武田氏信
武田 氏信(たけだ うじのぶ、1312年~1380年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代・室町時代前期にかけての武将、守護大名。武田信武の長男。仮名は彦太郎。官途は兵庫助、伊豆守。法名は光誠(こうせい)。
生誕と元服
『系図綜覧』所収の『甲斐信濃源氏綱要』*1(以下『綱要』と略記)によると次の通りである。
応長2(1312)年1月2日、武田信武の長男として甲府の館にて生まれる。母は二階堂行藤の娘(時藤・貞藤の姉或いは妹)。幼名は徳光丸。元亨2(1322)年3月15日に足利貞氏を烏帽子親として11歳(数え年、以下同様)で元服、「氏」の偏諱を与えられて彦太郎氏信と名乗ったという。
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信時流武田氏では、祖父・信宗の代まで北条氏得宗家の偏諱を賜っていたが、その座は得宗被官として台頭してきた政綱(石和)流武田氏(宗信―貞信)に移ってしまい、父・信武の代には得宗家とやや疎遠な関係になってしまったとみられる。そこで信武が頼りにしたのは、得宗・北条貞時から「源氏嫡流」の公認を受けていたとされる貞氏*2であった。足利氏は北条氏と婚姻関係・烏帽子親子関係を重ね、それに次ぐ家格を誇っており、信武父子は早くから足利氏と結び付くことで劣勢な状況の打開を狙っていたのではないか。
鎌倉幕府滅亡期(元弘の乱)における動向は明らかになっていないが、僅かに『綱要』 には元弘2(1332)年秋に幕府軍の一人として上洛し、翌3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いでは美作の国人らを討ち取ったとある。後者合戦については『太平記』巻8「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」にある「武田兵庫助」*3を指すと思われるが、これは父・信武に比定すべきである(次節参照)*4。但し信武の軍勢に息子の氏信が随行していた可能性は十分にあり得、恐らく父子ともに当初は幕府方につき、やがて幕府を見限って乗り切ったと見なされる。このような行動は貞氏の子・高氏(のちの尊氏)に連動したものであろう。以後も信武・氏信父子は足利氏に従うこととなる。
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兵庫助在任時代
その後、氏信の名が確認できる史料としては、観応3(1352)年7月10日付の「熊谷彦八殿(=直平)」宛て足利義詮の書状案(後掲【史料6】)*5および同年11月日付「吉河次郎三郎経兼軍忠状」(後掲【史料7】)*6の文中の「武田兵庫助氏信」、また同年のものとされる12月12日付「吉河次郎三郎殿(=経兼)」宛て足利直冬の書状(後掲【史料8】)の冒頭「武田兵庫助氏信以下凶徒事、……」*7が挙げられる。『尊卑分脈』の武田氏系図(以下『分脈』と略記)にも氏信の項に「兵庫助」の注記があり*8、この当時41歳にして兵庫助(正六位下相当)*9であったというのは父・信武とほぼ同様で何ら問題は無いと思う。
ちなみに信武については、建武3(1336)年6月25日(当時45歳)の段階では「武田兵庫助信武」と呼称されていた*10のが、暦応4(1341)年(当時50歳)になると伊豆守在任が確認できる*11。
すなわち、次に列挙する1341年以後の「武田兵庫助」も父の官途を継承した氏信に比定されよう。
●【史料1】康永4(1345=貞和元)年8月29日:足利尊氏・直義兄弟の天竜寺参詣に際しての随兵の中に「武田兵庫助」(『園太暦』*12・『伊勢結城文書』*13・『太平記』巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」*14)
*『太平記』巻24(流布本)には、この時の先陣の随兵の一人に「武田伊豆前司信氏〔ママ〕」を載せ、名の類似という理由だけで判断すれば「氏信」とも見なし得るが、『参考太平記』によると毛利・北条・金勝院・南都の各本『太平記』および今川本の27巻では諱を「信武」と記すようで*15、また実際の史料である『伊勢結城文書』にも「武田伊豆前司 信武」と明記される*16ことから、この当時の武田伊豆前司(前伊豆守)=信武であったことは間違いない。「信氏」の名は『太平記』伝写の際に、直前に載せる「山名伊豆前司時氏」と混同された可能性も考えられよう。従って、それとは別に載せる「武田兵庫助」の方を氏信に比定して何ら問題は無い。尚、同じく随伴した「武田伊豆四郎」は伊豆前司信武の子、兵庫助氏信の弟にあたる武田直信(ただのぶ)ではないかと思う(『分脈』より)。
●【史料2】同4(1348)年7月11日付「武蔵守(高師直)奉書」(『薩藩旧記』):文中の「武田兵庫助」*17
★【史料3】観応元(1350)年6月19日付「兵庫助(武田氏信)書状」(『熊谷家文書』/『萩藩閥閲録』27-2):「熊谷彦八殿(=前述と同人)」宛て。発給者「兵庫助」の署名と花押*18
*次節にて後述するが【史料9】での花押に一致するため、武田氏信に比定される(武田氏と分かることについても後述する)。
●【史料4】観応元年7月日付「周防親長軍忠状」*19、同月27日付「吉川実経軍忠状」*20:
軍忠状とは、中世の武士が合戦における自分の功績を書き上げ、上申した文書のことで、上申された文書には軍事統率者たる大将が「承了(うけたまわりおわんぬ)」などと記して花押を据える形での証判を加え、差出人に返却した*21。この2点には氏信の花押が据えられており、6月2日、自身が守護を務めていた安芸国(後述参照)内にて「御敵之大将先代一族相模治部権少輔、毛利備中守親胤〔親衡の誤記または誤読か〕以下」*22の軍勢を敗走させた際の大将であったことが分かる。
*ここでの「先代」とは他史料でも見られるように北条氏を指す。すなわち「相模治部権少輔」は北条氏一族の生き残りで、その通称のみからで判断すれば、鎌倉時代後期、相模守に就任していた歴代執権(宗宣・貞顕は除く)いずれかの息子と考えられる。師時の子・貞規、基時の子(仲時・高基)、守時の子とされる益時は鎌倉幕府滅亡以前に亡くなっており、高時の子・時行はこの頃鎌倉周辺で戦っていたから、煕時の子(貞煕?・胤時・時敏)*23がその候補となり得よう。勿論、系図に記載の無い兄弟の可能性もあるので、これについては後考を俟ちたい。
●【史料5】貞和6(1350)年11月日付「吉川経盛申状」(『吉川家文書』):文中の「当国(=安芸国)守護武田兵庫助」*24
*実際は1350年2月に貞和から観応に改元しているが、直冬およびその徒党は翌1351年まで「貞和」の元号を用い続けていた*25。
●【史料6】観応3(1352)年7月10日付「足利義詮御感御教書」(『熊谷家文書』/『萩藩閥閲録』27-2):文中の「武田兵庫助氏信」
●【史料7】観応3年11月日付「吉川経兼軍忠状」(『吉川家文書』):文中の「武田兵庫助氏信」
●【史料8】(観応3年カ)12月12日付「足利直冬御教書」(『吉川家文書』):冒頭に「武田兵庫助氏信以下凶徒事、……」
以上、これらの史料により、氏信は1345~1352年の間、34~41歳で兵庫助在任であったことが分かる。
伊豆守への昇進と出家後
1352年9月、「観応」から「文和」への改元が行われた。この年末に出された次の史料に着目したい。
★【史料9】文和元(1352)年12月27日付「伊豆守(武田氏信)預状」(『熊谷家文書』/『萩藩閥閲録』):発給者「伊豆守」の署名と花押*26
『大日本古文書』によると、【史料3】での「兵庫助」の花押はこの花押に一致するという。そして後掲【史料13】によって武田氏信であることが確定するが、すなわち氏信は1352年12月下旬に当時41歳で兵庫助から伊豆守(従六位下相当)に昇進したことが分かる。官位相当の面では降格となるが、助(すけ、次官級)から守(かみ、長官級)への転任は昇進とみなされるし、また伊豆守は2代・信光から父・信武に至るまでゆかりのある役職であるから、むしろ希望に叶った待遇と言えるのではないか。
▲【図B】南北朝期武田氏の花押(『大日本古文書』・『大日本史料』より)
この頃、観応2(1351)年10月26日付の書状(『大善寺文書』)に「安芸守信成」*27、翌1352年の出来事を描く『太平記』巻31の文中に「武田陸奥守(信武)、子息安芸守」とあって*28、同母弟の武田信成*29も安芸守(従五位下相当)任官を果たしたことが窺える。国守任官や叙爵は信成の方が少し早かった*30が、それでも氏信は先祖ゆかりの伊豆守任官が許されており、信成と遜色ない扱いを受けていたと考えるのが良いのであろう。近年では信成は庶子で、氏信の系統(安芸武田氏)が本来の武田氏嫡流だったのではないかと考えられている*31。
以下、その後の氏信に関する史料を列挙する。
★【史料10】文和5(1356=延文元)年3月16日付「伊豆守(武田氏信)預状」(『熊谷家文書』):発給者「伊豆守」の署名と花押*32
*前掲【史料9】のものからは花押の形が変化しているが、これも氏信のものであることは【史料12】・【史料13】を参照のこと。
●【史料11】延文4(1359)年4月20日付「足利義詮書状案」2通(『萩藩閥閲録』27-2):文中の「安芸国…(略)…守護人」*33
*【史料5】との照合により、この頃も氏信が安芸国守護であったと見なされる。
◆この間、伊豆守を退任か。
★【史料12】貞治3(1364)年7月1日付「前伊豆守(武田氏信)預状」2通(『熊谷家文書』):発給者「前伊豆守」の署名と花押*34
*この花押は向きに若干の違いはあるが、筆跡は【史料10】のものに一致する。そしてこの花押は次の史料により武田氏信のものと分かる。
●【史料13】貞治3年10月23日付「足利義詮御感御教書案」(『小早川家文書』):文中に「武田伊豆前司氏信」*35
●【史料14】貞治6(1367)年7月1日付「前伊豆守(武田氏信?)預状写」(『毛利家文書』):発給者「前伊豆守」の署名と判*36
◆この間に出家か(法名:光誠)。
*『綱要』では延文3(1358)年4月、初代将軍・足利尊氏の逝去を悼んで父・信武(法名: 光照)が剃髪した際(『分脈』にも記載あり)、息子の氏信47歳も共にこれに追随し「光誠」と号したとあるが、【史料13】などと照らし合わせてもこれは明らかに誤りである。
★【史料15】貞治6年10月7日付「沙弥(武田氏信入道光誠)書状」2通(『吉川家文書』):発給者「沙弥」の署名と花押*37
★【史料16】貞治6年12月7日付「沙弥(武田氏信入道光誠)書状」(『吉川家文書』):発給者「沙弥光誠」の署名と花押*38
●【史料17】永和元(1375)年8月日付「武田氏信入道光誠?書状」(『福王寺文書』)*39
以後、氏信(光誠)の活動は確認できない。『綱要』によると康暦2(1380)年5月8日に69歳での死去とするが、逆算すると冒頭の生年に合致しており、正しいと判断して良かろう。
まとめ
以上の考察より、氏信の官職歴を表にまとめると次の通りである。
年月日 | 官職・年齢 |
1312.1.2 | 生誕(1) |
1322.3.15 | 元服(11) |
1341頃? | 兵庫助(約30) |
1352.12 | 伊豆守(41) |
1360頃? | 辞伊豆守(約50) |
1367カ | 出家(56) |
1380.5.8 | 逝去(69) |
ここで、前田家所蔵訂正本を底本とする『分脈』〈国史大系本〉を見ると、氏信の注記には「兵庫助」とあるが、異本である前田家所蔵脇坂氏本・前田家所蔵一本・国立国会図書館支部内閣文庫本では加えて「甲斐守護 刑部大甫〔輔〕」の記載があるという*40。しかし、以上の考察から踏まえると「甲斐」は「安芸」の誤りで、可能性が0でないにせよ「前伊豆守」の終見から出家までの数ヶ月間に刑部大輔(正五位下相当)*41任官を果たしたとは考えにくい。むしろこれらは弟・信成に当てはまっている*42*43。恐らく『分脈』になぜか信成の記載が無かったため、氏信と事績が混同されたのではないか。『甲斐国志』でも「武田刑部大輔信成 系図、信武ノ長男、大系図、始氏信……(以下略)」*44と氏信を信成の初名としてしまっている。
