年の生まれであることが判明しており*9時からの一字拝領に間違いはないだろう。

系図類で見る限り、高国が改名したことは確認できない。一見すると、幕府滅亡後急ぎ改名した尊氏・直義兄弟とは対照的に思えるが、実のところ、高国は幕府の滅亡から僅か数年で出家していたのである。

 『南狩遺文』延元2(1337)年7月日付の書状には、南朝方の加藤定有が「朝敵人畠山上野入道同小松次郎」と合戦に及んだことが書かれているが、高国・直泰父子に比定されている*10。『積達古館弁』にも「畠山上野介源高國入道信元」とあって*11、俗名「高国」のまま出家して「信元(しんげん)」と号し、吉良貞家に討たれるまで改名するまでもなかったようである。

 

 

三浦氏一族

三浦氏は宝治合戦(1247年)にて本家筋の三浦泰村らが滅ぼされた後、傍流・佐原氏出身の盛時により三浦介家が再興され相模三浦氏と呼ばれる)得宗被官御内人化して活動していたことも考慮すると、その後の三浦介家当主(明―継―継)は得宗偏諱を受けたものと推測される。時継・高継父子は最終的には足利尊氏に従って、倒幕側に傾いたが、その後は、時継が中先代の乱に際し再び北条氏(高時の次男・時行)に従い処刑され、対して高継は尊氏に従い明暗が分かれた。しかし、高継はその後も特に改名しなかったようで、むしろ以降の当主継―通―連―明……)は「」を代々の通字とするようになっている。

元々、時の命名は、父の貞時の主導によるものと思われるが、祖先の平高望王にあやかったものであるとされる。『尊卑分脈』等の系図類では、高望は三浦氏にとっても祖先にあたる。継が時の代にわざわざ「高」字を許されていることから、高時からの一字拝領に間違いは無いとは思われるが、結果として祖先と仰ぐ高望の字を用いることとなったので、そのまま使用することにしたのではないかと判断される*12

 

前掲〔史料D〕にて江馬越前入道の軍に加わっている「三浦若狭判官」は、頼盛の甥(弟・宗義の子)若狭守景明の子の明に比定される*13。"三浦介入道"時継とは "はとこ"の関係にあり、その父とは同名別人である。しかし「」の字は同じく北条氏から受けたものではないかと思われる。

時明も時継に同じく*14、幕府滅亡時には足利高氏方に寝返って相模国三浦郡山口の北条氏残党を退治し*15、その功によるものかその後の鎌倉将軍府において関東廂番の1人に抜擢されたが、中先代の乱では北条時行側についてそのまま死への道へ進んだ*16天正本『太平記』には、懐島郷(現・神奈川県茅ヶ崎市へ逃れた時明を憐れんだ浦人が、彼を大壷の中に隠し入れて砂浜に埋めたが、そのまま放置されてしまい、気が籠った挙句自害するという壮絶な最期が描かれている*17

 

継については、『太平記』に、紫宸殿において後醍醐天皇が北条氏残党の鎮圧と天下安鎮の法を催す際、予め警護に応ずることを承知していたにもかかわらず、時に及んで「三浦介」が「千葉大介貞胤」と上座を争ったために天皇の勘気を蒙り、出仕を止められたという話が載せられており*18、これが天皇からの離反に繋がったと考えられている*19。 また、6月12日付で北畠顕家の意を受けた大蔵権少輔清高が代官・南部師行宛てに認(したた)めた書状*20には、三浦介入道(時継:法名道海)と結城七郎(朝祐)元弘の乱の恩賞として久慈郡、糠部郡東門(現・岩手県)の地頭代を新給される予定であったが、両名ともその給人を辞退したことが記されている。これは建武年間のものとされており*21、前述の『太平記』のエピソードと照合すれば辞退の理由も察しが付く*22明の場合は動機が不明だが、同様に離反するきっかけがあったか、もしくは惣領である時継に追随したかのいずれかであろう。幕府滅亡からさほど年数が経っておらず、両者とも「時」字を改めないまま北条氏方に転じたのである。むしろ北条氏の通字であった「時」を棄てないところにその思いが感じられる

 

 

同じく得宗から偏諱を受けていた三浦氏一族だと、葦名盛系図類では盛員とする)盛父子がいる。『太平記』には元弘2年9月、幕府が発した軍の中に「葦名判官」(盛貞)・「三浦若狭五郎」(頼盛の弟・盛氏の孫、氏明)の名が見え*23、当初は幕府方であったが、やはり同じく足利高氏方になびいたようである*24

そして、この父子は中先代の乱に際し、建武2(1335)年8月17日、相模国辻堂、片瀬原の合戦で戦死した*25。当時盛貞40歳、高盛18歳*26盛は元服から数年の年齢であり、時が執権を退任する頃に一字を拝領していたものとみられる。

太平記』では「葦名判官入道」が「三浦介入道」(時継入道道海)・「同若狭五郎」(氏明)とともに北条時行方について敗死した*27と伝えるが、実際の史料で確認できる限り、追討側の足利軍に属しての戦死だったようである*28。前者の通りであれば改名しないのも当然であるが、幕府滅亡から数年しか経っていないことを考えれば後者であったとしてもおかしくはない。或いは、北条氏からの偏諱を棄てないままの戦死であったために、軍記物である『太平記』において北条方に変えられてしまったのかもしれない。跡を継いだ高盛の弟・盛は当時10歳*29で、まもなく足利義の加冠により元服したのではないかと思われる。

 

 

千葉氏

千葉氏は頼胤の後から2つの系統に分かれている。 

宗胤流(千田氏)では、『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』に肥前国小城郡の代々の地頭として、千葉太郎胤貞の次代に「胤」の名が書かれており、中山法華経寺文書』所収の寄進状によって実在が確認できる。この寄進状がいつのものかは不明だが、建武元(1334)年には胤貞が次男の胤平に小城郡地頭と下総国の千田荘・八幡荘の総領職を譲っている書状も残されているので、幕府滅亡前に時の偏諱を受けていた胤が早世し、胤貞が一旦家督を再承していたものと推測される。 

一方、胤宗流の千葉介貞胤には一胤、氏胤の二子がおり、一胤も初め時の偏諱を受けて「胤」を名乗っていたようだ(前回記事参照)胤は一胤の死後1337年の生まれとされ*30室町幕府初代将軍・足利尊の烏帽子子であったと考えられる。

 

武田氏

嫡流家では、―信得宗を烏帽子親として元服したようだ(『系図綜覧』所収「甲斐信濃源氏綱要」)*31が、信宗はのちに一族の若狭守護*32と争論をして没落・流浪したようで*33、晩年に本国甲斐に足を踏み入れるまでの間に安芸で生まれたとされる息子の信武が得宗偏諱を受けていないことは見て明らかである*34

北条時宗の代を境にするかのように、得宗偏諱を受ける家柄は信時の弟・政綱の系統に移っている。すなわち、政綱の子・信家は別名「信」とも伝わるが、時偏諱を受けて改名したのではないかとされ*35、信家(宗信)の子・信も時から一字を拝領した形跡がある*36。しかし、貞信の息子は政義、貞政と命名された(『尊卑分脈』)

嫡男の政義は『建武記』(『建武年間記』)に、建武元(1334)年10月14日、北山殿笠懸射手の1人に「武田石禾三郎政義(石禾は石和(いさわ)の別表記)としてその名が確認できる*37ので、前掲〔表D〕(1331年)における「武田三郎」も政義と推測される*38が、この通称名からすると、当時無官だった可能性があり*39、それは政義の元服がこれよりさほど遡らない時期に行われたからではないかと思われる。恐らく政義の元服当時、得宗・高時は既に引退していたので偏諱を受けなかったのだろう。政義・貞政の名は祖先武田信義、武田信政―政綱)にあやかって付けられたものと思われる(貞政の「貞」は父からの継承)。 

一方、信武の嫡男・信の烏帽子親は足利貞であったらしい*40系図類にのみ見える情報なので信ずるには慎重になるべきだが、年代的に矛盾は無いし、「」が足利氏からの偏諱と考えることにも何ら問題は無く、むしろ早くから足利氏と繋がりを持っていた可能性を疑うべきであろう。貞氏については、その最初の嫡子が(「高氏」ではなく)「高義」と名付けられていることに着目し、清和源氏の通字「義」の使用を認められていることから、足利氏嫡流得宗から「源氏嫡流」としての公認を受けていたという指摘があり*41、同じく清和源氏の武田氏が "源氏嫡流" たる足利氏と結び付こうとしたという解釈でその証左になり得るものである*42

 

 

小笠原氏

小笠原氏では「於祖神社」での元服を慣例とする(『系図綜覧』所収「甲斐信濃源氏綱要」)一方で、「長―長―長」(『尊卑分脈』)得宗偏諱を受けた形跡がある。他家とは異なり、加冠状等の方法で得宗偏諱を申請したのかもしれない。(長とも)時からの一字拝領とみられるが、特に改名していないようで、その子孫は稙盛に至るまで足利将軍家偏諱を受けている(『尊卑分脈』)

