Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

河越泰重

河越 泰重(かわごえ やすしげ、生年不詳(1210年代?)~1246年頃?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武蔵国河越館の武将、鎌倉幕府御家人。通称および官途は 次郎、掃部助。河越重時の嫡男。子に河越経重

 

 

泰重の活動について

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事に紹介の、中山信名撰『平氏江戸譜』静嘉堂文庫蔵)所収「河越氏系図*1には、次のように記載される。

【史料A】『平氏江戸譜』河越氏系図 より

「泰時ノ一字」掃部助

泰重

「東鑑嘉禎元」

吾妻鏡人名索引』に従うと、『吾妻鏡(別表記:『東鑑』)での初見は、文暦2(1235=嘉禎元)年6月29日条、五大堂の新造御堂の安鎮祭が執り行われた際に4代将軍・九条頼経に供奉した「後陣の随兵」の筆頭「河越掃部助泰重」であり*2、「掃部助」の官途と「東鑑嘉禎元」の正確性が裏付けられる。『入間郡誌』でも同記事を初見とする*3

よって、【史料A】系図は近世成立でありながら、『東鑑(吾妻鏡)』という出典を明確にした、江戸時代当時の研究成果として捉えて問題ない。泰重以降の当主には「○○ノ一字」の記載を付して、代々北条氏得宗家から一字を拝領していたと考えられていたことも窺える。「泰時ノ一字」の正確性についての考察は後ほど次節にて述べたい。

 

その後『吾妻鏡』においては、寛元4(1246)年8月15日条河越掃部助」に至るまで15回登場する*4が、『吾妻鏡正嘉2(1258)年3月1日条では「河越掃部助 香山三郎左衛門尉」と書かれており、その頃泰重の旧領は香山氏に引き継がれていたことが窺える*5。また、これに呼応するかのように、約2年前の建長8(1256=康元元)年6月29日条からは「河越次郎経重」が幕臣として活動している様子が確認できる。経重は【史料A】も含む系図類で泰重の子に位置付けられているから、1246~1256年の間に当主の交代があったものと推測され、それは泰重の逝去に伴うものであったと見なすのが妥当であろう。『新編武蔵風土記稿』によると、現在の埼玉県川越市にある養寿院は、寛元年間(1243~1247年)に河越経重が開基となり、密教大闍利円慶法印を開山として創建されたとの伝えがあるという*6から、泰重は終見である寛元4年の8月以後、もしくは翌年あたりには亡くなったのかもしれない。

 

生年と元服についての考察

伯母の郷御前源義経正室が仁安3(1168)年生まれ*7、伯父の河越重房が同4(1169)年生まれ*8と判明している。その弟である父・重時についても、兄・重房や弟・重員共々、河越重頼(重時の父/泰重の祖父)が誅殺された文治元(1185)年までには生まれたと考えるのが妥当で、『吾妻鏡』では畠山重忠の乱について記した元久2(1205)年6月22日条河越次郎重時(・同三郎重員)」が初見である。

▲【図B】河越氏略系図(河越館跡史跡公園内展示資料、画像は河越館跡史跡公園で探る川越の歴史|源義経の正妻、郷御前の故郷へ - 川越 水先案内板より拝借)

 

桓武平氏支流のうち、秩父重綱の子孫は「重○」型の名乗りを慣例としており、次男・重隆の系統でも従兄・畠山重(重隆の兄・重弘の子)偏諱を受けた葛貫(重頼の父)を除き、その例外では無かった。しかし河越氏では嫡流の泰重以降「○重」型に切り替わっており、家督継承者の〇は『平氏江戸譜』が示すように得宗からの偏諱と見て間違いないだろう*9

 

ここで見ておきたい記事がある。

吾妻鏡安貞2(1228)年7月23日条、将軍・頼経が三浦義村の別邸遊覧の際の「先の随兵」12名の一人「河越次郎(表記は二郎とも)」について、『吾妻鏡人名索引』では重時に比定する。しかし、重時は前述の通り1185年までには生まれている筈で、仮にその年に生まれたとすると当時44歳(数え年、以下同様)でありながら無官で「次郎」を名乗っていたことになる。

勿論、嘉禄2(1226)年4月10日条を見ると、武蔵国留守所総検校職に補任された重時の弟・重員が「河越三郎重員」と呼ばれており、同様に40代以上の年齢であったと思われるので、年齢だけを理由に「次郎=重時」でないとする理由にはなり得ない。

しかし、僅か6年後の貞永元(1232)年12月23日、重員が嫡子「河越三郎重資」に与えた「武蔵国惣検校職国検時事書等、国中文書之加判及机催促加判等之事」について、先例の如く沙汰すべき旨が武蔵国(=武蔵守)である3代執権・北条泰時*10の庁宣で指示され*11、建長3(1251)年5月8日、その庁宣の通り重資が武蔵国惣検校職に補された当時「河越修理亮重資」と名乗っていたことが同じく『吾妻鏡』の中で確認される*12。すなわち、1230年頃に重員の子・重資が元服し、父と同じ仮名「三郎」を通称として名乗ったことが推測できる。

だとすると、同じ頃に重資の従兄である泰重元服を済ませた筈である。前述の通り1235年の段階では「掃部助従六位上相当)*13」の官職を得ており、その頃に嫡男・経重も生まれているだろうから、それなりの年齢に達していないとおかしい。

泰重の仮名が「次郎」であった証左はないが、父・重時、嫡男・経重、更には『平氏江戸譜』で直系子孫とされる高重までが「河越次郎」を名乗っていたことが『吾妻鏡』や『建武記』*14で明らかであるから、重員―重資父子が「三郎」を継承したのと同様に、嫡流歴代当主の通称が「次郎」であったと考えて良いだろう。すなわち、泰重が元服後、掃部助の官職を得る前まで「河越次郎」を名乗っていたことは十分に考えられる

よって、重は北条時の執権就任 (1224年) から間もない頃に元服し、『平氏江戸譜』(【史料A】)の記載通りその偏諱を受けたとみられ、安貞2(1228)年の「河越次郎」は重時ではなく泰重に比定されよう*15。これがかえって泰重が当初「次郎」を名乗ったことの裏付けになると思う。

 

備考

ところで『吾妻鏡』等の史料には、寛元2(1244)年と建長3(1251)年の閑院内裏造営(再建)に際し修理の費用を担ったという記録があるが、寛元2年7月26日*16、宝治3(1249)年の焼亡に伴う建長3年6月27日*17の「閑院遷幸」に向けた事業を指しているものであろう。『百錬抄』では、この「閑院」に「関東よりこれを造進す」と注記されているので、関東の御家人たちがその造営(修理)に際しての雑掌(=請負人)を担ったことが窺えるが、幕府が閑院造営の雑掌を奏することを記した建長2(1250)年3月1日条(以下『建長帳』と呼ぶ)には、その請負人の中に「河越次郎跡」、「河越三郎跡」の名が確認できる。

このうち「河越次郎」は、前述の意味合いで言えば重時泰重のいずれにも比定し得る(これより後に存命が確認できる経重ではあり得ない)が、もし泰重なのであれば、ちょうど8年後の前述正嘉2年記事にある「河越掃部助」のように最終官途で記される筈である。同じことが「河越三郎」の方にも言えることは、前述した河越重資の名乗りの変化(三郎→修理亮)で分かると思う。すなわち、河越次郎=重時、河越三郎=重員に比定すべきで、この兄弟は無官のままで亡くなったことが伺えよう。「大友豊前々司(=大友能直跡」=大友頼泰(能直の孫)*18などの例もあるように、『建長帳』では「(初代当主名)跡」という形で書かれているようなので、「河越次郎(=重時跡」=孫・経重と見なしても問題は無く、必ずしも建長2年当時泰重が存命であったことの証左にはならない。

また、建治元(1275)年『六条八幡宮造営注文』「武蔵国」の項の筆頭にも「川越次郎跡」「同三郎」の記載がある。『建長帳』も含む『吾妻鏡』を考慮に入れながら、川越次郎=重時、川越三郎=重員に比定する*19が、筆者も同感である。

*三郎の方は「跡」が脱字であるが、重員の子・重資は前述したように建長3年当時修理亮在任で、弘安8(1285)年12月に書かれたとみられる「但馬国太田文」*20に、同国下賀陽郷上村を「地頭河越修理亮(=旧領)」とする記載があり*21、同国大浜庄の地頭に任じられている「河越太郎蔵人重氏」*22がその息子と考えられている*23。よって該当し得る人物は重員しかいないと思われる。

よって、泰重の父・重時は官職を得ぬまま亡くなったことになる。文暦2年当時、泰重が無官の父を差し置いて掃部助に任官するとはほぼ考えられず、重時は故人であったとみて良いだろう。承久元(1219)年1月27日、鶴岡八幡宮で行われた3代将軍・源実朝の右大臣拝賀の式に「河越次郎重時」が(式典の帰り道で実朝は暗殺される)*24、同年7月19日次期将軍として迎えられた頼経(この頃は元服前で幼名の「三寅」)の鎌倉下向の列に「河越次郎」が随兵として加わった*25という記録以降しばらく活動は見られず、9年後の安貞2年に「河越次郎」として重時が再登場するというのは妙であり、その間に若くして亡くなったと考えられる。よって、繰り返すが安貞2年の「河越次郎」=泰重と見なせる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

(参考ページ)

 河越泰重 - Wikipedia

 武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越泰重

 

脚注

*1:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.326~327「泰重 河越」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:入間郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション河越及河越家 : 総説 : 川越町 : 入間郡誌。但し『入間郡誌』での記述は子・経重に関する部分などで『吾妻鏡』等他の史料と整合性が合わない内容もあるので、信憑性の観点で情報の扱いには十分に注意が必要である。