また、後に「信頼(のぶより)」に改名したとする説もある*45ようだが、【史料13】により少なくとも貞治3年まで諱が「氏信」であったことは確実で、以後の史料上で「信頼」の名は確認できないため、これも今のところは信用に値しないと思われる。
尚『分脈』には、氏信の子として満信(陸奥守、伊豆守、刑部大輔、信在イ)が載せられる。『系図綜覧』所収『芸州若州両武田系図』を見ると、信在の注記に「伊豆前司信氏〔ママ、氏信〕男、武田伊豆守、鹿園〔ママ、苑〕院将軍義満公賜一字改満信、従五位下、陸奥守、刑部大輔」と書かれており、氏信の嫡男は初め「信在」と名乗ったが、後に3代将軍・足利義満の偏諱を受けて「満信」と改名したと伝える。
*「満信」の名については『一蓮寺過去帳』に「芸州満信」、『高野山武田御位牌帳』にも「甲州武田安芸守満信」に一応記載はあるが、これらは応永24(1417)年2月6日に自害した武田安芸守信満(『鎌倉大草紙』)*46を指すと思われるので注意が必要である。
(参考ページ)
● 武田氏信とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
脚注
*1:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)P.24。
*3:「太平記」四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事(その9) : Santa Lab's Blog 参照。
*4:他にも、誕生寺 (岡山県久米南町) 境内に昭和9(1934)年4月3日に建てられた「南朝作州七忠臣竝忠死者二十人総忠魂碑」の碑文に「武田兵庫助氏顯〔ママ〕」とあり(→ 南朝作州七忠臣竝忠死者二十人総忠魂碑(久米南町) - 津山瓦版)、氏信を指すとみて間違いないが、これも『分脈』・『綱要』など江戸時代までの研究成果の影響により、誤った人物比定がなされたものと思われる。
*5:『大日本古文書』家わけ第十四『熊谷家文書』P.217(二三一号)。『大日本史料』6-16 P.442。
*6:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之一』P.18(三〇号)。『大日本史料』6-17 P.185。
*7:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.191(一〇二〇号)。『大日本史料』6-17 P.299。
*8:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*9:兵庫の助とは - コトバンク より。
*10:『大日本古文書』家わけ第十一『小早川家文書之二』P.349(五六一号)。
*11:『大日本史料』6-6 P.819。 『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.175(九九九号)。
*14:『大日本史料』6-9 P.315。太平記巻第二十四 (その二)。
*18:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.216(二二九号)。『大日本史料』6-13 P.704。
*19:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.322(一一五九号)。『大日本史料』6-13 P.678。
*20:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.221(一〇五二号)。『大日本史料』6-13 P.677。
*21:軍忠状とは - コトバンク 参照。
*22:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.322(一一五九号)。
*23:政村流時村系北条氏 #北条煕時 より。
*24:『大日本古文書』家わけ第九「吉川家文書之一」P.193(二一七号)。『大日本史料』6-13 P.684・6-14 P.66。
*25:貞和 - Wikipedia より。
*26:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.201(二一七号)・P.218(二三三号)。『大日本史料』6-17 P.331。
*28:『大日本史料』6-16 P.298。また、同年(正平7年)閏2月3日付の書状にある「安芸守」も信成であろう(→『大日本史料』6-16 P.159。)
*29:『上総武田氏系譜』や『諸家系図纂』(→『大日本史料』7-1 P.537、以下略記する)および『武田源氏一流系図』の信成の項に「二郎」或いは「次郎」の注記があり、『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録」中にも「武田次郎信成」が寄進した(→『大日本史料』6-26 P.567。こちらのページ も参考のこと)とあるのがその裏付けになるだろう。『上総系譜』では明徳5/応永元(1394)年6月13日に80歳での卒去とし、『系図纂』や『一蓮寺過去帳』、『高野山武田御位牌帳』でも同日逝去とする。逆算すると1315年生まれとなるが、『綱要』での彦太郎氏信の生年より後となり、『綱要』での記載の通り「信武二男」であったと見なされる。尚『綱要』には「母同氏信」とある。
*30:前注で掲げた『一蓮寺文書』目録には、暦応4(1341)年8月17日に「武田次郎信成」が甲斐国一条郷内にある石坪井尻女子跡二町を寄進したとあり、安芸守任官は1340年代~50年代初頭の間であったと推定される。
*31:黒田基樹「鎌倉期の武田氏」(初出:『地方史研究』211号(1988年)/所収:木下聡 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年)。
*32:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.219~220(二三七号)。『大日本史料』6-20 P.451。
*34:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.105(八九号)。『大日本史料』6-25 P.867。
*35:『大日本古文書』家わけ第十一「小早川家文書之二」P.178(三〇九号)。
*36:『大日本古文書』家わけ第八「毛利家文書之四」P.401(一五〇四号)。
*37:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.323(一一六〇号・一一六一号)。『大日本史料』6-28 P.511。
*38:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.178(一〇〇二号)。『大日本史料』6-28 P.560。
*40:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.328。
*42:『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録」中に「武田刑部大輔信成」が甲斐国一条郷内一町三段を重ねて寄進した(→『大日本史料』6-26 P.568。こちらのページ も参考のこと)とある。暦応2年6月付となっているが、同4年の段階で「次郎」を称していたことは注30で掲げた通りで、恐らく「佐分弥四郎入道観阿寄進」のみに対するものかもしれない。『山梨県史』に掲載の『高野山武田御位牌帳』にも「甲州武田刑部太輔〔ママ〕信成」とある(→ 山梨 歴史文学館 山口素堂と共に : 山梨県史に見る 高野山武田御位牌帳)から、刑部大輔は氏信ではなく信成の最終官途であったと判断される。尚、花押にやや変化はあるものの、正平12(1357)年7月10日付で書状を出す「日向守信成」(→『大日本史料』6-21 P.321)も同じく武田信成の可能性があり、安芸守から日向守を経ての刑部大輔任官であったのかもしれない。これについては検討の余地を残している。
*43:信成は1359~1368年の間甲斐国守護であったとされ(→ 西ヶ谷恭弘 編『国別 守護・戦国大名事典』(東京堂出版、1998年)P.93、甲斐国 - Wikipedia #守護 - 室町幕府)、『上総武田氏系譜』や『諸家系図纂』の信成の項にも「甲斐守護」の注記がある(→『大日本史料』7-1 P.537)。
北条宗房
北条 宗房(ほうじょう むねふさ、生年不詳(1250年代後半か?)~没年不詳(1295年以前?))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。時房流北条時隆(ときたか)の子。官途は右馬助、左馬助、土佐守。法名は道妙(どうみょう)。
系譜について
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『尊卑分脈』によれば、宇都宮経綱には「陸奥守平宗宣室」「土左守〔ママ〕平宗房室」2人の娘がいたという*1が、この宗宣・宗房は平姓北条氏一門の人物、すなわち北条(大仏)宗宣・北条宗房とみなして良いだろう。
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宗宣についてはこちら▲の記事を参照のこと。
一方、宗房については後述の通り『関東評定衆伝』 弘安年間の引付衆の一人に「平宗房」として確認できる。細川重男氏のまとめ*2によると次の通りである。
>>>>>>>>>>>>>>>
№67 北条宗房(父:北条時隆、母:未詳)
生没年未詳
右馬助(関評・弘安元年条)
01:弘安1(1278).03.16 引付衆
02:弘安4(1281).04. 左馬助
03:弘安7(1284).03 . 土佐守
04:弘安7(1284).04. 出家(法名道妙)
[典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。時隆は北条時房の次男時村の子。
01:関評・弘安元年条「相模右馬助平宗房」。
02:関評・弘安4年条「右馬助平宗房 四月転左馬助」。
03:関評・弘安7年条「同(相模)右馬助〔ママ〕平宗房 三月任土佐守 四月出家法名道妙」。
04:関評・弘安7年条。『前田本平氏系図』。
>>>>>>>>>>>>>>>
これに加え、01の約4ヶ月前にあたる建治3(1277)年の北条貞時元服において「一.御馬栗毛」を献じる「上手 相模右馬助、下手 長崎四郎左衛門尉(=光綱カ)」(『建治三年記』)*3も上記の「相模右馬助平宗房」と同人とみなして問題ないだろう*4。
さて、北条宗房 - Wikipedia によれば、同時代に "北条宗房" なる者が2名存在していたという。
【A】時政―時房―時村―時隆―宗房
【B】時政―義時―政村―宗房(陸奥三郎時村弟)
冒頭の表で【A】を採用する細川氏に対して、山野井功夫氏は引付衆の宗房の系譜を【B】とする*5。
まず、【A】説については次の古系図3点により立証されよう。
●『野津本 北条系図』(1286年校合、1304年書写):民部権大輔時隆の子(時員の弟)に「相模馬助 宗房」*6
*「馬助」とは本来、馬寮(めりょう)の次官で、左馬助・右馬助双方の総称である*7。「うまのすけ」と読めることから、読みが同じ右馬助*8を指すとも考えられるが、冒頭細川氏の表02にあるように宗房は左馬助にも任じられたようであるから、いずれだとしても「馬助」の表記は妥当な記載である。前述『関東評定衆伝』や『建治三年記』で記載の「相模右馬助」に合致し、十分に信用に値しよう。
●『入来院本 平氏系図』(1310年代後半成立か):時隆の子に「宗房女〔ママ、女は誤入か〕」を載せており*9、他系図とも照合すれば「女」は誤って挿入されたものであろう。