貞長の弟*43宗も同じく時からの一字拝領とみられる*44が、息子は元弘元(1331)年の元服で「政長」と名乗っている。前述の武田政義に同じく、高時は既に引退しているので偏諱を受けなかったのであろう*45。 

 

佐々木氏一門

六角流では、と代々北条氏からの偏諱を受けていた*46。時信は正和3(1314)年12月14日に元服した(『尊卑分脈』)が、「時」が得宗・高時の偏諱であった*47かどうかは再考を要する。当時は高時までの中継ぎとして北条煕時が執権(12代)の座にあったが、有力御家人(執権ではなく)あくまで得宗との烏帽子親子関係を重視したのであり、足利高義や長崎氏一門など高時が執権となるまでの期間(1311~1316年)に「高」字を受けたとみられるケースも確認できるので、「高」字が与えられていない理由を考えると、北条氏一門の他の人物が烏帽子親であった可能性も考えるべきである*48。父・頼綱は徳治2(1307)年に興福寺と領土を巡る問題を起こし、同寺の衆徒が強訴する事態にまで発展したため、翌年尾張国流罪となっており*49、近江守護職を継いだ時信自身も六波羅探題に従った活動が多かった。このような経緯から得宗との関係がやや疎遠になっていた可能性も考えられる。

幕府滅亡後の時信は建武政権下で「雑訴決断所」の奉行人に「佐々木備中判官時信」として名を連ねており*50、翌建武2(1335)年には家督および近江守護を幼少の嫡男(のちの氏頼)に譲って出家したらしい*51ので、改名に至らなかったのだろう。

 

京極流でも、氏信の子が綱と名乗り、宗綱の子()、満信の系統(氏)と、幅広く得宗偏諱を受けた形跡がある。氏・氏兄弟の場合、既に時に追随して出家していたので、幕府滅亡後に特に改名する理由も無かったのだろう。高氏こと導誉は幕府滅亡時に天皇方に寝返り、前述の六角時信に降伏を促すとともに、六波羅探題の軍勢を自害に追い詰んだ。この中で隠岐前司清が殉じている(『近江国番場宿蓮華寺過去帳』)

導誉の子は綱、宗、高といい(『尊卑分脈』)、祖先の佐々木義にあやかっての命名とみられる。このうち高秀の系統が「高」を一時的に通字としているが、秀義の子の経高・高綱など、佐々木氏一族で幅広く用いられていたこともあり使い続けることに支障は無かったとみられる。そのような理由からも導誉が俗名を改めることは無かったと思われる。

 

佐々木氏一族では他に塩冶時の偏諱授与者とみられる*52が、1341(興国2/暦応4)年に自害するまで「高貞」を称しており*53改名しなかった。こちらも前述と同じ理由で特に「高」字を使い続けることに支障は無かったと判断される。

 

 

伊東氏

〔表D〕〔表E〕(前回記事) を見ると、元弘の乱の折、上洛した幕府軍の中に「東大和入道一族」が従軍している。この大和入道は「南家 伊東氏藤原姓大系図*54において「大和守」「号慈證入道貞和五年己丑二月廿六日卒八十四」と注記される4代当主・伊東祐に比定される。6代・祐持、7代・祐凞という2人の孫が亡くなる貞和4(1348)年の翌年まで存命し、伊東氏一族をまとめる立場にあったと思われる。逆算すると1266年生まれで、当時の執権・北条時の加冠により元服したと考えて良いだろう。

祐宗の息子(5代当主)は「貞祐」といい、祐祐は得宗(時時)と烏帽子親子関係を結んでいたと考えられるが、貞祐の嫡男・祐持は特に北条高時から一字を受けた形跡は無い。しかし、祐持は幕府滅亡後もその名で中先代の乱では北条時行方に与していたらしく*55、仮に高時の偏諱を受けたとしても改名する理由が考えられない。

当時の通称が「六郎左衛門尉」である*56ことからも、元服して伊東六郎祐持と名乗ったのはそれほど前のことでも無いと思われる。前述の武田政義や小笠原政長に同じく、高時が執権退任・出家をした後の元服であったため、高時の偏諱を受けなかったと推測される。祐宗が亡くなった貞和5(1349)年当時、祐持の嫡子・虎夜叉丸(のちの祐重/氏祐)はまだ幼少であったらしく*57、祐持との年齢差の点では問題ない。

 

 

その他の氏族 

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その他前回記事▲で取り上げたものを中心に、他の氏族についても確認しよう。

 

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前回記事冒頭で紹介した二階堂氏では多くの者が改名したが、『尊卑分脈』を見ると、盛綱の甥(政雄の子)二階堂行(初名雄)の注記に「元弘三五ゝ死」とあり、幕府滅亡と同年に亡くなっている。行宗の甥(盛忠の子)二階堂忠貞の項に「元弘三五八 於江州馬場自害」、行頼流の二階堂行朝の項にも「元弘三五八自害」とあってともに近江番場宿で殉じていることを考えると、行高が同じく幕府滅亡に殉じた可能性もあり得る。行頼の弟・行実流の二階堂実には「遁世法名周琮」と注記されるが、〔史料A〕に登場しないことを考えると「遁世」は幕府滅亡以前だったかもしれない。行高・高実と〔図B〕②盛高以外に「高」を持った人物は全員改名に至っているのである。

 

宇都宮小田小山葛西長井結城といった有力御家人の各氏も幕府軍に属する形で一度後醍醐天皇に刃向かった過去があり、各々の意志で改名に至ったとみられる。特に、宇都宮・小山両氏は得宗とは烏帽子親子関係を結ぶだけでなく、婚姻関係でも繋がりがあった(→ 宇都宮経綱小山時長の項を参照)。

 

高時政権の双璧を成した安達長崎両氏は、安達時顕法名:延明)の2人の息子()や一門の安達をはじめとする一族、および円喜(綱)以下の長崎氏一族が幕府滅亡に殉じている*58

 

1333年5月22日、足利高氏後醍醐天皇方に寝返り、天下の形勢が幕府側に不利であるのを察した大友(近江入道具簡)少弐筑後入道妙恵)島津(上総入道道鑑)は、鎮西探題北条英時を攻めて敗死させた*59。この3名はいずれも得宗時の偏諱を受けていたとみられるが、彼らの息子は高時の偏諱を受けなかったようである。大友氏では一門にまで範囲を広げれば、早世した戸次時を烏帽子親にした例はある*60ものの、安芸に移った毛利氏も「」が「宗―時」と烏帽子親子関係を結んだとみられるが、少なくとも貞親の跡を継いだ親衡(初め親茂)は高時の偏諱を受けていない*61

前述に掲げた、安芸に移った武田氏本家(信宗以降)の例に倣えば、西国に移った御家人得宗との関係が薄れたのかもしれない。

但し、島津氏の場合、貞久の長男・頼久は母親の出自の低さから庶子(庶長子)として扱われ、嫡男に指名された次男の宗久は元亨2(1322)年生まれ*62で、元弘元(1331)年に貞久が出した譲状でも幼名の「生松丸」で書かれている*63ことから、鎌倉幕府滅亡後の元服で高時の偏諱を受けなかったのであろう。祖父・忠宗、父・貞久各々の1字を取って命名されたものと推測される。

 

 

総括

得宗・北条時は、幅広い層に「」の偏諱を与えていた。同時に高時の滅亡後、「高」字を棄てる形での改名を行う御家人も少なくはなかった。但しそれは建武政権が強要したものではなく、各々の意志によって行われていたというのが事実のようで、全ての御家人がそうしたわけではなかった。

改名を行った御家人は概ね、元弘の乱の際に幕府方の主戦力として参加した家柄であったが、そうしなかった家柄については以下の理由が考えられる。

① 幕府滅亡の年までに亡くなった(幕府滅亡に殉じた者含む)か、出家した。

(例)足利高義 安達氏 京極導誉 長崎氏 二階堂高雄 二階堂高実 戸次高貞

② 貞時の偏諱授与者の息子が、元服当時、高時が執権を既に引退していた(または幕府滅亡後に元服)。

(例)小笠原政長 武田政義 千葉氏胤 島津宗久

③ 祖先が使用していた「高」字を改めなかった。

 a.北条氏と同じく桓武平氏より分かれた家柄

  (例)三浦・河越・相馬・大掾・真壁

 b.佐々木氏一族 (例)京極導誉 塩冶高貞

④ 西遷御家人は高時の偏諱を受けていない。

(例)大友 少弐 (島津) 毛利 菊地 阿蘇

 

従って、高時滅亡後の改名事例数(17)は、有力御家人全体に対する割合としてはやや少ない気がするが、上に掲げた理由で改名を行わなかった家柄も少なくなく、有力御家人全体で高時の偏諱を避ける風潮が広まっていたと認められよう。 