*4:注2同箇所。

*5:」とは本来その人物が持っていた旧領などの財産・地位・業績などを意味し、通常はその相続人を指す。以下本文中に掲げる「跡」もこれに同じである。

*6:『新編武蔵風土記稿』8(『大日本地誌大系』第12巻 所収)巻ノ162ー入間郡ノ7「養寿院」の項 より。

*7:『吾妻鏡』文治5(1189)年閏4月30日条、前伊予守・源義経自害の記事における「妻 廿二歳」(享年22) の記載からの逆算による。尚、「源廷尉」に嫁いだのが河越重頼の娘であったことは元暦元(1184)年9月14日条を参照。同月2日条により「源廷尉」=義経と分かる。

*8:寿永3(1184)年1月の木曾義仲追討当時16歳であったとの『源平盛衰記』の記述に従った場合。

*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15系図・P.18・19。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:『吾妻鏡』貞永元年12月23日条

*12:『吾妻鏡』建長3年5月8日条

*13:掃部の助とは - コトバンク より。

*14:『大日本史料』6-1 P.421。『鎌倉遺文』第42巻32865号。『南北朝遺文 関東編』第1巻39号。

*15:武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越泰重 でもこの説を採っている。

*16:『平戸記』7月26日条・『百錬抄』同日条『吾妻鏡』8月8日条・『平戸記』8月25日条

*17:『吾妻鏡』6月21日条・『百錬抄』6月27日条『吾妻鏡』7月4日条「大日本史料 第五編之三十五」(『東京大学史料編纂所報』第49号、2013年、P.34~35)も参照のこと。

*18:大友頼泰 - Henkipedia【史料4】参照。

*19:海老名尚・福田豊彦「資料紹介『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文」について」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、国立歴史民俗博物館、1992年)P.375。

*20:『鎌倉遺文』第21巻15774号。但馬国太田文

*21:但馬国太田文 P.30。

*22:但馬国太田文 P.42。

*23:武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越重資

*24:『吾妻鏡』承久元年1月27日条

*25:『吾妻鏡』承久元年7月19日条

河越経重

河越 経重(かわごえ つねしげ、1230年頃?~1285年頃?)は、鎌倉時代中期の武蔵国河越館の武将、鎌倉幕府御家人。通称および官途は 次郎、遠江権守。苗字の表記は「川越(川越経重)」とも。

河越泰重の嫡男。子に河越宗重河越貞重

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事に紹介の、中山信名撰『平氏江戸譜』静嘉堂文庫蔵)所収「河越氏系図*1には、次のように記載される。

【史料A】『平氏江戸譜』河越氏系図 より

「経時ノ一字」安芸守

経重

一本作 遠江

「川越山王経重寄進ノ鐘也、文応元年也、」

上記記事でも言及しているが、この系図は江戸時代に編纂されながらも、『吾妻鏡』や既存の系図など他の史料に基づいた記載が多く見られる。

まずはについて。「安芸守」に対して「一本作 遠江(他の系図一本では「遠江守」に作る(=遠江守とする))」とあり、恐らくただ他の系図からの情報を載せただけと思われるが、これは『吾妻鏡』により裏付けが可能である。すなわち、建長8(1256=康元元)年6月29日条に将軍・宗尊親王の随兵の中に「河越次郎」と見えるのを初見とし(次いで同年7月17日条に「河越次郎経重」とあり)弘長3(1263)年8月9日条河越次郎経重」に至るまで10回登場*2、終見の文永3(1266)年7月4日条では「河越遠江権守経重」と書かれており、1260年代半ば頃には遠江従五位下相当)権官への任官を果たしたことが窺える。

 

次に、の「経時ノ一字」の正確性について考察してみたい。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

これについては生年とも連動する問題であるが、系図上での息子・河越宗重が文永8(1271)年生まれとされるから、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、経重の生年は遅くとも1251年とするのが妥当である。但し、前述の通り「次郎経重」と名乗っていた建長8(1256)年までには、適齢の10代前半を迎え元服を済ませていたとみられるから、実際は1240年代前半以前にまで遡って問題ないと思うし、文永3(1266)年の段階で遠江権守であったことを踏まえると、遅くとも1230年代には生まれていたと考えるのが良いと思われる。

f:id:historyjapan_henki961:20211014020818p:plain

▲【写真B】埼玉県川越市の養寿院(https://www.yoritomo-japan.com/kawagoe/yojyuin.html より拝借)

ちなみに『新編武蔵風土記稿』によると、現在の埼玉県川越市にある養寿院は、寛元年間(1243~1247年)に河越経重が開基となり、密教大闍利円慶法印を開山として創建されたとの伝えがあるという*3養寿院のHPでは寛元2(1244)年創建とする)

 

養寿院境内にある銅鐘には次のように文字が刻まれており、が指すものである。

f:id:historyjapan_henki961:20211014022826p:plain

▲【写真C】:養寿院について | 養寿院 - 曹洞宗 青龍山養寿院 より拝借

【史料D】川越市養寿院鐘銘重要文化財の銘文

(※一部、新字体に改めている。)

武蔵国河肥庄
 新日吉山王宮
奉鋳椎鐘一口長三尺五寸
  大檀那 朝臣經重
  大勧進 阿闍梨円慶
 文応元年大歳庚申十一月廿二日
       鋳師 丹治久友
         大江真重

「平」は河越氏が桓武平氏の支流により称していた姓であり、経重は河肥(=河越)荘を領していた河越経重に疑いない。円慶も前述した養寿院開山と同人と見なせる。この銅鐘は文応元(1260)年に経重が荘内の新日吉山王宮(現在の上戸日枝神社に奉納したものとされ、これを鋳た丹治久友が鎌倉の大仏の鋳造も担当したことから、河越惣領家と北条氏との関わり合いを示す史料の一つになり得るものとしても注目されている。そうした河越・北条(得宗)両家の関係性は、前述の烏帽子親子関係がその基盤の一つになっていたのであろう。

 

次の史料にも着目しておきたい。

【史料E】高野山慈尊院道町石 111町石(高さ約2.82m、和歌山県九度山町笠木、国指定史跡 および 世界遺産の銘文*4

〈右側面〉 遠江権守平朝臣経重

〈 正 面 〉   百十一町

〈左側面〉 文永九季〔=年〕 五月 日

文永2(1265)年、高野山の僧・覚斅(かくきょう)上人の発願により、安達泰盛の主導のもと、高野山の参道20km余りに亘って1町(約109m)ごとに町石卒塔婆が建立された。これには泰盛のほか、北条義政平頼綱など多くの有力御家人得宗被官が参加しており*5、111番目の町石は同9(1272)年経重により寄進されたものであったことが窺える。

その官途・通称からして同3年の「河越遠江権守経重」(前述参照)に同定して問題ないと思われ、文永9年当時も経重は官職そのままで存命であったことになる。

 

経重の死没については、岩城邦男正応2(1289)年以前であったと推定されている*6が、その根拠と思われるものが次の史料である。

【史料F】『とはずがたり』巻4 より一部抜粋

……飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数寄者(すきもの)といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふ者を使にて、たびたび呼びて、続歌(つぎうた)などすべきよし、ねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情けあるさまにて、たびたび寄り合ひて、連歌・歌など詠みて遊び侍りしほどに、師走になりて川越の入道と申す者の跡なる尼の、「武蔵の国小川口といふ所へ下る。あれより年返らば善光寺へ参るべし」と言ふも、便り嬉しき心地して、まかりしかば、雪降り積もりて、分け行く道も見えぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。……

この辺りの研究については、須田亮子の論文*7を参考にしたい。内容としては、作者の後深草院二条(久我雅忠の娘)が正応2(1289)年12月、河越入道後家尼に招かれて川口にしばらく滞在したというものである*8が、ここに出てくる「川越の入道」は前述の「河越遠江権守経重」(が後に出家したもの)とする見解が有力である法名は不詳)

そして「跡なる尼」とはその後家(未亡人)にして髪を下ろした女性と考えられ、この当時「川越の入道」が既に故人であったことが窺える。すなわち経重が文永9年5月以後に出家し、それより間もない頃に亡くなったと推測されよう

 

(参考ページ)

 河越経重 - Wikipedia

 武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越経重

 

脚注

*1:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.81「経重 河越」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:『新編武蔵風土記稿』8(『大日本地誌大系』第12巻 所収)巻ノ162ー入間郡ノ7「養寿院」の項 より。

*4:国指定史跡 河越館跡 パンフレット川越市教育委員会 発行)より。

*5:https://www.kinsei-izen.com/area_data/29_Wakayama.html 参照。

*6:岩城邦男「河越氏系譜私考」(『埼玉史談 第21巻第2号』(埼玉郷土文化会、1974年7月号)所収)P.11~12。

*7:須田亮子「『とはずがたり』信濃善光寺参詣記事について」(所収:『女子大國文』第142号、京都女子大学国文学会、2008年)P.31~32 および P.38~39 注(6)。

*8:日本列島「地名」をゆく!:ジャパンナレッジ 第49回 川口(かわぐち)が河口(かこう)だった頃(2)

葛西高清

葛西 高清(かさい たかきよ、1312年~1365年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期にかけての武将。

系図類によると、葛西貞清の長男。母は長崎円喜の娘。通称および官途は 八郎、左衛門尉、陸奥守、因幡守 と伝わる。

 

まず、次の系図2種を見ておきたい。

 

【史料A】『五大院葛西系図』(抄録)より:

f:id:historyjapan_henki961:20220316025217p:plain

【史料B】『中舘葛西系譜』より:

f:id:historyjapan_henki961:20220316025300p:plain

(*いずれも 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) より引用)