●『前田本 平氏系図』(室町時代前期成立か):元々は仁和寺に所蔵されていた系図の影写本。時隆の子・宗房の傍注に「土佐守 法名道妙」とあり*10。
政村流北条氏 #北条宗房(外部HP)では『建治三年記』や『関東評定衆伝』での「相模右馬助平宗房」を政村の子、すなわち【B】説としているが、これら3点によって(【B】説の真偽に関わらず)時隆の子であったことが分かる。
一方【B】説の根拠と思われるものとして、近世(江戸時代)に編纂された『諸家系図纂』所収「北条系図」には時隆の子・宗房(土佐守)とは別に、政村の子として宗房(四郎)が載せられている。しかしこれは恐らく『関東評定衆伝』において「相模式部大夫平政長 同右馬助平宗房」等の形で、相模守政村の子・政長と並べて書かれたために、編纂時に兄弟と見なされてしまった可能性が考えられる。
また、その後幕末期にまとめられた『系図纂要』でも各々次のように記載が見られる*11。
【表C】
宗房 | 新相模四郎 弘安元年三ノ十六引付衆 同四年四ノ左馬助 同七年三ノ土佐守 四ノ出家 法名道妙 |
政長 | 新相模五郎 弘安元年三ノ十六引付衆式部大夫 同七年正ノ評定衆 八ノ駿河守 正安三年七ノ十四卒五十二 |
山野井氏は多くの史料で「新相模四郎」と注記される宗房の弟として記載されるが故に、政長は5男に相違ないとされている*12が、それらの「史料」というのは恐らく実際の書状や記録ではなく『諸家系図纂』や『系図纂要』といった系図類と思われ、史料的根拠が弱い。『系図纂要』の記載(【表C】)は内容からしてほぼ全てが『関東評定衆伝』に基づいていることは明らかで、編纂当時における研究の成果に過ぎない。
また、両系図の記載を信用した場合、『関東評定衆伝』において弟(政長)、兄(宗房)の順で書かれているのも違和感があるし、官職の面でも、当初は式部大夫(五位相当)*13、右馬助(正六位下相当)*14と弟・政長の方が上位であったかと思いきや、弘安7年になると兄・宗房の方が先にいきなり国守任官を果たしたことになり、昇進の仕方として明らかに不自然である。
ここで『野辺本 北条系図』を見ると、政村の子(次郎時道〔ママ、時通〕、左近大夫将監時村の弟)政長の注記に「四郎」と記載されている*15。政長の左にある注記「号大夫河内前士左大臣法印厳忠弟子也」は、更に左横が欠損しているものの、前述の古系図などに見える厳斎の説明であることに疑いは無く、同系図に宗房が書かれていそうな気配は無い。この系図は室町時代前期、応安8(1375)年12月1日に書写されたとの記載がある*16が、北条氏の部分については北条時宗と同じ世代までで途切れていることから、文永元(1264)年以前に成立したと考えられており*17、十分に史料的価値・信頼性は高いと思う。
よって、政長が「四郎」であったことに疑いは無く(実際に政村の4男であろう)、政村の子で同じ「四郎」を称する宗房がいたとは考え難い。よって近世の系図に見られる【B】説は単に江戸時代当時の研究成果に過ぎず、否定されよう。
すなわち、実際の史料、古系図で確認できる北条宗房は、時隆の子ただ一人だけである。以下、この前提に基づいて生年の推定を行いたい。
生年と烏帽子親の推定
冒頭、細川氏の表にもある通り、宗房の父・時隆は北条時房の次男・時村の子である。これは野辺・野津・入来院・前田各本の北条氏古系図により裏付けられる。
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こちら▲の記事で言及した通り、時房次男・時村については1198年生まれの可能性が高い。
そしてその息子・時隆は時村が亡くなる嘉禄元(1225)年12月2日*18までには生まれている筈であるが、『吾妻鏡』では寛元3(1245)年8月15日条を初見として、正嘉元(1257)年正月3日条まで「相模八郎時隆」と書かれ、同年8月15日から「民部大輔時隆」・「民部権大輔時隆」等に表記が変わっているので、正嘉元年には佐介流における叙爵の平均年齢30~40代*19に達していたと考えられる。時村晩年期の息子で1220年頃の生まれであろう。
時村―時隆父子間の年齢差は20数年ほどであったとみられるので、これを参考にすると時隆の子・宗房は早くとも1240年代半ばの生まれと推定できる。
時村の通称「相模次郎」は父・時房が最後に任じられた国守が相模守で、その次男であったことを表す。時村の息子(時広・時隆)は父が早くに出家したために祖父・時房の養子に迎えられたようで、各々時房の官途にちなんで「相模七郎」・「相模八郎」を称している。そして前述の通り、宗房も「相模」を冠していたが、これは父・時隆が民部権大輔のあと国守に任官しなかったために、同じく時房の官途を付したものとみられる。
前述の推定からすると、時隆は30代後半になっても国守任官を果たさなかったことになる。伯父(時隆の兄)時広は24歳で式部少丞(従六位上相当*20)、26歳で叙爵して武蔵権守、37歳で越前守となっている*21。これを参考にすると、弘安4(1281)年左馬助(正六位下相当)*22に転任した当時、宗房はまだ叙爵前で20代前半であった可能性が高い。そして3年経った同7(1284)年3月土佐守に任じられた時には20代後半に達していたのではないか。
従って宗房は父・時隆が民部権大輔に任じられた頃に生まれたものと推測される。
ところで細川氏は、要職に就くことのなかった時村系北条氏から宗房が引付衆に選ばれたことについて、当時の執権・北条時宗による抜擢があったのではないかと推測されている。直接的な表現はされていないが、他の例で数多く偏諱についての言及をされている同氏のことだから、当然ながら宗房の「宗」も時宗の偏諱と考えての見解であろう。「房」は曽祖父・時房に由来する1字であろうから、「宗」が烏帽子親から賜ったもので間違いないと思われるが、1250年代後半の生まれとすれば、時宗が得宗の座にあった期間(1263~1284年)*23内の元服がほぼ確実となり、そのように推測可能である。
このことは、弘安7年4月に時宗が亡くなったのを悼んで出家していることからも窺えよう。同年3月に若年ながら土佐守に任じられたのも時宗の推挙があってのことだったのではないか。冒頭の経歴表にある通り、これが史料上での終見であり、細川氏はその後の『永仁三年記』に現れないことから、同年(1295年)までに引退もしくは逝去したのではないかと推測されている*24。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その67-北条宗房 | 日本中世史を楽しむ♪
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.67「北条宗房」の項。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その67-北条宗房 | 日本中世史を楽しむ♪(細川氏のブログ)も参照のこと。
*4:政村流北条氏 #北条宗房 より。
*5:山野井功夫「北条政村及び政村流の研究」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.213。
*6:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館 研究報告』5、1985年)P.44。
*7:馬助とは - コトバンク より。
*8:右馬助とは - コトバンク より。
*9:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.23。
*11:『系図纂要』第八冊 平氏五(名著出版、1974年)P.296 より。
*12:北条政長 - Wikipedia より。典拠は『北条氏系譜人名辞典』「北条政長」の項(執筆:山野井功夫)。
*13:式部の大夫とは - コトバンク より。
*14:注8同箇所より。
*15:鹿児島県歴史資料センター黎明館 編『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ七』(鹿児島県、1998年)P.412(『野辺文書』7号「平氏並北条氏系図」)。
*16:前注同書 P.413。
*17:永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)P.16。典拠は 福島金治「野辺本北条氏系図について」(所収:『宮崎県史』史料編中世一、宮崎県史しおり)。
*18:注2前掲細川氏著書 P.35。典拠は『佐野本 北条系図』・『続群書類従』所収「北条系図」など。
*20:式部の少丞とは - コトバンク より。
*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その68-北条時広 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*22:左馬助とは - コトバンク より。
金沢時直
北条 時直(ほうじょう ときなお、1276年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期から末期の武将、大隅・長門・周防守護。金沢流北条実村の子で、金沢時直(かねさわ ー)とも呼ばれる。官途は上野介。
系譜について
まずは、複数の説が伝わる時直の系譜について整理しておきたい。
①『尊卑分脈』・『続群書類従』所収「北条系図」・『諸家系図纂』所収「浅羽本北条系図」
実時―実村(顕時・実政の兄)
③『系図纂要』所収「北条系図」・『姓氏分脈』所収「北条系図」
実時―実政(顕時弟)―実村(政顕兄)―時直
実時の子・実村が顕時らの父とする系譜が誤りであることは先行研究で既に指摘されている通りである*1。
この影響からか、一説に時直を実時の子(実村・顕時・実政らと兄弟)とするものがあるが、児玉真一*2・細川重男*3両氏が③の系譜を支持する見解を示されており、少なくとも「実村―時直」という系譜は正しいと見なして良いだろう。
但し、次の【図A】にあるように、鎌倉時代後期の成立とされる「入来院本平氏系図」*4でも越後太郎実村の子とするが、その系譜は「実時―実村―時直」である。これが正しいだろう。よって、①の系譜で顕時・実政らを "時直の弟" ではなく、②のように "実村の弟" と修正すれば良いことになる。この系図では、時直の項に「嘉元三閏十二十七任上野守〔ママ、上野介*5〕」の注記および男子(=後述する上野四郎のことか?)があったことが記されている。
大隅・防長守護として
『長門守護代記』の記載の再検討
時直が長門国の守護であったことは『長門守護職次第』で「廿三、上野殿、」と記される*6ほか、『長門国守護代記』に
とあることで確認ができる。そして田村哲夫氏によって紹介された同書の異本2種のうち、『長門国司守護代記』(南野光子氏所蔵)では「第二十三 北条上野介時直 真政舎兄也 守護代横溝小三郎清村」とほぼ同内容で記載される*7が、一方の『防長両国温知録 所収 長門国国司守護職歴代之記』(岡誠作氏所蔵)では次のように書かれている*8。
まず「上総介真政」とはその官職から金沢実政を指すと考えられる。「真」・「実」はともに「さね」と読める。そして時直はその「舎兄」であったと記すが、これは誤りと考えて良い。
そもそも『長門守護代記』は戦国時代の大内義隆まで(岡氏所蔵本『長門守護代記』ではその後の毛利秀就まで)を載せており、近世初頭の成立であることは明らかである*9。
*南野氏所蔵本『長門守護代記』の巻末には「橘姓南野氏家系」(系図) が記載されており、戦国期の当主・南野春遠が内藤弘春の偏諱「春」を賜ったことも記されている*10。
従って、時直を「真政(=実政)舎兄」としたのは単に『尊卑分脈』(室町時代初期成立)を参照したことによるものであろう。よってこの情報を必ずしも信ずる必要は無い。