  

脚注

*1:永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館、2003年)P.136。

*2:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年))P.193~197。

*3:谷俊彦「鎌倉期足利氏の族的関係について」(所収:前掲田中氏著書)P.147。

*4:同前。

*5:前掲小谷論文(前掲田中氏著書 P.135)、および 吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(同 P.169)。

*6:前掲小谷論文。前掲田中氏著書 P.147。

*7:尊卑分脈』では貞氏の兄として載せ、これが正しければ貞氏に同じく貞時の偏諱を受けた可能性も出てくるが、前掲吉井論文では年代的な問題から、貞義を貞氏の子とする見解を述べられている(前掲田中氏著書 P.169)。

*8:前掲小谷論文。前掲田中氏著書 P.150。

*9:尊卑分脈』での注記に「観応二二十二、於奥州為貞家被討、四十七才」とあり、逆算すると1305年の生まれとなる。

*10:『大日本史料』6-4 P.325。高国は『尊卑分脈』に「上野介」および出家して信元と号した旨の注記があり、国氏の弟として「次郎」を称する息子に直泰の記載がある。直泰は足利直義の加冠で元服したばかりの青年であったと推測される。

*11:『大日本史料』11-22 P.31。前注で示した『尊卑分脈』での注記とも一致する。

*12:同様の傾向は同じく桓武平氏より分かれた河越氏に見られる。〔表D〕の河越三河入道(貞重)六波羅探題に殉じたが、建武政権下の関東廂番の1人に「河越次郎高重」の名が確認できる。高重は貞重の子とされ(→鎌倉時代の河越氏 - Henkipedia参照)、「高」は高時の偏諱に間違いないと思われるが、特に改名した史実は伝わっていない。同史料には相馬高胤の名も見られ、大掾高幹・真壁高幹も同様の理由で改名しなかったものと推測される。

*13:鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.289

*14:太平記』によると、笠置山の戦い(1331年)の際の幕府軍に「三浦介入道」も加わっており(→前回記事〔表F〕参照)、当初は幕府方であった可能性が濃厚である(前注鈴木氏著書、P.288)。

*15:『鎌倉遺文』32810号。

*16:前掲鈴木氏著書、P.302~303。

*17:前注鈴木氏著書、P.305。

*18:太平記』巻十二「安鎮国家法事付諸大将恩賞事」。但し、時継は既に出家した可能性が高く、ここに出てくる「三浦介」は息子の高継と考えるべきであろう。

*19:前掲鈴木氏著書、P.302。前注にある通り天皇の勘気を蒙った「三浦介」=高継であれば、息子への対応に憤ったということになるが、当事者である高継もあくまで足利尊氏に従ったので結果的には後醍醐天皇から離反しており決して矛盾ではない。

*20:『南部文書』所収。『大日本史料』6-1 P.619 に掲載あり。

*21:前注『大日本史料』6-1 P.619では建武元(1334)年とするが、前掲鈴木氏著書、P.304では翌建武2(1335)年と推定されている。後者が正しければ中先代の乱の前月のものということになるし、紹介した『太平記』の記事は建武元年春の出来事(→こちら参照)なので前者(同年6月12日)の考えでも矛盾は起きない。いずれにせよ、中先代の乱で北条氏方に転じた動機に結び付くことは間違いないだろう。

*22:前掲鈴木氏著書、P.304~305。

*23:前掲鈴木氏著書、P.290。典拠は『太平記』巻六「関東大勢上洛事」。

*24:但し、『太平記』巻十によると三浦若狭五郎氏明だけは引き続き幕府に与したらしい(前掲鈴木氏著書、P.292)。 

*25:前掲鈴木氏著書、P.306。

*26:前注同箇所。

*27:太平記』巻十三「中前代蜂起事」および「足利殿東国下向事付時行滅亡事」。『系図纂要』等系図類でもこの説が採用されている。

*28:前掲鈴木氏著書、P.306。典拠は『神奈川県史 資料編』3231号。

*29:前掲鈴木氏著書、P.306。

*30:安田元久編『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)P.389「千葉氏胤」の項(執筆:岡田清一)。

*31:高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)。

*32:前掲高野氏著書、P.29によれば、信政の弟として安芸で生まれた信綱が若狭武田の祖・同国守護と書かれ「若狭三郎」を称したことが『続群書類従』所収「武田系図」に見えるという。『尊卑分脈』に信政の子(信時の末弟)として載せる六郎信綱のことであろうか、恐らく信時弟を祖とする武田氏分家のいずれかに相当すると思われる。

*33:前掲高野氏著書、P.59~62。

*34:前掲高野氏著書、P.66。代々の加冠役(烏帽子親)を記す「甲斐信濃源氏綱要」には、信武の加冠を務めた人物を特に記しておらず、「武」字を持つ御家人も確認できないので、父・信宗の手で加冠・命名が行われたものと考える。

*35:前掲高野氏著書、P.51。

*36:前注に同じ。

*37:『大日本史料』6-2、P.36

*38:前掲高野氏著書、P.57。曽祖父・政綱は五郎信政の子として「五郎三郎」(『吾妻鏡』・『尊卑分脈』)、祖父信家(宗信)も「石禾三郎」を称したらしく(『尊卑分脈』)、「三郎」は政綱流の家督継承者代々の通称であったようである。

*39:尊卑分脈』の政義の傍注に「駿河守」とあり、1336(建武3/延元元)年に「甲州守護武田駿河守」として現れる(『大日本史料』6-2、P.917)のが初出と思われる。駿河守および甲斐守護職となったのは建武年間のことであろう。

*40:前掲高野氏著書、P.72。「甲斐信濃源氏綱要」によれば元亨2(1322)年3月15日の元服で、当時の足利氏家督は貞氏(讃岐入道義観)で間違いない。

*41:田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」(所収:前掲田中氏著書)P.24~25。田中氏は、時宗の代における7代将軍・惟康の源氏賜姓をきっかけに高まった源氏将軍観の中で霜月騒動平禅門の乱が起きたが、その後源氏将軍を擁立する動き(反乱)が抑えられていることから、貞時が何かしらの対策を講じたと説かれている。

*42:甲斐国志』には、武田信武足利尊氏の姪を妻にしたことが「生山系図」に見られると記載される(『甲斐国志』下 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.677(コマ番号340)参照)が、『尊卑分脈』以下の系図類を見る限り、尊氏の兄弟は高義・直義が伝えられるのみ(貞氏に娘がいたことも確認できない)で、もし父が直義であれば「(尊氏の姪ではなく)直義の娘」と書けば良いと思われるので、高義の遺児だった可能性が高い。前掲高野氏著書、P.66では「氏信や信成の生母である二階堂行藤の女のことであろうか」としているが、いずれにせよ足利氏と血縁関係のある女性を妻に迎えたことの信憑性はこの問題に関連して裏付けられるものと思われる。

*43:貞長については『尊卑分脈』に「一男也」とある一方、『寛政重修諸家譜』では貞宗の弟とするが、江戸時代成立の後者より、わざわざ長男であることを記す前者の方を採用すべきだろう。確かに信濃を引き続き本拠としたのは貞宗の系統ではあるが、貞長の子・高長が得宗偏諱を受けていることを踏まえると、本来は貞長の系統が嫡流であったと考えるべきではないかと思われる。通称名で見ても、源二長忠―孫二郎長政―彦二郎長氏―弥二郎宗長―彦二郎貞長と代々「二郎」を名乗っている。すると、貞長の子「二郎六郎」高長の家系が代々「又六」を名乗るようになったのに対し、政長の子・長基の家系が代々「二郎」を名乗るようになっている(『尊卑分脈』)のは、嫡流の地位が移ったことの証左ではないかと推測される。

*44:鈴木由美「御家人得宗被官としての小笠原氏 -鎌倉後期長忠系小笠原氏を題材に-」(所収:『信濃』第64巻第12号 (通巻755号、信濃史学会、2012年12月))脚注24。

*45:小笠原政長・武田政義は同族の関係にあり「政」字が共通するが、これは恐らく偶然で烏帽子親子関係には無かったと判断する。武田政義はあくまで祖先の信政―政綱の1字を使用しただけであり、小笠原政長についても高祖父・長政にあやかって命名されたと考えるのが自然と思われる。

*46:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15・17。頼綱については、北条時頼の邸宅で元服したことが『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条より明らかとなっている。

*47:前注紺戸論文、同箇所。

*48:例えば、霜月騒動で滅んだ安達宗顕は北条時宗偏諱授与者とみられるが、細川重男氏の説によれば、難を逃れた幼き遺児(=安達時顕)はその後政村流北条時村の庇護下にあって元服時に「時」字を受けたとされ(細川「秋田城介安達時顕―得宗外戚家の権威と権力―」(所収:『白山史学』第24号、1988年)P.27。)、時顕の息子、高景・顕高(『尊卑分脈』)の時には再び得宗(高時)の偏諱を受けるようになった。前回記事で改名現象の一例に加えた斯波時家についても同様に検討は必要であろう。