 

注目すべき点として、Bの方では独自の情報として「北条相模守高時授諱字」とあり、清の「」が得宗・北条時からの偏諱であったことが明記されている。

ちなみに、高清以降の当主も足利将軍家から一字拝領したことが明記されている。

葛西:「賜将軍権大納言諱字

葛西:「柳営大相国義賜諱一字」

葛西*1:「柳営内大臣賜諱一字」

 

嫡男・高清の母について【史料A】では長崎宗資の娘であったといい、【史料B】では宗資の法名を「円喜」と記す。すなわち、得宗被官(御内人)にして、安達時顕(延明)と並ぶ高時政権の最高権力者、長崎円喜の外孫であった可能性が高い。

円喜の俗名については『系図纂要』上で「高綱(長崎高綱)」とあったり*2、近年では「鳥ノ餅ノ日記」(『小笠原礼書』)徳治2(1307)年7月12日条にある「盛宗(長崎左衛門尉盛宗)」が有力とされたり*3する。ただ、「資」という名も、息子・高資と「資」の字を共有し、「盛」とも恐らくは北条時偏諱である「」の字が共通するので、宗資=円喜(盛宗)の可能性は高いのではないかと思う。いずれにせよ、円喜・高資ら長崎氏一族と縁戚関係にあったことは認められよう。この点からも、貞清・高清父子が得宗ないしは得宗被官と深い結び付きがあったことが伺える。

 

【史料B】の文中「建武二年……十月七日為勲功賞……源中納言顕家卿賜下文」が指すのは恐らく次の書状であろう。

陸奥国元良〔=本吉〕郡・気仙郡

右為勲功之賞支配也依執達如

 建武二年十月十七日 顕家

  葛西陸奥殿

(*郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)より)

この「葛西陸奥守」が誰なのか、他の史料による裏付けが困難であるため未確定だが、これが高清であればその実在を証明できるものとなる。

その他「因幡守高清」の名が熊谷氏・小野寺氏など他の氏族の古文書にも見えるらしい*4が、まだまだ検討の余地を残している。

 

(参考ページ)

 葛西高清 - Wikipedia

 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)

葛西氏系譜の再考

 葛西惣領家別説(盛岡藩葛西家)

 

脚注

*1:持信については史料上でその実在が確認できる。次の書状は実名と官途(伯耆守)が確かめられる貴重なものである。

● 文明2(1470)年2月9日付「畠山政長下知状」

花押足利義政

 陸奥国 員数載譲状事

葛西伯耆守持信文明元年五月七日譲状、守先例、
可令領事之状、仰依下知如件

 文明仁年二月九日 政長(花押)

葛西壱岐守殿(=持信の子・朝信か)

*2:【論稿】『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia 参照。

*3:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73。同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)。

*4:葛西惣領家別説(盛岡藩葛西家)#葛西高清 の項より。

葛西貞清

葛西 貞清(かさい さだきよ、1291年~1324年)は、鎌倉時代後期の武将。通称および官途は 又太郎、左衛門尉。法名は道西。

系図によると、父は葛西清信千葉頼胤の子で葛西清時の養嗣子、初名: 胤信)、母は本間景隆(山城守)の娘と伝わる。

 

まずは、次の系図史料2点を掲げ、検討してみたい。

 

【史料A】『五大院葛西系図』(抄録)より:

f:id:historyjapan_henki961:20220316024827p:plain

【史料B】『中舘葛西系譜』より:

f:id:historyjapan_henki961:20220316024724p:plain

(*いずれも 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) より引用)

 

注目すべき点として、Bの方では独自の情報として「北条相模守貞時授諱字」とあり、清の「」が得宗・北条時からの偏諱であったことが明記されている。冒頭の生年は記載の没年および享年(数え年、以下年齢も同様)から算出したものであるが、貞時が鎌倉幕府第9代執権を辞して出家した正安3(1301)年当時には11歳と元服の適齢を迎える。

また、仮に父・清信の千葉氏からの養子入り説を信ずるならば、千葉胤(1288年生)千葉(1292年生)とは従兄弟関係にしてほぼ同世代となる。

よって、年代的な考慮だけで言えば、記載そのものに矛盾は無いと判断できる。

 

ちなみに、同系図では貞清以降の当主も得宗家、或いは足利将軍家から一字拝領したことが明記されている。

葛西:「北条相模守時授諱字

葛西:「賜将軍権大納言諱字

葛西:「柳営大相国義諱一字

葛西:「柳営内大臣諱一字

 

葛西氏の系図としては、①1675年に仙台藩士の葛西重常(藤右衛門、晴信の弟・胤重の曾孫)が藩に提出した「平姓葛西氏之系図」に基づく、所謂「仙台系の系図」、②高野山にある葛西氏創建の五大院に伝えられた、由緒古くて正しいとされる「陸奥国平姓葛西氏之系図(通称「高野山五大院系図」とも)の流れをひく所謂「盛岡系の系図」の2系統が伝わる。

そして「陸奥国平姓葛西氏之系図」の写本という「平姓葛西系図」の抄録が【史料A】の「五大院葛西系図(抄録)」であるという*1

【史料B】は持信の弟・西舘重信の子孫の家系図であり、葛西氏に関する部分は持信までの記載に留まっている*2が、概ね【史料A】の内容と一致しており、かなり影響を受けていると見受けられる。

いずれも、後世の伝写・編纂時に情報が加えられている可能性も考慮せねばならないが、仙台系系図に比べある程度信憑性を持ったものと見なしても良いのではないか。

 

ところで、盛岡系の系図類には見当たらないが、 「香取社造営次第案」(『香取文書』)に、永仁6(1298)年香取神宮式年遷宮の雑掌を務めた人物として「西伊豆三郎兵衛尉清貞」、延元3(1338)年11月11日付「沙弥宗心書状」(『白河結城文書』)の文中にも「一.葛西清貞兄弟以下一族、随分致忠之由令申間、度々被感仰畢」*3とあって、葛西清貞という人物の実在が確認できる*4。名前の類似のためであろう、この清貞と貞清を混同、もしくは同一視する見解も見られるが、【史料A】・【史料B】と照らし合わせた場合、仮名(輩行名)・官途での不一致や、没年との矛盾が生じるため、少なくとも別人として扱うべきなのではないか。

また永仁年間に「」の偏諱を許されている様子から「清」も当時の執権・時の1字を受けていると推測されるが、わざわざ下(2文字目)に配置していることからすると、別に嫡流扱いをされた「清」の存在があってもおかしくはないのではないか。永仁6年当時、清貞は元服済みであったのに対し、貞清は前述の生年に基づくと8歳となり、恐らくは元服前であったと思われるが、清貞の元服は永仁6年よりさほど遡らず、貞清が生まれた1291年以後(すなわち1291~1298年の間)に行われたものと思われる。

 

【史料A】・【史料B】の情報を総合すると、当初は8代将軍・久明親王、その後正和年間においても9代将軍・守邦親王の近臣として活動し、文保2(1318)年9月には守邦から「陸奥国探題職」に補任され、正中元(1324)年3月16日に34歳の若さで亡くなったという。

 

筆者が思うに、貞清・高清父子はかなり得宗寄りの人物であったと思われる。一見すると、近臣として将軍に近い立場にあったように見受けられるが、そうした活動も、得宗が戴く親王将軍に仕えることで、協調姿勢を見せたというのが実際のところなのであろう。烏帽子親子関係以外にも、縁戚関係がその判断材料になるかと思う。

母方の本間氏は、佐渡国守護を務めた大仏流北条氏のもとで守護代となったのをきっかけに、北条氏被官化した一族として知られ、建武元(1334)年3月9日には、同じく北条氏譜代の旧臣・渋谷氏らと共に兵を起こして鎌倉を襲い、足利氏一門・渋川義季貞頼の子)に撃退されている*5

「於関東、本間渋谷等一党叛逆」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)

「三月九日 本間渋谷一族、各打入鎌倉、於聖福寺合戦」『将軍執権次第』『鎌倉大日記』建武元年条

「三月上旬関東に本間澁谷が一族先代方として謀叛を興し、相摸国より鎌倉へ寄せ来る間、渋川刑部大輔義季を大将として、極楽寺の前に馳せ向ひて責め戦ふ事数刻ありしに、凶徒打負けぬ。」(『梅松論』)

 

また、【史料A】・【史料B】両系図によると、嫡男・高清の母が長崎左衛門入道円喜の娘であったといい、すなわち貞清はこの女性を妻に迎えていたことになる。長崎円喜得宗被官(御内人)にして、安達時顕(延明)と並ぶ北条高時政権の最高権力者であったから、得宗ないしは得宗被官との結び付きがかなり深かったことがここからも伺えよう。

 

よって、貞清・高清父子は得宗から嫡流格と見なされ、それ故に偏諱の授与が行われたものと思われる。

但し、史料的な裏付けが弱いため、実在も含めて検討の余地を残している。

 

(参考ページ)

 葛西貞清 - Wikipedia

 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)

葛西氏系譜の再考

 

脚注

【論稿】鎌倉時代末期の安達氏一族 -師顕と師景-

f:id:historyjapan_henki961:20220219012153p:plain

本項では、鎌倉時代末期に現れる安達氏一族について紹介したいと思う。

まずは、扱う史料3点を年代順に挙げておこう。

 

【史料A】(正和4(1315)年3月)「施薬院使・丹波長周注進状」(『公衡公記』同月16日条)*1:同月8日、鎌倉で起きた火事の被災者の中に「城介 時顕」、「城加賀守 師景」、「城越後権介 師顕」が含まれる。

f:id:historyjapan_henki961:20190124223746j:plain

 