*一部先行研究では時直を政顕の子とする*11が、これも「真政舎兄」の記載に従って実政と同じく父を政顕としたものに過ぎず、信用に値しないと思う。僅かに『正宗寺本 北条系図』では政顕の次男に「時直」を載せるが、「遁世」と記されるのみで上野介時直と同一人物の確証は無く、近世成立とみられる同系図には一部に杜撰な誤りも見られるので、記載の情報の信憑性はそれほど高くない。ちなみに『入来院本 平氏系図』(前掲【図A】)では政顕次男は「政直」となっている*12。
また、岡氏所蔵本『長門守護代記』にある、初め遠江守、後に上野介に任じられたとする記載についても検討したい。上野介であったことは実際の書状で確認できるので後述するが、遠江守であったと記すのは『太平記』でその後鎌倉幕府滅亡あたりを描く部分(巻11「長門探題降参事」)のみである(後述参照)。遠江守(従五位下相当、長官級・国守)から上野介(正六位下相当、次官級)という官職経歴も事実上降格となってしまい不自然極まりない。よってこの部分記載も誤伝と判断される。
この影響があってか、北条時直 - Wikipedia では「嘉禎3年(1237年)に式部大輔に叙任。寛元4年(1246年)から建長3年(1251年)まで遠江守となる。」という経歴を載せるが、これは同姓同名の北条時直(時房流、朝直の弟)と混同したものであろう。
上野介への任官とその年齢
前述したように、鎌倉期成立の「入来院本平氏系図」には、嘉元3(1305)年閏12月17日(1306年2月9日)に上野介(正六位下相当)に任じられた旨の記載があり、信用しても問題ないだろう。直近では、正応元(1288)年10月7日から上野介であった大仏宗宣が、正安3(1301)年9月27日には陸奥守に昇進していることが確認でき、(間に1, 2人挟むかもしれないが)その後継であったことになる。
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細川重男氏のまとめによると、鎌倉末期の北条氏内部には幕府の役職を基準とする家格秩序があり、金沢流顕時系・大仏流宗宣系は得宗家・赤橋流と同じく寄合衆家(惣領が執権・連署・寄合衆に就任する最高家格)に属するとした*13が、それでも、山野龍太郎氏の見解によれば得宗・赤橋両流が将軍を烏帽子親としたのに対し、金沢・大仏両流はそれよりも一ランク低い、得宗家を烏帽子親とする家に位置づけられていたという*14。
他の金沢氏庶流の例として、実政・政顕父子も30代後半で上総介(正六位下相当)に任官したと考えられる*15ので、時直も上野介任官時30代であった可能性は高いと思う。仮に宗宣と同様、30歳で任官したとすれば、1276年頃の生まれとなるが、父・実村との年齢差の面でも問題はない*16。
次節で紹介するが、史料上での初出である永仁2(1294)年までには元服済みであったと考えられ、元服は多く10代前半で行われたから、遅くとも1280年頃までには生まれていたと判断できる。そして上野介任官当時の年齢を考えれば、これを大幅に遡るとは考え難いので、本項では1276年頃の生まれと推定しておく。
奇しくもこの年は金沢実時が亡くなった年でもある。勿論、実時の晩年期或いは死の前後に生まれた可能性は否定できないものの、この頃1273年に顕実*17、1278年に貞顕*18(いずれも顕時の子)が生まれるなど、実時にとっては孫が生まれるような年代に入っており、「実時―時直」が親子であった可能性が低くなる一つの根拠になり得よう。
史料上における時直
以下金沢時直に関する多数の史料を挙げておく*19。
●【史料1】永仁2(1294)年8月2日付「北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*20:発給者「平」の署名と花押
●【史料2】永仁3(1295)年8月2日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*21:発給者「平」の署名と花押
「平」は北条氏が平維時の末裔として平姓を称していたことによる。次に示す花押との一致により時直の花押であったと判断できる。
●【史料3】永仁5(1297)年8月4日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*22:発給者「時直」の署名と花押
●【史料4】永仁6(1298)年8月2日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*23:発給者「平」の署名と花押
●【史料5】正安元(1299)年11月8日付「北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*24:発給者「平」の署名と花押
●【史料6】正安2(1300)年7月25日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*25:発給者「時直」の署名と花押
●【史料7】(正安2年)後7月26日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*26:発給者「平」の署名と花押
●【史料8】(正安3(1301)年)7月25日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*27:発給者「時直」の署名と花押
*『鎌倉遺文』では、同年8月23日付「鎮西探題御教書案」(『大隅桑幡文書』)での宛名「越後九郎殿」を時直に比定する*28。この人物は永仁7(1299)年正月28日に鎮西評定衆*29、4月10日に鎮西一番引付頭人となった「越後九郎」(「鎮西引付衆結番注文」)*30と同人と考えて良いと思うが、この人物を時直と同一人物とする根拠は全く検討が付かない。ちなみに時直を「越後九郎」とする史料・系図は確認できない。「越後」というのは父親の官職を付したものであり、この頃の越後守としては金沢顕時(1280~1285出家)*31、北条兼時(1288~1295没)*32、赤橋久時(1295~1304転任)*33が挙げられるが、久時の長男・守時が生まれて間もない頃*34なので、その弟が元服済みということは無い。兼時の場合、男子がいたという情報が確認できない。そしてこの頃は、顕時の子・"越後六郎"貞顕が初の任官で左衛門尉となってから4年ほどしか経っていない*35ので、貞顕の弟が元服して間もないために無官であってもおかしくはない。系図類では確認できないが、「越後九郎」は時直ではなく、系図には載せられていない顕時の9男(実名不詳)だったのではないかと思われる。
●【史料9】嘉元元(1303)年12月23日付「大隅守護北条時直施行状案」(『台明寺文書』)*36:発給者「時直」の署名と花押
●【史料10】嘉元3(1305)年12月3日付「大隅守護北条時直裁許状」(『祢寝文書』/『祢寝系図』)*37:発給者「時直」の署名と花押
*この頃から花押の形が変化しているが、大隅守護としての書状発給に変わりはないので、【史料3】の時直と同人と見なして問題ないだろう。
●【史料11】『武家年代記』裏書・延慶元(1308)年7月9日条:
★この間に上野介を退任か。
●【史料12】延慶4(1311)年2月2日付「鎮西御教書案」(『大隅台明寺文書』)*38:宛名「上野前司殿」
●【史料13】延慶4年6月2日付「鎮西御教書案」(『大隅台明寺文書』)*39:宛名「上野前司殿」
●【史料14】正和元(1312)年10月2日付「北条時直御教書案」(『大隅台明寺文書』)*40:「前上野総介〔ママ〕」の署名と花押
●【史料15】文保元(1317)年5月8日付「大隅守護北条時直請文」(『大隅台明寺文書』)*41:「前上野介平時直 請文」の署名と裏花押
●【史料16】文保元年5月22日付「大隅守護北条時直書下」(『大隅岸良文書』)*42:「前上野介」の署名と花押
●【史料17】(文保元年?)□月2日付「北条時直書状」(金沢文庫蔵『雑抄』裏文書)*43:発給者「前上野介時□」の署名と花押
●【史料18】元亨元(1321)年4月15日付「北条時直書下」(『二階堂氏正統家譜』十)*44:発給者「前上野介」の署名と花押
●【史料19】元亨3(1323)年8月13日付「六波羅御教書案」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』)*45:宛名「上野前司殿」
●【史料20】(元亨3年)9月22日付「北条時直書下」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』/『正法寺文書』)*46:発給者「前上野介」の署名と花押
●【史料21】元亨3年10月8日付「北条時直書下」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』/『正法寺文書』)*47:発給者「前上野介」の署名と花押
●【史料22】(元亨3年10月27日)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収)*48:この日参加者の一人である「長門上野前司殿」が「銭百貫文」を進上。
●【史料23】正中2(1325)年3月2日付「北条時直書下」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』/『正法寺文書』)*49:発給者「前上野介」の署名と花押
●【史料24】嘉暦元(1326)年12月20日付「関東御教書」(『長門忌宮神社文書』)*50:宛名「上野前司殿」
●【史料25】嘉暦2(1327)年2月29日付「北条時直書下」(『長門一宮住吉神社文書』)*51:発給者「前上野介」の署名と花押
●【史料26】嘉暦2年6月12日付「長門守護北条時直施行状」(『長門忌宮神社文書』):発給者「前上野介」の署名と花押
●【史料27】嘉暦3(1328)年2月16日付「関東御教書」(『長門忌宮神社文書』)*52:宛名「上野前司殿」
●【史料28】嘉暦3年5月17日付「北条時直書下」(『長門忌宮神社文書』)*53:発給者「前上野介」の署名と花押、押紙に「北条上野助〔ママ〕時直」
●【史料29】(嘉暦4(1329)年)7月8日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*54:「(切封墨引)嘉暦四七廿二、上野前司若党帰□便到、……」
●【史料30】(嘉暦4年?)「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*55:「……去月廿七日御返事、長州上野前司使下向之便、今日到来、委細承候了、……」
●【史料31】元徳元(1329)年11月29日付「関東御教書」(『長門忌宮神社文書』)*57:宛名「上野前司殿」
●【史料32】元徳2(1330)年10月28日付「北条時直寄進状」(『保阪潤治氏所蔵手鑑』/『長府毛利文書』)*58:「従五位下前上野介平時直」の署名と花押
●【史料33】元弘3(1333)年3月24日付「後醍醐天皇綸旨」(『萩藩閥閲録』所収『吉見家譜』)*59
今度朝敵高時ヵ一類、北条上野前司直元〔ママ〕近日伯州エ発向之由依之使頼行、為被等討手之大将、唯今所被差向也、早引防長芸石之軍士、可致直元征伐之策者也、綸旨如此、仍執達如件
元弘三年三月廿四日 左少将奉之
吉見三河守殿
内容としては、北条高時の一族である時直(直元は誤記)が近々伯耆国に発向するので、吉見頼行を討手の大将として周防・長門・安芸・石見の武士を率いこれを討伐するように命じたものであるが、名前の誤記がある他、頼行は延慶2(1309)年4月28日に没した故人である*60ため、偽文書とされる。しかし動乱期であったこの頃、時直が倒幕方と度々合戦になっていたこと自体は以下史料で確認できる。
●【史料34】元弘3年3月28日付「伊予忽那重清軍忠状」(『伊予忽那文書』)*61:
後述の『太平記』以外に時直を「長門探題」とする史料であるが、その実態については「長門探題・周防探題」という鎌倉幕府の機関が設置されていたわけではなく、単に防長守護の俗称に過ぎないと考えられている*62。3月12日、長門・周防両国から伊予国星岡山(現・愛媛県松山市星岡町)へと率いてきた時直の軍勢を、倒幕側の重清が「責め(攻め)落とした」とある。この戦いには祝安親(彦三郎)も参加していたといい(『伊予三島文書』)*63、『博多日記』にもその記述が見られる。