*49:尊卑分脈』に「備中守」と注記され、『武家年代記』裏書・徳治3年条に「□□木〔=佐々木〕備中入道流罪尾張国、依南都訴也、」とある。

*50:『大日本史料』6-1、P.756

*51:佐々木哲氏の説(大夫判官氏頼(入道崇永) 佐々木哲学校/ウェブリブログ)による。

*52:塩冶高貞 - Henkipedia 参照。高時が執権職を辞して出家した嘉暦元(1326)年以来、高貞が出雲国守護の地位にあったらしく(→『朝日日本歴史人物事典』)活動が確認できる。『尊卑分脈』によると系譜は「泰清―頼泰―貞清―高貞」であり、この家系は代々得宗を烏帽子親にしていたとされる(前掲紺戸論文、P.15・21)。

*53:大日本史料』6-6 P.6946-8 P.7

*54:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.65~89)。

*55:『大日本史料』6-11 P.610(典拠は『日向記』巻第二「祐持属将軍方事」)。

*56:祐持の史料上における初見は、前回記事〔史料A〕(1334年) の「伊東重左衛門尉祐持」と思われる。

*57:『大日本史料』6-11 P.618、および前掲「南家 伊東氏藤原姓大系図」。

*58:太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」では摂津道準(親鑑)、諏訪直性(宗経)長崎円喜・高重・新右衛門、北条高時に続く自害者の中に「城加賀前司師顕〔高茂の父師景の誤記か〕・秋田城介師時系図上で該当人物なし、師顕のことか〕・城越前守有時」(師顕・師景については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「基礎表」P.66による)、「城介高量〔ママ〕・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明」や「長崎三郎左衛門入道思元(『系図纂要』では俗名「高光」とする)」も含まれている。高時の偏諱授与者では他に「相摸右馬助高基(普音寺流北条高基)」「陸奥式部太輔高朝大仏流北条高直の子)」「摂津宮内大輔高親(道準の子)」も殉死している。

*59:『大日本史料』6-1、P.7

*60:続群書類従』所収 「大友系図」に「太郎高時賜一字早世」、同 「立花系図」に「北條相模守高時爲烏帽子親。授一字ト云々。」、『入江文書』(『大分県史料10』所収)の「大友田原系図」に「相模守高時加元服」とある。詳しくは 戸次高貞 - Henkipedia を参照のこと。

*61:対して、時親の兄の系統(越後毛利氏)は「基親(初め基頼)―時元―経高」と続き、得宗と烏帽子親子関係を結んでいた可能性がある。

*62:『大日本史料』6-6 P.2627

*63:『史料稿本』元弘元年八月 P.15 参照。

【論稿】北条高時滅亡後の改名現象

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▲前回記事では、江戸幕府滅亡後の改名事例を取り扱った。

本項では、鎌倉幕府滅亡後の改名現象について紹介する。  

 

[目次] 

 

はじめに ―二階堂氏の改名現象を例に―

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次の史料は、こちら▲の記事において「河越高重」の初見史料として紹介した関東廂番の定書である。 

〔史料A〕建武元年正月付「関東廂番定書写」(*)

定廂結番事、次第不同、

  番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕

 刑部大輔義季(1)        長井大膳権大夫廣秀 

 左京亮           仁木四郎義長

 武田孫五郎時風       河越次郎

丹後次郎時景

 

二番

 ( 略 )

丹後三郎左衛門尉盛   三河四郎左衛門尉行冬

 

三番

 ( 略 )

山城左衛門大夫     前隼人正致顕(2)

 相馬小次郎

 

四番

 ( 略 )

 小野寺遠江権守道親    因幡三郎左衛門尉

 遠江七郎左衛門尉時長

 

五番

 丹波左近将監範家(3)    尾張守長藤

 伊東重左衛門尉祐持(4)    後藤壱岐五郎左衛門尉(5)

美作次郎左衛門尉   丹後四郎政衡

 

六番

 中務大輔満儀(6)       蔵人伊豆守重能(7)

下野判官        高太郎左衛門尉師顕(8)

 加藤左衛門尉        下総四郎(※高家とも) 

〔史料A〕補注

(*)元弘4/建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)。『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423。

(1) 渋川義季。

(2) 摂津致顕。

(3) 足利氏一門で『尊卑分脈』に「左将監」と注記される石塔範家か。

(4) のちに足利尊氏偏諱を受け「氏祐」に改名した祐重の父。

(5) 壱岐守基雄の子か。実名不詳。

(6) 吉良満義か。『尊卑分脈』に「中務大輔」と注記される。

(7) 上杉重能。『尊卑分脈』に「五蔵(=五位蔵人)院昇殿 従五上 伊豆守」と注記される。

(8) 高師秋か。

 

この史料に書かれる人名に着目すると「」の字をもった人物が多く見られ、その大半が二階堂氏である。彼らの名前を系図上で追っていくと次のようになる。

 

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上に示した通り、『尊卑分脈』の系図上で彼らの名前のほとんどが確認できるが、その約半数が最終的に改名を行っていることに気付く。しかも、その全員が等しく「」の字を棄てているのである。この「」の字は最後の得宗となった北条鎌倉幕府第14代執権)からの偏諱と考えられる。

さて、高時の偏諱を棄てて改名したのは何故であろうか。その前にこのような傾向はひとり二階堂氏のみのものであるのか、他の事例を確認しておきたい。

 

 

高時滅亡後の改名現象 

管見の限り、鎌倉幕府滅亡後に北条時からの偏諱とみられる「」を改めた者は、以下の如く、十数名に及ぶと思われる。各々改名時期などを確認しておきたい。

 

〔表C〕鎌倉幕府滅亡後の改名事例・一覧表

No. 初名 改名後 由来  典拠

足利

尊氏 後醍醐天皇(尊治)より一字拝領 (1) 尊卑分脈』・『公卿補任』ほか (2)

足利

忠義のち直義 不詳 (初名は北条高時と祖先源義国の各々1字) 尊卑分脈』・『公卿補任』ほか (3)

足利

(斯波) 家兼 祖先の足利義兼(『尊卑分脈』) 尊卑分脈』・『大日本史料』 (4)

宇都宮

公綱 不詳 (朝綱の猶子・公重の1字を選択?) 尊卑分脈』・古文書 (5)
宇都宮 公貞のち綱世 「公」字使用は兄に同じか、のち宇都宮氏通字を使用 尊卑分脈』・『鎌倉年代記』裏書・古文書 (6)
宇都宮 冬綱のち守綱 祖先・藤原冬嗣(『尊卑分脈』)の1字と宇都宮氏通字により構成か。但し足利直冬にも通ずるためのちに改名。 尊卑分脈』・古文書 (7)
小田 治久 後醍醐天皇(尊治)より一字拝領 (8) 尊卑分脈』ほか (9)
小山 秀朝 祖先の藤原秀郷(『尊卑分脈』)(10) 『元弘日記』裏書、小山氏系図ほか (11)
葛西 良清 祖先の平良文 (※推測) (12)
又は重清 祖先の葛西清重
千葉 一胤 一男(千葉介貞胤の長男)故の名乗りか? 千葉大系図』 (13)
長井 挙冬 祖先の大江挙周(『尊卑分脈』) 鎌倉年代記』裏書・『常楽記』ほか (14)
長井

広秀

頼秀

祖先の大江広元・長井時広(『尊卑分脈』)

(※推測) (15)
二階堂 行清

二階堂氏通字「行」の使用

祖先・藤原清夏の1字を使用か

尊卑分脈』・前掲〔史料A〕
二階堂 行春 二階堂氏通字「行」の使用 尊卑分脈』・前掲〔史料A〕
二階堂 行直 二階堂氏通字「行」の使用 (16) 尊卑分脈』・前掲〔史料A〕・古文書 (17)
二階堂 行光 二階堂氏通字「行」の使用、六世の祖と同名(前掲〔図B〕参照) (※推測) (18)
二階堂 行広 二階堂氏通字「行」の使用 尊卑分脈』・前掲〔史料A〕ほか (19)
結城朝 朝祐 不詳 (曽祖父の弟・祐広の1字を選択?) 結城氏系図・古文書など (20)
〔表C〕補注 

(1) 『太平記』巻第13「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是ノミナラズ、忝モ天子ノ御諱ノ字ヲ被下テ、高氏ト名ノラレケル高ノ字ヲ改メテ、尊ノ字ニゾ被成ケル。」とあり、これが尊氏の改名の理由として伝えられていったようである。水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.63。