【史料B】(元亨3(1323)年10月)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収:同月に挙行された故・北条貞時13回忌供養の際、「秋田城介時顕朝臣」のほかに「城越前〻司殿」が「銀剱一 馬一疋 置鞍、栗毛、」を進上*2

 

【史料C】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」*3より

去程に高重(=長崎高重)走廻て、……(中略:高重→摂津道準諏訪直性長崎円喜新右衛門の順に自害)……此小冠者に義を進められて、相摸入道(=北条高時 入道崇鑑)も腹切給へば、城入道(=時顕)続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、……城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時…………城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明(=時顕)…………、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 

上記3点における安達氏一族の大半は系図上でも確認ができる。

f:id:historyjapan_henki961:20190406014601p:plain

▲【図D】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋

 

彼らは、【図D】のみならず他の書状でも弘安8(1285)年の霜月騒動で惣領・安達泰盛に殉じたことが明らかになっている*4宗顕(加賀太郎左衛門尉)重景(城五郎左衛門入道、法名不詳)時長(四郎左衛門尉)それぞれの子や孫であったことが分かる。

ちなみに、師顕については【図D】に「九郎兵衛」と記されるのみであるが、同系図に従えば時顕は左兵衛尉・(秋田)城介を歴任したらしく、師顕も同様に兵衛尉から越後権介に昇進した可能性は十分に考えられるので、同一人物とみなして問題ないと思う。

ここで【史料C】について『参考太平記』を確認してみたい。【史料C】の該当部分*5では次のようになっており、それぞれ比較・考察を掲げる。

*凡例:【古写本系】西源院本…『西』、南都本…『南』/【流布本系】毛利家本…『毛』、今出川家本…『今』、北条家本…『北』、金勝院本…『金』、天正本…『天』

 

城加賀前司師顕:諸本で表記は一致。『参考太平記』では「時長子」と注記。

→ 加賀守師景と混同か。但し師顕は後述の通り「城越前守有時」に比定される可能性があり、官途から判断するに、むしろここは「師景」とするのが正しいのかもしれない。

秋田城介師時:実名について、『金』では「祐時」、『今』・『毛』・『北』・『西』・『南』では「時顕」とする。後者は宗顕の子・時顕に比定。

→ 安達氏系図上で「祐時」・「師時」なる者は確認できず、北条氏の通字「時」を下(2文字目)にする名乗り方にも疑問を感じるので、一応は「時顕」とすべきところなのだろう。但し後述の通り当時の「城介」(=秋田城介)は息子の高景であり、また時顕=延明であるから、単に重複して書かれてしまったものと思われる。

城越前守有時:『北』・『金』・『西』・『南』では「」の記載なし。『今』・『北』・『南』では「越守」とする。

→「城」の無記載からすると安達氏一門かどうかも慎重に判断すべきであるが、【史料B】より「城越前前司(=前越前守)」の実在そのものは認められるので、同人の可能性は極めて高い。但し「有時」なる人物は安達氏系図上に無く、名乗り方としても前述と同様の理由で奇妙に感じる。一部で「越後」と書かれることからすると、【史料A】の「城越後権介師顕」のことではなかろうか。前述の通り「師顕」の名を載せていることからすると、有時と同人か否かにかかわらず、【史料C】で亡くなったメンバーの中に師顕も含まれていた可能性は十分に高いと思われる。

城介高量系図により高景のこととす。

同式部大夫顕高:時顕子、高景弟。

同美濃守高茂:加賀守師景の子。

秋田城介入道延明:『天』での「延時」は誤り。『毛』・『北』・『金』・『西』・『南』の各本では記載なし。

→ 冒頭での自害者「城入道」と同人にして重複記載か。或いはその法名を明かすために書かれたものかもしれない*6

 

【史料C】の『太平記』は元々軍記物語ゆえ、その情報の正確さについては慎重な判断を要する。繰り返しになるが、特に安達師時安達有時なる人物は安達氏の系図上で見られない。【図D】での系統以外では、泰盛時盛重景顕盛らの次兄・景村頼景の弟)の系統である大室氏でも、泰宗が「城大室太郎左衛門」、その弟・義宗が「城三郎二郎」と呼ばれていたことが史料上で確認できるが、そうした他の系統を含めて確認はできないし、やはり安達氏における名乗り方として奇妙である。

 

【史料A】での師顕の官職「越権介」が「越権介」、或いは【史料B】が「城越前司」の誤記であった、いずれの可能性も考えられるが、明確にできる史料がもう1点でも出てこない限り、現時点でその判断は難しい。ただ、【史料B】・【史料C】での「越前守」はかつて安達盛宗が得ていたゆかりのある官職であるから、こちらの方が有力かもしれない。或いは師顕が(兵衛尉→)越後権介→越前守と昇進した可能性も考えられよう。

 

以上、推論も多いので、まだまだ検討の余地を残してはいるが、鎌倉幕府滅亡時、安達時顕父子だけでなく、同様に幕府の要人であったとみられる師景高茂(高義とも)父子や師顕も運命を共にした可能性は十分に高いと考えられよう。

は恐らく父・重景が亡くなった1285年に生まれたか、或いは腹の中にいて死後の誕生かで、1301年に10代執権となったばかりの北条時の偏諱を受けて元服し、【史料A】よりさほど遡らない時期に20代後半~30歳ほどで加賀守に任官、【史料C】当時50歳手前で自害したと思われる。その際、息子・高茂(高義)安達長景(顕盛の弟)にゆかりのある美濃守に任官済みで30歳前後であったと思われるので、辻褄が合うと思う。

もやはり父・時長との年齢差を踏まえて1285年頃に生まれた同世代であろう。同様に時の「師」字を受けて元服したとみられる。【図D】と同じ『尊卑分脈』によると、師顕の子・師之の子孫が鎌倉幕府滅亡後も存続したようである。

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№85-安達師顕 | 日本中世史を楽しむ♪

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№86-安達師景 | 日本中世史を楽しむ♪

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より引用。

*2:【史料C】に拠ってであろう、『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709 では「安達有時」とする。

*3:太平記. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その1) : Santa Lab's Blog

*4:年代記弘安8年 参照。

*5:参考太平記. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:安達時顕 或いは「城入道」の法名が「延明」であったことは 安達時顕 - Henkipedia【史料14】・【史料15】を参照のこと。

摂津親鑒

摂津 親鑑(つ の ちかあき [ちかみ]、1270年代後半?(1280年頃?)~1333年、旧字体表記:津親鑒)は、鎌倉時代後期から末期の武士・吏僚、得宗被官(御内人)。官途は隼人正、刑部権大輔。官位は正五位下法名道準(どうじゅん)

父は摂津親致。子に摂津高親鑑厳(かんげん、刑部卿法印/鶴岡八幡宮供僧/良厳の弟子)がいる。

 

 

史料上における摂津親鑑

細川重男がまとめられた経歴表*1を示すと次の通りである。

 

>>>>>>>>>>>>>>>

 

№128 摂津親鑒(父:摂津親致、母:未詳)
  生年未詳
  正五位下分脈『中原系図』<続類従・系図部>

  隼人正(分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)
  刑部権大輔(金文374・414等に拠る。分脈,『中原系図』<続類従・系図部>,「権」なし)
  出家(法名道準=官職・通称に拠る)

1:正安3(1301).8. 東使
2:嘉元3(1305).12. 在寺社奉行
3:徳治2(1307).7. 東使
4:正和1(1312).8. 在越訴頭人
5:   4(1315).  問注所執事補佐
6:            .6. 若宮事始大奉行
7:文保1(1317).3. 東使
8:正中1(1324).7.  在御所奉行
9:   2(1325).5.25 在御所奉行
10:嘉暦1(1326).3. 在評定衆
11:   2(1327).4.17 五番引付頭人
12:元徳2(1330).1.24 四番引付頭人
13:元弘1(1331).1.23 辞四番引付頭人
14:   3(1333).5.22 没(為鎌倉滅亡)

 [典拠]
父:分脈。
1:『興福寺年代記』正安3年8月10日条。『皇年代記』正安3年8月10日条。
2:嘉元3年12月15日付「摂津親鑒下知状案」(『金剛三昧院文書』)。
3:『実躬卿記』徳治2年7月14日条。『歴代皇紀』徳治2年7月14日条。
4:正和元年8月18日付「平忠綱譲状」(『第二回西武古書大即売展目録』)。分脈。「中原系図」(続類従・系図部)。
5:武記・正和4年条に「摂津刑部大輔親鑑被相副時連」とある。
6:『鶴岡社務記録』正和4年6月27日条。
7:『一代要記』文保元年3月条。『続史愚抄』文保元年4月7日条。『歴代皇紀』文保元年条,4月7日上洛とす。
8:『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記』元亨4年7月11日条。この日行われた将軍守邦親王の病気平癒修法の奉行が「刑部大輔入道」=親鑒であった。職務内容から,彼は当時御所奉行であったと思われる。
9:『鶴岡社務記録』正中2年5月25日条「御所奉行摂津刑部大輔入道々準・後藤信濃前司」に拠る。
10 : 金文374。分脈。「中原系図」(続類従・系図部)。
11 :鎌記・嘉暦2年条。
12 : 鎌記・元徳2年条。
13 : 鎌記・元弘元年条。
14 : 太平記・巻10「高時幷一門以下於東勝寺自害事」。

>>>>>>>>>>>>>>>

* 各番号は後述の史料とも対応させている。

*『続群書類従系図部所収「中原系図」については、後掲【系図X】を参照のこと。

 

次に摂津親鑑(道準)の実在および活動が確認できる史料を以下に列挙する。 

 