尚『博多日記』において時直は「上野殿」・「上州御台(=時直の妻を指す)」などの表記で登場する*64。
●【史料35】元弘3年4月13日付「高津道性軍忠実検状」(『武蔵飯田一郎所蔵文書』)*65:「……於長門国々符〔国府〕上野前司城、四月二日合戦、……」
『博多日記』でも同月1日の出来事として厚東氏・由利氏・大峰の地頭、および伊佐の人々が高津入道道性に加担し「長門殿御舘」を攻めたとあり、日付に若干の誤差はあれど、これが時直の居城であったことを示す実際の書状である。
その後同年5月、六波羅探題・鎌倉幕府が相次いで滅ぼされ、九州でも鎮西探題の赤橋英時が攻められ自害して果てた。『太平記』(巻11「長門探題降参事」)によると、それらの報告を聞き及んだ「長門探題遠江守時直」はやがて少弐貞経(妙恵)・島津貞久(道鑑)に対し降伏して助命され、間もなく病死したと伝える*66。『太平記』は元々軍記物語であり、時直がこの頃「遠江守」であったかは疑問だが、近世成立の『南朝編年紀略』において、わざわざ『太平記』を参照したとしながらも「六月十七日 長門探題上野介時直降参、太平、」と記されることから、上記の金沢時直を指していると考えて問題ないだろう。
北条上野四郎入道の反乱
建武2(1335)年1月12日、長門国府の佐加利山城において「上野四郎入道」が「越後左近将監入道」と兵を挙げて謀叛を起こし、18日貞経の命を受けた吉田頼景(法名:宗智)・景村父子らの軍勢によって攻め落とされたことが複数の書状に見える*67。両入道は「朝敵」或いは「凶徒」とされ、近世成立の『歴代鎮西志』では「平氏餘燼」*68と記すから、平姓北条氏の残党であったと見なせる。「上野四郎(こうずけ(の)しろう)」は父が上野介でその息子(本来は4男の意)を表す通称と考えられるから時直の遺児と見なされ、無官のまま入道(出家)していたことが窺える。実名・法名ともに不明である。
尚、この推定が正しければ時直の最終官途は「上野介」であったと判断される。生前遠江守に任官していたのであれば、その息子は「遠江四郎」と呼ばれる筈だからである。『太平記』が「遠江守」とした理由は不明だが、やはり鎌倉中期の大仏時直と混同されたのかもしれない。
前述の時直の生年(推定)から判断すると、現実的な親子間の年齢差を考慮して、上野四郎某は1296年頃より後の生まれであったと推測される。出家のタイミングは不明だが、高時或いは泰家の出家への追随、もしくは1333年の鎌倉幕府滅亡或いは父・時直の死のいずれかが考えられるのではないか。無官で「四郎」のまま出家しているので、幕府滅亡時30代に達していなかったのかもしれない。時直の生年はこの上野四郎との年齢差も考慮した。
落城以降、史料上で確認できないため、その際に敗死したと思われる。ここに時直流北条氏は断絶した。
(関連記事)
(参考ページ)
脚注
*1:関靖「金沢氏系図について」(『日本歴史』12号、1948年)以来、この説が採用されている。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.48 註(13) より。
*2:児玉真一「鎌倉時代後期における防長守護北条氏」(所収:『山口県地方史研究』71号、1994年)P.3。
*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.48 註(13)。
*4:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.13。
*5:上野国は親王が国司(~守)を務める親王任国の一つであり、国府の実質的長官は次官級の上野介であった(→ 上野国 - Wikipedia、典拠は『類聚三代格』)。
*7:田村哲夫「異本『長門守護代記』の紹介」(所収:『山口県文書館研究紀要』9号、山口県、1982年)P.64。
*8:前注同箇所。
*9:前注田村氏論文 P.71~73。
*10:前注田村氏論文 P.73。
*12:注4前掲山口氏論文 P.14。
*14:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』、思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)。
*15:規矩高政 - Henkipedia 参照。
*16:実村は生年不詳だが、およそ1244~1247年の間と推定される(→ 金沢顕時 - Henkipedia を参照)。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*19:花押については花押カードデータベース(東京大学史料編纂所)に掲載のものを引用した。
*20:『鎌倉遺文』第24巻18616号。
*21:『鎌倉遺文』第25巻18882号。
*22:『鎌倉遺文』第26巻19424号。
*23:『九州史料叢書禰寝文書』1-90。
*24:『鎌倉遺文』第27巻20287号。
*25:『鎌倉遺文』第27巻20499号。
*26:『鎌倉遺文』第27巻20536号。
*27:『鎌倉遺文』第27巻20828号。
*28:『鎌倉遺文』第46巻51811号。
*29:「大友田原系図」(→ 戸次貞直 - Henkipedia【図2】)貞直の注記内に記載の同日付「関東御教書案」より。『鎌倉遺文』第26巻51811号 または 年代記正安元年も参照のこと。
*30:『薩藩旧記 前編』7(『鎌倉遺文』第26巻20027号、『大日本史料』6-2 P.245)・『旧典類聚』13(『鎌倉遺文』第26巻20028号)より。
*31:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その55-金沢顕時 | 日本中世史を楽しむ♪。
*32:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪。
*33:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その29-赤橋久時 | 日本中世史を楽しむ♪。
*34:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪。
*35:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪。
*36:『鎌倉遺文』第28巻21710号。『東大史料』嘉元3年12月 P.70。
*37:『鎌倉遺文』第29巻22404号。
*38:『鎌倉遺文』第31巻24196号。
*39:『鎌倉遺文』第31巻24299号。
*40:『鎌倉遺文』第32巻24668号。
*41:『鎌倉遺文』第34巻26170号。
*42:『鎌倉遺文』第34巻26210号。
*43:『鎌倉遺文』第34巻26257号。
*44:『鎌倉遺文』第36巻27765号。
*45:『鎌倉遺文』第37巻28483号。佐藤秀成「防長守護小考」(所収:『史学』第82巻第1号、三田史学会、2013年)P.28[史料六]。
*46:『鎌倉遺文』第37巻28531号。前注佐藤氏論文 P.35 註(27)。
*47:『鎌倉遺文』第37巻28546号。前注佐藤氏論文 P.35 註(27)。
*48:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。
*49:『鎌倉遺文』第37巻29024号。
*50:『鎌倉遺文』第38巻29690号。
*51:『鎌倉遺文』第38巻29754号。
*52:『鎌倉遺文』第39巻30143号。
*53:『鎌倉遺文』第39巻30262号。
*54:『鎌倉遺文』第39巻30655号。
*55:『鎌倉遺文』第39巻30702号。『金沢文庫古文書』688号(武将編P.126 391号)。大仏高政 - Henkipedia【史料A】。
*56:長州 - Wikipedia より。
*57:『鎌倉遺文』第39巻30783号。
*58:『鎌倉遺文』第40巻31262号。
*59:吉見氏の長門探題討伐 より。
*60:「岡隆信覚書」より(→ 吉見頼行と一本松築城)。
*61:『鎌倉遺文』第41巻32068号。『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年3月 P.73。
*62:注45前掲佐藤氏論文 P.33 および 長門探題 - Wikipedia より。
*64:『博多日記』については 史料編−501博多日記 を参照のこと。
*65:『鎌倉遺文』第41巻32090号。
*66:『大日本史料』6-1 P.40~42。「太平記」長門探題降参の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*68:『大日本史料』6-2 P.244。ここでの「平氏」は平維時の末裔として平姓を称していた北条氏を指す。「餘」は「余」の異体字、「燼(=烬)」は「燃え残り」の意であり、ここでは「余党(残党)」と同義と考えて良かろう。
北条泰家
北条 泰家(ほうじょう やすいえ、1307年?~1335年?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、北条氏得宗家の一門。父は鎌倉幕府第9代執権・北条貞時。母は安達(大室)泰宗の娘・覚海円成で、第14代執権・北条高時の同母弟にあたる。妻は大仏維貞の娘か*1。仮名は四郎、官途は左近大夫将監。
兄・高時執権期間における泰家
生年については正確に分かっていないが、兄・高時が生まれた嘉元元年12月2日(1304年1月9日)*2から父・貞時が亡くなる応長元(1311)年*3までに生まれたと考えるべきであろう。
『諸家系図纂』所収「北条系図」(国立公文書館HP)には次のように記載されている。
兄・高時の延慶2(1309)年1月21日*4より後だろう、元服して初めは「相模四郎時利(ときとし)」と名乗ったらしい*5。意図的か偶然かは分からないが「時利」は祖父・北条時宗の兄・時輔の初名に同じで、仮名が「四郎」であったことは後述するが、太郎高時に次ぐ準嫡子として称したものだろう*6。
史料上での初見は、文保2(1318)~元応元(1319)年にかけて3回行われた日蓮宗と他宗派との問答(宗教論争)について記された『鎌倉殿中問答記録』*7(以下『殿中問答』と略記)と思われる。この史料では「左近大夫将監泰家」、「
「泰」は3代執権・北条泰時、「家」は北条時家(『尊卑分脈』では時政の祖父)と、各々先祖の1字ずつを取って構成されたものであろう。また、推測に過ぎないが、兄弟(高宣・高直)が高時の1字を受けている大仏家時の「家」は泰家の偏諱とも考えられる。
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次いで、元亨3(1323)年10月に挙行された亡父・貞時13年忌供養についての史料である『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収、以下『供養記』と略す)では次の箇所に記載される。
● 「……簾中右廊太守(=高時)御聴聞所、左大夫殿以下御一族御坐席也、……」*10。
● 25日の一品経の阿弥陀経調進において、母の「大方殿(=覚海円成)」、姉の「西殿大方殿(=師時後室)」に次いで「辟〔譬〕喩品 左近大夫将監殿」の記載あり*11。
●「同夜(=26日)、於無畏堂長老(=霊山道隠)有拈香、大方殿御仏事、其後諷経、其次於同堂陞座、左近大夫将監殿御分御仏事也、一切経転読供養也、……」*12。
尚、一品経の阿弥陀経調進の際には、同じ官途・通称名を持った「化城喩品 相模新左近大夫殿 同(=捧物卅貫)」の記載も見られるが、こちらは政村流の北条茂時に比定されよう。正中2(1325)年のものとされる11月22日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)の文中にも「……相模左近大夫将監殿・奥州(=北条維貞)・相模新左近大夫将監等未明に参候云々、……」とある*13が、これも同様で前者=泰家、後者=茂時とみなして良いと思う。