(2) 『尊卑分脉 三』P.252の尊氏の傍注に「本名高氏」とあり、その名前の表記は後掲〔表F〕・〔史料G〕・〔史料H〕など当時の多数の史料で確認できるほか、『公卿補任』にも1333(元弘3/正慶2)年8月5日、従三位に昇叙し武蔵守への兼任が決まった際に、「高」の字を「尊」に改めたことが見える。以下、『尊卑分脉』『公卿補任』はともに吉川弘文館より刊行の新訂増補国史大系本に拠ったものとし、『尊卑分脉』中の漢数字は篇の番号を表すものとする。

(3) 『尊卑分脉 三』P.253の直義の傍注に「本名高国」とあり、公卿補任』康永3年条には「源直義、本名忠―、錦小路殿、号大休院、故入道讃岐守貞氏二男〔ママ、亡き長兄・高義を抜かしているか〕…(以下略)」と記載されており(『大日本史料』6-1 P.100)、初め高時の偏諱を受けて「高国」、のち元弘3(1333=正慶2)年10月10日までに「忠義」→「直義」の順に改めたと解釈されている(森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015年)P.27)。『鎌倉遺文』での初見は、(1333年?)12月3日付「足利直義御教書」(第42巻・32748号、『祇園社記続録二』)、翌元弘4(1334)年2月5日付「足利直義御教書」(第42巻・32846号、『上杉文書』)。後者は『大日本古文書 上杉家文書之一』にも収められており、「直義」の署名と「義」字を模した花押も見られる。

(4) 詳しくは 斯波家兼 - Henkipedia を参照。尚「時」字については北条氏の通字であり、北条氏一門の他の者から与えられた可能性も否定は出来ず、直ちに高時からの偏諱とは判断しづらいが、幕府滅亡後に「時」を「兼」に改めていることから同様の事例として扱った。

(5) 各系図類を見ると、公綱の傍注に「本高綱」(『尊卑分脈』)、「元高綱」(『諸家系図纂』)、「始高綱」(『下野風土記』上)と書かれている他、『正宗寺蔵書』の系図では同じく貞綱の子で氏綱の父を「高綱(兵部大輔〔ママ〕 備前守 理蓮)と載せている(以上『大日本史料』6-20、P.883~885に拠る)。管見の限り「(宇都宮)高綱」の名が確認できる史料は見つかっていないと思われるが、次注で示す通り、弟が初め「高貞」を名乗ったことは確認できるので、兄である公綱も初め「高綱」を名乗った可能性は高いだろう。建武元(1334)年8月「(八番制)雑訴決断所結番交名」の一番に「宇津宮兵部少輔 公綱」とある(『大日本史料』6-1 P.753『高根沢町史 通史編Ⅰ』P.403)のが確認でき、これが改名後の初見と思われるので、鎌倉幕府滅亡後まもなく改名したものと判断される。

(6) 『尊卑分脉 一』P.362の高貞の傍注に「兵庫助 弾正少弼 五郎 改公貞 又改綱世」とある。『鎌倉年代記』裏書、1327(嘉暦2)年条に「宇都宮五郎高貞」の記載が確認でき、鎌倉幕府滅亡前は「高貞」を称していた。一方で『有造館結城古文書写』には、1339(延元4/暦応2)年4月12日、南朝方の春日中将顕国に攻められ、「兵庫助綱世子息金□□」(欠字あり)が討ち取られたことを伝える書状が残っており、その直後にも「彼綱世妻舎弟御房丸」と書かれていて(『大日本史料』6-5 P.480)、最終的に「綱世」に改名したことが確認できる。

(7) 『尊卑分脉 一』P.361の高房の傍注に「改冬綱 次改守綱」と記載されている。このことが古文書で確かめられることは、山口隼正『南北朝期 九州守護の研究』(文献出版、1989年)に詳しく、以下これに従って述べる。鎌倉幕府滅亡時にあたる元弘3(1333)年5月の段階では「高房」を称していた(『田口文書』)が、翌建武元(1334)年10月の段階で「冬綱」の名が確認できる(『大悲王院文書』)。山口氏が述べられるように、「高」が北条高時に通じていたが故の改名であったとみられる。恐らく高房は高時の烏帽子子であったであろう。観応の擾乱を経た文和3(1354)年9月には「守綱」の名が確認できる(『宇都宮文書』)。擾乱期の冬綱はほぼ一貫して足利直冬党として活動しており、山口氏は「冬」が直冬に通じていたと述べられているが、直冬の元服前に「冬綱」を名乗っているようなので、直冬から与えられた可能性は低いということに注意しなくてはならない。

(8) 『常陸誌料』五・小田氏譜上に、「治久、初名高知、後醍醐天皇偏諱、因更治久、歴尾張権守、宮内権少輔、…(略)…自延元元(1336)年至興国二(1341)年、…(略)…賜御諱、皆在此時也、…(以下略)」とある(『大日本史料』6-17 P.294)。

(9) 建武4(1337)年3月日付「伊賀盛光軍忠状」(『飯野八幡社古文書』、『大日本史料』6-4 P.93)の冒頭に「右為討伐当国凶徒小田宮内権少輔治久以下輩、…(以下略)」、同年11月日付「烟田時幹軍忠状案」(京都大学総合博物館所蔵『烟田文書』、翻刻は『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)766号、『鉾田町史 中世資料編』「烟田史料」に収録されている)の文中にも「小田宮内権少輔治久以下凶徒等成一手、」とあり、管見の限り遅くともこの段階では既に「治久」に改名していたことが分かる。『尊卑分脉 一』P.368の小田氏系図で見ると、小田高知の傍注に「宮内権少輔 尾張権守」とあり、『鎌倉年代記』嘉暦2(1327)年条に「小田尾張権守高知」とあるのが確認できるので、初め「高知」と名乗り、のち建武4/延元2年までに宮内権少輔となって「治久」に改名していたことが分かる。前注に掲げた『常陸誌料』の記述の内容とも合致する。

(10) 秀朝の嫡子・朝氏も、『常楽記』貞和2(1346)年条に「四月十三日 小山判官朝里他界」とあるのが最終的な名乗りと確認できる。「ともさと」という読みの共通から『尊卑分脈』に掲載の「朝郷」が正確な表記と思われ、やはり藤原秀郷を意識した可能性は高い。秀朝・朝氏父子については、松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)に詳しい。

(11) 小山秀朝 - Henkipedia 、松本一夫『下野小山氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻〉(戎光祥出版、2012年)P.335 参照。松本氏も同書P.13にて歴代当主が得宗から一字を拝領したことに言及されている。『太平記』などで中先代の乱の折に北条氏の攻撃を受けて小山秀朝が自害したことが伝えられるが、『元弘日記』裏書では「(藤原)高朝」と書かれている(元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム・5ページ目)。

(12) 葛西氏の初代が清重、その祖先を平良文とするのは、複数伝わる葛西氏系図で共通する。『龍源寺葛西氏過去帳』では良清が貞治4(1365)年4月7日に亡くなったとするが、『高野山五大院葛西氏系図』では高清の命日を貞治4年4月17日と、ほぼ同じ時期の死去として伝える。同年で日付が類似するところからすると、同一人物である可能性も否めない。また、「奥州寺池葛西系図」では高清=重清とするらしく、(正確な系譜はさておき)葛西高清が北条高時からの偏諱「高」を棄てて祖先の1字に改めた可能性は高いだろう。

(13) 『千葉大系図』では貞胤の子(氏胤の兄)一胤(かずたね)の別名として高胤とも載せており(『大日本史料』6-2 P.1015)、当初高時の偏諱を受けた「高胤」をのちに「一胤」に改めたものと解釈されている(http://chibasi.net/souke17.htm)。史料上では建武3(1336)年正月16日、千葉一胤とみられる「千葉新介」が南朝方の新田義貞軍に属し、足利尊氏方の細川定禅と合戦に及んで戦死したと伝えられる(『大日本史料』6-2 P.999)。

ちなみに、同系図をはじめとする各種系図類によれば、千葉氏は頼胤以降、千田氏(のちの九州千葉氏流、宗胤―胤貞―高胤)と、千葉介流(胤宗―貞胤―一胤)の2系統に分かれており、「神代本 千葉系図」では胤貞の子にも同名の小太郎高胤(高胤の兄に小太郎胤高を載せるが重複同人か)を載せる(『大日本史料』6-3 P.896)が、これについては史料上で実在が確認されている(詳細は千葉高胤 - Henkipediaを参照)。

(14) 小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.719、紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.16、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「基礎表」No.137「長井挙冬」の項でご指摘のように、『常楽記』貞和3(1347)年条に「三月廿四日 長井右馬助擧冬他界三十四」とあるのに対し、『鎌倉年代記』裏書・元徳3 (1331=元弘元)年条に「長井右馬助高冬」(後掲〔史料G〕参照)、同じ内容を載せる『花園天皇宸記』同年11月26日条にも「高冬」の名が見えることから、挙冬が当初北条高時偏諱を受けて「高冬」と名乗っていたことは明らかである。『東大寺文書』所収の正慶年間(1332~33年)の文書2通にも「備前二郎高冬」「右馬助高冬」の記載が確認でき(前掲小泉論文P.719)、幕府滅亡後の改名は間違いないだろう。『尊卑分脉 四』P.94を見ると大江匡衡の子・挙周に「タカチカ」とルビが振ってあり、「高」と同じ読みの「挙」を選択したようである。