 ◆1300年頃、隼人正正六位下相当)に任官か。

 

【史料1】『興福寺略年代記』正安3(1301)年8月10日条『皇年代記』同日条:「八月十日関東両使 丹後入道道西・隼人正親 上洛

*現在確認されている限りでは親鑑の初見の史料であり、この頃東使として上洛したことが窺える。

 

【史料2】嘉元3(1305)年12月15日付「摂津親鑒下知状」(『金剛三昧院文書』)*2:「散位親鑒」が寺社奉行越訴奉行)在任。

 

【史料3】『実躬卿記』徳治2(1307)年7月14日条*3:「……今日関東使者摂津隼人正親鑒京都〔=着〕……」

*この頃、再び東使として上洛したことが窺える。

 

 ◆この間、隼人正を退任か。

 

【史料A】徳治3(1308)年2月7日付「関東下知状」(『東京国立博物館所蔵文書』)*4:「上野国高山御厨北方内大塚・中□□□〔栗須郷預所前隼人正親鑒代道盛」と小林入道道跡を買得した一分地頭・三善朝清の妻である大江氏女が、大塚・中栗須両郷内の知行分をめぐって相論し下地を和与*5

 

 ◆この間、刑部権大輔正五位下相当・次官級/権官に任官か。

 

【史料4】正和元(1312)年8月18日付「平忠綱譲状」*6

ゆつりわたす(譲り渡す)所領事ちやくし(嫡子)まこわか〔=孫若?〕(が)所に

一. 武蔵国こまのくん高麗郡ふんおほまちの村三分いち

一. 同国たさいのこほり(多西郡)とくつねの郷(得恒[徳常]郷)忠綱か知行分三分二、并ニふなきたの庄(=多西郡舟木田庄)内きゝりさハのむら、但ふなきたの庄のきゝりさハにおきてハ、はゝいちこのゝちしるへし(母一期の後知るべし)、山ハ八幡の御前のゆさハをさかいとしてのほりに、ゆさハかしらを大つかみちのうえのとゝをさかうて、みなミハ(南は)ゆき=柚木?さかいをのほりに、いすかやまさかいへ、にしハ(西は)ひらやま(平山)さかいを山のねをくたりに、不動堂のまつゝおのくちさかいを八幡の御前をさかう

一. かまくらあまなハ(鎌倉甘縄)のほくとたうのまへ(前)の屋地さんふん二(三分の二)

 

右、御けち(御下知)をあいそえて(相副えて)、ゑいたい(永代)ゆつりわたすところ也、したいてつきのせうもん(証文)ハ、忠綱しさい(子細)を申所に、忠助ふんしちのよし申あいた紛失の申す間)、ふけんのたんしやうのちう(普賢?の弾正忠)の奉行として、案文をめし給て、ふんしちしやう(紛失状)を申へきよし(申すべき由)、そせうをいたすうヘハ(訴訟を致す上は)、申給へきなり、又そりやうともさかいをたつへしといへとも(雖も)、いたハリのあいた、まつふんけんをかきおく(書き置く)也、はゝ(母)のほからひにて、さかいをたつへし、

一. やこうの又二郎よりくに〔頼国?〕のゆいりやう等のゆつりしやう(譲状)、まこわかにゆつる也、つのきやうふの大輔殿のて(手)にて、おつそを申うヘハ(越訴を申す上は)、あいついて申給へし(相次いで申し給うべし)、御たらん〔ママ〕時ハ、まこわかゝはからい(孫若が計らい)として、田七分かいち(七分が一)なさきいたして、はんふんをハ(半分をば)まこいぬ〔=孫犬?〕に、のこり五ふん三をまこわう〔=孫王?〕に、又のこり三分か二をまつやさこせんに、さんふんかいち(三分が一)をまついぬこせん〔=松犬御前?〕にわたすへし、いつれもゑいたいいづれも永代)なり、のこるところハ、一ゑん(一円)にまこわか知行すへし、

一. やまな〔山名〕の又二郎*7をハ、ちゝ(父)大せんのしん〔=大膳進か?〕にかへして、返事をとりたるなり、仍譲状如件、

 正和元年八月十八日 平忠綱(花押)

昭和44(1969)年に発見されたという書状である*8。発給者・忠綱は、現在の東京都八王子市平町(旧・北平村)から日野市南平に広がる「平村」に住み「平」姓を名乗った、高麗氏の支流とされるが、同氏にあやかって「高麗」を称した、桓武平氏(秩父平氏)一族・武家(たけいえ、武基の長男)の系統とも考えられる。

そして、文中にある「(摂津)のきやうふの大輔(=刑部大輔」とある人物は、後述の史料とも照合すれば摂津氏(親鑑)に間違いない。「摂津(国)」は古名が「津国(つのくに)」であり、延暦12(793)年3月9日に摂津国が置かれた後もその名残りでそのまま「のくに」とも呼ばれることもあった*9。そのため、「中原」から「藤原」に改姓した父・親致の代から称する摂津氏の読み方は「せっつ-し」ではなく「-し」とするのが正確であったことが窺える

 

【史料5】『武家年代記』正和4(1315)年条:「摂津刑部大輔親鑑被相副時連*10

 

【史料B】(正和4年3月)「施薬院使・丹波長周注進状」(『公衡公記』同月16日条)*11:同月8日、鎌倉で起きた火事の被災者の一人に「刑部大輔 親鑒」。

f:id:historyjapan_henki961:20190124223746j:plain

 

【史料C】『公衡公記』正和4年5月22日条より(読み下し、原文漢文)*12

覺円僧正来たり。去る夜召しに依って仙洞に参り。最勝講の間の事、法皇の仰せを重々これを伝え承る。請文に於いては直に申し上げをはんぬ。所詮山門すでに承諾の気有るか。神妙々々。春衡関東より音信 去る六日の状なり、今朝出仕すべし。奉行人天野加賀*13摂津刑部権大輔これを差し定めらる。先ず神妙。今度上洛定めて遅々せざるかの由これを申す。

 

【史料6】『鶴岡社務記録』正和4年6月27日条:「……若宮事始大奉行攝津刑部大輔親鑒……」

 

【史料C】(文保元(1317)年3月)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*14:「…刑部権大輔近日上洛之間、…」

【史料7-a】『一代要記』文保元年3月条:「三月、関東使者刑部権大輔親鑒上洛、御持世事云々。」

【史料7-b】『続史愚抄』文保元年4月7日条:「四月……七日癸卯。被始行新内裏迁幸〔=遷幸〕御祈御読経等。関東使刑部権大輔親鑒入洛。申入主上御世務事云。」

【史料7-c】『歴代皇紀』文保元年条:「四月七日、東使摂津刑部権太輔〔ママ〕親鑒上洛。」

*この頃、再び東使として上洛したことが窺える。

 

【史料D】(文保3(1319=元応元)年4月)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15:「…六波羅使者下向之間、刑部権大輔信濃前司(以下欠)」

【史料E】(元応元年)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*16:「……又愚身出仕事、昨日刑部権大輔為御使、忩可出仕之旨、被仰下候之間、……」

 

 ◆この間に出家か(法名: 道準)。

 

【史料F】(元亨3(1323)年10月)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収:同月に挙行された故・北条貞時13回忌供養の際、「砂金五十両 銀剱一 馬一疋 置鞍、黒駮、」を進上する「刑部権大輔入道*17

【史料8】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」元亨4(1324)年7月11日条*18:「奉行刑部大輔入道

【史料G】文和4(1355)年9月日付書状(『東寺百合文書』1-12)*19・11月日付書状(同41-53)*20より

「……去元亨四年永嘉門院(=宗尊親王王女・瑞子女王)、於関東(雖)被出御訴訟、奉行刑部大輔入道々隼〔ママ〕信濃前司入道々大……」

*『東寺百合文書』60所収の書状*21文中の「……就之文永親王(=宗尊親王御跡前永嘉門院又被下御使於関東、仍三方御相論、重々有沙汰、奉行摂津刑部権大輔入道々準信濃前司入道々大……」も同内容を伝えるものと思われる。

 

【史料9】『鶴岡社務記録』正中2(1325)年5月25日条:「……到来御所奉行摂津刑部大輔入道〻準(=道準)後藤信濃前司……」

 

【史料H】(正中3(1326)年?)正月17日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*22

御吉事等、猶々不可有尽期候、忠時(=貞顕の嫡孫/貞将の子)去十一日参太守(=得宗/14代執権・北条高時候、長崎新左衛門尉(=長崎高資、兼日、内々申之際、参会候て、引導候て、太守御前にて三献、御引出物ニ御剣左巻、給之候、新左衛門尉役也、若御前(=高時の嫡男・万寿〈のちの北条邦時〉か?)同所へ御出、御乳母いたきまいらせ候、其後御台所の御方へ大御乳母引導候、三こんあるへく候けるを、大乳母久御わたり、御いたわしく候とて、とくかへされて候、御引出物ハ砂金十両 はりはこニ入てかねのをしきにをく 、其後御所へ参候、自太守御使安東左衛門尉貞忠にて候き、兼日刑部権大輔入道ニ申之間、大夫将監親秀(=摂津親秀:親鑒の弟)参候て申次、御所へは貞冬(=貞顕の子/忠時の叔父)同道候て、御前へ参了、御剣被下也、女房兵衛督殿役也、其外近衛殿・宰相殿以下御前祗候云々、見めもよく、ふるまいもよく候とて、御所ニても太守にても、御称美之由承候之際、喜悦無申計候、又…(以下欠)

 