尚「相模」とは、泰家の父・貞時(9代執権)、茂時の父・煕時(12代執権)が各々相模守であった*14ことに由来する。
左近将監任官時期と生年の推定
ここで泰家の左近将監任官時期とその年齢について考えてみたい。前節で元亨・正中年間に現れる"相模新左近大夫将監"について北条茂時と推定したが、その「新」とは "相模左近大夫将監" 泰家との区別で付されたものである。茂時の左近将監任官および叙爵は文保元(1317)年7月29日と伝えられる*15ので、泰家の任官時期はそれ以前となる。
*茂時より後に泰家が "新"左近将監となった可能性は無いと考える。先に紹介した『殿中問答』では長崎高資について「長崎左衛門入道(=円喜)、新左衛門、同四郎左衛門尉(=高貞)」*16や「
文保元年当時、茂時が何歳であったかは明らかにされていないが、父・煕時の任官時に同じく15歳*18だったのではないかと推定される*19。
ここで、得宗家での左近大夫将監任官者とその年齢について、次の表で確認しておこう。
(経時 | 14*20) |
時頼 | 17*21 |
宗政 |
13*22 (※右近将監) |
師時 | 11*23 |
曽祖父にあたる時頼は本来、兄・経時に対する庶子(準嫡子)であり、経時が執権となって武蔵守に昇進した寛元元(1243)年に左近将監となっている。時頼は経時の早世もあって執権および得宗家家督の座を継いだが、時頼以降の得宗(時宗―貞時―高時)の叙爵時の官職は「左馬権頭」*24であり、準嫡子たる人物が左近将監となったようである。
尚、師時の子・貞規も『公衡公記』により正和4(1315)年当時18歳で既に「相模左近大夫」と呼ばれていたことが確認され*25、恐らくは師時と同じ11歳での任官と思われる。貞規は元応元(1319)年に亡くなるが、その後の金沢貞顕の書状から最終官途が右馬権頭であったことが分かり*26、これも父・師時に同じく20歳での任官だったのではないか。
すなわち1317年の段階で、貞規は右馬権頭に昇進し、泰家が新たな「相模左近大夫将監」となり、同年7月に同じく左近将監(左近大夫将監)となった茂時が「相模新左近大夫将監」と呼ばれたものと推測される。
【表3】鎌倉末期における「相模左近大夫将監」(推定)
年 | 北条貞規 | 北条泰家 | 北条茂時 | 北条時茂 |
永仁6(1298) | 生誕 | 左近大夫? | ||
延慶元(1308)? | 相模左近大夫(?) | (幼名不詳) | (幼名不詳) | |
正和4(1315) | 相模左近大夫 |
四郎時利? |
? | |
文保元(1317) | 右馬権頭(?) | 相模左近大夫将監 | 相模新左近大夫将監 | |
元応元(1319) | 没 | |||
元亨3(1323) | ||||
嘉暦元(1326) | 左近大夫将監入道 | 右馬権頭 | ||
1333 | 没 | |||
以後 | 刑部少輔(時興) |
勿論、貞規の右馬権頭昇進前に泰家が左近将監となって当初「新左近大夫(将監)」と呼ばれていた可能性も否定は出来ないが、今のところ史料で確認できないことからその期間は短かったのではないかと思われる。また泰家の叙爵は、同母兄・高時(『殿中問答』および 後掲【史料4】)9歳が叙爵の上で左馬権頭となった応長元(1311)年6月23日*27以後であったことも確実だろう。
「相模左近大夫 貞規」も含めた鎌倉の有力御家人・得宗被官の名を載せる前述の『公衡公記』正和4年3月16日条に記載が見られないことからすると、泰家の左近将監任官および叙爵は、『公衡公記』より後で、『殿中問答』や茂時の叙爵よりさほど遡らない1317年前半期であったと推測される。政村流の茂時ですら15歳であったから、【表2】を踏まえてもその任官年齢は11歳であったと思われ、逆算して1307年頃の生まれとしておきたい。これについては次節で更に裏付ける。
泰家の出家
正中3(1326=嘉暦元)年3月13日、元々病弱であった兄・高時が24歳の若さでありながら執権職を辞して出家する*28。高時の長子(のちの邦時)は生後3か月であり、本来であれば泰家が執権の座を継いでもおかしくない筈であったが、内管領・長崎高資ら長崎氏一門の阻止に遭い実現せず、これを恥辱として泰家も出家した*29という。
この所謂「嘉暦の騒動」については、次の史料に詳細な経緯が書かれている。
【史料4】『保暦間記』*30より(*読み易さを考慮し適宜濁点を追加)
……嘉暦元年三月十三日、高時依所労出家ス。法名宗〔崇〕鑑。舎弟左近大夫将監泰家、宜ク執権ヲモ相継グベカリケルヲ、高資、修理権大夫貞顕ニ語テ、貞顕ヲ執権トス貞顕義時子五郎実泰之彦 越後守実時孫 金沢越後守顕時子。爰泰家高時ノ母儀貞時朝臣後室城大室太郎左衛門女、是ヲ憤リ、泰家ヲ同十六日ニ出家セサス。無甲斐事也。其後、関東ノ侍、老タルハ不及申、十六七ノ若者ドモ迄、皆出家入道ス。イマ〳〵(イマイマ)シク不思議ノ瑞相也。此事泰家モサスガ無念ニ思ヒ、母儀モイキドヲリ深キニ依、貞顕誅セラレナント聞ヘケル程ニ、貞顕評定ノ出仕一両度シテ出家シ畢。……
祖父の時宗は13歳の時に父・時頼が亡くなり得宗の家督は継承したが、18歳までの成長を待ってようやく執権職を譲られた。父・貞時は時宗が亡くなった3ヶ月後14歳にしてそのまま執権職の継承が認められたが、貞時が亡くなった時9歳であった兄・高時は同じく14歳になるまで執権の座には就かなかった。嘉暦元年当時泰家が執権を継げる立場にあったとすれば、同じような年齢もしくはそれ以上に達していた筈である。
前述の師時・貞規父子と同様に、この頃20歳であれば左近将監から上の官職への昇進があった筈である。実際この年の9月には新左近大夫将監茂時が右馬権頭に昇進している*31。後から左近将監となった茂時が昇進し、得宗家準嫡子たる泰家がそうならない筈がない。
すなわち【史料4】当時20歳であったと推定され、1307年生まれであった可能性を裏付ける。ところが、昇進の話が出る前に出家してしまったため、左近大夫将監が最終官途となったというわけである。
この史料は鎌倉時代末期の評定衆のメンバーリスト(名簿)である。「城入道延明(安達時顕)」のみならず、行暁(二階堂行貞)・覚也(後藤基胤)・道大(太田時連)・行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、この【史料5】が書かれた時期は、彼らが高時剃髪に追随して出家した後、行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までの筈である。筆頭の「相模左近大夫将監入道」は泰家に比定され、出家前「相模左近大夫将監」と呼ばれていたことを裏付ける*33。
その他出家後の呼称としては「相模入道……舎弟四郎左近大夫入道」(『太平記』巻12「公家一統政道事」)*34、「高時入道 四郎左近大夫泰家」・「四郎左近大夫入道」(『増鏡』)、「高時ノ弟左近大夫将監入道恵性」(『梅松論』)*35などと書かれている。
後者『増鏡』・『梅松論』にある通り、元弘3(1333)年5月には幕府軍が小手指原・久米川で相次いで新田義貞の軍勢に敗れたことを受け大将として加勢し、15日には分倍河原で一旦は勝利したが、16日早朝には寝返った大多和義勝(義行)の奇襲を受け、そのまま関戸の戦い(16日)でも敗れて鎌倉への侵攻を許してしまった。
鎌倉幕府滅亡後
同月22日、新田軍に追い詰められ、鎌倉東勝寺にて兄・高時ら一門や幕府中枢の御家人が自害して幕府は滅亡した(東勝寺合戦)。兄から後事を託されていたのか、この時泰家(恵性)は運命を共にせず、高時の次男(のちの時行)を逃がし、自身も一旦は陸奥国へ逃れたという(『太平記』巻10「亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事」、巻13「北山殿謀叛事」)。
とは言え、当然ながら所領は没収されており、同年7月19日には遠江国渋俣郷・蒲御厨、駿河国大岡荘、甲斐国安村別府、陸奥国泉荒田、土佐国下中津山といった「泰家法師跡(旧領)」が、飛騨国守護となった岩松経家に*36、8月には「相模入道……舎弟四郎左近大夫入道ノ跡」が「兵部卿親王(=護良親王)」に*37、11月30日には同じく「泰家法師跡」である備後国因島の地頭職が同国浄土寺の空教上人に*38それぞれ与えられているほか、後の話になるが興国3(1342)年6月27日にも「肥後国……健軍 郡浦 泰家法師跡」が「元弘勅裁に任せ」阿蘇大宮司・宇治惟時に宛行われている*39。
【史料1】や『太平記』(巻13「北山殿謀叛事」)*40にもあるように、その後は旧知の仲にあった西園寺公宗を頼って密かに上洛し「田舎侍が初めて召し抱えられた」体(てい)を装い潜伏、同時に還俗して「刑部少輔時興(ときおき)」を名乗ったという。「興」には北条氏再興の意味が込められているのであろう。建武2(1335)年6月、公宗と共に後醍醐天皇暗殺を企んだが、事前に計画が露見して公宗は捕らえられて処刑されたという。
『太平記』によれば、京都では時興(泰家)を大将として畿内近国の勢を集めていたらしい*41が、彼らは公宗誅殺の一報を聞くと東国や北国に逃れていったようで*42、時興の消息も以後不明となっている。
翌建武3(1336)年、信濃では甥・時行や諏訪頼重(照雲)らの軍勢が兵を挙げ、一時鎌倉を占拠した(中先代の乱)が、これに関連して同年2月15日、信濃国麻績御厨で挙兵し、北朝方の守護であった小笠原貞宗や村上信貞らと交戦したという「先代高時一族大夫四郎」を時興に比定する見解もある*43。但し「大夫四郎」は「大夫(左近大夫・右近大夫など)」の「四郎(息子、本来は4男の意)」と解釈すべきで、前述の通り時興であれば「刑部少輔」と呼ばれるのが妥当ではないかと思う。「舎弟」等ではなく「一族」と記す点からしても時興とは別人ではないかと思う。
*泰家には4人の男子(兼寿丸、菊寿丸、金寿丸、千代寿丸)があったと伝えられるが、幼名のためか早世したと考えられているが、それを示す根拠は無く、また全く可能性が無いわけではないものの全員が夭折したというのもどうも不自然に感じる。彼らのいずれかが無事成長し、父と同じ「四郎」の仮名を継承すれば「大夫四郎」になり得る。勿論その場合「高時甥」と記しても良さそうだが、一つの候補として泰家本人ではなくその息子という説を掲げておきたい。
*信濃の合戦では「大夫四郎」の他に「同(先代高時一族)丹波右近大夫」も参戦している*44が、こちらは丹波守貞宣の子で右近大夫将監であったという北条貞芙(貞英?)*45であろう。
いずれにせよ、その後の史料上に現れないことから、1335~1336年頃に北条時興(泰家)は亡くなったと考えて良いのではないか。
こちら▲のページ(Wikipedia)では「建武2年末に野盗によって殺害された」とする一説を掲げている(典拠不明 或いは 単なる推測か)が、公宗誅殺の後東国または北国に落ち延びる途上でそうされた可能性は考えられよう。手掛かりとなる新史料の発見を俟ちたいところである。
(参考ページ)
● 北条泰家とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
脚注
*1:『正宗寺本北条系図』には維貞の女子(高宣・貞宗の妹)に「𣳾時室〔ママ〕」(*𣳾は泰の異体字)と記載があるが、年代的に当然ながら北条泰時ではなく、当該期「泰時」を名乗った人物も見当たらない。この系図では、嫁いだ相手の記載が(苗字無しで)実名のみの場合は北条氏一族に限るようで、当該期類似した名前を持つのは「泰家」くらいしか見当たらない。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*4:注2同箇所。
*5:北条泰家(ほうじょう やすいえ)とは - コトバンク より。