(15) 長井高秀については、金沢貞顕の書状により実在が確認できる(前掲小泉論文P.720、および前掲細川「基礎表」No.138「長井高秀」の項を参照)が、系図上では確認できない。細川氏は高秀を長井関東評定衆家の人物と推測されているが、この家系は代々得宗偏諱を受けており、『尊卑分脉』以下の系図類では、貞秀の子に貞懐・広秀・挙冬…と載せるが、貞懐は父同様に北条貞時偏諱を受けた可能性があり、前注で述べたように挙冬も当初は北条高時偏諱により高冬を称していたということを考えると、広秀も北条氏を烏帽子親とした可能性も否めない(例えば時秀の子は兄の宗秀が時宗、弟の貞広が貞時の1字を受けている)。「広秀」の名が鎌倉時代に全く確認できないことから、貞顕書状の「高秀」が広秀の初名であった可能性を考えたい。管見の限り「広秀」の初見は建武元(1334)年と思われる(『鎌倉大日記』同年条、『鎌倉遺文』42巻・32865号、前掲〔史料A〕)。

或いは、延元元(1336=建武3)年4月に作成された武者所の結番交名(『建武記』)には「長井大膳権大夫広秀」とは別に「長井前治部少輔頼秀」の記載があり(『大日本史料』6-3、P.332)、通称名と年代の近さからこちらの可能性もあり得るが、いずれにせよ高秀は幕府滅亡後「高」字を棄てて改名したのではないかと思われる。

(16) 勝手な推測になるが「直」の字は、足利直義あるいは高師直に関係があるのかもしれない。『鎌倉大日記』康安元(1361)年条に掲載のある山城宮内氏貞は山城守行直の子(細川重男「政所執事二階堂氏の家系」(所収:鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』〈鎌倉遺文研究2〉、東京堂出版、1999年)内 二階堂氏系図)で、恐らく足利氏(足利尊氏)からの受諱であろう。

(17) 『鎌倉大日記』暦応2(1339)年条、『武家年代記』興国元/暦応3(1340)年条。実際の古文書でも暦応4(1341)年以降に「行直」または「山城守」名義で書状を発給していることが確認できる(東京大学史料編纂所編『花押かがみ六・南北朝時代二』(吉川弘文館、2004年)P.8、No.3434「二階堂行直」の項)。

(18) 筆者は、『尊卑分脉 二』P.506に、貞衡の子(行直の弟)として載せる高行と、高貞の子として載せる行元を同一人物と推定する。行元の傍注には「実貞衡子」とあり、高行と同じく通称を「三郎」とする。また、高行の傍注「康永天竜供養随兵」は前本と閣本では行元の項に、行元の通称「山城三郎左衛門」の「山城」は脇本では高行の項にある(すなわち高行の通称を山城三郎とする)らしく、互いに混同してしまっていることがかえってその裏付けになるのではなかろうか。兄・高衡(行直)が改名するなら、弟である高行も改名する可能性は十分に高く、高行は叔父・高貞(改め行広)の養子となり、行元に改名したと推測する。但し、改名後の諱については実は「行元」ではなく「行光」が正しい。このことは『鎌倉大日記』観応2(1351)年条のほか、「康永天竜供養随兵」のことを伝える次の史料に拠っても裏付けられる。『南北朝遺文 関東編第三巻』(東京堂出版)1581号に「山城三郎左衛門尉行光」、1382・1585号に「山城三郎左衛門尉」、1583・1584・1586号に「二階堂山城三郎左衛門尉」とあるほか、『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事付大佛供養ノ事」の文中にも「二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光」とある。

(19) 『尊卑分脉 二』P.506によれば、前本・閣本・脇本では「改行廣」の注記が高貞の弟・顕行の項にあるらしいが、顕行の子が「顕」字を受け継いで「顕親」を称していることからも、顕行が「顕」字を改めなければならない程の理由があったとは考えられず、「行廣(行広)」は高貞改名後の諱で良いと思われる。『朽木文書』建武元(1334)年9月27日付の書状中に「二階堂信濃三郎左衛門行廣」の名が確認でき(『大日本史料』6-1 P.914)、信濃守行貞の子で「三郎左衛門」を称した高貞(『尊卑分脈』同前箇所)が〔史料A〕からの9ヶ月の間に改名したことは確実である。

一方で顕行は、陸奥守 兼 鎮守府大将軍・北畠顕家のもとで建武元年に定められた奥州 式評定衆の一人に「山城左衛門大夫顕行」として実在が確認でき(『建武記』・『武家名目抄』:『大日本史料』6-1 P.413415)、『尊卑分脈』同前箇所では通称「四郎左衛門尉」とする。式評定衆は顕家とともに陸奥国へ下向したメンバーで構成されており、二階堂顕行も行貞(1329年没)の晩年期に生まれた息子で、「顕」は元服時に顕家から偏諱を受けたものではないかと思われる(→ 相馬氏惣領 相馬重胤 より)。

(20) 『結城小峯文書』所収「結城系図」と『真壁長岡文書』により、朝祐が幕府滅亡前の元徳年間(1329-1332年)の段階で「朝高」を名乗っていたことが判明している(結城朝祐 - Wikipedia参照)。尚、改名後の「朝祐」は『尊卑分脈』に見えるだけでなく、多々良浜合戦で討死した翌年の延元2(1337)年3月16日付で後醍醐天皇から白河結城宗広への綸旨(『伊勢結城文書』)に「下総国結城郡朝祐跡」、同年8月22日付陸奥国宣案(同前)に「結城郡内上方者、為朝祐跡、先立拝領之、」とあるのが確認できる(荒川善夫「鎌倉期下総結城一族の所領考」、荒川氏編著『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉(戎光祥出版、2012年)P.13・53・62)。(14)(15)に同じく、『尊卑分脉』編纂時に朝祐が「朝高」を名乗っていた事実を残そうとしなかったのかもしれない。 

 

 

まとめると、改名時期は人によって多少のずれはあるものの、ほとんどの者が鎌倉幕府の滅亡を境に名前を変えていることが分かった。いずれも「」字を改めており、北条時から拝領していたことは間違いないだろう。また、その大半は改名後の字を先祖の名から選択していることも窺える。

 

河越重、斯波(前掲〔表C〕③の兄)などのように、幕府滅亡後も「」の字を改めない者がいたことを考えると、建武政権としては特にこれを重視したわけでは無かったようである。『元弘日記』裏書で小山秀朝が「高朝」と書かれている(前掲〔表C〕注(11)ことは、改名したことが一部に知られていなかった証左であろうし、〔史料A〕での二階堂氏を見れば、改名が特に急務であったとは思えない。あくまで改名は各々個人の判断・意志で行われたと考えるべきである。次項ではその理由について考察してみたい。

 

 

改名の理由についての考察

 

〔表D〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)

楠木城 
一手東 自宇治至于大和道
  陸奥守        河越参河入道(貞重)
  小山判官(⑧)    佐々木近江入道
  佐々木備中前司    千葉太郎(胤貞)
  武田三郎       小笠原彦五郎
  諏訪祝       高坂出羽権守
  島津上総入道    長崎四郎左衛門尉
  大和弥六左衛門尉   安保左衛門入道
  加地左衛門入道   吉野執行
   
   一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助     駿河八郎
  千葉介(貞胤=⑩の父)   長沼駿河権守
  小田人々(⑦?)    佐々木源太左衛門尉
  伊東大和入道     宇佐美摂津前司
  薩摩常陸前司     □野二郎左衛門尉
  湯浅人々       和泉国軍勢
   
一手南西 自山崎至天王寺大
  江馬越前入道   遠江前司
  武田伊豆守   三浦若狭判官
  渋谷遠江権守   狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道   信濃国軍勢
   
一手 伊賀路
  足利治部大夫(①)

  結城七郎左衛門尉(⑱

  加藤丹後入道   加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道   美濃軍勢
  尾張軍勢  
   
同十五日
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

 

〔表E〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)