【史料I】(正中3(1326=嘉暦元)年3月)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*23

太守禅門(=北条高時 入道崇鑑)御労、今日はいよ々々めてたき御事ニて候へは、返々よろこひいり候なり、愚老(=貞顕)出家暇事、十三日夜、以長崎新左衛門尉(=高資)雖申入候、無御免候之間、両三度申上候了、雖然猶不及御免候程に、明旦重可参申之由申候て退出、十四日可参申旨思給候之処、以刑部権大輔入道種々被仰下候き、然而猶愚詞重々申入候了、猶無御免候て、重〔=重ねて〕大輔入道にて被仰下候之上、長崎入道(=円喜)直にさま々々に申さるゝむね候しかとも、愚存之趣、再三申候き、所詮、若御前御扶持事以下、落飾候て申旨共候し間、申畏承候由候了、五ケ度雖申入候、御免なく候之際、周章無極候、……(以下欠)

 

【史料10】(正中3年)3月「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*24

愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人々、陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守駿河守尾張前司 遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃貢の事、信濃左近大夫(以下欠)

【読み下し】愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々……(以下略)

文中の「愚老」・「予」とは一人称*25、すなわち筆者である貞顕で、3月16日に長崎新兵衛尉(実名不詳、新左衛門尉高資の一族であろう)から15代執権就任の知らせを聞いた直後に書かれたものであることが分かる。そして同日の評定のメンバーに「刑部権大輔入道」が含まれており、評定衆のメンバーであったことは次の史料によっても裏付けられる。

 

【史料J】鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*26

法名は「道準」と書かれるべきところを、俗名「親鑒」と混同して誤記されたものと思われるが、これらにより却って摂津親鑒(道準)であることがむしろ明確になろう。

 

【史料11】『鎌倉年代記』嘉暦2(1327)年条*27:引付五番頭人に就任。

「四月十七日引付頭 茂時 道順 貞直 延明 道準

 

【史料K】(嘉暦4(1329元徳)年?)「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『花供導師作法裏文書』)*28:文中に「……愚状□□□□□□□候き、刑部禅門ひらに申□□□□□□□候ほと……」

【史料L】(嘉暦4年?)2月2日付「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『鉢撞様』裏文書*29:文中に「……評定奉行を刑部□□□□□〔権大輔入道□□□れて候よし承……」

【史料M】元徳年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*30:「明日刑部入、明後日問注所信入一瓶持来候へきよし申……」

【史料N】元徳年)10月28日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)末筆部分*31

(前略)

一. 刑部権大輔入道備中国吉備津宮造国并社領事に、愚状をこひ〔請い〕候し程に、書遣候了、能々御意に入られ候て、御さた〔沙汰〕〔脱字あり?〕 、代官参入之時も、御対面候て、よく御あひしらひ候へく候、あなかしく、

 十月廿八日

(切封墨引)
元徳元十一十三、雑色帰洛便到」
 

 

【史料O】元徳年)11月11日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*32

一. 去月十九日夜、甘縄の城入道の地の南頰いなかき左衛門入道宿所の候より、炎上出来候て、其辺やけ候ぬ、南者越後大夫将監時益北まてと承候、彼家人糟屋孫三郎入道*1 以下数輩焼失候、北者城入道宿所を立られ候ハむとて、人を悉被立候程ニ、そのあきにてとゝまり候ぬ、南風にて候しほとニ、此辺も仰天候き、北斗堂計のかれて候之由承候、目出候々々、

一. 去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時門前より火いてき候て、亀谷の少路へやけ出候て、土左入道宿所やけ候て、浄光明寺西頰まてやけて候、右馬権助右馬権頭貞規後室・刑部権大輔入道宿所等者、無為に候大友近江入道宿所も同無殊事候、諏方六郎左衛門入道*2 家焼失候云々、風始ハ雪下方へ吹かけ候き、後ニハ此宿所へ吹かけ候し程ニ、驚存候しかとも、無為候之間、喜思給候、火本ハ秋庭入道右馬権助家人高橋のなにとやらん同前*3 か諍候之由聞□〔候、あなかしく、

 十一月十一日

(切封墨引)

 

*1:糟屋入道道*33。実名は不詳。

*2:得宗被官・諏訪氏の一族。他史料上に現れる「諏訪六郎左衛門尉」*34が出家した同人とみられるが、系譜・実名は不詳。

*3:秋庭氏については六波羅探題被官の出身、高橋氏は得宗被官の一族と推測される*35 

この時、親鑒(道準)の宿所は「無為(=無事)」であったという。これは鎌倉幕府御所(=宇都(津)宮辻子幕府)から亥の方角に位置し、次の『浄光明寺敷地絵図』に「刑部」として示される、曽祖父・中原師員以来相伝の摂津氏本邸*36のことを指すと考えて良かろう。

▼【図P】『浄光明寺敷地絵図』*37

f:id:historyjapan_henki961:20220130025235j:plain

 

【史料Q】元徳年)12月5日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*38

(前欠)可得其意候、

一.彼堂事、月公状并注文給候了、のとかに能々み候て、不審候者、重可申候、

一.北方(=六波羅探題北方・常葉範貞)使者山本九郎帰洛之由、承候了、

一.能書人不尋出之旨同前、猶々可有御尋候、宗人等者、はか々々しく尋出候ハしと覚候、他所の仁に申され候へく候、一童雑色等事、子細同前、

一.刑部権大輔入道代官参申旨承候了、可被入御意候、

一.長門六郎兵衛入道跡事、同承候了、尤不審候、舎兄者、行意か諸事計申候之旨、語申候き、不実候哉、あなかしく、

 十二月五日

(切封墨引)
元徳元十二、親政下人便到、」

 

【史料R】元徳年)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*39

長門六郎兵衛入道跡、いかやうにゆつりて候やらん、子息等年少にて、弥御要人不足に候事、返々々歎入候々々、又京都も不審候、能々内々者可有御用心候也、今月十二日御札、同廿三日到来候了、

一.佐々木近江入道子息等返状、慥賜候了、

一.出雲次郎左衛門尉(=波多野通貞?)返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、

一.神津五郎兵衛尉秀政、於播州所領他界之旨、承候了、暇も不申候て下向之条、不可思儀〔議〕候、右筆奉行五人つゝにて候しか、刑部権大輔入道奉行にて、近年六人になされ候事、不可然覚候、時に欠出来もくるしからす

(以下欠)

 

【史料S】元徳年)12月22日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*40

(前略)

一 常陸前司(=小田時知)伊勢前司(=伊賀兼光)佐ゝ木隠岐前等、一級所望事、宮内大輔奉行、其沙汰候。被訪意見候之間、皆可有御免之由、申所存候了。而城入道常陸隠岐両人者、可有御免、伊せ〔伊勢〕ハ難有御免之由被申候云ゝ。刑部権大輔入道同前候歟之旨推量候伊勢常陸よりも年老、公事先立候。丹後筑後(=小田貞知)日来座下候。近此頭人にてこそ候へ、伊せハ十余年頭人候。器量御要人候之間、一級御免不可有其難候歟之由、再三申候了。宮内大輔披露いかゝ候らん。不審候。あなかしく。

十二月廿二日

(切封墨引)
元徳二正二、北方雑色帰洛便到」
 

文中に登場する「宮内大輔」は、同年のものとされる8月29日付の貞顕(崇顕)書状(『金沢文庫文書』)*41に「…兼日為宮内大輔高親奉行…」とあることから、後述の【史料W】系図X】や『分脈』と照らし合わせても、息子の摂津高親であると判断できる。

冒頭、3名の一級昇進について宮内大輔=高親が「為…奉行(奉行として)」その沙汰を行ったとあり、高親が務める「奉行」は所謂官途奉行であったと見なされる。

 

【史料T】元徳年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*42

(前略)

一. 忠伊法印父子三人被殺害事、承候了、先驚存候、評定之趣、子細とも候へとも、忠伊名仁候之上、関東へ下向候て、鑑厳僧都従父兄弟候之間、 刑部権大輔入道無内外候、仍関東へ御注進候□□□宜候ぬと覚候、自公家如此被仰下候、可為何様候哉之由、可有注進候、又此事自諸方、内々馳申候ぬと存候之間、其以前ニ先長崎入道父子(=円喜・高資)城入道ニ沙汰候て、雖可令注進候、先為御意得、令申候之由、自御辺示給候とて、昨日廿四日、長崎入道父子ニハ、以盛久令申候了、入道ハ、

(以下欠)

忠伊法印父子3人が殺害されたことに貞顕が驚いた様子が窺える書状である。忠伊法印は「名仁」として鎌倉でも評判が良く、鶴岡八幡宮供僧・鑑厳の従兄弟であったため、親鑒(道準)とも「無内外」=親密であったという*43。鑑厳(鑒厳)が親鑒の子であった*44からであろう。

 

【史料12】『鎌倉年代記元徳2(1330)年条:安達時顕(延明)の後継として引付四番頭人に転任。

「正月廿四引付頭 茂時 道順 貞直 道準 道蘊

「七月廿四日引付頭 貞時〔貞将 道順 貞直 道準 道蘊

「十二月二日 貞将 貞直 範貞 道準 道蘊

*翌1331年正月23日の引付改編では、四番頭人塩田俊時(道順=時春(時治)の甥)に、五番頭人安達高景(時顕の嫡男)に交代している。

 

【史料U】元徳2年?)「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『供養法作法裏文書』)*45:文中に「……□□〔佐々〕木隠岐前司清高・□□□□□□□〔摂津?〕刑部権大輔入道々準・□□□□□□……」

【史料V】元徳2年?)6月9日付「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『供養法作法裏文書』)*46:文中に「……定日不□□□□□□□□事に刑部禅秘計□□□□□□□と覚候程……」