*6:「四郎」は元々、聖範・時家父子(『尊卑分脈』)および 時政、義時、経時が称していた仮名であり、その後は時宗の弟・宗政、その息子で貞時の義弟(時宗の猶子)にあたる師時といった具合に、執権職を継承し得る得宗家嫡男の次弟が「四郎」を名乗っていた。
*7:鎌倉殿中問答(かまくらでんちゅうもんどう)とは - コトバンク、日印 - Wikipedia #鎌倉殿中問答 より。
*8:史籍集覧. 27 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*9:従六位上相当の左近衛将監でありながら、叙爵して五位となった者の呼称(→ 左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク)。
*10:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.693。
*11:前注同書 P.698。
*12:前注同書 P.704。
*13:『鎌倉遺文』第38巻29255号。
*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その48-北条茂時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*16:史籍集覧. 27 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*17:史籍集覧. 27 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*19:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.27。
*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*23:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その12-北条師時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*25:北条貞規 - Henkipedia 参照。
*26:前注に同じ。
*27:注2同箇所より。
*28:注2同箇所 および【史料4】より。
*29:法名の表記は恵性(『梅松論』、【史料1】)・恵清(『尊卑分脈』)・慧性と複数伝わるが、共通して「えせい」または「けいせい」と読むのが正しいであろう。
*30:佐伯真一・高木浩明 編著『校本保暦間記』(和泉書院、1999年)P.100。覚海円成史料集。
*31:注15同箇所。
*32:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。
*33:もし出家前の呼称が「相模左近大夫将監」であったならば「相模新左近大夫将監入道」と呼ばれる筈である。
*35:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月 P.2~3。
*37:注34同箇所。
*40:『大日本史料』6-2 P.440、「太平記」北山殿謀反の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*41:「太平記」北山殿謀反の事(その2) : Santa Lab's Blog。
*42:「太平記」中前代蜂起の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*43:『市河家文書』所収 建武3年2月23日付「市河十郎経助軍忠状」。『大日本史料』6-3 P.100・101・102。
色部長貞
色部 長貞(いろべ ながさだ、生年不詳(1280年代後半?)~没年未詳)は、鎌倉時代後期の武将。父は色部長行。子に色部長高。
色部氏は桓武平氏流秩父氏の流れを汲み、地頭職を得た越後国小泉荘色部条の地から「色部」を称するようになったという。色部公長の息子の代で家系が分かれ、庶子の一人・色部長茂は小泉荘牛屋条の中心地である西部を相続するだけでなく、出雲国飯生荘地頭職も譲与されて、惣領となった兄・色部忠長に次ぐ存在であったことが窺える*2。高橋一樹氏の見解によれば、長茂の嫡男・色部長行(九郎左衛門尉)は鎌倉末期に北条氏と関係の深い相模・信濃の国衙領に所領を持ち、北条氏被官化していた可能性が高いといい*3、清水亮氏は長行の嫡子・長貞、嫡孫・長高が各々、北条氏得宗貞時・高時の偏諱を受けたと推測されている*4。清水氏は長茂流色部氏が貞時以降の得宗から一字拝領を受けるようになった背景について、同じ頃、蝦夷鎮圧の拠点とする関係で鎌倉幕府の統制が強化され、小泉本荘が幕府直轄領(=関東御領)とされたことに着目され、長茂流は積極的に幕府中枢部に接近することで、惣領家と拮抗、もしくはそれを凌駕する政治的位置を保持していたと説かれている*5。
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長貞は系図上に記載されるのみで、実際の史料上では未確認だが、嫡男・長高については実際の史料で実在が確認でき、父・長行についても次に挙げる複数の書状が残されている。
【表2】『鎌倉遺文』における色部長行に関する史料(書状)一覧
年 | 月日 | 史料名 | 史料上での表記 | 巻/号 |
『所収文書』 | ||||
永仁6(1298) | 5.11 | 阿忍(諸田長茂)田畠譲状 | 惣領長行 | 26/19679 |
越後・桜井市作氏所蔵『色部文書』 | ||||
乾元2(1303) | □.3 | 関東下知状案 | 平長行 | 28/21612 |
『出羽色部文書』 | ||||
文保3(1319) | 3.18 | 関東下知状案 | 色部九郎左衛門尉長行 | 35/26975 |
『古案記録草案 色部文書』 | ||||
正慶2(1333) | 3.21 | 色部長行譲状案(4通) | さへもんのせう長行 | 46/52152・52153・52154・52155 |
『出羽色部文書』 | ||||
元弘3(1333) | 5.18 | 色部長行著到状 | 色部九郎左衛門尉長行 | 41/32174 |
『越後・桜井市作氏所蔵文書』 |
よって、実際の史料には現れないものの、長行と長高の間の代として「長貞」という人物がいたことは認めても良かろう。反対に系図での記載を否定し得る史料も確認できないので、ここでは色部氏系図での記載を信用しておく。
系図類によれば、秩父季長は平武基(秩父武基)6世の孫(=来孫)にあたる。同じく武基の来孫にあたる畠山重忠が長寛2(1164)年生まれとされる*6ので、季長もそれほど離れた世代ではなかったと思われる。仮に同年生まれとし、なるべく誤差の出ぬよう各親子間の年齢差を平均25として算出すれば、長貞の生年は1289年頃、長高のそれは1304年頃と推定可能である。元服は通常10代前半で行われることが多かったので、長貞の元服当時の得宗が北条貞時(執権在職:1284~1301年)*7であった可能性は高く、その偏諱を受けることも可能と判断できる。
前述したように幕府の小泉荘への介入が強まると、父・長行が惣領家に対抗すべく得宗に接近する過程で、息子(長貞)の元服に際し「貞」の偏諱を申請したのではないかと思われる。尚「貞」字が下(2文字目)に置かれたのは、そのような名乗り方は多く庶子に見られ*8、北条氏側としては色部氏嫡流への配慮から、あくまで庶流である長茂流にそうさせていたのかもしれない*9。これは続く長高でも同様であったが、この時期得宗から偏諱を許されること自体が喜ばしいことであった*10から、特に反発は出なかったように見受けられる。
(参考ページ)
● 武家家伝_色部氏
脚注
*1:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.3 掲載系図(川島光男 編『越後国人領主色部氏史料集』(出版:神林村教育委員会、1979年)所収「色部・本庄氏系図」等により作成)、武家家伝_本庄氏 を参考に作成。
*2:注1前掲清水氏論文 P.4。
*3:前注同箇所。
*4:前注同箇所。
*5:注1前掲清水氏論文 P.4・7。
*6:畠山重忠とは - コトバンク より。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*8:必ずしもそうではないがそのような傾向にあったとは考えられる。兄弟間で偏諱の位置を変えた例としては、九条頼経から1字を受けた北条経時と時頼、北条時宗から1字を受けた安達盛宗―宗景 や 千葉宗胤―胤宗、平宗綱―飯沼資宗 などが挙げられる。
*9:同様の例として、北条氏極楽寺流(重時流)の支流である常葉流(範貞―重高)、安達氏庶流の大室氏(義宗―長貞―盛高)などが挙げられる。
*10:そのように考えられる例として、武田信政・石川貞光の系図での注記を見ると、「既に嘉例であったため」或いは「先公(=先代・時光)の嘉例により」各々時政・貞時から偏諱を賜ったと記されている。後世にまとめられた系図であるとはいえ、各々独立した系図史料で「嘉例(=めでたい先例)」と評価されていることは注目に値する。実際、石川氏の他にも小笠原氏・結城氏・工藤氏など得宗専制強化に伴って得宗の一字拝領を願い出る家柄が増加傾向にあったことから、そのような風潮があったと考えて良いのではないかと思われる。
色部長高
色部 長高(いろべ ながたか、生年不詳(1300年代初頭?)~没年未詳(1343年以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。色部長貞の嫡男。通称・官途は蔵人。
色部氏は桓武平氏流秩父氏の流れを汲み、地頭職を得た越後国小泉荘色部条の地から「色部」を称するようになったという。鎌倉期の色部氏については清水亮氏の論文*1に詳しく、以下それに沿って紹介する。
色部氏の家系は、色部公長の息子の代で分かれ、庶子の一人・色部長茂は小泉荘牛屋条の中心地である西部を相続するだけでなく、出雲国飯生荘地頭職も譲与されて、惣領となった兄・色部忠長に次ぐ存在であったことが窺える*3。高橋一樹氏の見解によれば、長茂の嫡男・色部長行(九郎左衛門尉)は鎌倉末期に北条氏と関係の深い相模・信濃の国衙領に所領を持ち、北条氏被官化していた可能性が高いという*4。
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そして清水氏は、長行の嫡子・長貞、嫡孫・長高が各々、北条氏得宗貞時・高時の偏諱を受けたと推測されている*5。同氏は長茂流色部氏が貞時以降の得宗から一字拝領を受けるようになった背景について、同じ頃、蝦夷鎮圧の拠点とする関係で鎌倉幕府の統制が強化され、小泉本荘が幕府直轄領(=関東御領)とされたことに着目され、長茂流は積極的に幕府中枢部に接近することで、惣領家と拮抗、もしくはそれを凌駕する政治的位置を保持していたと説かれている*6。
長高については次の史料が残されていて、その実在が確認できる。
●【史料2】建武2(1335)年閏10月4日付「雑訴決断所牒」*7
●【史料3】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*8
(張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」
青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高・秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)跡者、所被糺明也、至城入道・後藤信濃入道等跡闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、
康永二年三月四日 左衛門佐(=和義)
上椙民部大輔殿 在判
清水氏によると、【史料3】は武蔵国御家人の青木武房らが恩賞として与えられた小泉荘内の所領で、本主たちが当知行を行っていることに対して室町幕府に提訴した結果出された引付頭人奉書であるという。