大将軍
  陸奥遠江国   武蔵右馬助伊勢国
  遠江尾張国   武蔵左近大夫将監美濃国
  駿河左近大夫将監讃岐国   足利宮内大輔三河国
  足利上総三郎   千葉介(貞胤)一族(⑩)伊賀国 
  長沼越前権守淡路国   宇都宮三河権守伊予国
  佐々木源太左衛門尉備前国   小笠原五郎阿波国
  越衆御手信濃国   小山大夫判官(⑧)一族
  小田尾張権守(⑦)一族   結城七郎左衛門尉(⑱)一族
  武田三郎一族并甲斐国   小笠原信濃入道一族
  伊東大和入道一族   宇佐美摂津前司一族
  薩摩常陸前司一族   安保左衛門入道一族
  渋谷遠江権守一族   河越参河入道一族
  三浦若狭判官   高坂出羽権守
  佐々木隠岐前司一族   同備中前司
  千葉太郎(胤貞)  
     
勢多橋警護
  佐々木近江前司   同佐渡大夫判官入道

 

(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。丸数字は〔表C〕と対応する。)  

 

〔表F〕元弘の乱笠置山の戦い、1331年)における幕府軍のメンバー太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」により作成

大将軍 大仏陸奥守貞直 大仏遠江 普恩寺相摸守基時 塩田越前守 桜田参河守
赤橋尾張 江馬越前守 糸田左馬頭 印具兵庫助 佐介上総介
名越右馬助 金沢右馬助 遠江左近大夫将監治時 足利治部大輔高氏(①)  
侍大将 長崎四郎左衛門尉        
三浦介入道 武田甲斐次郎左衛門尉 椎名孫八入道 結城上野入道 小山出羽入道
氏家美作守 佐竹上総入道 長沼四郎左衛門入道 土屋安芸権守 那須加賀権守
梶原上野太郎左衛門尉 岩城次郎入道 佐野安房弥太郎 木村次郎左衛門尉 相馬右衛門次郎
南部三郎次郎 毛利丹後前司 那波左近太夫将監 一宮善民部太夫 土肥佐渡前司
宇都宮安芸前司 宇都宮肥後権守 葛西三郎兵衛尉(⑨?) 寒河弥四郎 上野七郎三郎
大内山城前司 長井治部少輔(⑫) 長井備前太郎(注1) 長井因幡民部大輔入道 筑後前司
下総入道 山城左衛門大夫(⑰?) 宇都宮美濃入道 岩崎弾正左衛門尉 高久孫三郎
高久彦三郎 伊達入道 田村刑部大輔入道 入江蒲原一族 横山猪俣両党

(*表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借。丸数字は〔表C〕と対応する。) 

 

 以上D・E・Fの各表については、同内容を伝える以下2つの史料によって信憑性が裏付けられる。

〔史料G〕『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』より)

今年元徳、…(中略)…八月…(略)…廿四日、主上竊出鳳闕、令寵笠置城給、仍九月二日、任承久例、可上洛之由被仰渡出、同五六七日、面々進発、大将軍、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、①足利治部大輔高氏、御内御使長崎四郎左衛門尉高貞、開東両使秋田城介高景出羽入道道蘊、此両使者践祚立坊事云々、此外諸國御家人上洛、圖合廿万八千騎、九月廿日、東宮受禅、同廿八日、笠置城破訖、先帝歩儀令出城給、於路次奉迎、十月三日遷幸六波羅南方、同日、於楠木城第一宮尊良親王奉虜、同廿一日、楠木落城訖、但楠木兵衛尉落行云々、十一月、討手人々幷両使下著、同月、⑪長井右馬助高冬信濃入道々大、為使節上洛、為京方輩事沙汰也、同八日、以前坊邦良、第一宮康仁親王東宮、…(以下略)

 

〔史料H〕『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』より)

元徳三年元弘元年

九月上旬、為対治山徒等、被差上陸奥守貞直、①足利治部大輔高氏以下之軍勢、其後先帝御座于笠置城云々、

 

改名の理由については、⑪長井高冬がかつて後醍醐天皇配流問題に直接関与した(注2)ことを憚って「挙冬」と改名したとする小泉宜右氏の見解(注3)が参考になると思われる。鎌倉時代の二階堂氏は北条氏を支えることによって政所の実質的責任者という立場を確保することができていたといわれ(注4)、上に掲げた D・E・F の3つの表を見ると、足利・宇都宮・小田・小山・葛西・長井・二階堂・結城の全氏族(注5)が元弘元(1331)年の笠置山攻めに際して幕府軍の主戦力として参加していたことが窺える。仕える幕府への忠誠を示していたとは言え、後醍醐天皇に一度刃向かったわけである。

従って、長井高冬のみならず、他の人物も朝敵・北条高時(注6)偏諱を棄てることで後醍醐天皇への恭順の意志を示したものと推測される。特に高冬(挙冬)と、①足利尊氏は「高」と同じ読みを持つ字に改めただけであり、目的としてはただ高時からの1字を棄てるだけで良かったのである(注7)。 

 

補注

(注1)掲〔表C〕補注(14)  に示した通り、長井高冬が右馬助となる前の通称は「備前二郎」であった。父が備前守で、その二郎(次男)を表す通称名である。すると、この「備前太郎」は高冬の実兄であった可能性があるが、実名は確かめられない。尚、徳治3(1308)年の死去とされる貞秀の官途は六位蔵人→中務大輔→兵庫頭(同注(14)前掲 細川氏著書巻末「基礎表」No.136「長井貞秀」の項)であり、元々正和3(1314)年生まれの高冬(同注(14)前掲『常楽記』より)との系図上での父子関係にも疑問がある。これについては別稿で論じたい。或いは『太平記』が軍記物語であることを考慮すれば、"備前二郎"高冬本人を指す可能性もあり得る。

(注2)同前注(14)で紹介した『鎌倉年代記』裏書(=前掲〔史料G〕)・『花園天皇宸記』の記事では「長井右馬助高冬」が「信濃道道大」(=太田(三善)時連)とともに鎌倉幕府使節(東使)として上洛し、花園天皇に対して後醍醐天皇および挙兵に与した公卿・僧徒の処分を申請した(永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.138)ことを伝える。

(注3)同前注(14)前掲小泉論文、P.719。

(注4)山本みなみ「鎌倉幕府における政所執事」(所収:『紫苑』第10号、京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール、2012年)P.20。

(注5)嫡流に限らず、一門からの参加も含む場合。

(注6)太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によれば、新田義貞方の武将・舟田入道に捕らえられた「相摸入道(高時)の嫡子相摸太郎邦時」は「未だ幼稚の身」ではあったものの、「朝敵の長男」たる故に首を刎ねられたという。以後、邦時の弟・時行が後醍醐天皇接触し恩赦を受ける(『太平記』巻19「相摸次郎時行勅免事」)までは「朝敵」扱いであった。

(注7)足利尊氏 と ⑦小田治久 は後醍醐天皇(尊治)からの名誉的な一字拝領という形での改名であり、他の者と若干意味合いが異なって "勲章" とも解釈し得るが、前述に掲げた経緯から、元々彼らには高時の偏諱を避けたい意志があったのだろう。恐らく自発的に天皇に願い出たものと思われる。特に尊氏は幕府滅亡からわずか3ヶ月ほどでの改名であり、「高」が天皇偏諱「尊」と同音である偶然も相まって、急ぎ申請したものと推測される(〔表C〕補注(1)前掲水野氏著書、P.65)。

 

 

 

▼こちらの記事に続く 

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【コラム】明治維新期の改名現象

今年2018年(本項執筆当時)で、明治新政府が出来てから150年が経ちました。

 

江戸時代には、主に外様大名が徳川将軍に拝謁し、その偏諱を賜るということが慣例的に行われていましたが、江戸幕府滅亡後、それを改める者もいました。

まとめると以下の通りで、いずれも明治維新期に入ってからの改名でした。

 

改名前 改名後
安芸広島 浅野 長訓
浅野 長勲
筑後久留米 有馬 頼咸
筑前福岡 黒田 長溥
黒田 長知
薩摩 島津 忠義
肥前佐賀 鍋島 直正
鍋島 直大
肥後熊本 細川 韶邦
細川 護久
※長州 毛利 敬親
毛利 広封→元徳

長州藩主は、禁門の変1864年)により徳川将軍からの偏諱を剥奪されたが故の改名である。

〈徳川将軍〉 ⑪家 ⑫家 ⑬家 ⑭家 ⑮慶

 

 

斯波家兼

斯波 家兼(しば いえかね、1308年~1356年6月13日)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

 

活動の詳細については

斯波家兼 - Wikipedia

を参照。本項では名乗りに関する考察を述べたいと思う。

 

 

改名の時期と理由

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斯波高経 の弟。初名は時家(ときいえ)。足利時家、足利家兼とも。

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延文元(1356=正平11)年6月13日に49歳(数え年)で亡くなったと伝わり、逆算すると徳治3(1308)年生まれとなる。

*以上『尊卑分脈』〈国史大系本〉より。

 

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建武3(1336)年8月17日の段階では、官職は式部丞*1で「時家」を名乗っていたことが確認される(【史料B】)が、翌建武4(1337)年には伊予守、更に建武5(1338)年5月11日までに「家兼」に改名していたことが分かる(【史料C】)。