*「禅」は禅門(=入道)の略記であろう。貞顕も自身の書状の中で"長崎入道"=長崎円喜を「長禅門」、"城入道"=安達時顕(延明)を「城禅門」と呼ぶことは多々あったが、「禅」と略記した例は確認できない。但し、他の史料だと、前述【史料 】『北條貞時十三年忌供養記』の文中で「別駕(=城介時顕)洒掃(=掃部頭長井宗秀)長禅(=円喜)以下御内宿老 参(られ)候」と記された例も確認され、同様の書き方と見受けられる。

 

【史料W】(元弘2(1332)年)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢称名寺文書』)より*47 

(前略)

御乗之路次無為一昨日 十七日酉刻 下着候了。左候□、同前候。返ゝ目出喜入候。神宮寺殿御乳母両人進物、去夕被遣候之処、領納。悦喜候之間、悦思給候。左候者、五月其憚候之間、来月可見候。此程も無心本候。

右馬助貞冬罷当職一級事令申候之処、一昨日有御沙汰、御免候。御教書進之候。小除目之次、可有申御沙汰候。同時ニ駿川駿河大夫将監顕義(=貞顕の兄・金沢顕実の子)越後大夫将監時益*48。・相模前右馬助高基相模右近大夫将監時種等御免候了。此人ゝゝ自貞冬上首候之間、不可超越候程ニ不知存候。仍竹万庄沙汰人帰洛之由、令申候之際、事付候。此人ゝゝ同時ニ被叙候之様 (中欠) 人と同日ニ可被叙候。評定衆昇進之時、引付衆・非公人之上首候哉覧と沙汰ある事ハ古今無沙汰事候。旧冬四人評定衆・鎮西管領(=赤橋英時*49御免候しも、引付衆・非公人の上首、御さたなく候き。今度始御沙汰候歟。高基時種等を被付上候。背本意候。官途執筆高親眼□事候之際、道準令申沙汰候。城入道・長崎入道(=長崎円喜はかり相計候云ゝ。内挙も罷官申候も、所望の方人にて候事なと、つやゝゝ無存知人候之間、歎入候。

(以下略)

 

(切封墨引)  五月十九日

この史料は1332年に書かれたと考えられ*50元徳2(1330)年のものと考えられる2月19日付の貞顕(崇顕)書状(『金沢文庫文書』)*51の文中に「官途執筆宮内大輔高親」とあることから、高親が就いていた官途奉行は当時「官途執筆」と呼ばれていたらしい。貞冬・顕義・時益高基・時種の北条氏一門5名の一級昇進についてもやはり高親が関与していたことが窺える。

但し、【史料S】【史料W】をよく見ると、高親による官途推挙には父・道準(親鑒)の意向が反映されていたことが示唆されている。細川氏によると、高親の職務は単なる事務手続きのみで、官途申請の取捨を行う権限は事実上無く、推挙に際し発言権を有していたのは、北条高時政権首班の長崎円喜・安達時顕(延明)、次いで貞顕(崇顕)・親鑒(道準)の4名であったという。鎌倉時代末期の高時政権において道準も上層部(「寄合合議制」)の一人として一定の権力を持っていたことが窺えよう。

*『門司文書』所収「中原系図」では高親を親鑑の「弟」とするらしいが、この【史料W】によって否定されよう。親は元服時に時の偏諱を受けたとみられ、世代的にも親鑑の子とするのが妥当である。

 

 

 

親鑑(道準)の最期と鎌倉幕府の滅亡

翌1333年、親鑒(道準)高親父子は鎌倉幕府滅亡と運命を共にすることとなる。

 

【史料14】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」*52より

去程に高重(=長崎高重)走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門(=長崎高直?)に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部大夫〔ママ〕入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿(=北条高時の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。…………其外の人々には、……摂津刑部大輔入道……摂津宮内大輔高親同左近大夫将監親貞、……我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。……元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

太平記』は元々軍記物語ゆえ、多少の表記違いや「権」の脱字は考慮しなくて良いだろう。東勝寺に駆け込んで来た長崎次郎高重が、弟の新右衛門に酌を取らせ三度飲み干した盃を親鑒(道準)の前に置いて自害すると、道準も「見事な肴だ、どんな下戸であろうと呑まないわけには行かない」と戯れを言いながら盃半分ほどを呑んで腹を切り最期を遂げたと伝える。

次に盃を置かれた諏訪直性は、元服時に北条時(執権在職: 1268~1284年)偏諱を受け「」を名乗ったとされ、この当時80代あたりに達していたと思われる。実際、直性は切腹の際のセリフで自身を「年老」、高重・道準らを「若者共(ども)」と言っており、道準が直性に比べ若い世代であったことが示唆されている。

自害者のリストには、嫡男・高親系図上で確認できないがその近親者と思われる親貞(ちかさだ)も含まれており、親鑒(道準)と運命を共にしたことが窺える。

*「左近将監」の官途の一致や「貞」字の共通からすると、後掲【系図X】上に見える摂津貞高(親鑒の甥、高親の従兄弟)を指す可能性も考えられる。

 

【史料14】の内容は、幕府滅亡後の史料によって裏付けが可能である。

一つ目に、建武2(1335)年10月4日付の加賀国向け太政官符の文中に「……刑部権大輔親鑒法師、為(…として)師茂後胤 相続知行、経年序訖、今度朝敵滅亡之間、師利預勅裁訖、……」とあるのが確認できる*53。同国の石川郡(現・石川県)河北郡加賀郡)にまたがる倉月荘(くらつきのしょう)は、中原師茂の後胤として相続・知行し、地頭職・領家職の両方を有していた親鑒(道準)が "朝敵"=鎌倉旧幕府の滅亡に殉じたため、建武政権によってその旧領は中原家の家督を自認する中原師利に知行が認められた旨が記されている*54

*但し、師利の知行は翌1336年に足利尊氏の発した「元弘没収地返付令」で否定され、同年親鑒の弟・親秀が親鑒旧領を本領として返付されることとなり、次に紹介する親秀の譲状に繋がっていく。

f:id:historyjapan_henki961:20220129144136j:plain

▲【系図X】

次いで、『士林証文』に収録されている親鑒の弟・摂津親秀の書状を見ておきたい。そのうち、暦応4(1341)年8月12日付の譲状*55では、自身の所領を孫である「惣領 能直(よしなお)」などに分割して相続させる旨を記しているが、その中で唯一例外的に「摂津三郎時親の事」という項目がある*56。その中身は次の通りである。

 

【史料Y】暦応4(1341)年8月7日付「摂津親秀譲状」(『士林証文』)

一.摂津三郎時親

右親類等悉所分*1之上者、尤雖可計宛、及訴訟之間不能所分、雖然御沙汰落居*2之後、為惣領之計(=惣領の計らいとして)、以備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分、可去与時親、但違惣領之命者、可申賜当所之状 如件、

 暦応四年八月七日  掃部頭親秀

*1: 所領*57

*2: 物事の決まりが落ち着くこと*58 

「右(=摂津時親)親類等」の悉くの所領の事(扱い)について、訴訟に対する沙汰が決定した後に、惣領の計らいとして「備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分」を摂津時親に与える旨を記したものであるが、「等(など)」という表現からすると当然時親以外の一門も含まれると考えられる。系図X】と照らし合わせれば、対象となり得るのは、親如(ちかゆき)致顕(むねあき)父子の系統か、時親の系統であろう。

しかし、細川氏によると同文書に「一.隼人正入道宗準 分」と書かれている*59のは、『建武年間記』の関東廂番三番衆の一人に「前隼人正致顕*60、康永3(1344)年3月21日付「室町幕府引付番文」(『白河結城文書』)の四番に「摂津隼人正入道」と見える*61ことから、致顕が出家した同人ではないかという。すなわち、致顕は別の項目で書かれていることが分かる。

*致顕は隼人正への任官、「準」字を持つ法名の点で伯父・親鑑との共通点を持っている。

 

従って、「等」に含まれるのは時親を含む兄・親鑒(道準)の系統で、「親類等悉所分」というのは、北条氏と運命を共にした親鑒やその嫡男・高親の遺領をも指す表現ではないかと思われる鎌倉時代末期において親鑒が摂津氏をまとめる立場にあったことは前に掲げた史料により明白であるが、暦応4年の段階で次の「惣領」に嫡孫・能直を指名できる立場にあったことも踏まえると、親秀は親鑒高親父子の死に伴って摂津氏惣領の座を継承していたと考えられる。【史料H】にある通り、親秀も当初は鎌倉政権下で活動していたことが窺えるが、滅亡時には幕府や長兄・親鑒一家と距離を置いて生き残ったのであろう。

【史料14】から1年を迎える建武元(1334)年5月、別府尾張権守幸時(別府幸時)が、後醍醐天皇から恩賞として「上野国下佐貫内羽禰継 刑部権大輔入道道」を賜っており(『駿河志料』)*62、一方で親秀は1330年代後半から安堵方頭人・引付方頭人としての活動が確認できる*63。また、前掲【図P】鎌倉幕府滅亡直後に描かれたとされ、その図中に「刑部」と書かれていることも踏まえれば、【史料14】は軍記物語でありながら史実に基づいたものと考えて良いだろう。

尚、当時の時親は「三郎」と称するのみでまだ無官であったことが分かるが、元服してさほど経っていない段階であったからであろう。当時の年齢を元服適齢の10代前半と仮定すると、父・高親の活動期にあたる1330年頃には生まれていたことになる。従って親子の年齢差を考えれば、高親は1310年頃までには生まれていたと推定可能で、祖父にあたる親鑒(道準)の生年もやはり前述の通りで良いと思われる。

 