同荘の関東御領化については前述したが、1333年に鎌倉幕府が滅ぶと、その内部にあった安達時顕・後藤基胤・二階堂行貞(行暁)・安富長嗣(空円)ら北条高時政権中枢メンバーの「跡(=旧領)」が闕所地として確定されていた(行貞と基胤は幕府滅亡前に逝去)が、小泉荘全体が没収対象地とみなされてしまったためか、同時に色部長倫・色部長高の所領も一旦は没収処分を受けてしまったらしい。
【史料2】によれば、長高は同族と思われる秩父貞長(孫太郎)と牛屋条内宮次薬師丸田畠在家をめぐって相論を起こし、去々年(=1333年)に貞長が再度所領の知行を主張して苅田狼籍を行ったことも記されているが、清水氏はこれが同年の鎌倉幕府倒壊を契機としたことは明らかで、長茂流が得宗に接近していたために、幕府倒壊に伴って微妙な立場に置かれていたのではないかと説かれている*9。繰り返すが「高」の偏諱はその証左になり得よう。
系図類によれば、秩父季長は平武基(秩父武基)6世の孫(=来孫)にあたる。同じく武基の来孫にあたる畠山重忠が長寛2(1164)年生まれとされる*10ので、季長もそれほど離れた世代ではなかったと思われる。仮に同年生まれとし、なるべく誤差の出ぬよう各親子間の年齢差を平均25として算出すれば、長貞の生年は1289年頃、長高のそれは1304年頃と推定可能である。元服は通常10代前半で行われることが多かったので、長高の元服当時の得宗が北条高時(1311年家督継承、執権在職:1316~1326年)*11であった可能性は高く、その偏諱を受けることも可能と判断できる。父・長貞自身が一字を拝領したこともあり、続いて息子の元服に際しても「高」の偏諱を申請したのではないかと思われる。
(参考ページ)
● 武家家伝_色部氏
脚注
*1:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)。
*2:注1前掲清水氏論文 P.3 掲載系図(川島光男 編『越後国人領主色部氏史料集』(出版:神林村教育委員会、1979年)所収「色部・本庄氏系図」等により作成)、武家家伝_本庄氏 を参考に作成。
*3:注1前掲清水氏論文 P.4。
*4:前注同箇所。
*5:前注同箇所。
*6:注1前掲清水氏論文 P.4・7。
*7:注1前掲清水氏論文 P.9。『新潟県史 資料編 中世』1046号文書。
*8:注1前掲清水氏論文 P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。
*9:注1前掲清水氏論文 P.9。
*10:畠山重忠とは - コトバンク より。
*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
千葉時常
千葉 時常(ちば ときつね、1215年頃?~1247年)は、鎌倉時代初期~中期の武将、御家人。下総国埴生荘(現在の千葉県印旛郡一帯)を継いだことから、埴生時常(はぶ ー)とも呼ばれる。通称は上総介次郎、下総次郎、埴生次郎(表記は垣生次郎とも)。
『吾妻鏡』における時常
まずは史料上での登場箇所を見ておきたい。『吾妻鏡』では次の箇所に現れている。
年 | 月日 | 表記 |
嘉禎3(1237) | 1.3 | 上総介次郎 |
暦仁元(1238) | 1.1 | 上総介次郎 |
年 | 月日 | 表記 | 史料詳細 |
宝治元(1247) | 6.7 | 下総次郎時常 | 【史料C】 |
6.17 | 埴生次郎 | 【史料D】 | |
6.22 | 埴生次郎時常 | 【史料E】 |
【史料C】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月7日条*3より一部抜粋
……上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、……各自殺。其後数十宇舎屋同時放火、内外猛火混而迸半天。胤氏(=大須賀胤氏)以下郎従等咽其熾勢、還遁避于数十町之外。敢不能獲彼首云々。又下総次郎時常自昨夕入籠此舘、同令自殺。是秀胤舎弟也。相伝亡父下総前司常秀遺領垣生〔埴生〕庄之處、為秀胤被押領之間、年来雖含欝陶、至斯時、並死骸於一席。勇士之所美談也。抑泰村(=三浦泰村)誅罰事、五日午刻、通当国之聴云々。
十七日戊戌、故上総介(=秀胤:「権」脱字か)末子一人 一才、同修理亮(=政秀)子息二人 五才、三才、垣生次郎子息一人 四才、各出来。面々被加検見、人々預守護之。
【史料C】より、下総次郎時常が「秀胤舎弟」にして、父が「下総前司常秀(=前下総守・千葉常秀)」であったことが分かる(通称名は常秀の「次郎(次男)」を表す)。『吾妻鏡人名索引』では時常の登場箇所を【表B】の3箇所のみとするが、【表A】の2箇所にある「上総介次郎」も当時の上総介=常秀*6の次男を表すから時常に比定される。
【史料C】には、父の死後、遺領として継いでいた埴生庄を兄・秀胤に横領されて事実上断交状態にあったが、秀胤一家が討伐を受けた際にはいち早く駆け付け、【史料E】の戦死者リストにも含まれている通り、そのまま彼らと運命を共にしたということが書かれている。【史料D】によれば、時常には4歳(数え年、以下同様)の遺児が一人いたようで、同族でありながら討伐にあたった東胤行の嘆願があって助命されている。
父と兄の世代の推定
次に、時常の生年について推定を試みたいと思うが、その前に父・常秀と兄・秀胤のそれから考察を加えたいと思う。
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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督(嫡流家当主)は次の通りである。
[参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年
*( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。
● 千葉常胤(千葉介)
:1118年~1201年(84) …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より
● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)
● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)
:1155年~1218年
…生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より
● 千葉胤綱(千葉介)
● 千葉時胤(千葉介)
:1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より
父の千葉常秀については、兄・成胤の生まれた1155年から、父・胤正の亡くなった1202年までの間であることは間違いない。『吾妻鏡』では元暦元(1184)年8月8日条に「境平次常秀」と初めて現れるから、これよりさほど遡らない時期に元服を済ませたと考えられよう*7。1170年頃の生まれと推定される。
すると、その長男である兄・秀胤*8の生年も1190年以後と推定可能であるが、下記記事で述べたように息子の時秀・泰秀兄弟が1210~1220年代に生まれたと推測されるから、1200年頃までに生まれたと考えられる。
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以上より、「秀胤舎弟」である時常は早くとも1190年代、或いはそれより後1200年代の生まれであった可能性が高い。そして前節の【史料D】より、亡くなった宝治元年当時4歳の遺児がいた(逆算すると1244年生まれ)ことから、時常は若くとも20代後半の年齢には達していたと考えるのが妥当で、1220年頃までには生まれていたとも推測できよう。但し、これを大幅に遡れば親子間の年齢差も大きく離れてしまうため、1210年代の生まれとするのが現実的ではないかと思われる。この裏付けとして次節では通称(呼称)や官職に着目してみたい。
生年と烏帽子親の推定
冒頭の史料に示したように、時常は亡くなるまで「次郎」と呼ばれ、無官であったことが窺える。前述の通り、父・常秀は20歳位で左兵衛尉(七位相当)*9となっており、兄・秀胤も20歳位で叙爵(従五位下)して上総権介に任ぜられ、数年で従五位上に昇っている。更に前掲【史料C】~【史料E】からは、宝治元年当時、甥にあたる秀胤の息子たちも概ね20歳以上には達して官職を得ていたことが窺える。
常秀が官職の面で兄・成胤(千葉介=下総介)を超えて下総守や上総介に任ぜられ、秀胤も幕府の評定衆に加えられるなど、常秀の系統(上総千葉氏)は宗家を凌ぐ地位を誇っていたと言えよう。しかしその割に時常は宝治元年の段階で何の官職を得ていない。
勿論、秀胤に対する庶子ゆえに同様の昇進が叶うとも思えないが、もし秀胤と年の離れていない弟であれば、宝治元年当時40~50代となり、せめて父・常秀がなった左兵衛尉など官位が低めの官職を得ても良いような気がする。
従って、官職を得ていない理由の一つとして考えられるのが年齢の若さである。前節で【史料D】にある遺児との年齢差を考えた時、1210年代の生まれとするのが妥当であるとしたが、初見の嘉禎3年当時、元服からさほど経っていない20代で「上総介次郎」を称していたのであれば、納得がいくだろう。
以上の考察により、時常は秀胤とは年の離れた弟で、むしろ甥にあたる秀胤の息子たちと近い世代の人物であったと推測される。ここでは暫定的に1210年代半ば頃の生まれと推定しておく。
また、ここで「時常」という実名に着目すると、「常」が常秀から継承した字*10であるから、既にご指摘があるように、上(1文字目)に置かれる「時」は北条氏を烏帽子親として付けられたものと考えられよう*11。北条泰時(在職:1224年~1242年)*12が元服当時の執権であった可能性が高く、その偏諱と推定しておきたいが、北条氏一門の他系統の者から受けた可能性も否めないので、これについては検討の余地を残している。
(参考ページ)
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.475(通称・異称索引)より。
*2:前注『吾妻鏡人名索引』P.194「時常 垣生(千葉)」の項 より。
*3:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:注1『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項 より。
*7:注1『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項によれば、建久元(1190)年12月2日条まで「千葉平次常秀」と書かれていたものが、同月11日条では「左兵衛尉平常秀」と表記が変化しており、同2(1191)年正月1日以降もしばらくは「(千葉/境)平次兵衛尉常秀」で通され、前注で述べた通り嘉禎年間に上総介在任が確認できる。
*8:千葉秀胤の経歴については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その123-千葉秀胤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)を参照のこと。
*9:左兵衛の尉とは - コトバンク より。
*10:この字については、かつて房総平氏の惣領であった上総広常(平広常)が有していた上総権介の地位及びその所領を継承した常秀が、千葉氏の通字「胤」を用いず、房総平氏の通字「常」を継承したという見方がある(→ 境氏 - Wikipedia)が、単に存命であった祖父・千葉常胤から受けた可能性もある。時常はこの字を継承したが、跡を継いだ兄・秀胤は宗家への対抗意識からか、むしろ「胤」を用いており、その息子たちは「常秀―秀胤」と続いた「秀」を有していて、上総千葉氏において「常」という字はさほど重要性を帯びていなかったように思われる。