 

清和源氏・足利氏略系図(『尊卑分脈』〈国史大系本〉より作成) 

源経基―満仲―頼信―頼義―義家―義国―足利義康―義兼―

―義氏―泰氏―家氏―宗家―家貞―時家(家兼)

斯波氏は、足利泰氏の長男・家氏を祖とする家柄で、恐らく源義家に由来すると思われる「」を通字としていた。 改名後の「」の字は足利義兼から取ったものであろう。兄・高経の名乗りも源経基にあやかったものとみられ、この時期は祖先に名前の字を求めることは珍しくなかった。

さて、冒頭に掲げた過去記事において、家氏の系統(家―家経)が代々、北条氏得宗家(時時―時)の偏諱を受けていたことを指摘した。

高経の弟・家の名乗りも、通字の「家」に対して「」が烏帽子親からの偏諱と推測され、これを通字とする北条氏から賜ったものではないかと推測される。恐らく元服当時の執権であった高からの一字であろう。鎌倉幕府滅亡から数年経ってからの改名ではあるが「時」字を棄てた背景には、北条氏との関係を断ち切る意図があったものと思われる*2

 

 

備考 

斯波家兼の子としては、以下の数名が伝わっている。

●直持 ― 足利直義より一字拝領か*3。大崎氏祖。

●兼頼 ―「頼」は源頼信・頼義に由来か。最上氏祖。

●頼持 ― 孫三郎(『尊卑分脈』)

●義宗 ― 従五位下。左近将監。又三郎。(『尊卑分脈』。天童氏の系図によれば、同じく『尊卑分脈』の里見氏系図に、里見義直の玄孫・義景の息子として載せる義宗と同一人物で、斯波氏から里見氏分家へ養子入りしたようである。)

・持義

・将頼 ― 従兄・斯波義将より一字拝領か。

 

 

脚注 

*1:式部省の第三等官である丞(じょう、本来六位相当)で、五位に叙された者は「式部大夫」と呼ばれた。

*2:あるいは、母方の祖父・長井時秀から与えられた(もしくは取った)とも考えられなくはないが、時秀自身が北条氏(恐らく時頼)から受けており、幕府滅亡後の改名であることからも北条氏を意識した可能性は否定できない。

*3:『日本人名大辞典』では「直持」を「ただもち」と読んでおり(→ 斯波直持(しば ただもち)とは - コトバンク)、元服適齢期の1337年頃に鎌倉府執権の座にあった、直義との関係が窺える。

斯波高経

斯波 高経(しば たかつね、1305年~1367年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将にかけての武将、守護大名足利高経(あしかが ー)とも。

 

続群書類従』所収「山野辺(山野邊)系図*1の高経の注記に「貞治六年七月十三日卒。年六十三。」とあり、1367年に63歳(数え年)で亡くなったことが記されているが、このことは、次の画像で示す、中原師守の日記『師守記』*2の記載によって裏付けられる。

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従って、逆算すると嘉元3(1305)年生まれとなる*3

 

尊卑分脈』等の系図類によると、足利泰氏の長男・家氏の系統は、*4―家*5経と続き、各々得宗(北条時時―時)から偏諱を受けた形跡がある。経も前述の生年に基づけば、1314~1319年あたりの元服と推測でき*6、当時の執権・北条時から「」の偏諱を許されたことは間違いないだろう。「」の字は、先祖の基王源経基の一字を使用したものと思われる*7。 

元亨3(1323)年10月、北条貞時十三回忌法要に「足利殿(=足利貞氏入道義観)、「足利上総前司」(=吉良貞義とともに参加し、砂金五十両を進上する人物として「足利孫三郎」の名が確認できる*8当時の足利氏一門で「孫三郎」を名乗り得る人物は斯波高経(『尊卑分脈』)であり、まだ官途を与えられていないことが、元服からさほど経っていないことを裏付けよう。これが史料における初見であり、前述の生年に従えば当時19歳の若さであるが、父・家貞(宗氏)の早世(『尊卑分脈』)によって既に家督を継承していたようだ*9

 

以後の活動・生涯等については

斯波高経 - Wikipedia

を参照のこと。

 

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

▲ 弟の家兼は初め「時家」と名乗っていたが建武5(1338)年には改名している。「時」の字を棄てており、北条氏の関連が推測される。それに対し、高経は上の『師守記』に掲げた通り、死ぬまで改名はしなかった。「高」字については改めた者もいれば(宇都宮高綱 [公綱]・小山高朝 [秀朝]・長井高冬 [挙冬] など)、改めない者もいた(河越高重・長井高広など)ので、特にわざわざ改名する必要性が無かったのかもしれないが、兄弟で対応が分かれていることは大変興味深い。

 

脚注

*1:山野辺氏は足利氏支流・斯波氏より分かれ出た最上義光の子・義忠を祖とする。

*2:画像右側の写真については、①は[師守記] 64巻. 巻60 紙背 - 国立国会図書館デジタルコレクション、②は[師守記] 64巻. 巻60 貞治六年七月 - 国立国会図書館デジタルコレクションより、各々該当部分を抜粋した。

*3:『師守記』による考察については、小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1982年)P.374 を参照。

*4:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、戎光祥出版、2013年)P.167。

*5:『尊卑分脈』には「本名宗氏」とあり、初め宗氏を名乗っていたと伝える。

*6:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)の手法に従って、元服の年齢を10~15歳とした場合。ちなみに、同年生まれの足利高氏(尊氏)は1319年15歳での元服である。

*7:前田家所蔵訂正本を底本とする『尊卑分脈』〈国史大系本〉には家貞の母を「式部大夫平時継女」と載せ、その他の異本では時継を時経とする故に「経」字の由来を曽祖父・北条時経に求める説もある(http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/siba1.htm)が、時経を名乗ったこと自体も含め信憑性は認め難いので、新たな一説として掲げておきたい。平貞盛平高望にあやかったとされる北条貞時―高時や、本文に掲げた小山秀朝、長井挙冬をはじめ、先祖の1字を取る命名法はこの頃よく見られた現象である。

*8:円覚寺文書』「北条貞時十三年忌供養記」。

*9:斯波高経の史料上における初見については、注3同箇所による。

真壁高幹

真壁 高幹(まかべ たかもと、1299年~1354年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

 

真壁氏は桓武平氏の一門・大掾多気氏)より分かれた一族で「」を通字としていた。 

父は真壁幹重とされる。川島孝一氏の説によると、1299年9月生まれ*1元服の時期を推定すると、1308~1313年。

1309年には得宗家当主・北条貞時の嫡男が元服して「高時」を称し*2、1311年には貞時が亡くなって*3代替わりしている。高時治世期において「高」字の名乗りを許されていることから、高時から偏諱を賜ったものとみて良いと判断される*4

 

但し、鎌倉幕府滅亡に際して北条氏と運命を共にせず、その後は足利尊氏に従っている。

 

(参考ページ)

 真壁高幹 - Wikipedia

 真壁高幹(まかべ たかもと)とは - コトバンク

 

脚注

*1:安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P.569。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*4:清水亮「鎌倉期における常陸真壁氏の動向」(清水亮 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一九巻 常陸真壁氏』(戒光祥出版、2016年)。

小山時長

小山 時長(おやま ときなが、1246年~1276年)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人

通称は五郎、左衛門尉、下野大掾。父は小山長村、母は海東忠成の娘。(以上『尊卑分脈』より)

 

『鎌倉大日記』建治二年の項に「五月小山判官時長卒、三十一歳」*1とあり、文永6(1269)年に父・長村が53歳で逝去(同じく『鎌倉大日記』より)してから十年も経たないうちの早世であった。逆算すると1246年生まれとなる。

但し、『吾妻鏡』では建長4(1252)年7月23日条に「小山五郎左衛門尉時長」の記載が見られ、当時数え年7歳で元服済みの上、左衛門尉に任官していたとは考えにくいので、生年については再検討を要するところである。

ただ、父・長村との関係を考えれば、現実的に考えて1237年以後の生まれであろうから、いずれにせよ、「」の字は元服の頃の執権であった北条(在職:1246~1256年)からの偏諱と考えられる*2

正嘉2(1258)年には、姉または妹(長村の娘)が時頼の子・時輔(当時は時利、11歳)に嫁いでおり*3、烏帽子親子関係を結ぶことになった経緯と関係があるのかもしれない。時長の系統はその後も、長―朝―と、得宗からの偏諱を受けるようになった*4

 

脚注

*1:続群書類従』所収「小山系図」でも時長の注記に「建治二年五月卒。三十一歳。」とある。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年)P.15。市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.96~97。松本一夫 「総論 − 小山氏研究の成果と課題」(所収:松本一夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻 下野小山氏』(戎光祥出版、2012年))P.13。

*3:高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.159。典拠は『吾妻鏡』正嘉2年4月25日条

*4:注1同箇所。