【史料T】にも登場した、もう一人の息子(高親の兄弟)鑑厳僧都も、建武3(1336)年8月25日に南朝新田義貞方の大将の一人として、北朝方・足利尊氏の軍勢と戦い、八幡大路にてもう一人の大将である「越後松寿丸*64」と共に生け捕られた後、誅殺されたと伝わる*65

 

(参考ページ)

 摂津親鑑 - Wikipedia

 摂津親鑒とは - コトバンク

 南北朝列伝 ー 摂津氏

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.88。

*2:『鎌倉遺文』第29巻22417号。

*3:柳原家旧蔵本(書陵部 柳0492~0640)-実躬卿記 一五 徳治二年 00006476 ページ目。

*4:『鎌倉遺文』第30巻23167号。

*5:角川日本地名大辞典』「大塚郷」・「栗須郷(中世)」各解説ページ より。

*6:『鎌倉遺文』第32巻24638号。『第二回西武古書大即売展目録』または『神奈川県史 資料編2』に収録。

*7:清和源氏流山名氏の一族と思われるが『尊卑分脈』を見る限り該当し得る人物は確認できない。

*8:2013/07/08: 木瓜爺撮歩63-12 南平・平水山壽徳寺 (No.1643) | Choi-boke 爺ちゃん より。

*9:摂津国 - Wikipedia より。

*10:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1983年)P.96。

*11:注1前掲細川氏著書 P.19。

*12:年代記正和4年 より引用。

*13:天野加賀守については他の史料で特に確認できず、実名不詳であるが天野氏一門の者と推測される。天野氏については、福田榮次郎「御家人天野氏の領主制をめぐって ー中世領主制の一考察ー」(所収:『明治大学人文科学研究所紀要』41号、1997年)に詳しい。

*14:『鎌倉遺文』第34巻26127号。

*15:『鎌倉遺文』第35巻27016号。

*16:『鎌倉遺文』第35巻27145号。

*17:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*18:『大正新脩大蔵経』図像第11巻(大正新脩大蔵経刊行會、1934年)P.1022。

*19:『大日本史料』6-19 P.933

*20:『大日本史料』6-20 P.85

*21:『大日本史料』5-32 P.4

*22:金沢文庫古文書』369号。『鎌倉遺文』第38巻29313号。

*23:『鎌倉遺文』第38巻29389号。

*24:『鎌倉遺文』第38巻29390号。『金沢文庫古文書』374号。注1前掲細川氏著書 P.319、年代記嘉暦元年 にも掲載あり。

*25:愚老(グロウ)とは - コトバンク より。

*26:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*27:前掲『続史料大成』P.32。

*28:『鎌倉遺文』第39巻30505号。

*29:『鎌倉遺文』第39巻30507号。二階堂行貞 - Henkipedia【史料20】を参照のこと。

*30:『鎌倉遺文』第39巻30782号。

*31:『鎌倉遺文』第39巻30765号。

*32:『鎌倉遺文』第39巻30775号。

*33:同じく『金沢文庫文書』に所収の、元徳元(1329)年12月2日付「伊勢宗継請文案」(『鎌倉遺文』第39巻30788号-1)、および同年のものとされる「金沢称名寺雑掌光信申状案」(『鎌倉遺文』第39巻30792号)に「糟屋孫三郎入道々暁」とあるによる。東氏 ~上代東氏~ も参照のこと。

*34:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.197 注(13)に言及されている通り、『円覚寺文書』に所収の史料2点、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)の一番中に「諏方六郎左衛門尉」、『北條貞時十三年忌供養記』には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「銭十貫文」を進上する人物として「諏方六郎左衛門尉」(注3前掲『神奈川県史』P.710)の記載がある。

*35:これについては、大村拓生「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(所収:『都市文化研究』3号、大阪市立大学大学院文学研究科 都市文化研究センター、2004年) P.75 を参照。

*36:玉林美男「鎌倉における『吾妻鏡』に記された陰陽師等の方位表記とその位置について(2)」P.51。

*37:前注玉林氏論文 P.43 図8 より。

*38:『鎌倉遺文』第39巻30796号。

*39:『鎌倉遺文』第39巻30797号。

*40:注1細川氏著書 P.326より引用。『鎌倉遺文』第39巻30829号。『金沢文庫古文書』414号。

*41:『鎌倉遺文』第39巻30730号。

*42:『鎌倉遺文』第39巻30832号。『金沢文庫古文書』413号。

*43:朽木氏の系譜―高島七頭(2): 佐々木哲学校 より。

*44:南条貞直 - Henkipedia【史料2】を参照。

*45:『鎌倉遺文』第40巻31120号。

*46:『鎌倉遺文』第40巻31119号。

*47:注1細川氏著書 P.324~325 より引用。

*48:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪。尚、『武家補任』によると時益は元徳2(1330)年の上洛の段階で既に左近将監に任官済みであったという(→ 『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳2年4~7月 P.51)。

*49:鎮西探題在職は1321年頃~1333年(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その31-赤橋英時 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。

*50:この史料は年次未詳であるが、文中に「城入道」とあることから、秋田城介・安達時顕(法名:延明)が出家した嘉暦元(1326)年以後に書かれたものであることは確実である。細川氏によれば、この書状は金沢貞顕の次男・貞冬の官位昇進についてのものであるという。貞冬は右馬助を辞して一級昇進することが認められたが、貞冬の「上首」であった従兄弟の甘縄顕義や北条時益・普音寺高基・北条時種を超越する形で貞冬だけを昇進させるわけにいかないということで、「上首」4名も同時に昇進することとなったようである。これに対し貞顕は、前年の冬に評定衆および鎮西探題が昇進した際には「引付衆・非公人」で「上首」であった者には何の沙汰も無かったという前例まで挙げて不平不満を述べていることが分かる。『鎌倉年代記』裏書によれば、元徳3(1331=元弘元)年9月の幕府軍上洛の段階でも大将の一人として「右馬助貞冬」と名乗っていたから、右馬助を辞す話が出るとすればこれ以後であろう。記載の日付も踏まえると1332年または1333年と推定されるが、鎌倉幕府滅亡直前の混乱期にあたる1333年5月19日に書かれたとは考え難く、前年の1332年で良いと判断される。

*51:『鎌倉遺文』第39巻30909号。『金沢文庫古文書』419号。注1細川氏著書 P.326 または 摂津高親 - Henkipedia【史料4】も参照のこと。

*52:太平記. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その1) : Santa Lab's Blog

*53:『大日本史料』6-2 P.615

*54:倉月荘とは - コトバンク より。

*55:『大日本史料』6-6 P.881~

*56:『大日本史料』6-6 P.885

*57:所分(しょぶん)とは - コトバンク より。

*58:落居(ラッキョ)とは - コトバンク より。

*59:『大日本史料』6-6 P.884

*60:【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕を参照のこと。

*61:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。

*62:『大日本史料』6-1 P.5523.鎌倉幕府の滅亡と鎌倉後期の佐貫荘 - 箕輪城と上州戦国史幡羅郡家は別府郷にあった成田四家

*63:注1前掲基礎表 No.132「摂津親秀」の項。

*64:『大日本史料』6-5 P.434を見ると、越後守北条仲時の遺児である松寿(『諸家系図纂』所収「北条系図」)に相応しき呼称だが、同系図には「後号左馬助友時」の注記もあり、『鶴岡社務記録』や『歴朝要紀』には1339年2月に伊豆仁科城で反乱を起こした37人のうち、大将の"普薗寺左馬助" 友時以下13人が相模龍口にて斬られたと記されていて、正確なところは不明である。

*65:『大日本史料』6-3 P.699

北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき、1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。鎌倉幕府第2代執権。

北条時政の次男。母は伊東入道(=祐親か)の娘と伝わる(『前田本平氏系図』)*1。通称および官途は 江間小四郎、相模守、右京権大夫 兼 陸奥守。法名は観海 または 徳崇とも。

 

本項では「義時」の名乗りについて述べたい。

北条氏代々の通字「時」に対し、その上(1文字目)に戴く「」の字は烏帽子親からの偏諱と考えられるが、細川重男は三浦氏三浦義明 または 三浦義澄)からの一字拝領ではないかとする見解を説かれている*2。尚、「義」の字は、三浦為継(為次)の子・継(義次)が 源家から賜って*3以来、三浦氏代々の通字となっていた。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年) でも、北条義時(写真手前)と三浦義村は従兄弟(伊東祐親の孫)同士にして盟友関係。

 

系図類によれば、三浦氏でも義村の母が「伊東入道女(=娘)」であったと伝えられる(『諸家系図纂』、『系図纂要』、『佐野本 三浦系図』)*4。すなわち、北条時政・三浦義澄の父同士が伊東祐親の娘婿として親交があったとされ、義時の烏帽子親を務めるきっかけとなったのであろう。その参考として、義澄の末弟・義が義時の弟・(のちの時房)、義澄の子・義が義時の子・政の烏帽子親を務めた記録が『吾妻鏡』に残されている。息子同士にしてほぼ同世代であったと思われる義時と義村もまた、盟友的な関係にあったとされ、反対に義村の子・は「元服之時北条(義時の子)加冠、授諱字(「佐野本三浦系図」)*5だったようである。

 

2代執権を務めた晩年期には、元服時の烏帽子親として「」の字を安達に与えたと考えられている*6

 

その他、生涯・事績について以下のページをご参照いただきたい。

 

(参考ページ)

 北条義時 - Wikipedia

 北条義時とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪

 名前のややこしさ、そして偏諱という補助線 – 徳田神也のblog

 

脚注

*1:『大日本史料』5-22 P.258

*2:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。

*3:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。

*4:大日本史料』5-14 P.4075-22 P.115P.133

*5:『大日本史料』5-22 P.134今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。

*6:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.40。鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.330。